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夜が明けた。目が覚めると河川敷の橋の下にいた。
一人逃げ延びた瞬一は、浮浪者の振りをした知り合いの情報屋のダンボール小屋に泊めてもらっていたのだ。
「おめえ、逃げたことで事態が悪化してるぞ」
起きたばかりの瞬一にココアを差し出しながら、情報屋が空中に出したホログラフィー・ディスプレイを指す。五十過ぎの小男だが、凄みのある顔つきをしている。だが瞬一を見る視線は優しい。
情報屋の名は古賀カツルと言った。一見して個人の情報屋に見えるが、情報組織『マシンガン的出産』のボスである。
ディスプレイを覗く。裏通りの情報サイトやら掲示板ではどこも、溜息中毒の横流しの話ばかりだった。
しかも噂には尾鰭がついている。溜息中毒の月那瞬一という個人が、商品の横流しをしていた常習犯という話になってしまっている。確かに、組織ぐるみで横流しなどというリスキーかつ非現実的な話よりは、愚かな個人の暴走の方がまだ現実的である。
溜息中毒のメンバーは四人とも拘束されているのに、映像に移っていた瞬一だけがまんまと逃げ延びていることも、余計にそう思われる要素になっている。確かに状況は悪化していた。瞬一一人に罪をかぶせられる可能性が出てきたのだ。
途方に暮れ、絶望する瞬一。もらったココアを受け取ったまま、口につけようとせず呆けたように虚空を見上げる。
捕まったら間違いなく殺される。あるいは純子の実験台にされる。すでに仲間は捕まった。自分はどうすればいいか。
ネット上での有力説がそのまま信じられて、自分一人の責任ということになり、溜息中毒そのものは無罪放免という運びになるかもしれない。もしかしたら溜息中毒の他のメンバーすらも、そう疑いだしているかもしれないと、最悪の考えまでもが脳裏に浮かぶ。
(溜息中毒が助かるなら、俺一人が罪を被った方がましなのかな……)
仲間に疑われて死ぬのは辛いが、溜息中毒そのものが信用を失うよりかは、その方がいいとは思える。
(違う)
頭に浮かんだ考えを、歯噛みしながらかき消す。
あの時、夏子が体を張ってかばって自分を逃したことを考えれば、そんな腐ったシナリオに沿った結末を迎えていいはずがない。
夏子は確かに自分に託したのだ。何としてでも無実の証明をしなければならない。たとえ日戯威という巨大な組織と、雪岡純子という超一級危険人物を敵に回したとしてしても。
(こんな……どこにでもいるよーな、取るに足らない存在脇役雑魚その他大勢その一みたいな俺一人の力で?)
真のことを思い浮かべ、コンプレックスがうずき出す。名前一つで恐れられるような、そんな凄腕というわけでもない。裏通りにいるだけの、ただのゴロツキA。そんな自分がこの事態に一人で立ち向かわなくてはならない。
「取りあえず飲め。甘いものは心を落ち着かせる」
古賀に促され、やっと瞬一はココアを口につける。受け取った時は熱かったであろうそれが、すでにぬるくなっていた。
「できるだけのことをやってみるかな」
カップを置き、呟く。
「できるだけのことをして、悔いを残さず死のうってか? くたばるつもりなら何もしなくていいんじゃねーか? その方が楽だ」
皮肉る古賀だが、その口調は穏やかだった。彼が何を言わんとしているかも、瞬一には理解できた。
「きっちりとプランを立てて、手札を揃えて臨め。勝つために。ていうかな……俺の立場でこいつを言うのはためらわれるが」
古賀はそこで少し間を置く。
「真は本当にお前を裏切り者と見ているのかねえ?」
「だから襲撃したんじゃないか。それにさ、あいつはあの時はっきり言ったよ。嘘つきは許さないって。実際襲撃してきたんだし、俺達を信じていないんだよ……」
「俺は真のことをよく知っているが、人を見る目は確かだと思うぞ。嘘つきは許さないが、お前は嘘をついてないんだろう?」
古賀に言われて、瞬一はふと、真が襲撃の際に言ったある言葉を思い出した。
『信じてないのはお前』『嘘つきを騙して利用する』
仮に純子が真実を見抜いているとしたら、あの言葉の意味する所はつまり、純子は日戯威の言葉を信じた振りをして、実際には日戯威と事を構えるつもりだと取れる。
(もしそうだとしたら、少し希望が見えてくるんだけれど)
確証は無い。希望的観測に過ぎ無い。そしてたとえそうだとしても、自分が何もせずに逃げ回っているわけにもいかない。
「真か純子と連絡はとれねーのか? いちかばちかメールしてみたらどうよ。奴等が敵なら危険だろうがな」
「うん……」
自分の電話からディスプレイを投影し、瞬一は受信履歴を見て驚いた。姉からメールが幾つも入っていること、そして電話も何度もかかっていたことに今更気づく。
(姉ちゃんが俺を心配して……)
内容は全て瞬一の身を案じた代物だった。すぐに連絡しろとも言われている。
姉にすがるというのも手だ。いや、この状況では最も頼りになるとも言える。しかし、どうしても抵抗がある。プライドが邪魔している。おまけに、いじめられていた過去が想起される。
迷いに迷った末に、姉に連絡を入れる。
『どうしてすぐに私を呼ばなかった!? 何で私をすぐ呼ばなかった!? 私を呼ばなかったのは何でだ!?』
電話をかけるなり、美香の怒声が返ってきた。実は姉の存在をすっかり失念していたなどとは、流石に言えなかった。
「相手はあの雪岡純子と相沢真なんだぞ。さらには日戯威っていう大組織もいる。姉ちゃんがどれだけ強いかは知っている。それでも殺されるかもしれないんだ。いや、その可能性の方が高い」
尻込みしながら瞬一が言う。
『覚悟済みだ! 馬鹿だろお前? いや、絶対馬鹿だろ? 裏通りに堕ちた時から、いつも死ぬ事なんていつも! そう! いつも覚悟しているものだろ!?』
ますます怒気を増した感じで、かつ勇ましい口調で美香はそう返してきた。
『だが私に今こうして助けを乞うたのは、自分だけではどうしょうもないと悟ったからだろう! もっと早く呼ぶべきだったな!』
失念していたことはやはり言えなかった。
『いいか! 私は死ぬつもりはない! 仮に死ぬとしても、お前の頼みなら別に構わん!お前の頼みならエロい事以外なんでも聞く! 絶対に力になる! エロい事以外だ!』
これはきっと昔自分をいじめていたことを引け目に思っているのだろうなと、瞬一は察する。だが今の状況では本当に心強いし、姉の勇ましい言葉に瞬一は目頭が熱くなった。
「何でそこでエロい事を強調するんだよ……」
『こないだ純子からもらったエロマンガの内容がな、姉と弟でHを……いや、そんなことはどうでもいい! 今すぐ行く! 純子と話したんだがな、ネットで出回っている映像の通り、お前が商品を横流ししたことになっている! だが噂が出回る前に、日戯威がその様子を映像に収めて純子に見せたんだ! そのうえで契約を持ちかけた!』
美香の話を聞いて、瞬一もからくりが読めた。日戯威は溜息中毒を潰すだけでなく、同時に雪岡純子との専属契約を奪うための出汁にしたのだ。
『純子もこのからくりを見抜いている! 見抜いていながらも、表面上は日戯威と手を結ぶスタンスを取ったうえで、奴等の汚い策略を暴くつもりでいる!』
「やっばりそういうことか」
真の言葉の意味は瞬一が考えた通りであった。これで確証を得た。純子と真は敵に回ってはいない。絶望の半分が希望へと入れ替わる。
『いいか! お前に化けて商品を横流しし、その映像まで撮って流した日戯威からしてみれば、そのお前だけが純子の手に落ちずに逃げ延びた状況は、奴等にとっては証拠隠滅の機会を得たに等しい! おまけに個人の裏切りということで、お前一人に罪をかぶせる方向に路線変更だ! 真に溜息中毒を襲撃された際、お前は逃げずに捕まっていれば安全だったんだ! 皮肉だな!』
「真は俺達を助けるために俺達を襲ったわけだね」
『そういうことだ! 居場所を教えろ! 私が向かうまで隠れていろ! お前の無実を証明しなくてはな!』
「純子や真じゃなくて、無実を証明するために姉ちゃんが来るってことは……つまり、そういうことなわけだ」
瞬一はそれが何を意味するかを即察した。
『そうだ! お前が男になるいい機会だ! とは言ってもお前一人では不安! 私が力を貸すから、私を好きなように使え! お前の力で身の潔白を証明してみせろ! そうすればお前達をハメた日戯威は純子に潰され、溜息中毒も目出度くメジャーデビュー! どうだ、このシナリオ! 素晴らしいだろう!』
簡単に言ってくれるなーと思ったものの、姉の鼓舞を受け、瞬一の心にも火が灯った。
「わかった。姉ちゃん、力を貸してくれ」
『応! で、どうする!?』
とりあえずは力霊を封じた壺とやらを所持するであろう盲霊師から、その品物を取り戻すのが最低条件だと、瞬一は考える。もちろんそれだけでは不十分だが。
「まず盲霊師を探す。日戯威が盲霊師を狙う可能性は高いから、先に見つけ出さないと。そしてブツを取り返す」
『それだけか!? ブツを取り返して純子に渡したとしても、裏切りがバレて命惜しさの行為と言われるぞ!』
「うん。日戯威が俺をハメたという証明をするためには、横流ししたブツだけじゃダメだと思う。でも決定打になる方法が俺には思いつかない」
「ちょっといいか」
横で話を聞いていた古賀が口を挟む。
「瞬一の無実の証明はこの際、最小限でも構わないのではないか? 世間的に見ても、純子が納得しうるものであれば、それでいいだろう」
「そ、そうかな……」
「力霊の壺とやらを取り戻して差し出すだけでも、そのリスクを考えれば十分という解釈だとする奴はいるかもしれん。いずれにせよ純子が溜息中毒側なら、多少強引でもうまく話をまとめてくれるだろうさ。何もしないのは確かにダメだ。だが、おめーが無実を証明する動きをすればするほど、結果を出せば出すほど、純子からすれば落とし所を作りやすくなるな」
古賀の意見に瞬一は納得し、少し気が軽くなったが、
『その声は古賀さんか! そうかもしれないが、そこまで他人任せなのはこいつのためにならんぞ!』
「俺のためって……」
いろいろと危うい立場にいるというのに、言う言葉ではないだろうと呆れはしたが、一方で自分の力で始末をつけてやりたいという気分も、確かにあった。
「ま、そうだがね。何にせよいろいろと希望が出てきたようで、よかったじゃねえか」
そっけない口調の古賀ではあったが、この無愛想な男にしては珍しく、一瞬だが笑みが浮かんでいたのを見て、瞬一は励まされた気分になった。




