Episode:3 028 聖女の奇跡②
ライアンの予言通り、間もなく東軍の偵察部隊がその姿を現した。
そして、先程と同じやり取りが繰り返される。
「――全ての兵は我ら真王国軍の旗の下へ集えと、伝えなさい」
セシルは青い軍服姿の――東軍の兵士に向かって言った。
彼女の眼の前には矢が空中で静止している。東軍の兵士が放った矢がセシルに当たる寸前で止まったのだった。
矢を放った弓兵はもちろんのこと、他の東軍兵士も驚愕に顔を染めている。
「ま、まさか、本当に聖女が……」
「い、一度、退くぞ!」
東軍の兵士たちは、そう言いながら一目散に逃げ帰って行った。
兵士たちの姿が見えなくなったところで、またしてもセシルはその場に崩れ落ちた。
「大丈夫か? セシル」
「だ、大丈夫じゃないですけど、大丈夫です……」
ライアンがかけた声にセシルは答えた。
「怖かったか?」
「ええ、でも、先程よりかは幾分慣れてきたかもしれません」
半分は強がりに聞こえる声音でセシルは言った。慣れてきたと自分に言い聞かせているのだろうと思い、ライアンは小さく頷く。
「よし、いい感じだ。奴らは必ずまたやってくる。その時にはまた頼むぞ」
ライアンの言葉にセシルは頷く。ぎこちない頷きであったが、瞳は微かに輝いていた。
「ラ、ライアンさん。あれを!」
リリアが叫んだ。彼女の指差す方をライアンは見やった。
遠くの平原に赤いうねりのようなものが見えた。
目を凝らして見てみると、赤い鎧姿の西軍の兵士たちが大挙して押し寄せていた。所々に彼らのシンボルである赤い紋章旗を掲げて進軍する姿は、燎原を焼き尽くす炎のようにも見えた。
「いきなり、大軍がお出ましかよ……」
そういう間に赤い大軍はみるみる近づいてくる。彼らは互いの顔がしっかりと視認できる距離まで来ると足を止めた。そして、その中の一騎が前へ進み出た。
「――セシル・フォーベール並びに、真王国軍というのは貴様らか!」
西軍の兵士は高らかに叫ぶ。その声には既に強烈な敵意が載せられていた。
ライアンはセシルを見やる。彼女は立ち上がり、唇を引き結んでいた。
「いけるか、セシル?」
「……やります」
セシルはそう言うと、一歩踏み出して前にでる。
「如何にも、我こそは聖女セシル! 神より天啓を賜り、その代行者としてこの身を捧げるものなり!」
セシルの名乗りを聞いて、西軍の騎兵は一瞬笑う。
「何が聖女だ! 神の名を使い、聖女を騙る貴様の所業は異端にして重罪! 裁判など不要だ。今この場にて極刑に処す!」
騎兵は腰の剣を抜いた。それを合図に、後ろの大軍も戦闘態勢に入る。
「全軍、突撃せよ――聖女を跡形も無く、踏み潰せ」
騎兵から冷徹な命令が下った。
赤い軍勢が波打つ。白銀の刃を掲げた兵士たちが、鬨の声を上げながら突撃してきた。
「ラ、ライアンさん!」
リリアが叫ぶ。
「セシル! 前へ手をかざせ! リリア、それを合図にまとめて吹きとばせ!」
「はい!」
「わ、わかりました!」
ライアンの命令に、それぞれセシルとリリアが反応する。
セシルは右手を大きく振りかぶり、前方の空間を叩くように手をかざした。
すると彼女の背後の空気が大きくうねる。
次の瞬間――。
轟音を立てて地を裂くような突風が巻き起こった。
風は荒れ狂い、突撃してきた大軍はまるで紙のように舞った。
兵士も馬も成す術なく、転がり、弾かれ、無秩序に吹き飛ばされていく。
風が過ぎ去った戦場には、異様な静寂が広がっていた。
無数の兵士たちが地面に転がり、土まみれになりながら呆然と風の過ぎ去った方角を眺めている。武器は遠くへ弾き飛ばされ、陣形は完全に崩壊していた。誰も傷ついてはいない――だが、立ち上がる者は少ない。
そんな中、馬の下から這い出た兵士が立ち上がる。
先程突撃の命令を下した司令官らしき兵士だ。
「な、何をしている。全軍、突撃だ! 立ち上がれ、突撃だ!」
司令官は土まみれの顔のまま剣を前に振るう。
しかし彼の命令に対する兵士たちの反応は鈍い。
「お、おい! 立てと言っている――」
「――無駄です」
司令官の耳朶に凛とした響きの声が届いた。彼が振り返ると、眼の前にセシルが居た。
「うお!」
虚をつかれた司令官だったが、反射的に彼は剣を振り上げる。
しかし、その彼に向かってセシルは手をかざす。
すると、眼には見えない壁が司令官を突き飛ばした。彼は無様にも地面を転がり、そのまま意識を失った。
「西軍の兵士の皆さん――」
セシルの唇が言葉を紡ぐ。その声は戦場の隅々にまで響き渡る。
「もう、戦う必要はありません。我ら真王国軍はあなた達を受け入れる準備があります。この国の真の平和を望む者こそ、武器を捨ててこの私の導きに身を委ねなさい。しかし、あくまでも私に刃を向けるのならば――――存分に相手致しましょう」
言い終わりにまた一陣の風が吹く。その風に当てられて我に返った兵士たち。その多くは蜘蛛の子散らすように逃げていった。
しかし幾人かの兵士たちはその場に残り佇んでいる。その中の一人がセシルの前に歩み出た。先程の偵察隊の隊長の兵士だった。
「――聖女セシルよ……。本当に、本当に、この国の戦いを終わらせてくれるのか?」
兵士はすがるような声でセシルに問う。
「それが神の御心です。その為に私は遣わされました。安心してください。この国は平和になります」
兵士の瞳に涙が滲む。
「私には、一人息子がいる。もう私は息子に、人殺しの方法を教えなくてもいいのか?」
「剣を捨てて、抱きしめてあげて下さい。それが本来の親の務めです」
兵士は膝から崩れ落ちた。そして滂沱の涙を流す。
「せ、聖女セシル。この身を貴女に捧げる! どうかこの命を使って、この国を平和にしてくれ!」
兵士は涙が溢れる瞳をセシルに向けて告げた。
歯を食いしばり、嗚咽を必死にこらえているのは、兵士としての矜持だろう。
彼に続いて、他の兵士も次々とセシルの前にひざまずき始めた。皆、瞳を涙で濡らして、頭を下げる。たった一人の少女を前にして幾人も兵士がひざまずく、そこには異様ともいえる光景が広がっていた。
「私は貴方たちの命を使うつもりはありません。ここにいる皆さんの犠牲の上に平和をもたらせようとは思っていません。一緒に平和な時代を迎えるのです」
「そんなことが……。こ、国軍を相手にしようとしているのに、犠牲を出さないなんて」
兵士のうちの一人が顔を上げて言った。
セシルは緩やかに首を振る。
「誰かが死ねば、そこには必ず悲しみが生まれます。私は死なせたくもありません。そして貴方がたに殺させたくもありません」
「で、できるのでしょうか? そんなことが……」
セシルはにっこりと微笑む。
「信じましょう。神に奇跡を乞うならば、信仰心こそ最大の力となるでしょう」
セシルの微笑みは朝日のように柔らかく兵士たちの心に染み込む。
彼らの悲壮な顔は次第にゆるみ、笑顔へと変わっていった。兵士たちは長らく忘れていた希望を胸に瞳を輝かせていた。




