18
一つの樽から立ちのぼる白い靄。その前で正座して瞑目し、精神を集中させるチヨ。
妖術師としての修行を開始した初日から、与えられた課題を即座にこなしてみせたチヨを見て、累は舌を巻いていた。
霊体を操作する初歩中の初歩の術であるが、最初からうまくいく者などいない。少なくとも累もうまくはいかなかったし、綾音や右衛門作も幾度も失敗し、死体を入れた樽の中の霊体を樽の外に靄状に実体化させて放射できるようになるに、何日も要した。
わかってはいたが、確かな才がある。時をかければいずれ自分をも越える妖術師になるかもしれないと、累は思った。
「簡単だねー、これ。よーじゅつしの修行って、もっと大変かと思ったのに」
累の方を見て口を広げ、白い歯を見せて笑ってみせるチヨ。
「霊を扱うことに慣れることと……術の精神集中と……両方兼ねた修行です。お前はそのどちらにも、非凡な才が……あるようですね。樽の数を増やして……みましょうか」
累が部屋の襖を開け、中にしまってあった樽を出す。中には腐敗防止の術を用いて保存してある死体が入っている。その死体の中には、術によって成仏させない状態にした霊を封じ込めてある。
「チヨが慢心しないように気をつけないといけませんね」
チヨの修行の様子を見ていた綾音が、珍しく冗談を飛ばす。口元にも微笑みが浮かんでいた。最初はチヨのことを綾音が疎んでいたように累の目には映ったが、少なくとも今はそうでもないようだ。
「慢心は成長の妨げ……ですからね」
累が言葉少なにそう答える。自分が術を覚え始めた際に慢心し、師である御頭にこっぴどく叱られたことを思い出していた。
「早くいろんな術覚えてみたいなぁ。変身の術とか、豊作にする術とか、気に入らない奴を全部あんころもちにして食べちゃう術とか」
「今の雫野にそんな術は……ありません。自分で編み出しなさい」
「ふえー、そうなんだー。術って自分で作っていくものなの?」
「人の手によって作られ、習得すれば同じ超常現象を発生させられるもの――それが……術です。チヨが持つような、生まれついての能力とは……異なります。そして一人前の妖術師となった者達は、新たな術を……研究し、編み出していくものです。あるいは、既存の術を改良して強化するか……」
「ふ~ん、そっかー。だったら早く一人前になりたいな」
実際には新たな術を編み出すなど容易ではない。不老不死ではない妖術師や呪術師なら、生涯のうちにせいぜい二つか三つくらいだろう。
相当優秀な才能を持つ術師であれば、より多くの術を編み出すであろうが、そもそも新しい術を編み出すよりは、既存の術の改良の方に励む者が多い。
「オシッコ様、本当はもう爺なんだよね?」
累が考えていたことを読み取り、脈絡の無い問いを口にするチヨ。
「本来の年齢は……そうですね……。肉体の若さを保つ術を心得ているので、老いることも成長することもありません……が」
「いいなあ、それ。なんかすごくいいよ。チヨもずっと子供のままでいて、甘えていたいな。大人になんかなりたくないし」
「そういう意味で……この姿を保っているのでは……ありませんが」
「じゃあどうして?」
右衛門作との先日の会話を思い出し、不快な気分になる累。
「私が慕う人が、そのままでいろと……愛でてくれたからです」
「そうなんだー。子供が好きな人だから、きっといい人なんだね。子供好きは皆いい人だってじっちゃんが言ってたし、チヨもそう思うから間違いないね」
「私の初めての弟子も子供が好きでしたが……いい人ではありませんよ」
その好きの意味も屈折した意味での話だが、思わず口にしてしまう累。
「右衛門作なる者との会談、如何でした?」
初めての弟子という言葉に反応して、綾音が尋ねる。
累はしばらく押し黙り、どう答えようか迷っていた。正直なところ、再会しても不愉快な気分を味わっただけという印象ばかりが残っている。会う前に想像していた以上に気分が悪くなった。
右衛門作の目的も正直あまり理解できない。国壊しそのものは痛快であるが、その動機が実に馬鹿馬鹿しい。会ってから対処を決めるとは言ってみたものの、正直累は介入する気にもなれない。勝手にやっていろという気分だ。
「破門した弟子の愚劣さを……改めて確認できました……」
侮蔑を込めて吐き捨てる。
「星炭殿がおっしゃられていた通りなのですか?」
さらに問う綾音。自分を見つめる自分と同じ色をした瞳を見て、累は鼻白む。鋭く、挑みかかるような視線。綾音にこんな目で見られることなど初めてだ。
「……私を責めるような目で見るのは、おやめなさい」
胸の痛みと怒りを同時に覚えたが、それらを吞み込み、穏やかな口調でたしなめる。
「父上、一生のお願いです。その者を討伐してください」
両手を畳について顔を伏せ、綾音が懇願する。
「チヨもこの飢饉のせいで、親に売られました。私の村でも恐らく同じことが起こっているでしょう。私を虐げた、嫌な思い出しかない村でしたが、よい心地はいたしませぬ」
綾音は純粋な正義感でもって、右衛門作の成そうとしていることに、激しい嫌悪と怒りを覚えているようだが、累の中には無い感情故に、どうしても気が乗らない。だが一方で、綾音がここまで自分に頼み込んでいるのを無下に拒むのも、心苦しいものがある。
「私は父上に縁日の祭りに連れていってもらうのが好きでした。私はあの、大勢の人達が笑いあい、楽しんでいる時間と空間が好きです。もしこのまま世が闇に包まれるのであれば、あの場にいた人達も大勢死ぬかもしれません」
「見ず知らずの他人に……」
否定的なことを口にしようとして、累は言葉途中で思いとどまった。
右衛門作がやろうとしていることとはまるで規模が違うが、累も辻斬りや強姦などを頻繁に行い、不特定多数の見ず知らずの他人を地獄に落している。
綾音の今の言葉は、まるでそれに対するあてつけも含まれているかのように聞こえた。もちろん綾音にそのような意図はないのだろうが、累の中に芽生えている罪悪感がいたく刺激される。
(もっと早くに追い出しておくのでした……)
綾音といると、自分が自分で無くなっていくかのような感覚に襲われ、混乱が引き起こされる。心に激しい痛みが生じる。
「オシッコ様、善い心と悪い心が喧嘩してるー。今は悪い心がちょっとだけ勝っているけれど、善い心が泣いているねェ」
そんな累の心を見てとり、チヨが哀しげな口調と表情で言った。綾音の前で口にしてはほしくなかったことだったが、チヨに言われて逆にすっきりした部分もある。
「改めて言わせていただきます。父上が行かずとも、私は行きます。私の力では父上に遠く及びませぬし、父上の最初の弟子にも及ばぬかもしれませぬが、それでも星炭様達の力になりたいと存じます。いえ……たとえ父上が行かれるとしても、私も行きますけれど。一生のお願いです。私に戦いの許可を」
「わかりました……」
頭を垂れたままの綾音に累は手を伸ばし、頬を撫でる。
綾音が頭を上げ、累を見た。何とも言えぬ複雑な表情で自分を見下ろしていたが、その瞳には優しい光が宿っているように見えた。
「お前が願うから……そのために戦います。それだけのために……ね」
皮肉ではなく本心だった。愛娘の心からの望みに従うのも悪くない。そしてここで断ったら、確かに綾音の言うように後悔しそうだ。ただし後悔する理由は、他ならぬ綾音への負い目でということになるが。




