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圏外  作者: ichthus
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第二話 処方箋

 東京の空は一色だった。


 上海から戻って三日目の朝、私は神田の古いビルの前に立っていた。OMCの定期心理評価。半年に一回の義務で、任務帰還後一週間以内に受けることが規定されている。規定の文言を正確に覚えているのは、私が規定に従うことで自分を保っている人間だからだ。


 ビルは六階建てで、エレベーターがなかった。三階まで階段を上る。階段の踊り場の窓から外を見ると、通りに人影はまばらで、配送用の小型ドローンが一台、低い唸りを上げて路地を横切っていった。東京のドローンは静かだった。上海の監視ドローンの重い唸りとは違う。ここでは機械が人間の邪魔をしないように設計されている。


 三階のドアに小さな表札があった。「米田クリニック 精神科・心療内科」。OMCの嘱託カウンセラーはいくつかの選択肢から選べるが、私はこのクリニックを指定された。前任の調査員からの引き継ぎで「変わった先生だが悪くない」と言われた。それ以上の情報はなかった。


 待合室には誰もいなかった。四人分の椅子と、低いテーブル。テーブルの表面が淡く光り、触れれば何か読めるようになっているのだろうが、誰も触れた形跡がなかった。壁に小さな水彩画が一枚掛かっていた。花の絵だが、何の花かは分からない。淡い色の滲みが花の形を暗示しているだけで、輪郭線がなかった。ディスプレイではなく、本物の紙に描かれた絵だった。


 時間ちょうどに診察室のドアが開き、老人が顔を出した。


「宗像さんですか。どうぞ」


 米田恒夫。事前に受け取ったファイルには、八十一歳、精神科医、OMC嘱託カウンセラー歴十五年とあった。それ以前の経歴は大学病院の勤務医で、若い頃に数学を専攻していたことがある、と備考欄に書かれていた。なぜ精神科医の経歴に数学の話が出てくるのかは分からなかった。


 診察室は狭かった。机と椅子が二つ。窓の外にケヤキの枝が見え、春の光が葉を透かして壁に緑色の揺らぎを落としていた。机の上には薄い記録端末が一台あったが、画面は消えていた。その横に、古い陶器の湯呑みが置かれていた。


「座ってください」


 私は椅子に座った。椅子は古いが座り心地はよかった。クッションが体の形に馴染む感じがした。誰かが長い時間をかけてこの椅子に座り続けた結果としての柔らかさだった。


「宗像さん、任務から戻られたのは三日前ですね」


「はい」


「どちらに行かれていたかは、私には知らされていません。任務の内容も聞きません」


「では何を聞くんですか」


「東京に戻って最初に食べたものは何でしたか」


 私は少し間を置いた。


「コンビニのおにぎりです。鮭の」


「それは空港で? ご自宅で?」


「自宅の最寄りのコンビニで。帰りの輸送機の中では食べる気がしなかったので」


「食べる気がしなかったのは疲れていたからですか」


「たぶん。あるいは——」


 私は言いかけてやめた。あるいは、輸送機の窓から見えた三色の光のことを考えていたからだ。しかしそれは任務に関わることだった。


「あるいは?」


「いえ、疲れていただけだと思います」


 米田はうなずいた。端末に手を伸ばし、短い操作をした。指先が画面に触れる微かな音がした。


「おにぎりは美味しかったですか」


「美味しかったです。東京のコンビニのおにぎりは、海苔がぱりぱりで」


「海苔がぱりぱりで」


「向こうでは——」


 また言いかけてやめた。向こうでは食べ物の話をすると場所が特定される。


「向こうの食事の話はしなくて結構です。東京のおにぎりが美味しかった。それでいい」


 米田は微笑んだ。皺の多い顔だが、目が穏やかだった。穏やかすぎるくらいだった。この人は世界がどうなっているか知っているのだろうか、と私は思った。灰色圏のことを、圏外のことを、境界線の上で暮らしている人たちのことを。この静かな診察室の窓の外のケヤキと、緑色の光の揺らぎと、古い湯呑みの茶渋の匂いの中にいて、世界の他の部分がどうなっているか、この老人は想像できるのだろうか。


「宗像さん、最近、笑ったのはいつですか」


 私は考えた。笑う。最後に笑った。


 茶館で陳が眼鏡を外して拭きながら「すごくはないですよ」と言ったとき、私は少し笑ったかもしれない。口元が動いた程度の、笑いと呼べるかどうか分からないもの。しかしあれは温かい瞬間だった。相手が何者であるかに関わらず、人間と人間の間に流れる、名前のつけようのない温かさ。


「少し前に。任務先で」


「どんな状況で?」


「誰かと話していて、その人が自分のことを『すごくはないですよ』と言ったとき」


「それで笑った」


「笑ったというほどではないです。でも、口元が少し」


「それで十分です」


 米田はまた端末に短い操作をした。


「宗像さん、今朝、ここに来るまでの間に、空を見ましたか」


「見ました。晴れていました」


「その空を見たとき、何か感じましたか」


「特には。晴れているな、と」


「『特には』の中に、何かありませんでしたか。言葉にならないようなもの」


 私は黙った。


 正直に言えば、何かはあった。上海から戻ってから、東京の空を見上げるたびに、説明のつかない薄い膜のようなものが自分と空の間にあるような気がしていた。空は見えている。青く、広く、一色に晴れている。しかし、それが自分の空であるという実感が、わずかに遠い。


 上海では空を見上げる余裕はなかった。見上げたとしても、空は建物の隙間から細く見えるだけで、色は灰色か、排煙で汚れた白だった。しかしあの空には実感があった。あの灰色は、自分がそこにいるということの確かな証拠だった。


 東京の澄んだ青い空は、美しいが他人事のようだった。


「何かあったように見えます」と米田が言った。


「……あるのかもしれません。でも、うまく言えません」


「うまく言えないものの方が、だいたい大事なんです」


 米田は端末から手を離した。


「宗像さん、私はOMCの調査員を何人も診てきました。あなたで十二人目です。皆さんに共通しているのは、言葉で報告する能力がとても高いことです。何が起きたか、何を見たか、どう判断したか。正確に、過不足なく言語化できる。それが仕事ですから当然です」


「はい」


「しかし、言語化できることと、自分の中にあるものを把握していることは、同じではありません。報告書に書けることは、あなたの経験のごく一部です。書けない部分——書く語彙がないもの、書いても意味をなさないもの、書くと嘘になるもの——そちらの方が、実はずっと大きい」


 私は何も言わなかった。


「向こうから戻ってきて、東京の空に膜がかかったように感じる。それは異常ではありません。空が変わったのではなく、あなたが見ている目の方が変わった。向こうで何を見たか私は知りませんが、何かを見た目は、それ以前の目とは同じではない。しかし東京は以前のままです。その差が膜として感じられる」


 米田の声は静かだった。説教ではなかった。何かの説明でもなかった。ただ、事実をそのまま述べているような口調だった。


「先生は、そういう人を何人も見てきたんですね」


「見てきました。そして一つだけ分かったことがあります」


「何ですか」


「報告書に『特記事項なし』と書いた部分にこそ、特記すべきことがあるということです」


 私は心臓が一瞬止まったような気がした。米田が私の報告書を読んだはずはない。OMCのカウンセラーには任務の詳細は開示されない。これは一般的な話として言っているのだ。しかし、あまりにも正確に、私の三日前の行為を射抜いていた。


「先生、それは——」


「一般論です。調査員の報告書には必ず『特記事項なし』という欄がある。そしてそこに書かれなかったことが、調査員の夜の眠りを浅くしている」


 沈黙が落ちた。窓の外でケヤキの葉が風に揺れ、壁の緑色の光が動いた。


「宗像さん、一つだけ質問させてください。任務とは関係のない質問です」


「どうぞ」


「あなたは東京にいるとき、自分が本物だと感じますか。それとも、向こうにいるときですか」


 私は長い間黙っていた。


 東京では私はOMCの調査員で、規定に従い、報告書を書き、定期評価を受ける。経歴が明確で、所属が明確で、言語が明確で、存在が明確だ。しかしその明確さの中に、自分がいるという実感がない。正確に言えば、実感がないのではなく、実感が一色なのだ。東京の空のように。均質で、清潔で、どこまでも同じ色が続いている。


 向こうでは——上海でも、その前に行った灰色圏のどの場所でも——私の存在は常に危うかった。偽の身分証を使い、土地の言葉に合わせて話し方を変え、どの権力の下にいるかを常に計算していた。しかしその危うさの中に、自分がそこにいるという鮮烈な実感があった。


 それは矛盾していた。安全な場所で存在が薄くなり、危険な場所で存在が濃くなる。


「分かりません」と私は言った。「どちらでも、自分が本物だという確信はないです。でも、向こうにいるときの方が……自分の輪郭がはっきりしているような気はします」


「それは危険な輪郭ではないですか」


「危険です」


「でも、くっきりしている」


「はい」


 米田はうなずいた。


「答えなくていい質問でした。ただ、その問いを持ち帰ってください。答えを出す必要はありません。問いを持っているだけで十分です。問いの形のまま、あなたの中に置いておいてください」


「処方箋のようなものですか」


「処方箋のようなものです。ただし薬の名前は書いてありません。問いが書いてあるだけの処方箋です」


 私は少し笑った。三日ぶりに笑ったかもしれなかった。


「もう一つだけいいですか」と米田が言った。


「はい」


「次の任務に出る前に、一度でいいので、東京の街をただ歩いてみてください。目的なく、報告書を書くつもりもなく。何も観察しようとせず、ただ歩く。風を感じる。それだけでいいです。あなたは観察することに慣れすぎている。観察をやめる練習も、ときには必要です」


「観察をやめたら、私には何が残りますか」


「それを知るために、歩くんです」


    *


 クリニックを出ると、神田の通りは午後の光の中に静かに広がっていた。


 古い看板と新しい看板が混在する小さな商店街。半分はシャッターが下り、残りの半分もAI管理の無人店舗がほとんどだった。人間が店先に立っているのは、角の蕎麦屋と、その隣の古本屋だけだった。古本屋の店主は七十代くらいの女性で、店の前に出した台の上の本を並べ直していた。


 私は少し立ち止まった。


 米田に言われたことを思い出していた。観察をやめて、ただ歩く。しかし私にはそれが難しかった。立ち止まった瞬間から、目が自動的に情報を拾い始める。古本屋の店主の手の動き。台の上の本の配置。通りの向こうから歩いてくる老人の足取り。ドローンの航路。ビルの壁の亀裂のパターン。すべてが意味を持ちうるデータとして、私の中に流れ込んでくる。


 上海にいれば、それは生存のための技術だった。ここでは意味のない習慣だった。しかし、やめられなかった。


 蕎麦屋の暖簾が風に揺れた。出汁の匂いが漂ってきた。温かい匂いだった。


 私はそのまま歩き続けた。どこに向かうでもなく、ただ歩いた。途中で空を見上げた。空は相変わらず一色の青で、膜はまだそこにあるような気がした。しかし、膜があるということを自覚していること自体が、何かの始まりかもしれないと思った。


 米田の問いが頭の中で小さく鳴り続けていた。あなたは東京にいるとき、自分が本物だと感じますか。


 答えは出なかった。しかし問いは、確かにそこにあった。処方箋に書かれた、薬の名前のない処方。


 通りの先に小さな神社があった。鳥居の朱色が午後の光に染まっていた。境内に入ると、砂利が掃き清められ、手水舎の水が細く流れていた。誰もいなかった。掃除はAIが管理する小型ロボットがやっているのだろうが、清潔さの中に人間の手触りのようなものが残っていた。


 私はしばらくそこに立っていた。何を祈るでもなく、何を考えるでもなく、ただ立っていた。風が吹いて、木の葉が鳴った。


 この静けさは一色だと思っていた。東京の空と同じように。しかし耳を澄ますと、風の音と水の音と葉の音が、それぞれ微妙に違う色を持っていた。一色に見えたものの中に、複数の色が重なっていた。ただ、その重なりが均質すぎて区別がつかなかっただけだった。


 上海では三つの権力が三色の光を放っていた。ここでは無数の音が一つの静けさの中に溶け合っている。どちらも、複数のものが重なった状態だった。違いは、重なりが目に見えるか見えないかだけだった。


 もしかしたら、と私は思った。もしかしたら、東京の空に感じる膜は、この街の秩序が均質すぎるために生まれるものなのかもしれない。上海では秩序の継ぎ目が露出していて、その粗さが世界の手触りになっていた。東京では継ぎ目が見えないほど滑らかに管理されていて、手触りがない。手触りのない世界では、自分の存在の輪郭も溶けてしまう。


 それは安全なことだ。しかし安全であることと、生きていると感じることは、同じではない。


 私は神社を出て、駅に向かって歩き始めた。次の任務がいつ来るかは分からなかった。来たら、私はまた規定に従い、輸送機に乗り、偽のIDを使い、観察し、報告書を書くだろう。そして「特記事項なし」と書く欄に、書けないことが一つずつ積もっていくだろう。


 米田の声が記憶の中で繰り返していた。「問いの形のまま、あなたの中に置いておいてください」


 空は一色の青だった。しかし今は、その一色が複数の色の重なりであることを、私は知っていた。知っていることと感じることは、まだ同じではなかったが、知っていることは、感じることの始まりかもしれなかった。


 駅の階段を降りるとき、出汁の匂いがまだかすかに鼻に残っていた。温かい匂いだった。

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