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雲塚杏の前には数多くの緑が存在する。
山や森で絵を描いたことがある者であればわかるが、この世には驚くほど多くの美しい緑がある。秋になるとそれらの緑に赤や黄色などの様々な色が混ざり、鮮やかなコントラストを成す。
杏は色を意識する度に、その色と同じ名前の少女を意識してしまう。
花壇の前で腰を下ろし、スケッチブックに鉛筆で描かれた葉に、透明水彩で緑を軽く塗っていく。
「また絵を描いてるの?」
後ろから近付いてきた浅黒い肌の少年が、杏の絵を覗き込み、声をかける。
東南アジア系と思われる容姿。痩せ気味だが、少し垂れ気味の目が印象的な、優しそうな顔をした少年だ。歳は十代前半だが、彼が身に着けているラメ入りの純白のローブは上級幹部のものである。
「グエンも描いてみる?」
「いや、いいよ。俺下手だから恥ずかしい」
グエンと呼ばれた少年は慌てて手を胸の前に上げて、拒むポーズを取る。その仕草を見て杏は微笑んだ。
「敷地内に緑が多いのはよいセンスね。花壇に、林、池まであるし」
「先代教祖様の計らいらしいよ。春になるとあっちの方は一面お花畑になるって、プリンセスが言ってた。ブリンセスのために先代が作ったんだって」
グエンの言葉を聞いて、杏は先代とやらが相当な親馬鹿であったことを知り、少し羨ましく思う。杏の両親は、自分の体面のためにただ子供に教育を押し付けるだけで、愛情など欠片もない親だった。
「じゃあ俺行くよ。そろそろ新しい武器が届くらしいんだ」
「気を付けてね。外部から来る者に紛れて、刺客が入り込んでくるかもしれないから」
「大丈夫。杏さんのお友達の強いボディーガードがいるじゃん」
そう言って立ち去るグエンの後ろ姿を見送り、杏は物憂げな面持ちになって空を仰いだ。
「何のために守ると言うのよ。守った先、あの子は……」
空を見たまま杏は夢想する。
死後の世界が実証されたと言っても、実際にどのような世界かまでは判明されていない。もしも自分が死んだなら、幽霊になって、空を飛びながら世界中巡ってみたい。世界中のありとあらゆる景色を楽しみたい。そんな事を想う。
「死が終わりではなくても――雲塚杏という存在は二度と世界に戻ってこないけどね」
そう呟いてから、杏は止めていた手を再び動かし、スケッチブックの葉を緑で塗りだした。
***
その老人がホームレスとなって何年が経つだろう。
定年退職後に自宅を火事で失い、重過失による隣家への延焼で多額の賠償金を支払い、ほぼ一文無しになった彼に待っていたのは、河川敷のホームレス街での生活であった。
最初は市営住宅に入っていたが、家を失った人達の嫌がらせが及び、それが周囲にも迷惑をかけ、老人は市営住宅にもいられなくなった。
過去の思い出を振り返り、涙しながら、ダンボールとプラスチックや木の板で作られた掘立小屋の中で、眠りにつく。眠りにつくことが、老人にとって一番の楽しみだ。
老人はここの所毎晩、同じ夢を見るようになっていた。
夢の中に、毎晩同じ少女が現れる。顔だけ見れば小学生高学年くらいと思われるが、細身で手足が長く、年齢のわりには背が高い。太股まで届く黒い長髪の持ち主で、かなりの美少女だ。
「ふわぁ、じっちゃん、まだ生きてたか~。よかったよかった」
少女は口を大きくひろげ、閉じたままの歯を見せて笑う。この少女はいつも最初にこの笑顔を見せる。実に朗らかで愛くるしく、老人の心はそれだけで癒される。
「正直、生きてても仕方無いんだけどね。死ぬこともできず、何もかも無くして、ただ命を長らえさせている。動物と変わらんよ」
自虐的な笑みをこぼす老人。
「ふぇー、乞食ってやってみると楽しいもんだって聞いたけれど、じっちゃんとは合わなかったのね」
少女の全く遠慮の無い物言いに、老人の笑みが自虐的なそれから、本当におかしくて噴出したものへと変わる。
「そこまで割り切れば楽なのかもしれないけれどね。割り切れないから苦しい」
「ふむむむむ、まだ社会人だった頃のプライドや未練が残ってて邪魔しちゃってんだ? うんうん、わかるよぉ。わっかりますよ~。でもさァ、この社会自体がわりとどーしょもないものじゃんよ。そのどーしょもないものに未練持ってもしゃーなくね? 社会の枠組みの中にいる事を普通基準に見立てて、自分は堕ちる所まで堕ちたとか考えて落ち込んでるよりもさァ、しがらみ全部ポイして楽になったと頭切り変えた方が楽だぜィ」
見た目は少女だが、その語り草は全く年齢に相応しくない。それもそうかと老人は思う。所詮は夢。自分の頭の中から生まれたものでしかないのだから。
現実において見た覚えが全く無い、夢の中にのみ現れるその少女と、老人は会話を楽しんでいた。少女は容姿の可愛らしさに加え、いつも明るい表情で老人と接していたため、余計に老人の心を虜にした。
そのうち老人は切に思うようになった。夢の中に現れる少女が現実に存在したら、どんなに素晴らしいだろうかと。
ある日の夕方、老人が街に出てコンビニのゴミを漁っている所を、複数の少年に囲まれた。
「きったねー爺、こんな所うろついているんじゃねーよ」
「退治しようぜ退治。街のゴミ掃除してやろう。たまにはいいこともしてやんないとよ」
「おー、いいね。やっちゃおう」
少年達は抗う老人を街中で堂々と暴行を加え始めた。
路上に倒れ、丸まって頭を抑える老人に、蹴りの雨が降り注がれる。後頭部を狙ってのエルボードロップも何度かされた。まるで加減の無い暴力に、老人は死を覚悟した。
これまで自分では真面目に生きていたつもりだが、その末路がこれかと悲嘆に暮れる。こんな屑そのものの餓鬼らの、一時の快楽を満たすためだけに殺されるという惨めさと悔しさに、歯噛みする。
痛みの中で思い浮かべたのは、夢の中に出てくるあの少女だった。口をひろげ、白く並びのいい歯を見せて笑う絵顔が、脳裏にはっきりと映し出される。現実では会ったことの無い、夢でのみ現れる少女にも関わらず、何故こうも鮮明に記憶に焼き付いているのか、不思議で仕方がない。
乾いた音が鳴り響き、少年達の暴行が止まった。
老人が目を開くと、少年の一人が頭から血を流して倒れ、痙攣していた。
見上げると、銃を携えた少女が佇み、悠然と微笑んでいた。教会のシスターの姿をしているのは、本物のシスターなのか、そういうコスプレなのか、ちょっと判別がつかない。銃口からは硝煙が出ている。さらに目につくのは彼女の腹部だ。大きな膨らみがある。
「危ない所でしたね。お迎えにあがって、まさかこんな場面に出くわすとは。もしやこの事もプリンセスは予知していたのでしょうか?」
「プリンセス!?」
シスター姿の少女の口から出た言葉に、老人は驚いて声をあげた。
それから彼女は、他の少年達を淡々と射殺していった。逃げようとする少年を後ろから撃ち殺し、腰を抜かして命乞いする少年も容赦無く殺した。
「プリンセスが御呼びですよ」
尼僧姿の少女の妊婦が、老人の前にディスプレイを出す。そこに映っていたのは紛れもない、夢の中に出てくるあの少女であった。
「プリンセス! ど、どうして!?」
「プリンセスは実在するのです。そして選ばれた者の心に触れるのです」
驚愕する老人の前で、シスターの少女はにっこりと笑う。その笑みはどこか歪に老人の目には映った。瞳の奥に嫌な光が見受けられる。
「プリンセスと会いたいでしょう? 行きましょう。プリンセスが貴方の到来を待っています。本来はプリンセス自ら赴くのですが、今はそうできない事情があるため、私が代役です」
差しのべられた手を老人は汚い手で握り返し、立ち上がった。
夢が現実であるという、にわかに信じられない話。だが目の前のシスターは実際に夢の中の少女を画像で出してみせて、その名も口にした。
それは一つの奇跡であった。老人の夢と熱望が現実となりつつある。試しに頬をつねってみた。痛い。それ以前に少年達に蹴られた箇所が痛くてたまらない。
老人はそれ以上疑う事なく、呆けた表情のまま、よたよたとした足取りで、妊婦のシスターの後をついて行った。




