産声
次に目覚めた時、私は石畳の上に寝転がっていた。
周囲を見渡すと水たまりと石の壁。
光が漏れている前方からは人々が歩く音に影。
(ここはどこだろうか。寝ていたのだろうか)
路地裏に溜まった水たまりを覗き込み、私は息を呑んだ。
そこに映っていたのは、12歳頃の『アシュレイ・フォン・ヘルシャフト』そのものの姿。
夜の闇を溶かし込んだような、艶やかな漆黒の髪。
そして血のように鮮やかな、吸い込まれそうなほど深い真紅の瞳。
私が現世でどれだけウィッグとカラーコンタクトで追い求めても、決して届かなかった“本物”が、そこにあった。
震える指でそっと自らの頬に触れる。
水面に映った少女も同じように頬に触れる。
「……アシュレイ」
掠れた声で愛しい人の名を呼んだ。
ああ、アシュレイ。
あなたはあまりに気高すぎた。
誰にもその真意を理解されず、信じた者である聖女に裏切られ、たった一人で腐敗した世界と戦った。
その孤独が、どれほど辛かっただろう。
どれほど、痛かっただろう。
私はあなたの物語を読むたびに、胸が張り裂けそうだった。
あなたに寄り添い、その傷を舐め、その重荷を共に背負ってくれる人が、なぜ誰もいなかったのかと世界を呪った。
この姿は罰か?ご褒美か?
いや、違う。
これはチャンスだ。
神が私に与えたたった一度の、奇跡なのだ。
私は道行く人々に声をかけ、ここが私の知る世界ではなく、そして誰も『アシュレイ』の名を知らないことを確認した。
最初は、絶望に近い感情が胸を焼いた。
こんな色のない世界にあなたの価値は分からない。
あなたの気高さも、その魂の輝きも、この世界の誰も知らない。許せない。そんなことあってはならない。
だが、その感情はすぐに燃え盛るような怒りと、神聖なまでの使命感に変わった。
「___分からないだと?」
路地裏に戻り、壁に背を預ける。私は天を仰いだ。
「ならば、分からせてやる。この私自身が、あなたの生きた証となって!」
「あなたの気高さを、その魂の輝きを、この無価値な世界の全てに骨の髄まで刻みつけてやる!」
もう迷いはない。
私はただの『再現者』じゃない。
聞いて、アシュレイ。
もうあなたは一人じゃない。私がいる。
私があなただ。
あなたの見たくても見られなかった夢の続きを私が叶える。あなたの歩むはずだった覇道を、私が歩む。
これは模倣じゃない。
これはあなたへの愛であり、あなたと私を一つにするための神聖な儀式だ。
だから見ていて。
私が世界で一番、あなたのことを愛している私が、あなたという存在を永遠にするから。
ゆっくりと立ち上がる。
12歳の少女の体は驚くほど軽い。
瞳に宿るのは、狂気と歓喜、そして、ただ一人の女性に向けられた、どこまでも深い愛。
「私が、“アシュレイ”だ」
その言葉はもはや決意ではなかった。
紛れもない事実だった。
神崎美玲はこの日、この瞬間、完全に死んだ。
そしてまだ誰も知らない伝説が、産声を上げた。
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