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上野原流古武術継承者である上野原梅子は百十五歳という高齢であるがため、引退している。
跡継ぎに指名した上野原上美は、まだ修行中の身であり、おまけに十三歳の中学生であるため、継承者を名乗ることはできない。故に今の上野原流古武術は空白のような状態であり、道場経営も行っていない。
そもそも上野原梅子は十年前までフランス陸軍で軍人達相手に武術指南を行っていたし、その前は傭兵として世界中を駆け巡っていたため、道場は何十年もほったらかしで、日本においては門下生など一人もいない状態だった。
しかしここ最近の上野原家道場では、曾孫の上美以外にも二人ほど、梅子に手ほどきを受けている。
白い胴衣を着て向かい合う二人。
一人は二十代半ばから後半くらいの、背の高い男。スタイルもよく、容姿もそれなりに整っている。しかし闘気は全く見受けられず、極めて静かに構えている。
もう一人はコーンロウに髪を編んだ、二十歳前後と思しき黒人の青年だ。ややあどけなさを残した顔立ちだが、かなりの美男子である。
長身の男の名は葉山。黒人青年の名はテレンス・ムーアという。
「はじめっ」
正座をした梅子のかけ声とほぼ同時に、テレンスが弾けるように動き、身を低くして葉山めがけて低空から飛び込んだ。
葉山が膝蹴りでカウンターを食らわせようとしたが、テレンスはそれも見切り、膝が当たる直前で上体を起こし、葉山の膝蹴りを胸で受け止めると、両腕と胸で葉山の膝を抱え込む。
テレンスが葉山の軸足に己の足を絡め、さらには前のめりに体重をかけ、葉山を転倒させた。
相手に馬乗りの姿勢――マウントポジションを取られるかと思いきや、葉山は一瞬の隙をついて、自分の膝を抱えたテレンスの右手を掴んでいた。
「アウチっ」
テレンスが顔をしかめて飛びのく。手を掴んだのではなく、右手の小指と薬指を掴んで折ろうとしてきた葉山に、たまらず振り払って距離を取った。
葉山はすぐさま起き上がり、ひるんだテレンスに向かって踏み込むと同時に、ハイキックを繰り出す。
葉山の脚が空を切る。テレンスの上体が大きく反らされ、回避と同時に、振り子のように脚が飛び出て、テレンスのつま先が葉山の喉元直前で止まった。葉山もそれを見て動きを止める。
「はい、勝負有りっ」
梅子の掛け声で、葉山が後退し、テレンスも元の姿勢に戻った。互いに礼をする。
「葉山は稽古で危ない真似するんじゃないよ」
「すみません。蛆虫なもんでついうっかり……」
梅子に注意され、ぺこぺこと頭を下げる葉山。
「これで11対15。もう少しで葉山さんに追いつきますね」
嬉しそうに、にっこりと朗らかな笑みをひろげてみせるテレンス。
「もう少しかい? 結構遠いだろ」
「蛆虫の僕なんかに追いついても、いいことなんてないですよ……」
梅子と葉山がそれぞれ言う。
「んじゃあ、葉山。次は私が揉んでやるよ」
皺くちゃの笑みをひろげ、立ち上がる梅子。この笑みが、デビルスマイルと軍人達に名づけられて恐れられていたことを、葉山は知っている。少年時代の葉山も、この笑顔が恐ろしくて仕方が無かった。
梅子が正面に立つ。
「いつでもいいよ」
梅子が言うと、葉山の方から無造作に距離を詰めていく。
その詰める動きに合わせるかのように、梅子が後退し、途中から移動速度を上げ、後退しながら弧を描く動きで、葉山の横に回りこもうとする。
葉山が梅子の方へと体を向けた途端、今度は先程向かい合っていた方向へと戻りだす梅子。その間にも速度を上げ、かつ葉山に向かって自分から詰め寄っている。
気がついた時には、葉山に手が届く位置に、梅子が接近していた。
葉山が長い脚でトーキックを繰り出すが、梅子は軽々と避けて、葉山の側面へと回りこむ。
苦し紛れに腕を振り回し、裏拳を放つ葉山だが、体勢がろくに整っていない状態からの攻撃だ。梅子にあっさりと手首を掴まれ、小さな旋風に巻き込まれたかの如く勢いで、脇固めをかけんとする。
葉山は過去に幾度も、梅子のこの電光石火の脇固めを食らっているが、未だ外したことも防いだことも、一度も無かった。だが――
余裕を持って葉山は体重をかけて踏ん張り、倒されるのを防いだ。それどころか、手首も肘も極まっていない。直前に上手いこと力を込めて凌いだ。
一気に決めるつもりの脇固めを防がれ、梅子が葉山の腕を放す。放した直後に、葉山の上体が沈み、長い脚が振り回され、梅子に足払いをかけて、転倒させた。
葉山が低位置から、犬のような四つん這いの姿勢で梅子めがけて飛び込み、倒れた梅子の頭部に膝蹴りを放たんとして――寸止めした。
「あ……勝てた?」
勝ったことに他ならぬ葉山が驚きの表情になり、ぽつりと呟く。
「梅子さん、衰えてしまいましたねえ。蛆虫の僕なんかに負けるなんて。デビル・グランマザーと呼ばれて、軍人達に恐れられていた頃など、この人に勝てる者なんて、この世にいるのかと思いましたけど」
遠慮せず思ったことを口にする葉山。梅子がフランス陸軍で近接格闘(CQC)の指南役を務めていた頃、未成年だった葉山も、彼女の元で教えを受けていた。
「僕も四回に一度くらいは勝てますね」
テレンスが言う。最初に梅子と本気で交戦した時も勝っている。
その後テレンスは、梅子の道場に不定期に訪れて、稽古をつけてもらっているが、相対稽古では負け越している方が多かった。
葉山が道場に来て、梅子に直接稽古をつけてもらったのは五回目だ。そして初めて白星を取った所である。
「ふん。好きに言ってな。あんたらもいつか、寄る年波には勝てないって思い知ることになるさ」
気にした風も無く笑い飛ばす梅子。
「葉山は随分と腕を上げたけど、相変わらずムラが有りすぎるよ。気配無く攻撃できるのは強みではあるが、それに頼りすぎだね」
「すみません、蛆虫なもんで……」
梅子に注意され、葉山はお馴染みの謝罪を口にする。
「さてと……僕はアンジェリーナさんが帰ってくる前にお暇しますよ」
テレンスが言った。
ここ二週間程の間、葉山とアンジェリーナは上野原邸に居候している。
元環境テロリスト集団で、現在、名目上は環境支援団体となった『海チワワ』のボスであるテレンスは、上位組織である環境保護団体『グリムペニス』の元幹部であるアンジェリーナとも、面識がある。そしてアンジェリーナは海チワワの面々を快く思っていないので、テレンスはできる限り顔を合わせないようにしていた。
***
葉山は仕事が入って来ない間、自分を見つめなおし、鍛えなおすことにした。
日本中あちこち武者修行の旅も試みたが、ただの観光旅行にしかなっていなかったので、かつて自分がフランスの外人部隊に所属していた際、手ほどきを受けた師の元を訪ねたのである。
夜、その日は珍しく上野原上乃助が早めに帰宅していた。夕食は上野原梅子、上野原上子、上野原上美、上野原上乃助、葉山、アンジェリーナの計六人となった。テレンスはすでに帰宅している。
評論家である上野原上乃助は保守論客という立場で、最近名を売り出している。そのため帰宅が遅かったり帰宅そのものがなかったりする事が増えた。
それは上野原にとっても都合がいいことであった。祖母経由で最近家に居ついた輩と、顔を合わせなくて済むからだ。しかし今日はばっちりと顔を合わせ、一緒に夕食まで取る始末である。
ただの居候なら、上野原とて目くじらをたてることもない。少なくとも葉山は言動が気色悪いものの、上野原の腹を立てるようなことはしない。
「ジャ~ップ」
問題はもう一人の方だ。イルカに手足が生え、耳障りな女の声で日本の蔑称しか口にしない、不愉快な生き物。
「やかましいっ。私の前でそれを言うなと言ってるだろうっ」
還暦を過ぎても我慢というものを知らない上野原は、あっさりと癇癪を起こす。
「ジャァ~ップ、ジャ~ップジャプジャプ」
それ面白がって、アンジェリーナは余計に喚きたてる。
「このヘイトスピーチイルカめっ。そんなに日本が嫌いなら日本から出て行けーっ!」
「ジャ~~ップ!」
相手にもよるが、アンジェリーナは何か注意されると、余計に逆らうタチなので、葉山はそのやり取りを見ても何も言わない。梅子が注意すれば、素直に聞くが。
「お父さん、何度も言ってるけど、アンジェリーナさんはジャップとしか喋れないのよ? それを理解しないで顔見合わせる度に喧嘩するとか、学習機能が無い猿なの?」
冷めた目で父親を見つつ、上美が言う。
「お、お前は親に向かって何という口の利き方だ~っ!」
「上美が正しい」
「はい……」
激昂しかけた上野原であるが、梅子がぴしゃりと断言したので、上野原は劇的にしゅんとした顔になって縮こまる。
「そんなことよりお父さん。私、次の月曜は授業参観だって、こないだも言ったよね」
さらに冷めた口調と眼差しで、上美が父親に声をかける。
「いや……だからその日は講演があってだな……」
「お父さんが授業参観に来たことって、今まで一度もないのよね……。お父さん、ひょっとして私のことはどうでもいいの?」
うつむき加減になり、沈んだ声に変わる上美。
「そうではなくて、どうしてもキャンセルできない仕事が……」
「御国のために頑張る人が、実の娘のためには何もしないんだ。ふ~ん」
「上美、言いすぎよ。お前のお父さんは結構お馬鹿だけど、お前に愛情が無いわけじゃないし、仕事じゃあしょうがないだろう。そこんところはちゃんとわかっておやり」
困り果てた様子の上野原を見るに見かねて、梅子が口を出した。
「曾お婆ちゃんもお父さんの味方するんだ……」
それを聞いてますます不貞腐れる上美。
「お前の味方もしてあげたいよ。でも、上乃介だって可哀想さね。娘にそこまで言われちゃってさ」
穏やかな口調で曾孫をなだめる梅子であったが、上美はへそを曲げたままだった。
(反抗期なのもあるけど、何のかんの言って父親のことも慕っているのよねえ。普通はこの歳あたりから、父親のことが急激にウザくなるもんだけどね)
曾孫のそんな様子を見て、梅子は逆に安心していた。
「わかった、もういい」
上美は意を決したように、アンジェリーナを見た。
「次の授業参観は、アンジェリーナさんに来てもらうから」
「ジャッ!?」
「はあっ!?」
上美の発言に、アンジェリーナと上野原二人同時に驚きの声をあげる。葉山と上子も食事の手を止め、ぽかーんとしている。
「お姉さんていう設定で」
「いかんいかんいかんっ! こんなお姉さんがいるか! 学校にこんなのが来てヘイトスピーチ連呼とか、お前、いじめられるぞっ!」
「御心配なく。私はスクールカーストぶっちぎり一軍だし、上手く立ち回れる自信あるから」
ムキになって反対する父に、堂々たる態度で言い放つ上美。
「私じゃあ駄目なの?」
「毎回お母さん来てくれてるけど、今回はお父さんへの当て付けもあるし、アンジェリーナさんが学校に来た時の皆のリアクションとか楽しみたいから」
悲しそうに問う上子に、上美は悪戯っぽい微笑みを浮かべて答える。
「いいんじゃない? アンジェリーナで。いい思い出になるわよ」
梅子が満面にしわくちゃな笑みを広げて言った。
「でしょー? さっすが曾お婆ちゃんは話がわかる」
曽祖母に向かって拳を突き出してみせ、上美は笑う。
「ジャップ……」
「知らんぞ……。どうなっても……」
梅子まで後押しするので、途方に暮れるアンジェリーナと、投げやりになる上野原であった。




