終章
タブーの一人、谷口陸が葬られてから二日後、真は安楽市を出て、タクシーで都心へと向かっていた。
着いた場所は巨大なビルであった。
ビルの中に入ると驚くほどエントランスが広く、独特の内装が眩惑的な雰囲気を作り出している。床や天井から噴水や植木に至るまで、あらゆる場所から無数に伸びた色とりどりの長いガラス棒が内部から淡い光を放つ。植木には幹が三つに分かれてねじれて絡まり、大きく二手に広がった枝先に白い葉と赤い実をつけた観葉植物が、綺麗に並んで植えられている。天井近くのせり出した壁には、受胎告知の天使が描かれた大きなステンドグラスが飾られていた。
このビルはこれから会う人物の所有物である。彼女の趣向がビルの入り口で、存分に発揮されているかのように思えた。
受付で名前を告げると、突然エントランスに警戒の気配が漂う。気配はガードマン達から放たれている。
「奥にある喫茶店でお待ちしてください」
受付の指示に従って喫茶店まで歩く間、真はガードマンの視線がずっとこちらに向けられているのを感じていた。真はそれを意識しつつも、彼等のように警戒することもなく歩く。
喫茶店の中に入る。壁も全てガラス戸で外から丸見えの店だ。何か怪しい動きをすれば、即ガードマンが動くだろう。依然として視線は注がれたままだ。
二分ほど経過した後、目当てと思しき人物が喫茶店を訪れた。十代後半か二十代前半か、歳はよくわからないが若いとだけはわかる、セミロングの赤毛の白人女性だ。その傍らには見知った顔――杜風幸子がいる。
「はじめましてー。お会いしたかったですよー。社交辞令ではなく」
訛りのある間延びした日本語で挨拶すると、目当ての女性はにっこりと微笑んだ。とても何百年もの間、巨大秘密結社の首領を務めた人物とは思えない、愛嬌あふれる笑顔だった。
キリスト教系の秘密結社『ヨブの報酬』の長――通称シスターは、真の向かいの席に腰を下ろす。幸子は喫茶店の入り口に立つ。
「応じてもらえてよかった。名前通りシスターの格好しているわけでもないんだな」
グレーのビジネススーツという格好を目にし、真は言った。
「初めて会った方にはよく言われまーす。あの呼称の由来を話すと話が長くなりまーすが、お聞きになりたいでーすか?」
軽口で冗談めかしているというより、わりと本気で会話を楽しもう、コミュニケーションをとって親しくなろうという気持ちで、相手が話してきているのが、真には伝わってきた。
不思議な人物だった。ただこうして向かい合っているだけで、気持ちを和ませるオーラというか、心が安らぐ温かい空気になる。顔の相を見ただけで、優しく良い人だという事がわかる。純子や溜息中毒のボスである高城夏子からも、同様の印象を覚えるが、この女性から放たれているオーラは、さらに頭抜けているように感じられた。
「長いのなら今度にしてくれ。こっちも本題の前に聞きたいことがあるんだけどな」
「何ですかー?」
「どうして僕の話に応じる気になった? 何百年も世界を裏から牛耳る一人である御方が、僕なんかの呼び出しに応えてくれたのは」
「立場で人との距離を測るものではありまーせん。もちろーん立場をわきまえているがため、一人でどこにでも赴いて、誰にでも会いにいけるわけでもありませんけどねー。それにー、その質問は私の方こそしたかったでーす。純子の直属の刺客と言われているあなーたが、どーして純子に内緒で私にー?」
「僕はあいつの忠実な猟犬てわけじゃないしな。あいつに楯突くために側にいる。そして最終的には――」
そこで言葉を切って、紅茶を口にする真。
「あいつを改心させるつもりでいる。それが僕の三つ目的の内の一つだ」
真がさらりと口にした言葉に、シスターは笑みを潜め、しばらく沈黙していた。
「他の二つは何ですかー?」
神妙な面持ちで問うシスター。
「あいつが危機に陥ったら護る事。正確には護れるようになる事か。それが二つ目。三つ目は復讐だ」
「失礼ですがー、そこまで純子にべったり依存して生きるのもどうかと思いまーす。純子からしてみたら、嬉しい反面、申し訳なく思っている部分もあると思いますよー。あの子はあれでわりと義理堅いですしー、おちゃらけているようで真面目な面もありますしー」
シスターの指摘に、真は思い当たる点が幾つかあった。
よく純子が「自分のために働いてくれて」「自分のために傷いてくれて」と嬉しそうに言っているあれは、ただふざけているだけではない。実際嬉しくて酔っている部分もありそうではあるが、その裏にある感情も、真にはわかる。
「犯した罪を償いたいというニュアンスもある。僕は……」
口にすると同時に、これまでの人生で最悪の出来事である記憶が真の脳裏をよぎり、胸が張り裂けそうになる想いと共に、言葉が途中で途切れた。
小さく深呼吸をし、話題を元に戻す。自分で自分のトラウマをほじくりかえしていたら世話は無い。
「僕は情報が欲しい。累も雪岡も、僕が欲しい情報をくれない。僕に情報をよこさない理由はそれぞれ違うみたいだけれど。露草ミルクは――あんな奴を頼る気は無い。最初の一度で懲りた。霧崎にも借りを作りたくない。『オーマイレイプ』は雪岡とはあまりよい仲では無いと聞くし、こんな重要な話で頼るのは危険な気もする。消去法で一番あてになりそうで、安全と思えるのが、雪岡と縁の深いシスターという人物だと、僕は判断した。雪岡と何百年も敵対している人物で、ヨブの報酬のドンであるあんたなら、僕の欲している情報も知っていそうだし、あんたの組織も比較的まともだから安心できそうだし、もしかしたら教えてくれるかもしれないと。そもそもヨブの報酬の主張が、僕的には気に入った部分もある」
真の話に区切りがついた後、再びシスターは沈黙し、何やら思案しているようであった。
「なるほどー。それでー、知りたいことは何でしょーか? 私に聞きたい情報ということだから、ただごとでは無いんでしょーねー」
「あんた以外で、雪岡純子を敵視している、過ぎたる命を持つ者を教えてくれ」
話は核心に迫っていた。真が雪岡研究所に訪れ、純子の下で戦うようになってから、一番知りたかった真実へと。
「その中に、まだ知らぬ僕の復讐相手がいる。僕に途方も無い悪意を向け、弄んだ奴だ。僕はその悪意と戦うつもりでいる。累が僕に教えてくれない理由は、相手が過ぎたる命を持つ者であるから、僕を近づけさせないようにしているからだろう。僕を護るつもりでな。全く大きなお世話だ」
「私も全てのオーバーライフを知っているわけでーはありませーん。また、オーバーライフと一口に言ってーも様々でーす。単純に力を蓄え長生きしているだけーの人もいれば、闇の権力を得て君臨していーる人達もいまーす。でーすが――」
次に告げる言葉に、シスターは一瞬躊躇して言葉を切った。真は純子を護りたいと言っていたが、それを完全に否定することに繋がるかもしれない話をしなくてはならないからだ。
「歴史を陰から、世界を裏から操るクラスの名だたるオーバーライフ、所謂ステップ2と呼ばれる階位の者は、その大半が純子を危険視ないし敵視していまーす。もちろん私も」
常識的に考えればそのような超越者達に、どんなに腕が立つといっても、裏通りの殺し屋風情が太刀打ちできるものではない。
だがシスターには、そんなことを言って真の可能性や意気込みを否定したくないという気持ちもあった。この世には絶対など無い。彼の想いは奇跡を呼ぶかもしれないし、あるいは過ぎたる命を持つ者に比肩するほどの強さを得られるかもしれないと、信じたい気持ちも強くあった。
「でもそいつらは、個人的な恨みとか悪意が理由で敵視しているわけじゃないだろう? 思想や、支配者としての立場上、邪魔だの危険だのという理由で疎ましく思っているような連中なんだろ」
「いえーす。別に純子に限った話ではなく、オーバーライフ同士、互いに存在を疎ましく思っているケースが多いでーす。理由は今あなたが言った通りですが、単純に憎しみあっているというわけではありませーん。もちろん憎んでいる人も中にはいそうですがー」
「でも余程の悪意が無いと、あんなことはできない……。雪岡に相当な恨みを持つ者限定で。まあ、あいつのことだからそういう敵も多そうだけどさ。雪岡もさ、それだけは教えてくれたんだ。僕に向けられた悪意は、あいつに向けられた悪意の巻き添えだとね」
真の話を聞いたシスターは、沈痛な面持ちへと変わっていた。本気で真のことを、そして純子の事を思って胸を痛めているのが、真にも伝わってきた。それをポーカーフェイスで隠し通す事が出来ない、あまり器用な人物でも無いという事も、真には見てとれた。
「最近、とうとう動き出した気がするんだ。僕の周囲の人間が狙われ出した。あの時と同じように。一人は殺された。恋人だった。そういう真似をする奴、心当たりないか?」
「わかっていまーす。全て知っていまーす。私は貴方と会うのは初めてですがー、貴方の事も、貴方と純子との間に何があったかも大体知っていますのでー」
シスターがそれを知りつつ、そして純子や累と違って隠しもしないことは最早明白だった。
「なら教えてくれ。僕の敵が何者か」
(陸を差し向けてきた奴なら、すでに名前と顔だけは、みどりに教えてもらっているが、そいつと一致するかどうかだな)
陸の心を読んだみどりが、陸の背後にいる人物の情報も、わかる範囲で教えてくれた。だが人物像を読み取るまでには至らず、それ以外はわからずじまいだった。せいぜいわかった事と言えば、陸を騙して一方的に利用していただけの人物であったという事だけだと。
「彼女の名は雨岸百合」
シスターが口にした名は、みどりから教えられた者の名と一致した。
「かつて純子と行動を共にしていた女性でーす」
次いで告げられたのは、予想しえなかった情報だ。だが言われてみれば、考えられない話でもない。何らかの理由で決別したツレが、その決別した理由を元に、相手をずっと恨んでいるなど、むしろありがちな話と言えなくもない。
「教えておいてなんですがー、貴方の復讐も、彼女を喜ばせるだけの結果になりかねないですよー。貴方の行動を全て、彼女は見透かしたうえで、掌の上で遊んでいるかもしれませーん」
「復讐なんて馬鹿のすることだ。そんなことはわかっている」
何度も口にした台詞をまたここで口にする。
「でもどうせ僕が何もしなくても、そいつはちょっかいを出してくるんだろう? だったら黙ってやられるわけにもいかないし、都合がいい。清算してやるまでだ」
「純子はそれを望んでいるのでしょうかねー?」
「あいつはあんなんでも一応、僕の気持ちを尊重してくれているよ」
はっきりと口にして伝えたわけでも伝えられたわけでもないが、真には確かに純子の気持ちがわかっていた。
「僕だって雪岡に感謝しているし、尊敬している部分もあるんだ。反発もしているけどさ」
話の流れでつい、本人の前では絶対に言いたくないことを口走ってしまった真であった。しかも初対面の相手を前にして口にしたことに、自分でも驚いていた。
***
雨岸百合は幾度もその悪夢にうなされる。
「百合ちゃんてさあ、つまらないんだよねー」
袂を分かつ時、その少女は今まで一度も見せたことの無い冷めた表情を百合に向けていた。
「創作物の悪役キャラってさー、フィクションの影響受けただけの人が『見て見て僕もこんなすごい悪い奴考えちゃった。見て見て』ってのが見えちゃう浅いキャラと、リアルな体験を経て頭の中に地獄を持つ人から生まれた深いキャラとがあるんだよねえ」
常に蠱惑的な煌めきを放っていた少女の赤い瞳が、その時ばかりはひどく濁っているかのように、百合には見てとれた。
「百合ちゃんは前者なんじゃないかなあ? なーんて思ったりして」
「仰る意味がよくわかりませんわ? 私が取るに足らない小物とでも言いたいの?」
動揺を抑え、引きつり笑いを浮かべながら問う百合。
「そうだねえ、じゃあこう言おうかー。君は必死に背伸びして悪ぶってるだけの子にしか見えないんだよねえ。思春期真っ盛りのちょっとスネてる不良みたいなもんかな。 悪の芸術とか言葉で飾った所で、私にはそんな風にしか見えないんだよ」
見捨てられた。見限られた。見切られた。見下げ果てられた。そんな言葉が百合の脳裏に浮かぶ。今までの人生で一度も味わったことのない絶望感と恐怖が百合の心を覆い、傷となって深く突き刺さった。
「貴女だって……くだらない女でしたわよ」
汗だくで目覚め、まどろむ意識の中、声に出して呟く百合。
「私に貴女に植えつけられた悪夢も……この愛しいトラウマも、私のこの作品が完成すれば、きっと跡形もなく消え去ることでしょう」
起き上がり、不快と喜悦の入り混じった歪な表情で、虚空に向かって宣言する。
「私は待っていましたのよ。貴女の大事な大事な想い人が成長するのを。貴女が一生懸命育て上げるのを。その努力も全て台無しにしてあげるためにね」
憎悪と歓喜を混ぜた口調で呟いた直後、電話が鳴り、受話器を取る。
「わかりました。ではリビングにお通しして」
電話の相手は百合の館の執事だった。報告を聞いて電話を置くと、寝間着からいつもの白ずくめの服へと着替えて、自室を出る。
百合がリビングルームへと赴くと、丁度いいタイミングで、ぼろぼろの服を返り血まみれにした少女が、片手に血まみれの小太刀をひっさげ、室内に入ってきた。
「あらあら、私の贈り物、ちゃんと活用していただけたようですわね」
凄絶な笑みをはりつかせた血まみれの臼井亜希子を見て、百合は満足げに微笑む。
「その小太刀は所謂妖刀の類で、女子の力であろうと――」
言葉途中に亜希子は百合に襲いかかった。十八年間同じ家の中で過ごし、ずっとちやほやされ続け、その後一週間凌辱され続けた少女とは思えない、俊敏な動きでの踏みこみだった。百合の首筋めがけて小太刀を振るう。
「――辱められし娘の怨念を食らい続け、似たような娘に力を与えて殺戮を行わせ、さらに怨念を食らうという代物ですのよ。今の貴女に相応しい逸品でしょう? 奇跡のような巡り合わせですわね」
小太刀を手で難なく受け止めた百合が、悠然と語る。刃越しに伝わる固い感触。亜希子は初めて百合と出会い、握手をした時の事を思いだした。
「亜希子、この世界はもっともっと楽しい事であふれていましてよ。貴女はそれを知るべきですわ。私が貴女に新たな世界を見せてさしあげましょう」
亜希子は無言で刀を引いた。自分の人生を弄んだこの女をただ殺すだけよりも、その先の楽しみとやらを得る方が面白そうだと計算して。
「じゃあ、貴女が私の新しいママってことでいいのかしら? 貴女が私をああいう風に育てて、今のこの私を作ったんだから、そう呼んでもいいよね?」
にたりと歪な笑みを浮かべると、亜希子は服の中から血にまみれた何かを次から次に取りだし、床に幾つも落としていく。
「そんなママにお土産。食べる?」
床に落とされたそれらを一瞥し、百合はさも愉快といった感じで含み笑いを漏らす。
「貴女も召しあがるのでしたら、私も御付き合いしてあげてもよろしくてよ」
「料理してくれるの? 不味かったらママの顔に向かって吐きだすから」
互いに攻撃的な眼差しをぶつけ合い、百合と亜希子は笑い合った。
***
留置所に呼ばれたその精神科医の役割は、先日都内で拳銃乱射による通り魔事件を犯した、十三歳の少女のメンタルケアであった。
数名の重傷者は出したものの、事件による死亡者が出なかったのは幸いであった。だがその後少女の行った行動を考えると、明らかにまともではない精神状態であると誰の目に見ても明白であり、彼が呼ばれることになった。
「長らく通り魔殺人犯と行動を共にして、その影響があるのではないかと思われます」
担当刑事が精神科医に事情をかいつまんで説明する。
「あの目は逮捕後に、自分でフォークを突き刺したものです。現代医学であれば再生は容易ですが、本人が頑なに拒んでいます。彼女と共にいた通り魔殺人犯も、視力が無かったようで、その模倣をしたようですね」
包帯で目を覆い尽くされた少女を指し、刑事は語る。
「退屈値100、排泄値5、性欲95……性欲は夜にならないと解消できないな。見張られてるし」
留置室に仕掛けられたマイクが、少女の呟き声を拾い、外にいる精神科医と刑事の耳へと伝える。
「これは?」
「一人でぶつぶつと譫言を呟いています。どうやら現実をテレビゲームになぞらえているようですね」
訝る精神科医に、刑事が言った。
「陸と同じバグを意図的に発生させてみたけど、何も見えないな。もっとレベル上げれば、陸みたいに見る事ができるのかな」
自分の独り言が全て聞かれているうえ、録音もされているとは露知らず、進藤由紀枝は呟き続ける。
「まず最初のクエストはここから脱出することね。でも、どうしたらいいかな? どうやったら脱出のためのフラグが立つんだろ」
陸を失い、絶望していた由紀枝だが、今はもう違う。希望がある。希望――それは由紀枝が生まれて初めて抱く、何とも素晴らしい想いであった。
あの猫のことを思いだす。箱に入れて捨てた後、あの猫は目が見えないにも関わらず、まるで自分が捨てられる事がわかっていたかのように、その場を去る由紀枝に向かって鳴き続けていた。
「私はあの子と違う。捨てられたんじゃない。自分で選んだ。一人になっても生きていく道を」
包帯の下から覗いた口は、笑みを形作っている。包帯を外せば、外で様子を見ている刑事と精神科医は、由紀枝の希望に満ちた清々しい笑顔を見る事ができたであろう。
「そっちで待っててね、陸。私が陸に代わって、このゲームをクリアしてみせるから」
確かな人生目的を得た少女は、希望に満ちた未来を見据えて、胸を膨らませていた。
終




