――食欲の悪――
「あの女は……もう手遅れだよ」
ひしゃげた黒縁眼鏡を未だに掛けている男は、血だらけになりながら仰向けに倒れている。男の腹部の傷口から溢れ出る大量の血は、アスファルトを赤く染めていく。
普段は無表情で氷のように冷徹な判断ばかり下す男は、死の淵に立たされているが故に表情豊か。今まで策謀のために沈黙を守ってきた反動故か、自分の胸中を、傍らにいたもう一人の男に饒舌に語る。
その男以外の人間は、軍人や一般人を問わず倒れている。
苦痛に訴えるうめき声を訴える奴もいれば、泣き叫ぶことすらできなくなった奴もいる。誰もが立ち上がれないそんな状態で、
「君だって分かっているんだろう? 長かった我が軍の歴史も、もはや終焉の時だ。……もっとも、暴走した彼女が、今後どんな行動をとるのか分からない今。全ての人類が終末を迎える日はそう遠くないだろうけれどね」
その男だけは、心を折られていなかった。
全ての《classA》が戦闘不能になっても、絶望していなかった。
起こるはずのない虚構の奇跡に、縋ってなどいなかった。
「――俺は、」
沈黙を守っていた男はようやく口を開く。
黒髪で整髪料の類は一切使わず、顔貌もこれといって良し悪しはない。強いて特徴を挙げるなら、裂傷した頬と、着ている軍服だけが目を引くぐらい。
その辺の道路を徒歩していても、何の違和感もない凡庸な見た目をした人間だった。
「お前ほど頭はよくない。お前ほど舌が回らない。お前ほど強くはない。……だけど、だからなんだ」
戦闘最弱レベルの《classE》にカテゴライズされる男が、《classA》の策略家にすら叶わなかった化け物に勝てる道理は存在しない。
一瞬で八つ裂きになるのは、火を見るより明らかで、誰がどう見ても確定事項で、立ち上がった男自身もすらも分かりきったことだった。
「――俺がここで自分の意思を曲げる理由は、何一つないんだ」
ギリッと奥歯を噛み締めながら、男はただ前へと歩み始める。『過去』の過ちをなかったことにせず、それでいて不確定な希望的観測に浸れる『未来』という逃げ道を甘受することなく。
ただこの今を――刹那を――生きたいと願った。
「お前がそこで何もせずに、朽ち果てるのを待つのならそれでも俺は構わない。だがな、冥土の土産にお前のその目に焼き付けておけ」
のたうちまわるように苦しんでいる女。
あれだけ陽気に振舞っていた彼女の見る影もない。
ここにいる、誰もがこの惨状生み出した『化け物』だと恐れ慄いていた。
だが、真っ直ぐな目をした男は知っていた。
女の正体はそれだけではないということを。
「この世に都合のいい神様なんて存在しない。救いを求めれば誰もが幸福になれるわけじゃない。どれだけ足掻いてもどうしようもないことだってある。だけどな――」
八悪人。
《暴食》《色欲》《強欲》《憂鬱》《憤怒》《怠惰》《虚飾》《傲慢》において、最も世界から異端とみなされ、忌避され続けてきた男の力、それは――不幸を糧に、神をも嘲る能力だった。
「それでも俺は、この世全ての絶望を――食い尽くしてやる」
大罪を犯したその男は、たった一人の女を救うために全力で不可能に挑んだ。
反響あれば、長編化しますよ。
ええ、たぶん。
設定だけは練りこんでます汗