私には推しだけ
※こちらは連載版になります。
毎日更新です。
夏のコミックマーケット会場は、むせ返るような熱気と、万を超える人々の途方もない情熱で飽和していた。
その喧騒の中心から少し外れたコスプレエリアに、ひときわ大きな人だかりができていた。
幾重にも重なる人の輪、その中心にいるのは私、神崎かんざき美玲みれい。
いや、今の私は神崎美玲ではない。
「アシュレイ様、目線こちらにお願いします!」
「すごい、本物みたいだ……衣装の作り込み、神がかってる……」
「あっちにもアシュレイのレイヤーさんいるけど、やっぱりこの人が別格だわ……」
無数のレンズと賞賛や嫉妬が入り混じった言葉が容赦なく私に降り注ぐ。
私がその身にまとうのは、悲劇の覇王『アシュレイ・フォン・ヘルシャフト』の戦闘衣装。
濡羽からすば色と評される豪奢な黒絹のドレスは彼女の気品と戦場の厳しさを両立させるために、何か月もかけて縫い上げたものだ。
手にした魔剣のレプリカも、設定資料をミリ単位で読み解き、3Dプリンターと手作業で作り上げた自信作。
彼らが賞賛しているのは神崎美玲の努力ではない。
私の姿を通してそこに『アシュレイ』の幻影を見ているだけだ。
それでいい。それが、いい。
私は空っぽの器でいい。
愛する“推し”の魂をこの身に降ろす、完璧な巫女でいられるのなら。
「あの……! アシュレイ様、ですよね……?」
囲みが一段落し、給水のためにエリアの隅で休んでいると、一人の少女が緊張した面持ちで声をかけてきた。
その手にはボロボロになるまで読み込まれた原作小説が握られている。
「ファンです!小説、何度も読みました……。特に、アシュレイ様がたった一人で辺境の砦を守り抜いた話が大好きで……。それで、一つだけお聞きしてもいいですか?終盤、裏切った副官をその手にかける時、アシュレイ様は本当に、何も感じていなかったんでしょうか…?」
それはファンの間でも意見が分かれる、原作屈指の鬱シーンだった。
私はゆっくりと顔を上げ、研究し尽くした『アシュレイ』の、全てを見透かすような冷たい視線で少女を見つめた。
「……愚問だな。あの程度の裏切りで、我が心が揺らぐとでも思ったか?」
少女がびくりと肩を震わせる。
私は続けた。
「だが、覚えておくといい。覇道とは、常に孤独だ。信じることは、すなわち弱さを晒すこと。……我が流した涙は、同情ではない。己の未熟さに対する、戒めだ」
それは私の解釈。
行間から読み取った彼女の魂の叫び。
今の私は完璧なアシュレイだった。
少女の瞳からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「すごい……本物のアシュレイ様とお話ししてるみたいです…!ありがとうございます……!」
深く頭を下げて走り去っていく少女の背中を見送りながら、私は言い知れぬ満足感に浸っていた。
魔法が解けたシンデレラのように、明日からはまた灰色の現実が始まる。
それでも、この一瞬の輝きがあるから、私は生きていけるのだ。
だから死んだ時も、思ったのはそんなことだった。
イベントの充足感を胸に、疲れた体を引きずって歩道橋を渡る。夕日が無感動に世界を赤く染めていた。
その時、どこからか暴走したトラックが猛スピードで歩道に乗り上げ____なんてドラマチックな展開は、私の人生には用意されていなかった。
ただ疲労でふらついた足が、階段の一番上の角に、ありえないほど無様に引っかかった。
それだけ。
スローモーションのように、私の体は宙を舞った。
走馬灯が駆け巡る。
アニメや漫画で見たあの走馬灯そっくりだった。
漫画の一コマのように一つ一つを思い出す。
初めてミシンに触った日。
徹夜で衣装の生地を裁断した夜。
指を針で刺し、血を滲ませながらも作業を続けた日々。
イベント会場の隅で一人でコンビニのおにぎりを頬張った記憶。
不思議と、死への恐怖はなかった。
神崎美玲の人生に、未練など一片もなかったから。
あるのは、ただ一つ。
コスプレイヤーとしての、無念。
(ああ、駄目だ。まだ作りたい衣装がたくさんあったのに……)
(あの甲冑の肩パーツの作り込み、もっと改良できたはずだ……)
(次の新作の“魔王化”バージョンのデザイン、最高だったのに……! あれを私の手で立体化できずに死ぬなんて……!)
地面に叩きつけられる寸前、意識が薄れゆく中で私は願った。
もし、もしも、もう一度だけチャンスがあるのなら。
今度こそ、完璧な、本物の________
それが神崎美玲の、最後の思考だった。
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