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(嫌な予感がする)
ホテルの部屋にて、特に何もせず虚空を見上げながら、真は胸騒ぎを覚えていた。
悪い予感がしてもそれを認めるなと、自分を鍛え上げてくれた人物に何度も言われた。
闘争を糧として生死の狭間に生きる者は、時折そうした不安に襲われることがある。それは己の死の予感であることもあれば、他者の悲劇であることもある。しかしそれを受け入れてはならない。心に留めてもならない。口にすべきではないと教わった。心の中に食い込んだ棘が、活力を殺ぐ原因となりうると。
その理屈は真にも嫌というほどわかったし、断じて無視しておくようにと努めてきた。
「ファイナルニートと正美ちゃんが交戦に入ったみたいだよー」
真にその考えを教えた当人が、ディスプレイを覗き込みながら告げた。ほとんどのマウスの居場所と動きが、純子には把握できる。一部不可能なマウスもいるようだが。
「そろそろ真君も美香ちゃん達を助けに行った方がいいかもねー」
「そうかな? 盲霊師とやらの所在も発見できてないし。動く時は期が熟した時に一気に――という感じではないぞ」
真にそう教えてくれたのが他ならぬ純子だ。その教えから考えるに、こちらの裏切りを日戯威に明瞭にするには最後の方がいいと、真は判断していたが。
「それもケースバイケース。正美ちゃんがいるのが気がかりなんだよねー。あの子一人に引っくり返される可能性もあるし、シスターの遣い――盲霊師の幸子ちゃんも相当な力の持ち主だと思うしさー。放っておくと、美香ちゃんと瞬一君が危ないかもだよー?」
「鳥山正美か。奴に関する情報をいろいろと見たが、特異体質の話が本当なら、美香と瞬一だけでは確かに危険だな」
「そういうことだよ。京君が正美ちゃんの足止めをしている間に、真君は美香ちゃん達と合流した方がいいよー」
この場合の足止めという言葉が何を意味しているのかは明白だった。
(あいつはマウスの中でも、かなり強力な方なんだがな。それが足止め程度にしかならないと、最初から見限っているわけか)
純子の言葉を聞いて、真はそう受け取った。
「あと、幸子ちゃんの方もそろそろ対処考えないとね。幸子ちゃんを殺さずに捕縛するのに、累君に一働きしてもらうかなー」
と、純子。累は別室で一人引きこもっていた。
「それで累を連れてきたのか。あいつが強いのは知っているけれど、大丈夫なのかな……」
「肝心の力霊への対処のために連れてきたんだけどもねー。あの子は普段は元気無いけれど、ここぞという時はしっかり動くタイプだから大丈夫だよー」
「まあ今まではそうだったけれどさ」
過去、累が実際に戦っている場面を見た事も何度かあるし、その強さ自体は知っているが、普段の気弱さや、常人では有り得ないくらいふとしたきっかけで落ち込み、すぐ欝になって自分の殻に閉じこもる累を見ていると、どうしても心配になってくる。
「それにね、今回の相手は累君が一番適しているしねー。もし力霊が暴走しても、累君なら確実に封じてくれるし」
「霊に対しては限りなく無敵なんだっけか」
「うん。この国の術師の主流は、幻術、霊を操る術、空間操作、妖怪作りの四つなんだけれど、雫野流妖術は精神を分裂させることで幻術の類は完全に回避できるし、霊に至っては相当強力なものでも浄化できちゃうんだ。その辺が、雫野流が最強の妖術流派と言われる所以なんだけれどねー」
その流派の創始者が、他ならぬ累だという。普段の累を見ていると、そんな物凄い人物にはとても見えない。
「でも嫌な予感がする。累のことに限らず、何か悪いことが起こるような」
不安要素はいくつかあるが、果たしてそれが原因なのか、胸騒ぎがしてならない真だった。悪い予感を口にするなという教えは心に留めていたはずだし、その教えを真に告げた張本人の前で口にしてしまうのもどうかと思ったが、口に出さずにはいられないほど、真の中で色濃く浮かび上がっていた。
「実は私もなんだー。多分その勘は正しいよ」
真の肩に手をおき、いつも通り屈託の無い微笑みをうかべて、安心させるかのように純子は言う。
「私の場合は嫌な予感とか不安とかそういうんじゃなくて、死の臭いが濃厚に漂っているのが、今の時点でわかっちゃうっていう感じだねえ。あまり考えたくないけれど、誰かが死ぬのかもねえ。まあその死の臭いの元が日戯威側の人達っていうのなら、すでに何人も死んでいるし、別に構わないんだけどさ」
「悪い予感は大抵当たるからな」
特にお前の予感はな――と、口に出さずに付け加え、真は部屋の扉を開いた。
(美香と瞬一がいるのは軟体動物専門水族館か)
ホテルのすぐ近くであるが、急いだ方がいいと判断し、真は足早に水族館へと向かった。
***
幸子は一度結界内部に日戯威の構成員が迷い込んで以来、結界の強化を施して結界の外郭範囲を広げていた。
閉じ込めるタイプの結界であるが故に、どうしても侵入者は防げない。また、結界を張るためには複数の支柱が必要だ。しかし軟体動物専門水族館という建物の内部を利用しているだけあって、支柱には事欠かない。
水族館を訪れた一般客が結界内に入る頻度も増したが、それは問題無い。一般客は結界の中心には辿り着けず、うまく誘導して外に出られるようにしている。亜空間化した結界内部に迷い込んだことにも気付かないように。
そのための結界外郭だ。加えて言えば、日戯威の構成員はあの後も幾度が訪れていたが、幸子は一切手出しせず気にも留めていなかった。一度、結界外郭と内郭の狭間にある、内郭の結界を構成する支柱にまで近付いてはいたものの、結界内郭への進入には至らなかった。
あまり外部への注意を払わず、主に力霊へと気を注いでいた幸子であったが、今回の侵入者には流石に見過ごすわけにはいかなかった。
水族館内に進入した月那瞬一と月那美香。下手糞な変装をしているが、幸子はあっさりとその二人であることを見破っていた。すでに結界外郭へと侵入を果たしている。さらには二人から離れた位置にいるが、二人の後を追うような形で相沢真の姿も見受けられる。
(月那瞬一をこのまま帰すわけにはいかないわね。きっちりとけじめをつけておかないと。雪岡純子の刺客である相沢真も放置しておけない)
幸い、結界に進入したのは丁度この三人のみ。今が絶好の機会だと判断し、両手を合わせて印を組み、結界の外郭に変化を促す術を行使する。
結界外郭内の風景がねじれて歪みだす。一目でわかる明らかな異界。もはや脱出はかなわない。
(一般人も一緒に閉じ込めちゃうけど、急病人でもいないかぎりは、一緒に閉じ込めておくしかないかな。一度異界化させると、結界を完全に解かない限り、いじることができないのが難点なのよね)
他の客が侵入する懸念はあるが、命まで奪うものではないし、多少の巻き添えはやむを得ない。




