第5話 「王子様との午後と、気づかぬ波紋」
学院生活にも、少しずつ慣れてきたある日の午後。
セシリアは図書館の隅で、必死に本を読み漁っていた。
「『断罪イベント回避の鍵』は、ヒロインの友情と誠実な行動……ふむふむ!」
(よし、今日も平和! 王子様ルートには絶対関わらない!)
ところがその矢先、背後から静かな声がした。
「勉強熱心だね、セシリア嬢」
振り向けば、金の髪が陽光を受けて柔らかく光る。
——リオネル王太子だった。
「ひゃっ……! で、殿下!?」
「そんなに驚かなくても。少し話がしたくて」
「わ、私ですか!? えっと……あの、まさか何かご不満が……?」
「ふふ。違うよ。君に礼を言いたかったんだ」
「礼……?」
リオネルは微笑んだ。
「先日の授業で、私の落とした書類を拾ってくれただろう?
他の者たちは誰も気づかなかった。君だけが、自然に動いた」
「そ、そんな……当たり前のことをしただけです!」
「そういうところが、君らしい」
穏やかな声。
けれど、その言葉の熱に、セシリアは顔を真っ赤にした。
(これ……! ゲームではヒロインとリオネルの親密度が上がる“特別イベント”じゃないですか!?)
(やばい、やばい、やばい!!)
「ええっと! 私はただの通りすがりでして! 偶然です! 本当に!」
「偶然でも、感謝する価値はあるさ」
「で、でもっ……!」
「君は、正直で優しい人だね」
リオネルの微笑みが、春の陽射しみたいに柔らかくて。
まっすぐな視線に、セシリアは呼吸を忘れそうになった。
……そして、無意識に叫ぶ。
「わ、わたし婚約者おりますのでっ!!」
図書館中が静まり返った。
(言っちゃったーーー!!)
リオネルは一瞬だけ目を丸くし、それから静かに笑った。
「……そうか。そういう意味で言ったわけではないけど」
「す、すみません……つい!」
「ふふ。正直なのは良いことだ。君は面白いね、セシリア嬢」
(終わった……乙女ゲームの空気を一瞬で台無しにしました……!)
その日の夕方。
寄宿舎の前でアランが待っていた。
「殿下と、二人でいたそうだな」
「え、えっと……ちょっとしたお礼を言われただけです!」
「“ちょっとしたお礼”にしては、随分長く話していたらしい」
「そ、それは……私がテンパって色々言ってしまって……」
「何を言った?」
「ええと……婚約者がいるって……」
「……」
アランは一瞬、沈黙した。
そして小さく息をつく。
「……ああもう。お前ってやつは」
「ご、ごめんなさいっ!」
「いや、いい。むしろ正解だ」
「え?」
「婚約者が俺だと周囲が思ってくれるなら、変な虫も寄りつかん」
「えっ!? そ、そんな虫って……!」
「殿下だろうが誰だろうが、近づく奴は全部同じだ」
「お兄様、言い方が怖いです!」
「事実を言っただけだ」
アランの声音は穏やかだったが、どこか冷たい。
夕焼けの光がその横顔を照らして、影が長く伸びる。
(あれ……お兄様、怒ってる? でもなんで……?)
セシリアが困ったように笑うと、アランはふっと視線を逸らした。
「次から、男と二人きりで話すな。誤解される」
「誤解って……そんな!」
「お前は知らないだろうが、男はお前みたいなのを放っておかない」
「え?」
「なんでもない。行くぞ」
(……“お前みたいなの”って、どういう意味でしょう?)
首をかしげながら、セシリアはお兄様の後ろを小走りで追った。
その背中が少し遠く感じて、
胸の中がほんの少しだけ、きゅっと痛んだ。




