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追い詰められて騎士様に偽の婚約者になって欲しいと声を掛けたら、王都の悪者を成敗できました

作者: 塙瑶花


 ここは王都警備隊本部の休憩所。殺風景な部屋にはいくつかのソファや椅子、小さめのテーブルが配置されている。

 ソファで軽く睡眠をとっているものや、お茶を片手に世間話に花を咲かせている騎士たちなどが数人いる。

 

 クラレンスの部下のダリオも何人かの騎士相手に恋人ができたと自慢している。


「副長に恋人ができないのは、その気難しく見える顔のせいですよ」


 クラレンスの方を見ながダリオがマウントを取る。クラレンスと彼は一緒に街の見回りをしている気心の知れた相棒だ。

 ダリオは見回り先の宝石店の店員に一目ぼれをし、やっと思いが通じたらしい。


 クラレンスは「ほっといてくれ」と言いながら、昔の苦い想いが胃の底から持ち上がってくるのを感じた。(いまさらだな)とその想いを払しょくするように頭を左右に振った。


「俺に恋人は必要ない。女には不自由していないからな」

「でもね副長。両想いになるって奇跡なんですよ。その奇跡を体感できるってすごく幸せなことなんです」

「お前にしては、随分と気のきいたセリフだな。そのだらしない顔を仕事にまで持ってきてくれるなよ」

「あたりまえです。好きな子がいるから頑張ることが出来るんですから」




 クラレンスはキャプラン侯爵家の三男だ。今は王都警備隊の副長として、王都中に目を光らせている。

いま、二十一歳の彼には五年前に心から好きだと思える女の子がいた。

だが、彼女はクラレンスを選ばなかった。



 クラレンスとネルソン伯爵家の長男ハワード、そしてデオンテ伯爵家の次女セレリアは母親同士が親友だということもあり、小さい頃からよく遊んだ。

 セレリアは光線の加減で薄緑にも見える金髪が美しく可愛らしい少女だった。その濃い緑色の瞳はいつも好奇心で満たされていた。

クラレンスはそのキラキラ光る瞳を見るのが大好きだった。


 ハワードは薄い茶色の髪に青い瞳。良く見ると整ってはいるが目立つ顔立ちではなく、背もあまり高くなかった。いつもセレリアとクラレンスの後について回って、年頃特有の乱暴さもなく穏やかな男の子だった。

 クラレンスは凛々しい紺色の髪に小さい頃から恵まれた体格をして、身体能力も高かった。神秘的な紫の瞳と整った顔立ちのせいかお茶会に行くと女の子たちからよく声を掛けられた。

 

 三人はいつも追いかけっこをしたり、一緒に本を読んだり、ゲームをしたりと遊んでいた。ハワードは追いかけっこでもゲームでもビリだった。

クラレンスはハワードのことは好きだったが、ライバルと思ったことは一度もなかった。


 ハワードとクラレンスが十三歳になって、それぞれの道が決まった。

伯爵家の継嗣であるハワードは経営学も学べる王立の学園に入学し、クラレンスは三男なので、騎士の道に進むことを決めて騎士学校に入学した。

さらにその一年後、セレリアは淑女学校に入学した。


 ますます美しくなるセレリアにいつか婚約を申し込もうとクラレンスは決心していた。それとなく好意を伝えたし、セレリアもそれを拒むことはなく、いつも柔和な笑みを浮かべていた。

 

 騎士学校を無事卒業して、騎士になったら優秀な自分はいずれ騎士爵を授与されるだろうから、生活には困らない。卒業と同時にセレリアに婚約を申し込んでも快く受けてくれるだろうと思っていた。

 だから騎士学校の卒業半年前にハワードとセレリアの婚約が調ったと母から聞かされたときは、信じられなかった。嘘だと思った。もしかして政略結婚なのか。それではセレリアがあまりにも可哀そうだ。

 

 クラレンスは、次の日の授業をすっぽかし、すぐにハワードのいる学校に走った。

王立学園にある生徒用のこじんまりした応接室でハワードが授業を終えるのをイライラしながら待っていた。

応接間に入って来たハワードはいつものように穏やかな笑みを浮かべ、クラレンスの気持ちなど全然察してもいないようでクラレンスはますますイラついた。


「クラレンス、どうしたの? 急用?」

「お前、本当にセレリアと婚約したのか?」


 少しきつい口調になってしまったのは仕方がない。


「ああ、ごめん。正式に決まったのは二日前だったから、クラレンスにまだ知らせてなかったね。誰から聞いたの?」

「ミランダ伯爵夫人から俺の母が聞いた」

「母がしゃべっちゃったのか。もう少し落ち着いてからと思ってたんだけど」

「まさか無理矢理? それとも家と家の繋がりのためなのか?」

「無理矢理でも、政略でもないよ。正式に結婚を申し込んだらセレリアが受けてくれた」

「セレリアの気持ちはどうなんだ?」

「えっと、僕のことがずっと好きだったと言ってくれたよ」


 クラレンスはその場に崩れ落ちるかと思った。体格も顔立ちも頭の良しあしもハワードよりすべて自分の方が上だと思っていた。

セレリアがハワードを選ぶ理由がまったく分からなかった。


 何もかもが腹立たしい。騎士学校に向かって歩きながら道端の小石を思い切り蹴り飛ばした。セレリアの気持ちを確かめてみなければとそう考えるが、それで彼らの婚約が翻るわけもない。よほどのことがない限り破棄はあり得ないのだ。そうして気が付いた。


(ああ、そうか。ハワードはいずれ伯爵になるんだ。セレリアはそんなこと関係ないと言っていた気がするが、やはりそうか。騎士の妻なんかより、伯爵夫人の方が圧倒的に良いに決まっている。貴族の子女なんてみんなそうだ。爵位のない俺に寄ってくる女の子は、俺をアクセサリーにしているだけだ。結婚するなら爵位を継ぐ男が良いに決まっている。)


 クラレンスはセレリアにひどく裏切られたような気持になり、鍛錬で気を紛らわせ、暇さえあればそこら辺の軽い女たちと遊び歩いた。それでも彼の心にぽっかりと開いた穴はしばらく埋められることはなかった。

  

 その後クラレンスは騎士学校を卒業し、王宮内警備隊に配属され、その二年後に小隊長になり、さらに二年前に王都警備隊の副長として赴任した。多分来年あたりには近衛隊で働くことのなるのだろう。侯爵家出身ということもあり、順当に出世の階段を上っている。


 セレリアとは、夜会で一緒になることもあったが、クラレンスは見目の良い女をいつも伴っていて、セレリアがこちらをしきりに気にしていても彼女と話すことはしなかった。

 

 

 

 騎士たちの恋愛話を聞くのは楽しい。ただ、自分には関係ないとクラレンスは思っている。愛なんて持続するものではないし、裏切られるのも嫌だ。まして結婚なんてとんでもない。





◇ ◇ ◇ ◇



 崖から谷底に落ちる方がまだましなんじゃないかとマリエラは思った。


(でも、これをしないと私はあの人と結婚しなくてはいけなくなる。それは嫌だ。絶対に嫌だ。)


 マリエラは大きく息を吸い込むと意を決して、目の前を歩く騎士二人に声を掛けた。


「あのー、騎士様」


 振り向いた二人の騎士は、思ったより顔立ちが良くて、マリエラは自分が彼らに釣り合わないのではないかと一瞬怯んだが、ここで負けてはいられない。とにかく頼んでみなくては。それでだめなら、あの大切な花畑をあきらめて王都から逃げるしかない。


「えっと、人助けをしてくださいませんでしょうか?」


 黒髪の柔和な表情をした騎士がマリエラの目線に合わせて少し屈んだ。


「もちろんだよ、お嬢さん。どうしたの? 何か盗まれた?」


「いいえ、盗まれたわけではないのですが」

「何か困ったことでも?」

「はい、とても失礼なことをお頼みするとは自覚しているのですが」

「うん?」

「お二人のどちらでも可なのですが、これから三か月ほど私の婚約者の振りをしていただけないかと思いまして......」


 最後の方の言葉は消え入りそうだったが、きちんと聞き取ってもらえたようだ。


「なんだそんなことか」

「え?」

「良くあるんだよ。たいていは断るんだ。街の警備に関係ないことだからね」

「ご迷惑は重々承知です。でも私にはそれしか道がなくて。どうかお願いします。たぶん三か月くらいで良いと思うのです」


 誠意を分かってもらおうと、マリエラは二人に向かって九十度に上半身を傾けて礼をした。


「君は、地味な格好をしているが、どこかの貴族のご令嬢だろう? 所作が平民とは違う」

「はい、一応、父は男爵をしております」

「男爵家のご令嬢か。何か事情があるみたいだなぁ。あの公園の野外テーブルのあるところで話を聞きましょう。あそこなら木々に隠れて人目に付かない」

「ありがとうございます」


 マリエラは軽く淑女の礼を取った。


「副長、それでいい?」

「ああ、今日の見回りも終わった所だしな」




 マリエラの正式名はマリエラ・アシュトン。アシュトン男爵家の一人娘だ。アシュトン男爵家は王都から馬車で三日ほどのところに領地がある。

 さらに、マリエラの祖母が嫁いできたときに持参金代わりにとアシュトン家に寄贈された土地が王都郊外にある。

 

 問題は、この土地のことだ。

 

 マリエラと祖母は趣味と実益を兼ねて、この土地を花畑にした。母も花が好きだったので率先して祖母とともに花畑を管理していた。

 切り出した花々は『アシュトン花工房』の名で王都のあちらこちらに供給している。

 祖母も亡くなり、母も病を得て二年前に天国に旅立ってからは、もうすぐ十八歳になるマリエラが中心となって花畑の管理をしている。時には使用人と一緒に肥料をまき、苗を植え、水を撒く。

 冬から春にかけてのフリージア、水仙、そして色とりどりのチューリップ。その後は最近は色も豊富になっているラナンキュラス。デルフィニュームの儚げな青い花は主役にこそならないけれど人気の花だ。夏になると桔梗やひまわりの出荷も始まる。そしてダリア、ガーベラ、リンドウなどが続く。

薔薇や、百合は通年で提供できるように頑張っている。

 小さい頃からしていたことなので苦にはならない。それにすくすくと成長していく花々を見るのは何よりも楽しい。

 

 そうして育てられた花たちは、王都のホテルや宿屋、貴族の屋敷などに毎朝、使用人たちによって配達される。結婚式や葬式などにも依頼されれば届けている。花市場に持って行く花たちは王都中の花屋で売られる。

 王都を散歩して、花屋の店先を覗くのがマリエラの週一回の楽しみだ。

花は人を笑顔にする。花屋の店員に一輪髪に挿してもらった五歳くらいの女の子の溢れる笑顔。

愛する人のために花を選ぶ真剣な眼差しと、それを花束にしてもらって手にした時の喜びの表情。

今日のおすすめの花は? と聞きながら楽しく世間話をする年配のご夫人たち。

 そんな瞬間を目にするのがマリエラにとっては何よりも幸せなひとときだ。いずれ領地の経営も父に代わってしなくてはいけない時が来るし、結婚も考えなくてはいけない。でもこんな風に自由気ままに花を育てている自分を理解してくれる旦那様がいるだろうか。そう考えると結婚するのが面倒に思えてしまうのだ。

 

 最近は、王都がどんどん発展してきて、新しい建物も増えている。人口が増加し、花の売り上げは良くはなっている。だが、住むところが足りなくなってあちらこちらで住宅用の建物が立つようになった。

 花畑の土地は、王都のかなり端の方にあったのだが、今では周りにも少しずつ瀟洒な住宅が建ってきている。

 アシュトン家の花畑はゆるい斜面で日当たりも良いので、いつのまにか一等地と言われるようになってしまった。

 

 

 平和な日常が続いていたある日、最近頭角を現している中規模の商会、ワイリー商会の商会長モルドが頭の禿げあがった年配の秘書を連れてアシュトン男爵家にやって来た。


 マリエラの父レイモンドが応対して、その隣にマリエラが座った。

モルドは太めの体を器用に縮めてレイモンドに挨拶をした。非常に物腰は柔らかいのだが、その瞳には狡猾さが見え隠れする。


 用件は、予想した通り花畑の土地を売って欲しいというものだった。


「あれは母と妻が大切にしていた土地だ。売ることは出来ない。それに貴族の土地を売るのには国の許可がいる」


 レイモンドはそう言ったのだが、それで引き下がるような商人ではない。


「それは百も承知です。その方面にはいろいろ詳しい方がおりまして、男爵様が土地の売却の書類に署名さえしてくだされば後の手続きはこちらで致します」


「ほう、そんな裏口があるとは知らなかったな」

「裏口ではありませんよ。ちょっと力を持っている方を知っているというだけです」


 モルドは思わず口を滑らせたのに気が付いたが、いずれにしても相手は田舎男爵だ。どうってことはない。そう思ってすぐに売却する利点を資料を出してレイモンドに説明し始めた。


 それでもレイモンドは首を縦に振らなかった。当たり前だ。マリエラにとっても自分の分身と思えるほどの場所なのだから。売ってしまったら、亡くなった母も悲しむだろう。


「まあ、一度の交渉でどうにかなるとは私どもも思っていません。またほかの利点を捜しましてご報告させていただきます」


 モルドが帰った後、執事のウィルもため息を吐いた。

 

「いやな人に目をつけられてしまいましたね。かなり強引な商売をするという噂です。あの言い方ですと貴族の有力者と繋がりがありそうですね」


「ああ、このままでは済まないかもしれない。まあ今すぐどうのこうのということはないだろうから、私も協力してくれる人を捜してみるよ」


 だが、レイモンドには親しくしている高位貴族はいない。知人はせいぜいが子爵どまりだ。モルドが知り合いだという貴族は権力者だろうから、知人もろとも葬られる可能性もなくはない。最終的にはあの花畑を手放すしかないのかもしれないと憂鬱になった。


 マリエラにも漠然とした不安が芽生えていた。祖母や母が大切にしてきた宝物。いつかは花畑を一望できるところにカフェを建てて憩いの場としたいと思っていた。それをあきらめなくてはいけないのだろうか。

 

 二回目の交渉も決裂。もちろんモルドは嫌な顔一つせず、笑顔を見せて屋敷を退出した。


 そのあとからだ。いままで花を納めていたホテルや宿屋から、今後は取引を控えさせてもらいたいと言われたのは。

 よく聞くと、王都から半日ほど距離のある花屋『妖精の花束』の花を仕入れることにしたという。

 あそこの花は安価だが、生育不足で日持ちも悪い。そんなところの花を選ぶなんてマリエルは理解に苦しむ。

 そこで思い至った。だれかが、いやこの場合はワイリー商会がマリエラの花工房の妨害しているのだろうと。証拠はないので、警備隊にも訴えることができない。

 花市場の方は何とか、維持できているが、それも時間の問題かもしれない。全体の売り上げが落ちている。このままでは使用人の給料に響いてくる。マリエラは頭を抱えた。

 

 

 モルドがまた屋敷にやって来た。今度は年配の秘書の他に若い男を連れている。

 

「こちらが不肖の息子、アルドです」 


 モルドを背を高くして細くしたような感じだが、彼は小さめのグレーの瞳をマリエラの上から下まで視線を走らせ薄ら笑いを浮かべた。気持ち悪い。


「このところ花工房の運営も大変だと聞き及びました。商売は信用ですからな。品質が落ちると見向きもされなくなります」

「品質は落ちていません。これは誰かが故意でやったことです」

「いやはや、頑固なお嬢さんだ。どうですか男爵様? アルドをマリエラ嬢と結婚させればすべて上手く行くとは思いませんか?」


「はああ?」


 マリエラはあまりの驚きに大声を出してしまった。


「マリエラ嬢にはいくつか縁談もあるようですが、まだ早いと断っているそうですね。良かったですよ。お蔭でアルドと結婚させられるのですから」

「悪いが、その話は受け入れられない」


 レイモンドのそっけない態度にめげることなく、モルドは話を続ける。


「あ、そう言えば、男爵様の領地ではいま商業路の拡張工事をしていると聞きました」

「それがどうした?」

「橋も作らなくてはいけませんから、さぞ物入りだろうと思いまして」

「国からの助成金があるから、心配ない」

「そうでしょうか? 誰かがこの工事に手抜きがあるとか、材料が安価なものに変えられているとか、労働者の待遇がひどいとか、そんな風に告発すれば助成金は出なくなります」


「何を言いたい!」


 レイモンドの顔が赤く染まり言葉には怒気が含まれた。


「ですからここは息子のアルドとお嬢様の結婚を認めるべきかと」


 こうなったらもう破れかぶれだ。マリエルはとりあえずこの場を納めようと思った。あとのことは父親と相談してなにか良い方法を考えよう。

 

 マリエルは軽く手を挙げた。


「あの、私、結婚を約束している人がいます。今さら婚約破棄は出来ません」

「え、私が調べた限りではそんな人はいなかったと思いますが」

「調べたんですか! 失礼な人ですね。それはともかくも愛する人はいます! 真実の愛で結ばれている人が」

「お名前は?」

「相手の了承を得ないと言えません!」

「ほほう。では、こうしましょう。来週のこの時間。ぜひその方を連れて来ていただきたい。真実の愛を持っている方ならあなたのために一肌脱ぎますよね。来られなければアルドとの結婚を進めます」


 薄ら笑いを浮かべてモルドはそう言い放った。

彼らが帰った後、マリエルはソファにもたれ掛かかり天井を仰いで途方に暮れた。

 

「マリエル。あの場合はああ言うしか仕方がないだろう。とりあえず一週間考える時間を確保できた。だが、どうする?」

「臨時のお婿さんをみつけます!」


 そうは言ったものの、マリエラには心当たりはまるっきりない。男友達といえるのは学校で一緒だった平民の子か、使用人の子供たちだ。それでは駄目だ。


そこで、

(騎士なら、人助けをしてくれるかもしれない)と思いついた。


 そうして今日、崖から谷底に飛び込む気持ちで彼らに声を掛けたのだ。




◇ ◇ ◇



 マリエルは包み隠さず、今までの経緯を二人の騎士に話した。この人たちがワイリー商会側だったら、もう私はおしまいだと思いながら。


「ワイリー商会か......。有力な貴族に伝手があるとそう言ったのか?」

「はい、父が土地を売るには国の許可がいると言った時に、自分にはその方面の詳しい人がいる。力を持っている人なので問題ないと」


 静かな時間が流れた。マリエラは青空に浮かぶいくつも重なっている細長い雲の数をあきらめの境地で数え始めた。

自分があの土地に拘らなければ誰にも迷惑をかけないで済むかもしれない。十二個数えたし、もう帰ろう。今はせめていつか無くなってしまう花畑の側にいよう。

そう思って立ち上がろうとした時に、黒髪の騎士が口を開いた。

 

「副長、俺は恋人ができたばかりで無理ですが、副長なら問題ないのでは?」

「ああ、そうだな......。うん、よし。その話を引き受けよう」

「え、いいんでしょうか?」

「ああ、ワイリー商会が絡んでいるのが気になる。黒い噂が多い商会なのでね。君の婚約者と偽ることで、何かしっぽがつかめるかもしれない」

「本当にありがとうございます」


 何度も頭を下げるマリエルを見て、クラレンスはなんだか温かい気持ちになった。琥珀色の髪にマリンブルーの大きな瞳。鼻はそれほど高くないが、むしろそれが愛嬌を感じさせる。十分に可愛い子だ。野外での仕事が多いせいか若干日焼けをしているのが気になるが、貴族子女にはない健康的な雰囲気がある。それでも明らかに平民の女の子ではない。自分たちに声を掛けるのはさぞかし勇気のいったことだろう。

 

「明日の夜、そちらの屋敷に伺おう。真実の愛で結ばれているならお互いのことを知らなければいけないだろう?」


「それもそうですね。よろしくお願いします」


 マリエラはまた頭を下げる。


「俺は、クラレンス・キャプランという。偽でも婚約者同士なんだからもう頭を下げるなよ」

「ああ、あなた様でしたか。騎士の人気投票で一位になった方」


 クラレンスは、キャプラン侯爵家のことを言われると思ったが、人気投票ときたので、思わず吹き出してしまった。基本的に王都警備隊では、身分で上下の差はないということになっており、侯爵家の出身だとは強いて言わないようにしている。

 

「あのー、侯爵家に迷惑をかけるということはないでしょうか?」


 マリエラは遠慮がちにダリオの様子を見ながら、小さい声で尋ねた。

 

「やっぱり、侯爵家の者と知っていたのか?」

「私も一応貴族ですので」


 始めに侯爵家のことを声高に言わないあたり、なかなか聡い子のようだ。こんないい子を困らせるなんて、とんでもない野郎だ。クラレンスはふつふつと怒りが込み上げて来るのが分かった。なんとか彼女を助けたい。



 次の日の夜、約束通りクラレンスが男爵家を訪れた。

 

 マリエラは、あれがまるで夢の中の事のように思えて、クラレンスが来てくれるかどうか彼の顔を見るまではとても不安だった。

だから、玄関先で彼の姿を見た時は、腰が抜けるかと思った。


 クラレンスはレイモンドに騎士の礼をした後、この臨時の婚約話を受けたのは、捜査がらみであること。マリエラを責めないで欲しいと頼んだ。

 レイモンドは「委細承知した。すまない。よろしく頼む」とむしろ恐縮しているようだった。

 

 クラレンスとマリエラの打ち合わせは多岐にわたる。

 

 まずどうやって知り合ったか。どのくらいの交際期間か。真実の愛で結ばれているのだから、お互いの幼少の頃のことも知っておいた方が良い。家族のこと。食べ物の好み。趣味。好きな色や好きな本のこと。毎日の生活や仕事のこと。友達のこと。

 

 マリエラが両親や使用人から愛されて育ったのはクラレンスには良く分かった。それでも両親は彼女を我儘に育てなかったようだ。一人娘なので自分たちがいなくなり結婚しなかったら天涯孤独になってしまう。だから逞しく生きるようにと常々言っていたらしい。

 領地の経営や花畑のこともあるので、淑女学校には行かず平民の通う経営専門学校で学んだ。だから貴族の友人は母親の友人の令嬢たち数人しかいないという。情報は大事だから、ワイリー商会がかなり強引な取引をしていることは使用人やその子たちからいろいろ聞いてはいた。だが、実際に自分の身に降りかかると、十七歳の小娘には対処の仕様がなかったと項垂れた。

いいや、君は十分に頑張っている。


 そんなことを話しているうちに、クラレンスはセレリアのことを思い出していた。自分は彼女のことをどれだけ知っていたのだろうか。小さい頃はアップルパイが好きと言っていたが、成長してからは何も聞いていない。本は何を好んで読んでいたのだろう。友達はいたのか? お茶の好みは? 趣味は刺繍だったか? 楽器はピアノを弾いていた気がするが。 

彼女が自分を選ばなかった理由がなんとなくわかりかけて来た。

 

 少しぼんやりしていたのか、気が付いたらマリンブルーの瞳が目の前で瞬いていた。

 

「あの、お疲れでしたら、今日はこの辺で」

「大丈夫。ちょっと考え事をしていた。そうだ! 肝心なことを試さなくてはいけない。手を出して」

「こうですか」


 クラレンスは差し出されたマリエラの右手を両手でそっと包んだ。

ずるいやり方だとは自覚していたが、彼女と話しているうちになぜか彼女に少し触れたいという気持ちが強くなったのだ。


「な、な、な、なんですか」

「恋人で婚約者なのだから、手ぐらい繋ぐ練習をしていた方が良いだろう?」


 首筋から耳まで赤くなっているマリエラが可愛くて、もう少しからかいたくなった。


「恋人同士はこうして手を繋ぐんだ」


 クラレンスが指を絡めたつなぎ方をしたら、真っ赤になった顔でマリエラは俯いてしまった。


「り、臨時の婚約者に必要なことなのですか?」


 上目づかいでそういうマリエラを見て、クラレンスは彼女の本当の婚約者になっても良いかとふと思った。いや裏切られるのは懲り懲りだ。結婚はしない。


「ああ、アルドとかいう奴と結婚したくなければ必要なことだと思う」

「わ、分かりました。頑張ります」



 クラレンスは、男爵家を辞した後、侯爵家に向かった。

実家に帰るのは久しぶりだが、この一連の出来事を一応伝えておかなくてはいけないだろう。そしてワイリー商会がどこの貴族と繋がりがあるのか、父親に確かめなくてはならない。


 クラレンスの父親ランドンは、この国の宰相をしている。五十歳近いがクラレンスと同じ色の髪には白髪もそれほど目立たなく、まだまだ一線から退場する様子はない。領地のことは長男に任せて、ひたすら国政に身を捧げている。

 


「なんと、久しぶりだなクラレンス。元気か」

「はい、父上、今日は報告と尋ねたいことがありまして」


 クラレンスはマリエラのこと、ワイリー商会のことをかいつまんで話した。

目の前のテーブルには、赤ワインとナッツが置かれている。

話し終えてワインを口に含んだ途端にランドンが口角を上げた。

 

「いっそのこと本当に婚約したらどうだ」

 クラレンスはもう少しで口に含んだワインを吹き出すところだった。


「いえ、知り合ったばかりですし、今は問題解決が先です」

「お前がそんな顔をして女性のことを話すのを初めて見たもんでね」

「どんな顔ですか?」

「今までになく優しい顔だ」

「と、とにかくワイリー商会で知っていることがあれば教えてください」

「推測の域を出ないが、かの商会がある貴族とつながっているとは私も騎士団総長のベイトンも感じている」

「貴族の土地の売却で許可を出すのは、絶対に父上を通しますよね。そしてその書類を提出した貴族との面談も何回かあると聞いていますが」

「ああ、そうだ」

「それなのにどうして?」

「もう一つルートがある」

「え?」

「王太后ルートだ。ほんの一部の案件だけだが」

「なるほど」


 王太后トリニティは、第二王子であるロジュリオを国王にしたかった。二歳上の第一王子ブレーデンとはどうもそりが合わなかったのだ。二人とも自分の子であるが、トリニティはいつも自分を気遣ってくれるロジュリオの方を愛した。

 だが、当時の国王は、王太子はブレーデンと決めて、ロジュリオには臣下に下るようにと告げていた。

 ロジュリオが十九歳の時にブランダン公爵令嬢との婚約を破棄して、子爵令嬢の手を取ったことで、彼が国王になる未来は消えた。結局、その子爵の娘と結婚させ、没落していた伯爵家を再興して、侯爵に陞爵した。その甘い采配には王太后(当時の王妃)がかなり暗躍したらしい。

 

「しばらくは大人しくしていたのだが......」

「王太后様はロジュリオ様を国王にしたいのですか?」

「王位を簒奪するまでは考えていないだろう。あの婚約破棄でブランダン公爵家からそっぽを向かれているし、味方が少なすぎる。バレット侯爵家は領地も小さくこれといった特徴がないので、経営は大変のようだ。まあそれを助けてやりたいという親心なのだろう」

「つまりお金がすべて。ワイリー商会から近づいたのかバレット侯爵家から近づいたのかは分からないが、利害関係が一致した」

「たぶんな。上手く行けば国政にも関与して甘い汁を吸いたいと考えていそうだ」

「王都警備隊の情報では、ワイリー商会は違法薬物の売買や禁止されている武器の取引にも関与しているそうです。まだ証拠はつかめませんが、いずれ叩き潰します」

「必要ならベイトンにも協力を仰ぐといい」

「わかりました」



 五日後、アシュトン男爵家の応接間にレイモンド、マリエラ、クラレンス、モルド、その息子のアルド、が集合した。

 マリエラとクラレンスは恋人つなぎで手を握っている。

やはりクラレンスの言う通り恋人つなぎをして良かったとマリエラは思った。大きい手から感じる温かさがマリエラをとても安心させた。

 


 一通りの挨拶を済ませた後に、マリエラが傍らのクラレンスを紹介した。

 

「私の婚約者のクラレンス・キャプラン様です」

「お見知りおきを」

 クラレンスは礼をすることもなくそう言った。

 

「これはこれはマリエラ嬢の婚約者は王都警備隊の副長でしたか。またどのようにお知り合いになられたのですか?」

「いちいちあなたに言う必要は感じないが、まあ、彼女がたまたま本部に花を配達してきたときに意気投合した。一目ぼれだ」


 クラレンスは優しい光をたたえた瞳をマリエラに向けた。

マリエラは(凄い演技力! 色気がただ漏れ)と思いながら、負けじと笑顔でクラレンスを見つめた。そうすると今度は頬を少し染めているマリエラを見てクラレンスが(なぜ、この歳になってドキドキするのか)と戸惑い、握っている手に力を込めた。


「おっと、お互いに思い合っているのは分かりました。でも、キャプラン副長は、いつも美女を引き連れておりましたよね。あの方たちはどうなさったんでしょう?」

「彼女たちは仕事上の付き合いだ。変にマリエラに嫉妬を抱かれて危険な目に会っても困るので、彼女との婚約は公にしていなかった」


 モルドは、キャプラン侯爵家がついているとなると、これからの方針を少し変えなければならないと内心で思った。王都警備隊の隊長は清廉潔白な人物で賄賂が通用しないのだ。下っ端にはニ、三人融通の利くもののいるが。さてどうしたものか。


「まあ、そう言うことでしたら非常に残念ですがアルドとの結婚はなしになりますな」

「ああ、それと私が男爵家の婿になるので、未来永劫あの花畑の土地は売却することはありません」

「なるほど、でも気が変わられたら、ぜひ私どもにお声を掛けてください」


 モルドとその息子は、お茶にも手を付けずに帰っていった。

 


「本当にありがとうございました。思い合っている婚約者に見えたようです。ですので偽の婚約の話はもう......」

「まだだ! 絶対にこれでは終わらない。彼らはなんとしてもあの土地を手に入れたいのだから、我々の心を折ろうと思っているはずだ。アシュトン男爵もマリエラ嬢も身辺には気をつけて欲しい。私が警護をしたいくらいだが、そうもいかない。あとで見習いの騎士を寄越す。少しは役に立つだろう」


 マリエラはクラレンスの言葉は少し大げさではないかと思ったが、よく考えてみれば彼とは正式な婚約を交わしているわけではない。今、レイモンドや自分に何かあれば、簡単にあの土地を手放してしまうかもしれない。

 

 次の日、見習いの騎士フィンが朝早くにやって来た。十六歳でひょろりと背が高くまだ少年という感じが強いけれど、先輩に負けないくらい強いと本人が胸を張って言うのでそうなのだろう。父レイモンドは屋敷で執務が多いので、基本はマリエラの行くところに付き従うという。

 クラレンスも業務の合間を縫って、屋敷を訪れる。

マリエラは、自分があの時声を掛けたばかりにクラレンスに迷惑をかけてしまっていることを申し訳なく思った。

 

 事件はモルドたちとの顔合わせから十日後に起きた。

朝、朝食を摂ろうとした時に、花畑で働いている使用人が転がり込んできた。

ずーと走って来たのだろう。馬車でニ十分の距離だから、その倍以上の時間を駆けて来たのだ。息も絶え絶えに、彼はマリエラに報告した。


「はっ、はっ、はっ、お嬢様大変です。はっ、はっ、花畑の半分が滅茶苦茶にされています」


 それを聞いたマリエラとフィンは直ぐに馬車に乗って、花畑に向かった。

 

 中流階級の家なら五十個は建つだろう広さの花畑は、半分ほどの花たちが無残にも刈り取られていたり、踏みつぶされていた。

 

 マリエラにはショックというより、『やはり』という気持ちが強かった。使用人たちはすでに後片づけを始めていた。

 水を与えれば復活する一部の花たちは、すぐに水を張った盥に入れられ、駄目なものは一か所に集められた。

 マリエラは納品できない先に謝りに行かなければならない。何とか気を取り直して、納品先をチェックして馬車に乗り込もうとした時に、クラレンスが部下を引き連れてやって来た。執事が彼に知らせたらしい。

 

「酷いな。だが、なぜ半分だったんだ?」

「単に時間がなかっただけだと思います。使用人たちの朝は早いので」

「脅しか。やはりこの次は男爵か君を狙いそうだ」


 クラレンスは、唇を引き結んでしっかりと立つマリエラが愛おしくて、こんな時に不謹慎だと思いながら抱きしめたくなった。結婚はしないと決めていたが、彼女の傍で彼女を守って行きたいと心から思った。

 

「絶対に捕まえるから」

「クラレンス様、ここを荒らした人たちには、花粉が付いていると思います。特に百合の花の花粉は洗ってもなかなか取れないのです」

「わかった。すぐに手配する」


 クラレンスは部下たちに、この花畑を荒らしそうなならず者たちが良く立ち寄る食堂などを調べるようとに命令した。

 

 マリエラの予想通り、花粉の付けている者たちがすぐに捕まった。

彼らは誰が依頼したのかは、なかなか口を噤んで言わなかったが、まあ、いろいろな方法で聞き出すことに成功した。ついでに騎士隊の中にいるワイリー商会の手先も特定できた。


 依頼者は、ワイリー商会のモルドの片腕と言われる頭の禿げあがった秘書のヒースということだった。彼はもともとバレット侯爵家に雇われていた執事の一人だった。多方面に知識のある彼をモルドが是非にとロジュリオ・バレットに請い、商会の筆頭秘書とした過去がある。

 

 もちろんヒースがそう簡単に口を割るわけはない。だが一週間も拘留していると、妻と名乗る女が「せめてヒースさんの好きなものを食べさせてあげたい」と言って牛肉のローストをパンにはさんだものを持って来た。

好きなものだからこそ、ヒースはその異常に気が付いた。ソースに毒が仕込んであったのだ。口に含んだそれを慌てて吐き出して事なきを得た。

 その後彼は「バレット家とワイリー商会の闇を知っている自分は、殺されるかも知れない」と怯え始めた。

 

彼は「守ってくれるならすべてを話す」と言い、結果、ワイリー商会の悪事の全容が分かることになった。

 

 違法薬物の取引の日、その日に合わせてすべての摘発を行う。

王宮警備隊からも応援がやって来た。

密売された武器の倉庫、違法賭博場、ワイリー商会の本部を一斉に急襲した。

もちろん帳簿類も押収したので、バレット侯爵家との関係も明らかになった。


 だが、ロジェリオは、腐っても王弟だ。本人の罪を暴くのは難しかった。

 

「自分は全くあずかり知らぬことだ。すべて家令や秘書のやったことだ」


そう言い張った。家令も秘書も何故か「私たちが当家に良かれと思ってやったことです。ご主人様はこの件にはまったく関わりありません」とロジュリオを庇った。


だが、まったくロジェリオの責任を問わないわけにはいかない。王命によりロジュリオは侯爵から伯爵に爵位を下げられた。

また、これを機に、王太后の権限が縮小され彼女の政治へのかかわりが絶たれることになった。


こうして、花畑の売却話から始まった一連の出来事は、終息した。





 クラレンスとマリエラが偽の婚約者同士になってから三か月が経った。花畑も皆の努力で少しずつ元に戻りつつある。断られた得意先も戻った。

「申し訳なかった。『アシュトン花工房』の花が一番いいというのが良く分かったよ」と言ってくれて嬉しかった。

 

 クラレンスも時折、マリエラのいる花畑に事件の経過を話しに来てくれる。

そしてそのたびに、なぜか手を繋いで、花畑の中や回りを散歩するのが日課になってしまった。


 マリエラは、だんだんクラレンスのことを考える時間が増えて来たのに気が付いていた。

こんなに素敵な人が自分のようなちんちくりん女の子を気にしてくれるのはあくまでも仕事のため。最近は、この気持ちを早めに何とかしないといけないと焦りはじめていた。


「クラレンス様。あれからそろそろ三か月が過ぎようとしていますし、これ以上あなた様にご迷惑をかけるのは申し訳ないです。なので......」

「まだ残党がいるかもしれない。逆恨みされるようなことがあってはいけない。見せつけている方がいいだろう」

「フィンも時々来て、見回るついでに手伝ってくれるのです。ありがたいと思っています」

「名前呼びしているのか?」

「ええ、年下ですし、そう呼んでくれと言われまして」


 クラレンスはなぜか面白くない。あんな小僧、ライバルにもならないと思うのだが前例がある。

ここはきちんとマリエラと向き合うべきだ。外堀は少しずつ埋めている。


「俺のことも名前で呼んでくれ。婚約者なんだから」

「あのー、私たちはあくまでも臨時の婚約者ですよね?」


 マリエルが不思議そうにそう言うが、それは無視だ。


「あ、そうだ。この度の事件の功労者の君に会いたいと父が言っているんだ」

「宰相様がですか?」

「母と兄夫婦と夕食でもどうだというんだが」

「いえ、そんな恐れ多いです」

「大丈夫だよ。君なら」


 なんだか話の流れで、宰相家に行くことになってしまった。

マリエルは慌てて屋敷に帰って、気心の知れたメイドのニアにドレスをどうしようかと相談した。ドレスの一つや二つが買えないほど貧乏でもないのだが、夜会などに出る機会がなく面倒で作らなかっただけだ。

ニアが母親のワードローブから薄いオレンジ色のドレスを持って来た。

「これなら、お嬢様の髪にも会いますし、少し手直しすれば、十分に通用しますよ」


 当日、迎えに来たクラレンスは自分のために着飾ってくれたマリエルを見てとても嬉しくなった。これがダリオのいう恋なのだろう。セレリアには感じることがなかった想いだ。あの時の自分は独りよがりだったのだなと思った。


 晩餐会は、マリエルの緊張をよそに、和気あいあいと進んだ。

侯爵も侯爵夫人も、上位の貴族の作法を知らなくて申し訳ないと恐縮するマリエルに優しく、そんなのはその都度覚えればいいという。

マリエルは心の中でそんな機会はもう訪れないはずだ思ったけれど、一応頷いた。クラレンスの義姉である次期侯爵夫人も、マリエルに花言葉の数々を尋ねたりとマリエルの緊張をほぐそうとしてくれているのが分かり嬉しかった。


 帰りの馬車の中で、クラレンスはマリエルにきちんとプロポーズをしようと思った。今を逃せば、また昔の二の舞だ。


「皆さんに優しくしていただいとても嬉しかったです。良い思い出になりました」

「マリエル、俺たち本当の婚約者にならないか? 君と未来を歩みたい。ああこの場合は俺が君の婿になるのか」

「えっ? えっ?」


 マリエルは、飛び上がらんばかりに驚き、いや本当に飛び上がってもう少しで椅子から落ちるところだったので、慌ててクラレンスが支えた。


「いやか?」

「いいえ。夢みたいで。夢なら覚めないで欲しいと」

「君が好きだ。あの花畑を荒らされた時に凛と立つ君を見て俺にとって君以上の人はいないと思った」

「私も偽の婚約なのだと思いながら、いつの間にかクラレンスのことが好きになって......」


 ほろりとマリエルの瞳から一滴涙が流れる。

クラレンスはそっと彼女の額に口付けを落とした。


 実は父親ランドンとレイモンドにはすでに了承を得ていたりする。



 それから三か月後、王宮での舞踏会にマリエルはクラレンスの婚約者として参加することになった。ドレスはクラレンスが用意すると言ったのだが、レイモンドがこれはデビュタントになるので、我が家が用意するのが筋だと言ったらしい。

 ドレスは、侯爵夫人の懇意にしているドレスメーカーに依頼してもらった。

淡いクリーム色のドレスは美しく、ぴたりと身体に添った袖なしの身頃にやはり体に添った同じ色の長袖のレースを重ねた。スカートは幾重にも布を重ねているので広がりが自然だ。

イヤリングと髪飾りはクラレンスの瞳の色のアメジストで出来ている。

当日の支度は侯爵家で侯爵家の侍女たちが腕を振るった。


「マリエル様、美しいですわ」

「何から何までありがとうございます」

「あのクラレンス様の澄ました顔が、マリエル様を見るとクシャリとするのよね」

「そうそう。あのギャップが面白いわよね」

「天下の色男を落とすなんて、マリエル様は案外魔性の女だったりして」

「ほとんど一目ぼれという話ですもの」

「あの、いや、私は日焼けしているただの小娘なんですけれどね」


 マリエルは首を傾げた。本当に分からないのだ。自分はものすごく目立つ美人でもないし、性格だって気が強い。でも恋はきっとマジックなのだ。理屈では割り切れないものだから夢が広がるのだ。


 そうしてクラレンスはその整った顔をクシャリとさせながら、マリエルをエスコートして会場に向かった。


 会場では、マリエラは最初は父親レイモンドと踊った。そして続けてクラレンスと。ダンスは昔習ってはいたが、今回は特別に教師について特訓した。

 

 マリエラとクラレンスが二曲続けて踊り終えて、軽く飲み物を飲んでいると、ハワードとセレリアが手を繋いでやって来た。二人は昨年結婚したはずだ。セレリアは人妻らしい落ち着きを身につけ、さらに美しくなっていた。

 

 マリエルは、クラレンスからセレリアとハワードのことは聞いている。クラレンスのセレリアへの想いも知っている。

 

 マリエルは小さな声でクラレンスに言った。


「本当に美しい方ね」

「ああ、でもそれだけだ」


 マリエルがその意味を考える前に、ハワードに「美しいお嬢さん。私と踊りませんか?」とダンスに誘われた。

クラレンスを見上げると、頷いていたので「下手ですが」とマリエルは応じることにした。

たぶん、ハワードはセレリアとクラレンスに少しでも話す時間を持って欲しいと思ったのだろう。


 クラレンスが「俺たちも踊ろう」とセレリアの手を取ると、セレリアは優しく微笑んだ。考えてみればセレリアと踊るのは初めてだ。昔はこんな場面を良く想像していたものだ。いずれ自分の妻として美しいセレリアと大勢の人の前で踊るのだと。

それなのに今手を離したばかりのマリエルの方が気になる。


「婚約おめでとう。素敵なお嬢様ね」

「ああ、彼女に会えたのは奇跡みたいなものだ。いつも彼女の役に立つにはどうしたらいいかと考える」

「うふふ」

「おかしいか?」

「ずいぶんと謙虚になったのね」

「そうなのかな」

「私ね。あなたのことが好きな時期もあったの。でも結婚と考えた時になぜかハワードの傍にいたいと思った」

「いまならわかるよ」

「お幸せにね」

「ありがとう」


 その日の帰りの馬車の中でクラレンスは早速マリエラに問いただした。


「ハワードと何を話した?」

「天気のこととか、花畑のこととか。クラレンスがやんちゃだったってこととか。あなたのほうこそ大丈夫だった?」

「ああ、この舞踏会に出席して良かったよ」

「苦しくなかったの?」

「まさか。昔、あんなに好きだと思っていたのに何も感じなかった」

「実は、少し心配したの。私との婚約を後悔するかと思って」

「そんなことあるわけがないだろ? 俺は本当に君を愛していると今更ながらに思ったよ」


 クラレンスに熱い眼差しを向けられてマリエルはどうしてよいか分からずに目を彷徨わせた。

 クラレンスはそんなマリエルの頬をそっと両手で包み、彼女の唇に優しい口付けをした。




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