第6話 「夜のバルコニーと秘密の独白」
午後の光が傾き、学院の中庭が橙色に染まる頃。
セシリアは図書館を出て、ふうと息をついた。
(今日こそは平穏な一日だった……! 断罪フラグゼロ!)
そう思った、その瞬間。
「セシリア嬢」
——まただ。
金の髪が風に揺れ、光の中に立つ王子の姿。
リオネル・アレクシス・フォン・ベルグレード。
誰もが振り返る、美しき王太子。
「きょ、今日も偶然ですね!」
「偶然……と言えるのかな。君を探していたんだ」
「わ、私を!?」
(探してたって何!? まさか新イベント!?)
リオネルは、柔らかな笑みで差し出した。
「先日の講義ノートを借りたくて。君のまとめ方が見事だったと聞いた」
「そ、そんな大したものじゃ……! リリアさんのほうがもっと綺麗です!」
「いや、君のノートには“誰かに教えたい”という意志がある。
君は、人のために努力する人だ」
セシリアの頬がかすかに赤くなった。
「わ、わたしはただ……皆で仲良くしたいだけで……」
「それは簡単なようで難しいことだ。君のそういう真っ直ぐさが、眩しい」
(やばい、王子様、眩しい……じゃなくて! これは完全に恋愛フラグ!)
「ノート、どうぞっ! いまお持ちしますねっ!!」
「ああ、ありがとう」
手が触れそうになって——
セシリアは慌てて引っ込めた。
本を取り落とし、ぱらぱらとページが散る。
「ひゃぁあ! ご、ごめんなさいっ!」
「大丈夫。……焦らなくていい」
リオネルは本を拾いながら、ふと笑った。
「君は本当に面白い人だ。
まるで“風”のようだね。掴もうとすると、すぐ逃げてしまう」
「えっ、風!? あの、私そんなに落ち着きがないですか!?」
「そうじゃない」
リオネルは、少しだけ目を伏せる。
「誰も、君を縛ることができないという意味だ」
(えっ、えっ、それってどっちの意味ですか!?)
セシリアは意味を理解できず、ただ笑うしかなかった。
その天然な笑みが、王子の心をほんの少しだけ掠めたことに——
彼女は、まだ気づいていない。
夕方の回廊。
柱の影からその様子を見ていたリリアは、胸がざわついた。
(……セシリア様、殿下と、また……)
二人の姿はあくまで穏やかで、何も不適切なことはない。
けれど、王子の視線に宿る柔らかい光は——
友愛ではなく、もっと違う何かに見えた。
(セシリア様は、気づいていない……)
彼女の無邪気さが、まるで罪のように美しいと思ってしまう自分が怖かった。
その夜。
学院の寄宿舎は静寂に包まれていた。
リリアが廊下を通りかかると、窓の外から声が聞こえる。
——バルコニー。
月明かりの下に立つ二つの影。
「……殿下との件、どういうつもりだ?」
アラン・フォン・アーデルハイトの低い声。
セシリアが慌てて答える。
「どういうも何も、ノートを貸しただけです!」
「貸すだけで、あんな目で見られるものか」
「え、目って!? どんな目ですか!?」
「気づいてないのか」
沈黙。
そして、静かな息の音。
「……お前は昔から無防備すぎる。
誰にでも優しいくせに、自分のことは少しも守らない」
「お兄様……そんな言い方……」
「俺が言わなきゃ誰が言う」
(……怒ってる、というより……苦しそう)
リリアは陰からそっと覗いた。
アランの横顔は、普段の冷静さとは違い、どこか切なげで。
「……俺は、もう誰にもお前を傷つけさせたくない」
「お兄様……」
「お前が笑ってくれるなら、それでいい。
その笑顔を壊すなら、たとえ殿下でも——」
アランは言葉を途中で飲み込んだ。
セシリアが小さく首を振る。
「そんな顔、しないでください。私、本当に平気です」
「……泣いてなんか、いない」
でも、声が微かに震えていた。
その手が、彼女の髪を撫でる。
まるで触れずにはいられないように。
(兄妹じゃない……)
リリアは胸の奥で呟いた。
“血のつながり”のない二人だからこその、危うい距離。
風が二人の間を通り抜けて、
月が、その姿を優しく照らしていた。
その夜、リリアは眠れなかった。
王子の微笑みも、アランの声も、セシリアの笑顔も——
全部が、心のどこかを痛くする。
彼女の胸の中に芽生えたのは、
まだ名もない、痛みを伴う感情だった。




