第3話 時間操作タイプのアザーだな
DPA本部の装備管理室は、病院みたいに白かった。
白い壁、白い蛍光灯。
ただし並んでいるのは点滴スタンドではなく、黒いスーツと金属の武器だ。
ラックに吊られた黒い外装スーツが、ずらりと並んでいる。
その一番手前に、タグ付きで一式まとめられたセットがあった。
名前は『新堂蓮』。
「はい、これが君の装備一式ね」
短髪の女性職員が、タブレットを片手に淡々と言う。
ラックから引き抜かれたのは、黒を基調にしたスリムなスーツ。
ゴムでも布でもない、妙に生々しい質感の素材だ。
「まずは高速戦闘外装。
筋出力と反応速度の補助、それと負荷の分散が目的。
長く使うと色々とズレてくるから、その抑制ギアでもある」
最後の一言だけ、含みがあった。
「色々って何がどうズレるんすか」
「そこまで行かないようにするためのスーツだから、あんまり考えない方がいいよ」
笑顔でかわされる。
次に渡されたのは、手のひらサイズの金属ユニットだった。
「こっちがシールド・エミッター。
腰のレールか前腕のスロットに取り付けて。
君のシールド系の出力を外部に逃がして、身体への負荷を減らしてくれる」
「これ、壊したり無くしたりしたら」
「怒られる。すごく」
ですよね、と思いながら、蓮は受け取ったユニットをまじまじと眺める。
小さいくせに、ずっしり重い。
この中に、自分の知らないテクノロジーと金額が山ほど詰まっている気がした。
「武器はこっち」
開かれたロッカーの中には、鞘付きの合金ソードと、ブラックポリマーのハンドガン。
「合金ソードは前衛用の標準武装。Lv2のスピード能力なら銃より取り回しはいいわ。
ハンドガンはサブ。忘れがちだけど、これで助かるケースも多いから」
「……これ全部、本物なんですよね」
「おもちゃに見える?」
「いやまあ、その、今まで握ってたのがコンビニのトングと段ボールカッターなんで」
思わず本音が漏れる。
職員はくすっと笑った。
「今日からは、それよりちょっと物騒なものを握るってだけ。
控室は奥の通路を突き当たり右。着替えたら集合してね」
「了解っす」
蓮はスーツと武器一式を抱えて、案内された方向へ歩き出した。
胸の奥が、少しだけ軽くなる。
紙の上の数字だけだった「Speed2/Shield2」が、今、こうして装備という形になって手元にある。
(……やっと、ゲーム感覚の外に立てる気はする)
◇ ◇ ◇
スロー部隊控室のドアを開けると、まずテレビの音が飛び込んできた。
壁掛けモニタには、派手なテロップ。
その下で、カラーリングの違う三人の装甲ヒーローが、ビル街を駆け抜けている。
『空を裂く疾風の翼、ファルコン』
『大地を貫く鉄壁の角、ライノ』
『高空から全てを見通す狩人、ホーク』
キメ顔のカットのあと、CG合成の爆炎と共にロゴが出る。
「出た、ファルコンの新PV。何回目だっけこれ」
ソファに寝転がっていたダッシュが、ポテチ片手にモニタを指差す。
「十回目だ。うちの予算がどこからどこへ流れているか、よく分かる」
ロッカー前でアーマーを締めていたウォールが、冷めた声で答えた。
蓮を見るなり、眉をひとつだけ上げる。
「お、スーツ支給されてるじゃん」
ダッシュがひらひらと手を振ってくる。
「新堂くん、正式採用おめでとう。配属ガチャSSRだね、第三班」
「ガチャって言うな。命懸けなんだけど」
蓮は苦笑しながら装備をロッカーに荷下ろしする。
「でもまあ、スローの神崎班配属は当たりの部類だよ。
隊長マジで強いし、実際生存率も高い」
「マシな実験台って意味だ」
ウォールが、ベストのバックルをカチリと止めながら口を挟む。
「数字だけのエリートは、だいたい先に壊れる。
その前例をひとつでも減らせれば、隊長としては上出来ってわけだ」
「出たよウォール節」
ダッシュが肩をすくめる。
「でもまあ、半分くらい事実だからね。
調子乗って突っ込んで、そのまま戻ってこなかった奴、何人か見てるし」
蓮は、ロッカーの扉越しに二人をちらりと見た。
「……そんなに簡単に壊れるのか、人が」
「外獣退治は遊びじゃない」
ウォールの言葉は淡々としていた。
「別に脅かしたいわけじゃない。
ただ、ダブルやトリプル、それもLv2相当ってのは、使い潰されやすい駒でもあるってことは覚えとけ」
「やめろよそういう言い方」
ダッシュが笑いながらも、少しだけ真顔になる。
「俺らはさ、新堂くんが来てくれて助かる側だから。
前に出てくれる人間が増えるほど、守れる背中も増える」
「……ありがとな」
素直にそう返した自分に、蓮は少し驚いた。
煽り半分なのに、嫌な感じがしない。
その時、モニタの中のPVがクライマックスに入った。
ファルコンが敵の群れを切り裂き、ライノが盾で薙ぎ払い、ホークが空中からスナイプする。
眩しい爆炎。
ナレーションが畳み掛ける。
『今日も彼らが、見えない迷宮災害からあなたを守る』
「……いやまあ、俺、普通にあそこ側の人間になれますよね」
気付いたら、口から出ていた。
ダッシュが即座に食いつく。
「お、来た。自信。いいねそのノリ」
「数字だけ見れば、行けるな」
ウォールがぼそりと言う。
「問題は、数字通りに動ける頭と身体がついてくるかどうかだ」
蓮は、ロッカーの中の自分のスーツを見た。
黒い外装は、まだ何も知らないみたいな顔で吊られている。
(……見とけよ。数字だけじゃないって、そのうち証明してやる)
◇ ◇ ◇
その頃、別フロア。
ダンジョン対策室オペレーションルーム。
壁一面を埋めるモニタと、円形に並べられたコンソール。
その中央で、ひときわ大きいメインスクリーンに、昨日の廃ダンジョンのログ映像が映し出されていた。
ヘッドセットを耳にかけた水瀬柚希――コールサイン、OW1《オーバーウォッチ》は、顎に手を当てて画面を睨んでいた。
「ここ」
映像が一時停止される。
小型エネミーが暴発した瞬間。
神崎のスロー展開。
そして、新堂蓮が飛び出す直前。
「減速フィールド展開から、被写体の動きがこう……」
柚希は指先でタイムラインを微調整する。
フレーム単位で再生。
世界全体の動きが落ちた中で、蓮だけが、じわりと滑るように動いている。
「スローの効き方と違う」
減速フィールドは、対象全体の時間をまとめて落とす。
その中で、能力者がどれだけ動けるかは個人差だが、ログ上は均一な鈍さとして記録されるはずだ。
だが、蓮のログだけ、波形が妙に鋭い。
エコー・コアに触れたときの「揺れ」に似ている。
「……まだ、決めつけるのは早いか」
柚希は、メモ欄に短く一行だけ打ち込んだ。
『新堂蓮:スロー適性良好。時間揺れパターン、要観察』
それ以上は書かない。
現場で記録がズレるというのは、少しのミスで死人が出る種類の話だ。
確信がないうちに騒ぐものではない。
ちょうどその時、コンソールの一つが点滅した。
「……っと、噂をすれば」
新堂蓮所属予定、減速支援隊第三班の訓練スケジュールが上がってくる。
擬似ダンジョン訓練のあと、ステータスに「待機」。
現場投入のラインに、名前が乗った瞬間だった。
◇ ◇ ◇
擬似ダンジョン訓練施設は、本部地下にあった。
鉄扉の向こうに広がるのは、迷路じみた廊下と複数のフロアを組み合わせた、人工のダンジョン。
重力の揺らぎこそないが、壁や床には本物のダンジョンから持ち込んだ構造材が一部使われているらしく、ところどころ現実感がバグっている。
「ここ、絶対予算の使い方間違ってるだろ」
ヘルメット越しに蓮がつぶやくと、ダッシュの笑い声がインカムから返ってきた。
「でもまあ、そのおかげで安全にボコれるんだからいいじゃん。
今日はエネミーモデルだけ。外獣本物は出ないから安心して無双しなよ」
「安心して無双って何だよ」
「新堂」
先頭を歩く神崎が、短く呼ぶ。
「スローをかけた状態で動く感覚を、まず身体に叩き込め。
お前のSpeed2とShield2が、どこまで噛み合うか見るのが目的だ」
「了解」
蓮は、腰の合金ソードのグリップを握り直した。
黒いスピードスーツは、身体にぴったりと張り付いている。
最初は窮屈だと思ったが、動いてみるとむしろ関節の可動を助けられている感覚がある。
神崎がフィールド発動の合図を送る。
耳鳴りのような感覚と共に、世界が一段重くなる。
「……来るぞ」
遠くから、ギギギ、と金属の擦れる音。
通路の角から、四足歩行のメカニカルなシルエットが飛び出してきた。
エネミーモデル。
外獣の動きとスピードを模した訓練用の機械だ。
赤黒いセンサーライトがこちらを捉え、ほぼ同時に飛びかかってくる。
スローのおかげで、その軌道ははっきり見える。
蓮は一歩だけ右にずれる。
足元の床を蹴った瞬間、スーツが脚を押し出してくれる感覚。
肩口をかすめるように通り過ぎたエネミーモデルの側面に、剣を叩き込む。
金属音。
訓練用の外装が裂け、内部の制御ユニットに撃墜判定が走る。
機体が痙攣しながら床に転がる。
(……行ける)
最初の一体で、もう身体がスピードに馴染み始めていた。
次、三体同時。
角度を変えて突っ込んでくる機体を、シールドを前に出して弾き、弾いた一体を踏み台にして跳躍。
頭上を越えて背後に着地し、振り向きざまにソードを一閃。
一体ずつ、確実に倒してしていく感覚。
スローの中で、自分だけが滑らかに動けている。
汗はじわりと出るのに、妙に楽しい。
いつの間にか、口角が上がっていた。
「はいはい、完全に無双モード入ってますこの人」
ダッシュのツッコミが飛ぶ。
「やっぱ本物のSpeed2は違うわ。こっちが射線通す前に全部倒してくれる」
「こっちの射線は塞いでんだよ、調子に乗るな」
ウォールの小言が重なるが、声には若干の苦笑が混じっていた。
最後の一体を斬り伏せ、蓮は大きく息を吐いた。
汗がスーツの内側を伝って流れ落ちる。
(……やば。俺、マジでヒーロー行けるんじゃないの)
頭のどこかで、さっきのPVの映像がよみがえる。
ビル街を駆け抜けるファルコン。
そのシルエットの中に、自分の姿が自然に差し替わっていた。
訓練終了のブザーが鳴り、フィールドの重さがふっとほどける。
◇ ◇ ◇
訓練を終えて控室に戻ると、スーツの内側にこもった汗の匂いが一気に現実に戻してきた。
蓮はロッカーの前でヘルメットを外し、棚の上に置いてから、スマホを取り出す。
画面の隅に、小さな未読バッジがいくつか点いていた。
その中のひとつ、「妹」のアイコン。
タップすると、さっきの集合前に届いていたメッセージが開く。
『今日も遅番? 晩ごはんいらない?』
いつもの、丸っこい絵文字つきの文面。
『今日は訓練だけ。たぶん早めに帰れる』
指先でそう打ち込んで送信すると、数秒も経たないうちに【既読】がついた。
『訓練だけでもちゃんと危ないんでしょ。
ちゃんと生きて帰ってきてね。うちのヒーローなんだから』
「……ヒーローねえ」
思わず小さく笑う。
『ヒーローは言い過ぎ。普通の公社職員だよ』
そう返すと、すぐにまた震えた。
『じゃあただの社畜兄。
どっちでもいいけど、無茶して倒れないでね』
『了解、了解』
『とにかくちゃんと帰ってくること。以上』
最後の行にだけ、絵文字が付いていなかった。
(無茶して倒れるな、ね)
画面を見下ろしながら、蓮は短く息を吐く。
「何ニヤついてんの、新堂」
背後からダッシュの声が飛んできて、慌ててスマホをロッカーにしまった。
「い、いや別に」
「彼女?」
「違うわ」
「家族か」
ウォールがベストを脱ぎながら、ちらりと視線だけ寄こす。
「家族持ちは、無茶しにくくていい」
「褒めてます?」
「一応な」
そんな他愛のない会話を交わした、その時だった。
天井のスピーカーが、けたたましい警報音を吐き出した。
オレンジ色のランプが天井で回転する。
「迷宮災害発生。シティ郊外、第七商業区画モール内にフラクチャー」
機械的なアナウンスが繰り返される。
テレビの画面が切り替わり、上空からの映像が映し出された。
広い駐車場と、低層のショッピングモール。
その一角の天井が崩れ、内部から黒い霧のようなものが漏れ出している。
「来たな」
ウォールがヘルメットを掴む。
「第三班、出動準備。作戦内容は現場向かいながらブリーフィングだ」
神崎が短く告げる。
蓮は慌ててスーツのジッパーを引き上げ、ヘルメットを被った。
心臓が、訓練とは違うリズムで跳ね始める。
「新堂」
ヘルメット越しに、神崎の低い声が届く。
「さっきまでのは安全な運動会だ。
今から行くのは、誰かが死ぬかもしれない場所だ。
その差を忘れるな」
「……はい」
喉が、少しだけ乾いた。
それでも、脚は自然と前に出る。
ロッカーの中のスマホの画面に、さっきの「ちゃんと帰ってくること」の一文が残ったままなのを、蓮はもう見ていなかった。
車両に飛び乗り、ドアが閉まる。
エンジンの振動と共に、初陣が動き出した。
◇ ◇ ◇
モールの内部は、すでに半分ダンジョンだった。
一階の吹き抜けフロア。
ファストファッション店とフードコート、その真ん中。
床のタイルが盛り上がり、ショーケースがひしゃげている。
天井からは、薄い霧のようなものが垂れ込めていた。
「減速支援隊第一班、進入開始」
オペレーションルームからの柚希の声が、インカムに入る。
「現時点で確認されているエネミーは、中級種が三体。
スピードLv2相当が二体、スピードLv1+シールドLv2のダブルが一体」
神崎が素早く指示を飛ばす。
「ウォール、右側通路の確保。退路を作れ。
ダッシュ、左側から逃げ遅れの確認と誘導。
新堂は俺の前。スロー内の前衛殲滅担当だ」
「了解」
「了解」
「りょーかい」
三者三様の返事が重なる。
神崎がフィールドを展開する。
世界が一段ゆっくりになる。
フードコートのテーブルの向こうから、四足のエネミーが飛び出してきた。
獣と甲殻類を混ぜたような異形。
口の中は、刃みたいな歯がぎっしり並んでいる。
スローのおかげで、動きは読める。
蓮は一歩踏み込み、シールドを前に出して突進を受け止め、そのまま横に流す。
バランスを崩したエネミーの首筋に、合金ソードを叩き込む。
一体。
すぐに二体目。
テナント前のマネキンをなぎ倒しながら迫ってくるのを、床を滑るように回り込んで足を払う。
倒れたところにスタン付きの刺突。
動き自体は、擬似ダンジョンと変わらない。
違うのは、周囲の悲鳴と、生臭い匂い。
「キャアアアアッ」
とっさに耳を塞ぎたくなる声を、ヘルメットの遮音機能が自動的に抑える。
それでも、音は減っても意味だけは頭に残る。
「左側、避難誘導中。子どもが一人、親とはぐれてる」
ダッシュの声が荒い息と一緒に入ってきた。
「ウォール、退路確保どうだ」
「右は確保した。いつでも下げられる」
「よし。新堂、中央吹き抜け上のエスカレーター下に未確認反応ひとつ。
多分中級。そいつを落としたら一旦前線を締める」
「了解」
蓮は、吹き抜け中央のエスカレーター方向へ向き直った。
その時だった。
「……あれ」
視界の端で、何かが揺れた。
霧の向こう。
吹き抜けの反対側、封鎖されているはずの通路。
そこに、小さな人影。
買い物袋を両手に持ったまま立ち尽くしている女性。
膝元に、幼い子ども。
「オーバーウォッチ《OW1》。あそこ、民間人残ってないか」
蓮は走りながら問いかけた。
「対策本部の図面データでは、その通路はすでに封鎖済みのはずだけど……」
柚希の声が、一瞬だけ固くなる。
「今、カメラ切り替える。少し待っ――」
そこで、霧の中から何かが飛び出した。
黒い塊。
さっきまでの中級エネミーより一回り大きいシルエット。
四足の走者が、まるで地面と摩擦なんてないみたいな速度で滑ってくる。
神崎のフィールドが届いていない範囲。
スローの重さが、あそこにはない。
「隊長、あれスロー外!」
蓮の叫びとほぼ同時に、エネミーが子どもめがけて突っ込んだ。
身体が勝手に反応する。
蓮はエスカレーターの手すりを飛び越え、吹き抜けを斜めに駆け下りた。
Speed2の出力。
視界が線になって伸びる。
霧の向こうの民間人が、スローモーションに見えるほどの速度で近づいてくる。
それでも。
(間に合わない)
頭のどこかが冷静に告げた。
(……無茶して倒れるなよ、ってさっき言われたばっかなんだけどな)
妹からのメッセージの一文が、一瞬だけ脳裏にちらつく。
エネミーの顎が開く。
刃の列が、子どもの肩口に食い込む。
肉が裂ける音。
血飛沫が、空中に花みたいに咲いた。
母親の叫び声が、耳を貫く。
蓮はその横から突っ込んでいく。
剣を振り下ろすより早く、エネミーの尾が横から薙いだ。
「っぐ」
腹部に焼けるような痛み。
ヘルメットの中に、警告音が鳴り響く。
画面の端に赤いエラー表示。
膝から崩れ落ちる。
視界の端で、母親と子どもが黒い塊に押し潰されるのが見えた。
(あ、これ、死ぬやつだ)
妙に他人事みたいな感想が浮かんだ瞬間――
世界が、ブチッと切り替わった。
◇ ◇ ◇
息が苦しい。
肺が空気を求めて痙攣する。
だが、腹の痛みがない。
目の前にあるのは、吹き抜けのエスカレーター。
さっき走り出す前の位置。
足元のタイルの割れ方も、散乱した紙袋も、さっき見たまんま。
「……は?」
思わず声が漏れた。
「新堂? どうした。エスカレーター下の中級はまだ動かないか」
インカムから神崎の声。
頭がぐらぐらする。
今のは何だ。
夢にしては、生々しすぎる。
死ぬ瞬間の痛みまで、ありありと残っている。
「新堂、応答しろ。状況を報告しろ」
「あ、いや……っす」
喉が乾いて声がうまく出ない。
それでも、さっきと同じ方向を見る。
霧の向こう。
吹き抜けの反対側の通路に、小さな人影。
女性と、子ども。
まったく同じ位置。
さっきと同じ動作で、買い物袋を落としかけるところ。
背筋が冷たくなる。
今度は早く動ける。
そんな確信が、どこからともなく湧いてきた。
「オーバーウォッチ。
反対側の封鎖通路に民間人二人、確定。
通路上からSpeed2反応が来る。今すぐスローの範囲伸ばせます?」
自分でも驚くくらい、冷静な声が出ていた。
「……確認した。確かに反応二つ。封鎖処理が間に合ってない。
隊長、スローの中心を少しずらせますか」
「座標送れ」
神崎が即座に応じる。
次の瞬間、世界の重さが変わった。
さっきより、フィールドがわずかに拡張される。
それでも、スロー外から飛び出してくる敵はいるだろう。
蓮は、さっきとは違うルートを選んだ。
エスカレーターを真正面から駆け下りる代わりに、脇の手すりに足をかけて斜めに滑り降りる。
手すりの下にあった広告パネルを蹴り飛ばし、そのまま柱を踏んで方向転換。
吹き抜け下階の床に着地した瞬間には、すでに剣を抜いていた。
霧の中から、黒いエネミーが飛び出してくる。
さっきと同じタイミング。
だが、今度はスローの縁ギリギリに引っかかっている。
ほんの少しだけ、軌道が重くなる。
「っしゃあ」
蓮は踏み込んだ。
シールドを前に出し、敵の顎の軌道を斜め上にそらす。
空を噛んだ歯列が、民間人の頭上をかすめていく。
すれ違いざまに、敵の前脚を切り飛ばす。
黒い体がバランスを崩し、横倒しになる。
続けざまに、突きを胴体に叩き込んだ。
激しい痙攣。
やがて、エネミーは動かなくなる。
「お、お兄さん……」
膝をついた母親が、震える声で蓮を見る。
子どもは泣きじゃくりながら、その背中にしがみついていた。
「大丈夫。立てるなら、あっちの光ってる方まで走って」
蓮は顎で、ウォールが確保している退路方向を示した。
声が、少しだけ震えていた。
自分の腹に、痛みはない。
代わりに、さっき死んだ瞬間の感覚だけが、皮膚の裏にこびりついている。
(さっきのは……何だ)
問いは頭の奥に追いやる。
今は、まだ戦闘中だ。
残りのエネミーを片付け、避難誘導を終えたころには、モール内部は比較的静かさを取り戻していた。
床に散らばった破片と、消えきらない霧の名残だけが、ここがさっきまで地獄だったことを示している。
「第三班、任務終了。死者ゼロ。負傷者軽微」
柚希の声が、少しだけ柔らかくなっていた。
「やるじゃん、新堂くん」
ダッシュが、背中をどん、と叩いてくる。
「初陣で中級落として民間人救助とか、普通にヒーロー実績だよ」
「……まあな」
呼吸を整えながら、蓮はヘルメットの内側で小さく笑った。
(俺、マジでヒーロー行ける)
その高揚感は、本物だった。
ただ、その奥底で、さっきのもう一つの未来の感触が、しつこく指先に残っていた。
◇ ◇ ◇
任務後、オペレーションルーム。
柚希は、第三班のカメラログと生体データを順に開いていた。
「死者ゼロ。負傷者軽微。
隊長のスローも、ウォールのシールドも、ダッシュの救助動線も、全部きれい」
画面の端に並ぶ評価用タグに、緑のチェックがついていく。
そして、新堂蓮のログ。
吹き抜け上のエスカレーター付近。
民間人発見の報告。
スローの中心点修正。
その直後。
「……ん?」
映像が、一瞬だけ乱れた。
フレームが飛んだ、というよりは、時間そのものが一コマ抜け落ちた感じ。
モニタ上のタイムコードが、ほんの少しだけ歯抜けになっている。
「システム側のエラー?」
柚希はログを巻き戻し、別角度のカメラと照合する。
神崎の視点、ウォールの視点、ダッシュの視点。
そちらは滑らかに繋がっている。
抜けているのは、新堂蓮の装備カメラと生体ログだけ。
それも、コンマ何秒。
だが、その間に、身体位置と姿勢データが不自然に“飛んでいる”。
ほんのわずかなズレ。
見る者を選ぶ種類の違和感。
「……やっぱり、スローとは違う」
廃ダンジョン訓練の時に感じた揺れと、同じ種類のノイズ。
柚希は、ログに新たなタグを追加した。
『新堂蓮:時間揺れパターン再現。スロー起因ではない可能性。要上申』
その報告を受け取った神崎は、しばらく無言で画面を見ていた。
そして、低くつぶやく。
「スローじゃない。
別の時間操作タイプのアザーだな」
その一言が、静かなオペレーションルームの空気を、ほんの少しだけ変えた。
新堂蓮という名前の横に、小さな赤いフラグが立つ。
それが、この先彼の人生を何度も巻き戻すことになるアザー、過去再行の、いちばん最初の痕跡だった。




