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藍は善意のアビスの拠点に身を寄せつつ、小松の部屋にて報告を待っていた。室内にはもちろん小松もいる。
「心配することはないよ、藍ちゃん」
思いつめた面持ちで、しかし時折そわそわと無意味に体を動かす藍に、小松が髭面に精一杯優しそうな笑みを作ってみせる。
「うちの秘蔵っ子が行ったんだぜ。あいつならきっと藍ちゃんの子を取り戻してきてくれるよ。そうしたら褒めてやってくんな。腕は立つけどあいつもまだガキだし、藍ちゃんに褒められれば鼻の下伸ばして喜ぶさ」
「うん」
藍の不安を少しでも和らげてやろうとして、しきりに話しかけているものの、藍は上の空でそれを聞きながら、適当に相槌をうっていた。
藍の中で、もう一人の自分が己を責めたてていた。選択を間違えている。もっとよい手段があることを藍自身が知っている。しかしそれをくだらない意地で選ぼうとせずに、小松を選んで頼ってしまっている。そんな己の愚かさに対する後ろめたさに、さいなまれている。
ノックがした。
「入れ」
「健が帰ってきました」
室内に入ってきた鹿島が憮然とした面持ちで告げ、その背後から、出る時の自信みなぎる態度とはうって変わり、憔悴しきって絶望感に満ちた虚ろな目つきの健が入ってくる。
健のその様子を一目見ただけで、任務の失敗が小松にも藍にもわかった。健の視点の定まらぬ目つきは、小松に寒気すら覚えさせた。まるで別人と化している。
「健以外は全滅したとのことです。まだ続けますか?」
鹿島が冷たい声と眼差しで問う。尾鰭がついただけの有り得ぬ噂とたかをくくっていたにも関わらず、噂が現実であった証明になるという皮肉な結果。小松は言葉に詰まって、鹿島から視線を外して、藍を一瞥する。
「もう一つ報告があります。これをご覧ください」
鹿島がホログラフィー・ディスプレイを投影し、裏通りの情報サイトを開いて見せる。そこには雪岡純子の名で広告が出されていた。
『オリジナルのアルラウネの遺伝子を持つ子供をこちらで確保しています。父親はオリジナルのアルラウネの細胞を移植されたと推測され、探している所であります。心当たりのある方はこちらまで情報をお寄せください』
アルラウネの名は小松も知っていた。十年前の東京湾怪獣事件からその名は裏通りでもちらほらと広まり始めている。世界中のマッドサイエンティスト達から注目されており、キメラ製作に事欠かない生命の断片として伝わっている代物だ。
バトルクリーチャーの何種類かにも、アルラウネのコピーやリコピーの細胞が移植されているとのことである。全ての大本であるオリジナルのアルラウネの所在は不明とされており、それがいかなるものかも、謎のべールに包まれている。
アルラウネの遺伝子を持つ子供の顔は出されていなかったが、それが誰であるか、小松達にも察しがついた。この状況とタイミングで別人というのは考えにくい。
一方で藍も、純子の狙いが何であるのか、この時理解した。
(つまり、雪岡純子の目的はあいつだったわけ? だから私とあの子を引き離して、私があいつを呼ぶように仕向けたの? だったらこんな回りくどいことしないで、最初から言えば――いや、私がその場で拒否することも考えたのかな)
実際には、そうした回りくどいこともゲームのうちとする純子のお遊びであるが、流石にそこまで藍にはわからない。
「ごめんなさい。私が無茶な依頼を持ってきたばかりに」
静かに告げ、一礼して部屋を出ていく藍。藍は己の選択が間違っていたと認め、決意を固めた。もう自分のくだらない意地など捨てなくてはならない。どんな手段を使ってでも、惣介を助けると。
「ああ……うぐぐ……」
出て行く藍を呼び止めようとした小松だが、かける言葉が見つからず、頭を抱える。元々無理のある仕事ではないかと、部下達から反発されていたのを強行した結果がこれである。これ以上はどうにもできない。
(このままでは終わらせない)
一方でそれまで呆けていた健が、ディスプレイを凄まじい形相で睨みつけていることに、小松も鹿島も気づいていなかった。
失ったのは、裏通りに堕ちる前から行動を共にしてきた仲間達だ。仇を取る決意を固め、藍の後を追うかのように、無言で部屋を出た。
***
『あの馬鹿、何考えてるのやら』
裏通りで最大手と言われる情報組織『オーマイレイプ』が運営する情報サイトを閲覧している最中、クラブ猫屋敷の主はその広告を目にして、呆れた声をあげる。
『どーしてこういう発想になるんだか。本気でズレまくっているのか、それとも何か別の目論見があるのですかねーと』
ディスプレイに映る広告は、小松と藍が見たものと同じ、雪岡純子によるアルラウネの遺伝子を継ぐ子供の父親を探しているという代物だった。
ディスプレイの前で白猫が苛立たしげに尻尾を左右に振る。その後ろからバイパーが真顔で広告を凝視している。微かに怒りをにじませた形相で。
「なんつーか、世間ではわりとよく有りうることなんだろうけれど、それでもいざ自分がその立場になると、アレだな。冷静でいられないな。何か知らんけどショックっつーか」
重い口調で言うと大きく息を吐き、バイパーはディスプレイから目を離した。
『いきなりパパになった気分はどうだ?』
白猫が振り返り、そんなバイパーを揶揄する。
『つーか、お前のことだから、ガキなんてそこら中にいるんじゃないですかねー?』
「それはねーと思うわ。つか、俺のこと何だと思ってるんだよ」
前に垂れてきた髪を後ろに払い、憮然としながら白猫を睨みつけるバイパー。
『で、お前はどーするのです? 他人事じゃないし』
「みどりの件もあるってのに、今更見たこともねえ餓鬼のために動けってか?」
皮肉っぽく言いながらもそわそわと体を動かしているバイパーを見て、ナルが吹きだして口を抑える。
「悪ぶっても、バイパーはこういうの見過ごせないタチにぅ」
ナルの言葉にバイパーは眉を潜めると、無言のままホールを出て行こうとする。
『放っておくとお前の子供、本気でピンチになるかもな』
その言葉にバイパーの動きが止まった。
『この広告を真に受けて、中国工作員達も動いているみたいだし。危ないですよっと』
「そんな奴等が動いたくらいじゃ危険でもねーだろ。お前と同格の雪岡純子の庇護下にいるんだしよ」
『誰があんな三流のカスと同格だ。殺すぞ』
声の主が不機嫌になるのを見てバイパーはせせら笑うと、そのまま外へ出て行く。
「中国工作員がどうして動いてるにぅ?」
ナルが問う。
『元々日中合同でアルラウネの研究をしていたし。中国は自分達に所有権あると勝手に思い込んでいるわけですよ。バイオテクノロジーで大きく後退しているあの国からしてみれば、アルラウネは喉から手が出るほど欲しいものだし』
「何で共同研究していたってだけで、所有権主張するにぅ? おかしいにぅ」
『あの国のいつもの理屈だし。そういう奴等だと理解すれば何もおかしくねーよ。てゆーか、お人好しすぎるこの国の方が、世界水準ではおかしいんだけどな。この世は所詮奪い合い。でかい声で主張したもんが勝ち。力で奪い取ったもんが勝ち。こすずるく立ち回ったもんの勝ち。そういう風にできてますし』
「なんだかにゃー……そういう価値観が絶対ってのもつまんないものにぅ」
不満げに口を尖らせるナル。
『その価値観で世界が回っているからこそ、人間は万物の霊長として世界に君臨しているわけだ。それ以外の価値観は、その大前提の価値観によって充足されたその先に求めるものだろ』
ナルよりもさらに不満そうに、かつ忌々しげな響きで、声が語る。
『ま、私がこの世界を引っくり返した暁には、もう少し上品かつ享楽的な世界に作り変えてやりますけどね。まあその時まで待っているがいいですよっと』
冗談としか思えぬその台詞が、しかし声の主は大真面目に目標として目指している事を、クラブ猫屋敷の住人は知っていた。猫屋敷の者でなくても、彼女の正体を知る者であれば、それを一笑に付したりはしない。




