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藍から依頼のキャンセルをされた小松は、昨日から仏頂面で、苛立たしげに貧乏ゆすりを続けていた。
あからさまに不機嫌さをあらわにするボスの態度に、善意のアビスの構成員達は内心呆れつつも、雪岡純子や相沢真などという裏通りでも最悪級の危険人物とこれ以上関わらないで済むと、安堵していた。
(クソッ、このままじゃ俺の株下がりまくりじゃんかよ。それに藍ちゃん、きっと他の男に頼るつもりだぞ。せっかく最初に俺の所に来てくれたってのによ)
裏通りでの顔が広い藍であれば、他にも一組織のボスの知り合いも多くいるであろう。中には善意のアビスよりも大きく強い組織もあるかもしれない。
そちらに依頼して、雪岡純子と相沢真を討ち果たして藍の息子を取り返したとしたら、当然藍の気持ちもそちらに傾くに違いないと、小松は考える。
(そんなの我慢できるかっ。畜生ッ。俺の藍ちゃんに対するこの気持ちは本物なんだぞ。藍ちゃんの心までもが他の男に奪われるなんて我慢ならねえ)
苛立ちながらネットを見て情報を漁っていた小松の目に、雪岡純子が新たに流した広告が入る。
『旧安楽寺院で息子さんと一緒に待ってるよ~』
廃墟の寺院内部を背景に、惣介と共にツーショットで写っている純子と、一行の短いメッセージ。わざわざ場所まで指定して挑戦者を待ち受けるような構え。
さらに情報を集める小松。取り憑かれたかのように情報組織のサイトを片っ端から開き、雪岡純子関連の情報を収集する。
アルラウネのこと、それを狙って中国工作員も動きだし相沢真と交戦したこと、タブーの一人であるバイパーまでもが安楽市内に到来し、中国工作員と交戦したことなど、様々な情報が集まった。
(この中の誰かが、藍ちゃんの依頼を受けているかもしれねーな。いや、この中にいなかったら、さらにまた争奪戦に参加ってことになるか)
意を決し、小松は幹部達を集める。
「てなわけだ。こいつらが雪岡純子より神谷惣介を奪取する前に、こっちが先に確保しろ」
すでに終わった件と思われたものを再び蒸し返されて、幹部達が顔色を変える。一人を除いて。
「何だ、その顔は。仕事だぞ」
明らかに臆している幹部達を見て、小松の顔色も変わる。
「また多くの犠牲を出すことになりますよ」
「我々のかなう相手とは思えません。しかも雪岡純子以外も動いているカオスな状況に飛び込めと」
「だからこそ好都合なんだろうが! 漁夫の利を得るチャンスと考えろ! 隙を見て惣介を保護しろ!」
難色を示す幹部達に激昂し、命ずる小松。
「俺が行きますよ。新たに部下を手配してくれるならね」
入室してからずっと張り詰めた表情のままの生江健が、静かに口を開いた。
(そういやこいつ、ダチを全て失ったんだったな。そのリベンジに燃えているってわけだ。こいつは使えそうだな)
瞳の奥に憎悪の光を宿した健を見て、小松は判断する。
「よし、お前に残った奴等を全て預ける。好きなように使え。その代わり必ずやり遂げろ」
小松の采配を受け、健が入室して初めて表情を変えた。ぞっとするような凄絶な笑み。復讐のための道具を手に入れたことをほくそ笑んでいると、小松と幹部達の目には映った。
(ああ、好きなようにさせてもらう。必ずやり遂げてやるしな)
実際健は腹の底では失った部下達への仇を取ることばかり考えていた。だがその復讐の矛先は純子と真ではない。こんな馬鹿な命令を下した小松と、ふざけた依頼をもってきた藍に対してだ。
「ふん、臆病者の役立たず共めっ。さっさと出て行け」
小松が追い払うかのように手を振る。幹部達は小松の視線から外れた所で憮然とした表情を隠さず、退室した。
「どうするのです? このままではうちの構成員を皆殺しにされて、組織もおしまいだ」
廊下を歩きながら、比較的若い幹部が、最古参幹部である鹿島銀三に向かって言う。
「今、別の仕事に出ている奴等もいるから、皆もっていかれるってこたーないが、それでも大部分を投入されちまうな」
苦虫を噛み潰したような顔で鹿島が言った。
「ふざけた話だよ。部下達に事前にこっそり言い含めておいた方がいいな。危なくなったらすぐに逃げるようにと」
「無駄死にさせることはねーしな。あの糞親父いい加減にしろってんだ」
「てめーのくだらねー惚れた腫れたに、組織を巻き込んで公私混同のあげく人死にまで出すとか度が過ぎてら」
「ああ、恩義はあっても、命まで差し出す道理は無い」
次々と不平不満を口にする幹部達。
「よしんば部下達をうまく死なせずに済んでも、二度もあの雪岡純子に楯突いて、ただで済むと思うかい?」
鹿島の言葉に、幹部達の表情が再び凍りつく。かのマッドサイエンティストと敵対した者は、皆生きたまま実験材料にされて殺されるとの話だ。小松は噂に尾鰭と笑い飛ばしていたが、まるごと潰されたという組織の話も幾つもある。
「最終確認してみよう。もし聞き入れてもらえねーなら、そん時は――」
言葉途中で、鹿島は大きく息を吐く。それ以上口にせずともその先は、幹部全員わかっている。
***
雪岡研究所を出てカンドービルの階段を上がる途中、真は見覚えのある人物と遭遇した。
(こんな所で待ち受けていたのか?)
壁にもたれかかって自分を見据えている藍を見て、真は訝る。
「先にあなたが出てきてくれてよかった」
真を見下ろし、藍がにっこりと笑う。心の底から嬉しそうな笑み。見る者の心を蕩けさせるような朗らかな笑み。
その笑顔を見ただけで、真は看破した。生ける伝説として伝えられる、裏通り最高峰の娼婦。恐らくはこの笑み一つで心を奪われた男達も多いのだろうと。だが真にしてみればまるで物足りない。それをはるかに凌駕する威力の笑顔を毎日見ている。
「僕を待っていたとでも?」
抑揚に乏しい口調で問う真。いつも以上に冷めた口調だった。視線も冷たい。藍の目的が何であるか、この時点ですでに察してしまったからだ。
「ええ」
他の男達とは全く異なる真の冷然たる応対に、微かに動揺を覚えつつも、藍は笑顔を崩さずに階段を降りていき、真の側へと寄る。
香水と女の臭いがたっぷりと真の鼻腔へと流れ込んでくる。
(留美がいつもつけていたのと同じ香水だ)
懐かしさが胸を刺激する。確かこの女も、真が贔屓にしていた娼婦と同じ組織『アストラルワイフ』に所属していたはずだ。
(偶然とは思えないし、随分とあざとい真似をするもんだ)
そう思うものの、懐かしさに胸がうたれているのは否定できない。
「僕に協力を乞うつもりか?」
機先を制して、真の方からストレートに切り出す。
「私が依頼した組織の人達は皆、あなたに撃退されちゃったからね」
藍が表情を一変させた。笑顔から泣きそうな顔へ。わざとらしいと言えばこのうえなくわざとらしいが、そんなものでも大抵の男は心を動かされる。
相手の目論見をわかっていて、計算である表情の変化とわかりつつもなお、真は自分の心に変化が生じていることに気がついた。藍を見て、哀れみの感情を抱いている。さらには保護欲のようなものが沸き起こっている。
(不自然だな)
自分の感情の変化に対しても、真は冷静に分析していた。これは単純かつあからさまな女の演技では断じて無い。もっと別の、自然ならざる力が働いている。それが真の心に影響を及ぼしている。
「そう、なりふりかまっていられなくなっちゃったの。敵であるあなたにいちかばちかで、私が体当たりの誘惑を試みるくらい」
藍のこの言葉は、半分本心であり半分は嘘だった。なりふりかまっていないのは本当だし、いちかばちかの体当たりの誘惑も本当だ。だが、完全に追い詰められてそうしているわけではない。自分ができることは何でもやっておこうという覚悟からである。
「あなたは何とも思わないの? 息子を人質にとられて、実験台にされようとしている女を見ても、同情心が沸かない?」
「いつものことだよ。僕は雪岡の側で、いつもそういうのを見ている」
「だから何も感じない? そんなひどいことにいつも協力しているの?」
藍が真にさらに接近する。触れてはいないが、体温までも伝わってきそうなほどの距離。
(この女、知っているな)
ふと真は直感した。いくらなりふりかまわないと言っても、敵の配下まで誘惑しようなどというのは、いくらなんでも無謀すぎる行為だ。つまり真がいつも純子の行いに楯突き、邪魔していることをどこからか聞いて知っている。
真も純子もそれを秘密にしていないし、結構自分達から喋っているが、おおっぴらに裏通り全体で既知の事実として広まっているほどでもない。だが知っている者は知っているし、情報組織に大枚はたいて情報を買い取ったとすれば、その件も必ず含まれているであろう。
少なくとも、雪岡純子とあまり良好な関係ではない情報組織のオーマイレイプならば、それを伝えないはずがない。
「いつも協力しているわけではないよ。御存知の通り、な」
知らない振りなどする必要も無い。むしろ全て見透かしていることをこちらから告げておいた方がいいと真は判断した。
ただの女の誘惑ならともかく、そうではない何かがあるのを真は感じ取っていた。少しでも精神的に優位に立っておいた方がいい。
「今度はどうなの?」
藍の手が真の顔へと伸びる。その動作が異様になまめかしく見えて、真の鼓動が早まった。やはり明らかにおかしい。
真の中で激しい性欲が沸き起こる。
性欲過剰なうえに殺人の後には耐えがたいリビドーに悩まされる体質であるが、女なら誰でもいいというわけでもない。少なくとも藍はタイプではない。にも関わらず自分は誘惑されかけている。魅了されている。
暴力的なまでに激しい性衝動がこみあげてくる一方で、同時に忌々しい記憶が呼び起され、脳裏でフラッシュバックする。憎悪と怒りと暴力衝動と性欲に任せ、女を組み敷く自分。
相手は全く抵抗しなかったが、あれが正常な交合であろうはずがない。真の心に残る大きく深い傷が疼き、自己嫌悪と共に急激に頭が冷め、性欲が消え失せた。
(体内にあるアルラウネの影響か)
冷めると同時に、自分が惑わされていたものが何であるかを見抜く。
真が手を振り払う。驚いたように藍は真を見る。
「あんたのそれは、あんたの魅力ですらない。あんたの体の中にあるアルラウネによるものだ。そんなくだらんものにたぶらかされたりしない」
侮蔑を込めて吐き捨てる真。別に藍はマウスではない。マウスから紛れ込んだアルラウネの影響で異能レベルの力を発揮しているにすぎないが、真が常日頃からマウスに対して抱いているのと同種の嫌悪感を催してしましった。
藍の驚きの表情が崩れ、その顔があっさりと怒りのそれに変わる。微かに体をわななかせて真を見下ろし、睨みつけた。絶対の自信があったし、途中までは他の男達と同じようになっていた。篭絡できると確信していた。
なのに突然自分の魔法が破られ、自分を否定され、くだらないものでも見ているかのような視線で見られていることに、プライドが崩され、悔しさと怒りが込み上げてくる。
ふと、バイパーの言葉が思い出される。彼の言うとおりだ。藍は己を否定されることが絶対に許せない性分だ。自分を肯定する者しか認められない性格だ。
「好きな人がいるのね」
気持ちを落ち着けようとして、息を大きく吐いてから、藍は言った。そうでなければ自分の誘いにのらないはずがないと、心の中で言い聞かせながら。
「好きな女は何人もいたし、今でも好きだよ」
杏や留美のことを――そして純子のことを思い浮かべながら、淡々と語る真。あまり深く考えてないような言い振りだが、本気でそう思っているように藍には聞こえた。
「昔のあの人と同じようなこと言うのね。やっぱり男って、複数の女を同時に好きになれる生き物なんだ。私にはよくわからないけど」
真を初めて見た時にも、バイパーとどこか似た印象を感じたことを思い出す藍。
「その好きな人に知られさえしなければ、別にいいじゃない。誰だってやってることよ?」
「その通りだな。でもあんたは好みじゃない。いい加減しつこい。僕は拒絶してるんだから、引き下がれ」
「相手の女が貴方を裏切っても、貴方はその女を好きでいられる? 女は平然と嘘をつく生き物だってことも知ってる?」
毅然とした態度の真を見て、綺麗事を言うと思いながら、藍は意地悪く訊ねる
「裏切るかどうか疑いながら、あんたは人と付き合うのか?」
問い返す真の瞳に哀しげな光が宿ったのを藍は見逃さなかった。だがそこで藍も自分が再び感情的になっているのに気がついて、また大きく息を吐く。
「何だか皆似ているわ……。あいつも惣介もあなたも」
自分の思い通りにならなかった男は皆同じだ。心の中に凶器のようなものを備えているのが垣間見える。そして同時に、深い傷があるように見える。
「わざわざあんたに頼まれるまでもなく、僕は雪岡のやることを妨害するつもりでいるからな。すでにそのために動いている」
「それが本当ならいいけれどね。そのつもりかどうか、私には判断つかなかったもの。今だって信じられるかどうかわからないわ」
「信じてもらう必要もないな。あんたがどう動こうが、どう不安に思おうが、僕には関係ない話だ。僕は自分のやりたいようにする」
それだけ言い残し、真は階段を上っていく。
「私にできることは何も無い?」
その背に向かって藍が問い、真は足を止める。
「終わった後でならあるな。そんな商売やめたらどうだ? 惣介は嫌がっていたんだし。それが原因でこんなことになったんだからさ」
振り向かずにそれだけ言うと、真は再び足を進めた。
「綺麗事を言って私を否定する男。私を認めて買う男。どっちを信じればいいのかしらね」
真が完全に姿を消してから、藍は自嘲の笑みをこぼしてそう呟いた。




