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シェムハザの身は、一旦ヨブの報酬に預けられる形になった。シェムハザも抵抗することなく受け入れた。
「嘘鼠の魔法使いの弟子なのだろう。いずれ我々に牙を剥く存在になるぞ。さっさと粛清すべきだ」
ネロがシェムハザと共にヨブの報酬の本部にいる場面を見咎めて、ネロと同等の幹部が厳しい声で告げる。
「ふざけるな!」
ネロが一喝すると、その幹部はすくみあがった。ネロとは違い、武闘派ではない。
「こ、この子は何も罪を犯していない。罪人の身内であるという理由で、裁きにかけるという下賎で野蛮な発想に至る愚昧さを恥じろ」
「う……うぐぐ……」
その幹部はきまり悪そうに呻きながら退散した。
「ネロさんに助けてもらうの、これで何度目かな?」
シェムハザがネロを見上げて微笑む。
「さあな。お、覚えてない」
ネロは顔を背けた。シェムハザがいつもと変わらぬ笑顔を自分に向けていることが、非常に堪える。そして恐ろしくもある。
「き、君は何もしていない。そして医師として多くの人を助けている。その方が重要だ」
「マスターに言われてやっただけで、私の意思じゃないよー」
そして何もしていないわけでもないと思ったが、それは黙っておくことにした。
「多分私、今の人が言っていたように、ヨブの報酬と敵対することになるけど、それでも生かしてくれるの? 見逃してくれるの?」
「ああ。今は敵ではないからな」
シェムハザが伺うと、ネロは顔を背けたまま言った。
「あのさ……私はネロさんのこと恨んでないから」
少し沈みがちの声で告げたシェムハザの言葉が、ネロの心に深く突き刺さった。心臓を長い針で貫通されたような、そんな感覚がネロを襲った。
「恨む気持ちになれないんだ。マスターと戦う担当が、たまたまネロさんだっただけの事だよ。それでネロさんに黙って殺されてくれなんて言えないし、マスターとヨブの報酬は敵だったんだから……仕方ないよ」
「そう言われる方がより辛い。恨まれた方が気が楽だ」
「でもネロさんのこと嫌いになれない。私のこと、何度も助けてくれて……それなのにマスターを殺すことになっちゃって……。マスターが悪いんじゃない。ネロさんが悪いわけでもない。こんな運命の巡りあわせが全ていけないんだよ。酷いよ。恨むとしたらそっちだよ」
シェムハザの心情は、ネロにも理解できる。せめてシスターと自分で担当が逆であればと、あの場にいなければと、そんな風にも思わなくもない。しかしいずれにせよヨブの報酬と嘘鼠の魔法使いは敵対関係であったし、仇には違いない。
「せ、せめて君にはもう、ヨブの報酬と関わらないで欲しいが」
ネロが言ったが、シェムハザは首を横に振った。
「私はマスターの意思を引き継ぐ気でいるから、それは無理だと思う。出来るだけ関わらないようにはするけどねー。でもさ、私が関わらないようにしても、ヨブの報酬は、自分達に従わない術師は殺しにくるんでしょー」
「……」
シェムハザに指摘され、ネロは押し黙る。ヨブの報酬のそのような独善的かつ支配的な考えは、ネロも快く思っていない。そのおかげでヨブの報酬には敵が増え、犠牲も増える結果に繋がっている。そして多くの悲しみを生んでいる。
「なるようにしかならん……か」
「そうだねー。私とネロさんは敵同士だけど、ネロさんには助けられっぱなしだし、私がネロさんを助けられる機会があれば、敵であっても助けるよ。約束」
笑顔でそう告げるシェムハザから、ネロは再び顔を背けた。涙腺が緩みかけていた。
***
十年の年月が経ち、シェムハザは成長した。
そのまま成長したのであれば、シェムハザは二十歳を越えている。しかし彼女の見た目の年齢は十代半ば程度で止まっている。途中で意図的に成長を止めた。
シェムハザはずっと一人で彷徨いながら生きていた。様々な国に、地域に、足を運んだ。様々な学問を学び、超常の領域を極め、たった十年で、オーバーライフと呼ばれる者達と変わらぬ力を身に着けていた。
風が吹き続け、砂埃が舞う岩石砂漠地帯。フードを目深に被ったシェムハザが、ラクダに乗って移動している。
「あれから十年かー……」
前方に集落を確認した所で、シェムハザはぽつりと呟いた。
「普通さ……十年も経てば、大好きな人との別れの痛みなんて……忘れるもんじゃないかなあ? でも私……自分のかけた呪いのせいで、忘れられない。これって……凄い大失敗だったかなあ……」
独りごちりながら、自虐の笑みをこぼす。その直後、悲しみに表情が歪む。
「マスターに会いたいよ……。会いたい……。転生するまで待つなんて嫌だよ。今すぐ会いたい。もう十年だよ? 一体いつまで待てば会えるの? 転生したからって、それで都合よく巡り会えるわけじゃない。この広い世界の一体どこに生まれるかもわからないのに、それを私は探し続けるの?」
途方も無い話だと思う。諦めて、忘れた方が幸福だったのではないかと、そう思うここともある。しかしシェムハザは、愛する者を忘れない道を選んだ。他の誰も愛さぬ呪いを自身にかけた。
そしてもう一つ、己に課したことがある。師が追い求めた理想を、師に代わって叶えるという目的がある。そのために学び続けている。そのために探し続けている。そのために生きている。
(私は……この世の全ての法則、理、常識、現実、何もかもひっくり返したい。出来ない事も出来るようにしたい。不可能と思われる全て、可能にしたい。理を解けばそれは実現できるものだと、マスターが示してくれた。私は生き続けて、追及するから。諦めないから。どんな絶対の法則にも逆らって、望みを叶えるから)
途方も無い目的だが、時間はたっぷりとある。歳は取らない。不慮の事故か殺害されない限りは、ずっと生き続ける。
そのたっぷりとある時間を使って、彼女は追い求める。愛する者との再会と。愛する者から引き継いだ大願の成就を。
***
百年後。
シェムハザは嘘鼠の魔法使いの意思を継ぎ、世界の謎を解き明かし続けていた。魔術魔法のみならず、様々な学問に入れ込んだ。
限られた者だけが触れる超常の領域に頼るより、解き明かせばだれでも利用できる技術面において開拓していく方が有効ではないかと、シェムハザは考えていた。
嘘鼠の魔法使いには悪いと思う気持ちも無くは無かったが、シェムハザは柔軟かつ先鋭的な思考の持ち主であり、一つの形に捉われることを是とはしない。
転生が魂の成長を促すシステムである事を知った嘘鼠の魔法使いは、不老不死はそのシステムに反発する代物である事を見抜いていた。たとえ適正があろうと、その精神はいずれ歪んでいくし、何より、転生によるリセットを繰り返さないと魂の成長が見込めない。魂の成長の意味はわからないが、必要な事であると見る。
嘘鼠の魔法使いは、シェムハザにその事は直接告げることなく、シェムハザに手記を残していた。
「嘘鼠の魔法使いは、シェムハザが死ぬことなく、オーバーライフとなって、それを求め続けるように誘導したのですねー。ひどい話だと思いませんかー?」
町の酒場にて、シスターが隣に座るシェムハザに向かって言った。
これまでヨブの報酬とシェムハザは、何度となく争ってきた。シスターとシェムハザも幾度となく直接戦った。だが争っているだけではない。たまにこうして町中で出会い、会話を交わすこともある。
敵ではあるが、付き合いが長くなりすぎたせいで、互いに敵対心は抱かなくなっていた。友情にも似た奇妙な絆で、両者は繋がれるに至った。
「マスターだって、そんなことしたくなかったと思うよ。でもマスターは自分の死期を見てしまったし、それが逃れられないとわかって、私に託したんだよ。そもそもマスターを殺したのはシスター達じゃない」
冗談めかして言うシェムハザ。
「マスターは言ったよ。心が何も感じられない虚無の状態になった嘘吐きな鼠の話。神様は気に入らない存在に酷い罰を与える。あれが何なのか、最近になってようやくわかったんだ」
肉体を老いることなくする方法は、わりとある。しかし不老になるためには、精神の適正も必要だ。心も歳を取る。こちらを止める方法は無い。稀に心が老いない者もいる。そうした者だけが、何百年と生き続けることが出来る。それを暗示していた話だった。
シェムハザには適正があった。しかし適正があってなお、精神の変化が全く無いわけでもない。
「不老の適正が無いと、心が虚無になる。私はどうなのかなあ? まだ百年くらいじゃわからないかも」
「適正があっても、次第に心が欠けていきますよー。感性が磨滅していくのでーす。私は千年以上生きているので……色々なものを失いましたー」
シスターの言葉を聞いて、シェムハザは寂しそうな表情になる。思い当たることがあったのだ。
「私、まだたった百年程度だけど、失ったものがあるよ」
「何ですかー?」
「涙が出ないんだ。ネロさんと一緒になっちゃった」
寂しげに微笑み、シェムハザはグラスの酒を呷る。
「涙ってとっても大事なものだし、尊いものだと私は思う。私の目が開いた時もね、感動のあまり涙が出たんだ。でも今の私は……もう涙が流れてくれない。それが何だか凄く寂しくて、悔しくて、悲しいかなあ」
あの感覚をもう一度味わいたい。いや、何度でも泣きたい。泣きたい時に涙を流して思い切り泣きたい。そう切に願うシェムハザであったが、その後九百年余り、彼女は一度も泣くことは無く、長い時間を過ごす事になる。




