二つの序章
二十年前に勃発した米中大戦を境に、二十一世紀後半の日本では裏社会の勢力が増大し、武器製造密売、臓器密売、人身売買、違法ドラッグ製造販売、殺人、窃盗、その他あらゆる犯罪がビジネス化して、国家の産業の礎となるまでに至った。
一般社会は表通り、裏社会は裏通りという呼称で区別されるようになり、裏社会の存在が日本の産業を支える柱として半ば黙認される構図が出来た。
天野弓男は十五歳で、その裏通りに足を踏み入れる事となる。
弓男は中学三年生になった時、同クラスにいた不良三人に目をつけられて、いじめの標的となった。
親は息子の厄介事にはまるで無関心で、ただ学校に行けと怒鳴るだけ。教師も同級生も見て見ぬ振り。
誰にも頼れず、生きることそのものに絶望しかけた弓男であったが、命を絶つのも癪という意地が残っていたがために、彼はある行動に出た。
弓男の住む安楽市には、雪岡研究所なる有名な都市伝説があった。
ネット上では特に頻繁にその名を見る。そこには雪岡純子という名の、裏通りでも名高いマッドサイエンティストがいて、危険な人体実験の代償に、現実離れしたチートな力を授けてくれるという。
自殺願望、借金の返済、復讐、人生の一発大逆転狙い、非現実なファンタジーへの憧れ、その他様々な理由で行き詰った者や力を欲する者達が訪れる。だがあくまで実験の成功した結果によって身に着けられる副産物であるが故に、実験に失敗した場合は、死も含めた悲惨な末路が待っているという話である。
初めてその噂を聞いた時、ただの与太話と思った。が、今年に入って、霊と死後の世界と輪廻転生の存在が科学的に実証されたという、センセーショナルな発表あり、世界中の国々で超常の領域を認められた矢先であったがため、弓男はこの非現実的な噂に対しても真実味を覚えるようになった。
弓男は噂をあてに雪岡研究所に訪れ、いちかばちかで力を手に入れ、自分をいじめている不良達への復讐を考えていた。自分をいじめている連中を完全犯罪で葬るための力を得るために。
いじめている奴等を殺して自殺する事も考えたが、自分をいじめていた相手を完全犯罪で殺せる力があれば、自殺する必要も無い。
どうせ失敗しても、その時に自殺の代わりになるだけだと、そんな自暴自棄な気持ちと打算的な考えの両方が、弓男の中にあった。
ネットで検索すると、すぐに雪岡研究所のサイトが見つかった。実験台志願者はメールで連絡してくれと書いてあったので、言われた通り送ってみたところ、すぐに日時と場所が指定された返信が返ってきた。
得体の知れない興奮を覚えつつ、弓男は指定された日時に、安楽市絶好町繁華街にあるカンドービルという名のデパートの地下一階へと向かう。
手の込んだ悪戯の可能性もあると疑いつつ、期待と疑念の狭間で揺れながら目的の場所を訪れたが、地下に降りてすぐの場所に雪岡研究所と書かれた自動ドアがあった事で、噂の真実味が格段に増し、興奮を覚える。
『天野弓男君だねー。入っていいよー。第十三実験室で待っているねー』
自動ドアに近づいただけで、インターホンより女性の弾んだ声がかかる。弓男は鼓動の高鳴りを意識しながら、中へ足を踏み入れる。
地下にある研究所は白い壁の通路が延々と延びていて、途中で二度角を曲がる。等間隔で扉が途中で幾つかあり、指定された扉はすぐに見つかった。
「入ってー」
「うごおおぉおぉおぉぉお!」
ノックをすると、耳に心地よい弾んだ声と、怖気が走るような恐ろしい叫び声の二つが返ってくる。弓男の緊張が増したが、意を決し、扉を開く。
「やあ、はじめましてー」
扉を開けた所で、弓男と同じくらいの年頃の少女が笑顔で出迎えた。
ブラウンのショートヘアに、切れ長の目、猫を連想させるはしっこそうな顔の美少女だ。髑髏に返り血プリントという趣味の悪いTシャツとショートパンツの上に、裾の長い白衣という奇抜な格好だが、何よりも目についたのは、蠱惑的な光を宿した真っ赤な瞳だった。
ぱっと見だけでも何から何まで印象的な美少女であったが、弓男の視線は少女から、寝台の上で拘束されて吠え続けている異形の方へと移る。
体のあちこちが泡状に盛り上がった紺色の肌の巨漢が、苦しそうに吠えながら、唯一自由の利く首だけを激しく振る。頭髪は一切無く、血走った目と口の端から青い液体を流し続け、断末魔を感じさせる恐ろしい形相で、弓男の方を見ている。
「私が噂のマッドサイエンティスト雪岡純子だよー。よろしくねー」
その一方で、少女が屈託の無い笑みを満面にひろげて挨拶した。噂のマッドサイエンティストと自ら名乗る者が、どう見ても見た目は自分と同じくらいの年頃の、それもかなり可愛らしい女の子であった事に、弓男は戸惑いと驚きを覚える。
「あ、この子はさっき来た自殺願望の子だよ。死なせてくれればどうしてくれてもいいって言うからさー、実験に協力してもらったんだー」
寝台で絶叫をあげ続けている男を指して、笑顔のまま解説する純子。
今年始め、輪廻転生が科学的に実証されて全世界で公表されたことにより、来世に賭けるという考えで、自殺者が世界中で増加しているというニュースを、弓男は思い出した。
「自殺はよくないよー。せっかくの命をそんな無駄遣いするなんて、勿体無い。自殺志願者は貴重だけれど、自殺ダメ! 絶対! 世界中の自殺したい人は全部、私の元に来ればいいのにねー。どうせ本人がいらないと思っている命なんだから、私が実験台にして有効活用するのになあ。自殺志願者召喚装置とか、誰か作ってくれないかなー」
笑顔で手前勝手な理屈を述べる純子。見た目は可愛い女の子であったが、中身はネット上の噂通りのマッドサイエンティストそのものだと、弓男は納得してしまう。
それに加えて、本当に改造されている者を目の当たりにして、噂が本当であったことを知った。
「えっとねえ……僕はね、できれば死にたくないんです。でもね、もう死にたいくらいのきつい状況なんですよね、これ」
自嘲の笑みを浮かべて弓男。
「あなたの実験台になって死んじゃう可能性とか、そういうのも覚悟してきました。ええ。覚悟はしてきたんだけれど、できることなら注文つけちゃっても構わないですかね?」
「どうぞどうぞ。私もできるだけニーズに沿ってあげるよー」
弓男を安心させるように、にっこりと笑ってみせる純子。
「なら……復讐するための力が欲しいです。でも、ただ復讐するだけなら、僕だって警察に捕まって人生おじゃんになる覚悟を持ってできるし、でもそれも嫌というかね、何か悔しいんです。そうならないで済むような、そのね、超能力か何か欲しい所なんです。はい。矛盾している感じですよね。生きたいのか死にたいのかわからないような。しかも身勝手というか。都合がいいというか。あははは……」
照れくさそうに要望を述べる。超常の力の存在などつい数日前まで存在するなどと信じていなかったし、それが欲しいなどと口にすること自体、恥ずかしくて仕方が無い。
「いや、わかるよー。そういう願望の人は多いし、全然変じゃないから」
純子は弓男の言葉を一切否定せず、優しい微笑みを浮かべたままフォローする。
「じゃあ早速実験台になってもらうよー。運が悪ければ死んじゃったり、死なないまでも障害が残ったり、怪物っぽくなっちゃったりするけど、そうなったらすまんこ」
笑顔で恐ろしいことを口にする純子が、それまで以上にシュールで現実味が無かったが、彼女は脅しているわけでも嘘をついているわけでもないと、弓男にはわかった。
その後、弓男は純子に怪しげな薬品を飲まされ、頭にコードをつけられ、寝台の上で寝かされた。不安とときめきを覚えながら、弓男は深い眠りについた。
どれだけ眠っただろうか。かなり長い時間寝ていたと思われる。
目が覚めると、すぐに純子が嬉しそうな弾んだ声をかけてきた。
「いやー、ラッキーだったねー。元々素質があったんだろうけれど、かなりすごい力を身につけることができたみたいだよー」
体に異常は一切無い。いや、無いように思える。取りあえず実験とやらが失敗して、死ぬことだけは無かったようだ。
「でも私からするといまいちな研究結果だったけれどねー。普通の人に同じ処置をしても、君が得たのと同じ力は得られないと思うし。君の元から持っていた才能に依存する部分が大きいようだからね」
何故か純子は不服だったようだが、弓男にとっては満足のいく結果であり、望みの力を手に入れる事ができたとして、安堵と高揚感に包まれていた。
それが十年前の話。
***
「やっと着いたねえ。んー、緑が多くていい場所だねー。私も老後はこういう所で入院生活とか送りたいなー。不老不死だけど」
右胸に逆十字の刺繍が縫われたブラウスと、正面向きの小さなスカルが縦に並ぶネクタイ、黒いショートパンツという服装の上に、裾の長い白衣をまとった、エキセントリックな格好の少女が、バスから降りて言った。
街路樹が立ち並び、歩道と車道の間に花壇が置かれ、バス亭のすぐ真向かいにある病院の敷地内も、木々や茂みが生い茂っている。
「依頼人と会うだけなのに、僕まで来る必要があったのか? 雪岡一人で不都合あるとは思えないけれど」
少女に続いてバスから降りた少年が、抑揚の乏しい口調で問う。
歳は十三、四歳くらい。制服姿なので一見すると部活帰りの中学生に見える。小柄かつ細身で、並ぶと明らかに少女よりも背が低い。歳も少女より少し下といった感じか。少女の方も誇張でなく美少女と呼べる容貌であったが、彼女と並んでも全く見劣りしない白皙の美少年だった。
「んー、特にこれといった仕事はないと思うけれどねー。でもさ、これから始めるゲームのスパイスとして、真君も見ておいた方がいいと思うんだー。それにさあ、私一人で出歩くより、こうして真君と一緒の方がいいじゃなーい」
白衣の少女――雪岡純子は真紅の相貌を少年に向けて、楽しそうに告げた。
「どうスパイスになるんだかな。まあ、見てのお楽しみってところか。どうせろくでもないことだろうけど」
真と呼ばれた少年が無表情のまま呟き、純子の後に続く形で歩き出す。
二人は病院へと入っていく。
「そんな格好していると、後ろ姿だけ見たら病院の関係者みたいでややこしいな」
「んー、私もそれ思ったけれど、白衣の下がこれだからねー」
「だからややこしいんだろう。見た目が子供だから余計に」
病院内を歩きながら会話を交わす間も、真はずっと無表情のままで、淡々とした口調だ。一方で純子は常に微笑みを絶やさず、常にはきはきとした声で喋っている。
目的の病室の扉を開く。そこにいた患者を目にしても真は無表情のままだったが、全く無感情というわけでもなかった。
ベッドに仰向けに寝た、全身に包帯を巻かれた女性。包帯の合間から見える皮膚には、赤い湿疹がびっしりと発症しているのが確認できる。口からは涎を垂らし、全身小刻みに痙攣している。
患者の女性がこのような痛々しい姿になった原因は、不幸な病などによるものではない。悪意と裏切りによる、人為的な結果だ。それを純子も真も知っている。知っているからこそ、真は怒りと同情を禁じえない。
「喜一……私、生まれて初めて本気になったのよ……。なのに……どうして……」
血走った虚ろな目で宙を見上げ、その女性はかすれた声で呻いていた。
「私の方から出向いて、契約の確認をするなんて滅多にしないんだけれど、事情がこれだから仕方ないねえ」
笑顔のまま、患者の女性を覗き込む純子。患者の女性は、自分を覗き込んだ少女が何者かを悟る。
「お願……い……私の体……治して……。これが治ったらきっと……喜一も私のこと……。私は……彼に振り向いてもらいたい……。もう一度……彼に好きになってもらって……やり直したい……」
たどたどしい口調で万感の思いを込めて、女性は己の望みを訴える。
(付き合っていた男にそんな目に合わされたってのに、治したからって……)
患者の懇願を聞いて、真はやりきれない気持ちになった。
(雪岡、どうするつもりだ? こいつのことだから、言葉を鵜呑みにして、ただ治すだけじゃないよな?)
純子とて事情は知っているし、その辺はちゃんと酌んだうえで、何かよい対処をするだろうと真は見ていたが、果たしてどうするかは予想がつかない。
「君の命は私が好き勝手に使って、私の研究の実験台にすることになるよお? それでもいいのかなー?」
「それでもいい……。治してもらって、喜一ともう一度会えたら……また一緒になれたら……ずっと一緒に……それで……げふぉあっ!」
嘆願した後に女性は吐血し、全身の痙攣が小刻みなものから激しいものへと変わり、やがて糸が切れたかのように動かなくなった。
「あれま。もうちょっと早く連絡してくれればよかったねー。残念残念」
吐いた血を己の顔にぶちまけ、苦悶の表情で果てた女性を見下ろし、屈託の無い笑みを浮かべたまま語りかける純子。死を悼む様子は微塵も無い。
だがその真紅の瞳は笑っていないことに、真は気がついていた。
「楽しそうだな」
真が声をかける。
皮肉めいた言葉とは裏腹に、真は純子の心情を見抜いていた。表面上こそいつもと変わらないが、心の内は違うと。
彼女の命が燃え尽きる間際の願いを受け止め、今この時、何かを思いついたのだろうと。息絶えた彼女の想いを無駄にせずに済む方法を。
「うん、今後のプランをいろいろと考えてたら、わくわくしてきちゃった。これはきっと楽しくなるよー。いや、楽しくしないとね」
真の方に振り返り、本当に心底楽しそうな笑顔で純子は言うと、白衣の内側から金属製の器具を幾つか取り出し、女性の遺体の頭部に取り付け始める。
「彼女の無念を晴らすためっていう大義名分も含めて、盛り上がるかもねー。私ルールとしては、私が敵と見なした人は、私の研究のための実験台にしていいわけだから、それと組み合わせて、あれとこれをこうして……うん、よし。これはうまくいけば感動的に仕上がるかもねえ。役者さん達がうまいこと舞台にあがってくれて、私の頭の中の台本を見ずに、私の思い通りに踊ってくれればの話だけどねえ」
純子の言葉を聞きながら、真は純子が自分を同行させた理由――スパイスとやらが何なのかを理解した。
今の女性の悲惨な有り様を自分に見せたかったのだろうと。女性の命が長くないことも察したうえで。もし来る前に死んでいたなら、彼女の想いも知る事は無かったが、運が良かったのか悪かったのか、真と純子は彼女の最期を見届ける事が出来た。
「わりと手間も時間もかかったけれど、例の組織への制裁も兼ねて、前から興味を持っていたマウスを呼び寄せる計画を進めていたんだ。あの子も随分と有名になったし、進化もしたと思うしねー」
自分だけにしかわからないことを喋りながら、純子は女性の頭部に取り付けた器具を用いて、頭蓋を切断しにかかる。
「お前が作ったウイルスを無断で改造して売り出した武器密売組織と、それに関係するマウスっていうと――あの革命家か」
実際に会った事は無いが、ある人物の名が真の脳裏に思い浮かんだ。それは世界的に名が知られている有名人であり、間違いなく歴史に名を残すであろう偉大な人物だ。
「うん。彼の性格とこれまでの行動パターンなら、もしかしたら日本に来てくれるかもしれないよ。あの組織を潰しにね」
頭蓋を開いて露出された脳に目を落としながら、純子は真の言葉を肯定した。
それが一ヶ月前の話。




