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すぐ横で起こった出来事に、綾音は目を剥いた。
右衛門作も、予想できる範疇を越えたこの事態に、ぽかんと口を開けてしまっている。
「死の運命を捻じ曲げ、己へと呼び寄せた……のですか」
「へー、上級運命操作術だよ。貴重な力なのに、残念だねえ」
累と赤目の少女だけが瞬時に理解し、それぞれ呟いていた。
累は全てを悟った。チヨが予期していた死は、闇斎だったのであろう。そしてチヨは、死の運命を悟る能力だけではなく、死の運命を強引に変える力までも持っていた。代償として、己の生命と引き換えに。おそらく本人もそれを知っていた。
累が右衛門作に背を向け、倒れたチヨの元へと向かう。それを見た右衛門作が苦笑する。
「やれやれ。ワシでなければ、ここぞとばかりに後ろから仕掛けておるぞ」
呟く右衛門作であったが、自分がそうしないという性格も見越して、累が堂々と背を向けたことはわかっている。
「チヨ!」
伝衛悶との戦闘を放棄し、綾音が倒れたチヨを抱き起こす。香四郎が綾音をかばう形で伝衛悶との間に入るが、伝衛悶らは右衛門作から制止の合図を受け、後退する。
「まったく……どいつもこいつも戦いの最中じゃというのに、何をやっておるんじゃ。ま、愁嘆場のためにお膳立てをするワシも人のことを言えんが」
嘆息する右衛門作。別に善人ぶっているわけではない。この隙をついて攻めてそれで終わりでは、それはそれでつまらない。せっかくの勝負に水を差されているようで不快極まりないが、自分の手でさらにつまらなくすることもない。
苦痛と恐怖と寒さに震える一方で、綾音に抱きしめられることによって暖かい感触に包まれ、チヨは安堵した。自分を覗き込む累の顔もある。
「オシッコ様……お姉ちゃん……」
薄目を開けて二人の顔を見上げ、口の端から血を流しながら、無理して微笑む。
「伝えないと……チヨが今知ったこと……あの人のこと……」
チヨが震える指先で指したのは、闇斎のすぐ前で、右衛門作の命に従って動きを止めている天草四郎であった。
直後、累と綾音の頭の中に、チヨの力を介してイメージが流れ込む。
「神々しい! まさに四郎様は神の子!」「天使ぃ、天使様だぁ!」「何と美しい。まさに天使様じゃっ」「天使様ぁ」「でうす様がつかわした神の子~」「きゃーっ、四朗様~っ! こっち向いて~!」
人々により口々に絶賛される少年。キリシタン達の反乱の頭領として祭り上げられ、その美貌とカリスマ性故にもてはやされていき、若さ故か本人もその気になっていく。
だがそれは悲劇のための伏線であった。幕府軍に追い詰められ兵糧攻めを行われ、射掛けられた石矢で負傷する少年。
「四郎様が傷を負った」「傷などつかぬ天使様だと思っていたのに……ワシらと同じように傷ついたぞ」「四郎は天使様なんかじゃねえ! ワシらと同じ人間じゃ!」「何が天使様じゃ! ワシら皆殺される!」「四朗とか超最悪~。何が天使だっつーの。笑っちゃうよね~」
農民達は勝手に嘆き、少年を罵り始め、絶望と悲嘆に満ちる。少年の心も彼等とは違った黒さで満ちていき、最期は幕府軍の最後の総攻撃の中で自害するに至った。
「さぞかし、悔しかったことでしょう……」
綾音がうつむき加減に呟いた。チヨはこの空間に足を踏み入れてからずっと、島原の乱で果てた者達の怨嗟と、天草四郎の心を見ていたのだ。そしてチヨが見ていたものが今、累と綾音の心に直接流しこまれた。
「チヨ、きっとこの時のために……お姉ちゃんとオシッコ様へ、この人達の気持ちを渡して、ここにいる多くの魂を解放してもらうために生まれてきて……そして……死ぬんだよ……」
「愚かな……。命は然様な……天に定められて生まれ消え行く代物では断じてありません……」
チヨの言葉を反射的に否定する累。そのような運命論は累が最も忌むべきものだ。運命の存在は確かにあると思う一方で、予め決まったものや、操られているようなものだとは思いたくはない。
「ううん……そう思った方がいいの。だからオシッコ様。今だけは助けてあげて……ここにいる可哀想な魂達を……救ってあげて……」
無理して微笑み、チヨが告げる。
「生まれ変わったら……また……会おうね。私のこと……探……」
言葉の途中で事切れるチヨ。累と綾音の中に、全く同じタイミングで全く同じ感情の嵐が吹き荒れる。
累と綾音――二人とも言葉は無く、表情の変化も無く、同時に立ち上がり、同時に振り返った。だが向いた先はそれぞれ違う。累は右衛門作の方に、綾音は天草四郎を見ていた。
「やれやれ……輪廻を超えた探し人が……また……増えてしまいましたね」
悲壮に暮れるのは後でよい。気持ちの切り替えを素早く行うようにと、累は輪廻を超えた探し人から言われてきたし、さらにそれを綾音にも教え込んできた。
「待ってくれたことには……感謝しますよ」
累が右衛門作に告げる。
「真面目に遊んでもらわねば困りますからな」
にやにやと笑いながらそう返す右衛門作。
「チヨ……貴女の想いは受け取りました」
天草を見吸え、綾音が口の中で呪文を呟き、何処からか呪符の束を両手に出現させ、それを全て宙に撒き散らす。
天草が綾音の方へと手をかざす。正確には、チヨの胸を貫いた己の刀剣に向けてだ。念動力によって刀がチヨの胸から引き抜かれて宙高くへと上がり、空中で幾度か回転したかと思うと、綾音めがけて一直線に飛来する。
綾音はすでに術を完成させていた。己を取り巻くようにして地面に配置された無数の呪符。唱え終えられた呪文。
呪符に記された文字が光り、綾音の体が地の中へと瞬時に消える。刀が今まで綾音がいた空間を通り抜け、地に突き刺さる。
数枚の呪符が天草の背後をひらひらと舞う。それらの呪符に記された文字が光ったかと思うと、天草の後ろに綾音の姿が現れた。
気配に気付いて振り返る間も与えず、綾音は次の術を仕掛けていた。綾音の手により、天草の体に向かって無数の肉片がぶつけられる。肉片は天草の服や肌の上に付着し、ぶるぶると震えて奇妙な液体をにじませて、服を、肉を溶かす。
天草はそれらの肉片をひっぺがそうと己の体をかきむしっていたが、すでに肉片は体内へと潜り込んでいって、体の一部となっていた。
「噛神」
短く呪文を唱える。投げつけた触媒より引き出す力の依存が大きい術が故に、短い呪文で瞬時に完成する術だ。
天草の所々破れた服がさらに破れだす。
服が破れた箇所が――体の所々の肉が膨れ上がり、もり上がる。そのもり上がった肉の先に口が出現し、黄色く汚れた歯をのぞかせて大きく開くと、もり上がった肉同士が絡み合うようにして噛み付き合う。互いに肉を食いちぎっては吐き捨て、けたけたと声をあげて笑い、さらにまた噛みちぎりあう。それが天草の体中あちこちで起きている。
「わー、面白―い」
おぞましい外法を目の当たりにして、黒衣の娘が楽しそうな声をあげる。
天草四郎は最後まで怨嗟に満ちた表情のまま、動かなくなるまで体を細かく噛みちぎられ続けた。
「星炭殿の術はそれなりに効いて……いたようですね。そうでなければ、綾音の術で、こうも容易くは仕留められなかったでしょう……」
累が右衛門作の方へと向き直る。見物はこれまでという意思表示を込めて、刀を軽く横に払ってみせる。
「来なさい。怨念の残滓共」
「む?」
自分向かい合いながらも、累があらぬ方向へと力を放ったことに、右衛門作は怪訝な面持ちになる。
累の意図はすぐにわかった。右衛門作がこの空間に封じていた、まだ伝衛悶化していない怨霊達が、今の累の声に呼応して、累と右衛門作の方へと全て寄ってくる。
それら怨霊達は一箇所へと集められたかと思うと、緑色に輝く浄化の炎を累によって浴びせられ、一斉に冥府へと送られていった。
「ほっほっほっ、これはまたどういう風の吹き回しでしょうなあ。恨みの化身とも言うべき師が、でうすの御使いとなりて、怨霊達を解き放つとは」
全く予期しなかったが故に、制止することもできなかった累の行動に対して、皮肉げに笑う右衛門作。
「チヨの願いを聞いただけのこと。加えて、彼等の無念を晴らしてやることが、お前の力を削ぐ合理的な手段でもあります」
いつもの微妙に途切れる喋り方ではなく、淀み無い口調で累は言い放った。
「ほっほっ、そろそろ師に火がついたと見なしてよろしいのですかな?」
右衛門作は笑いながら、両手を激しく交差させて累めがけて何かを放った。




