Episode:3 023 聖女
セシルが中立兵団の兵士に連れて来られたのは、町外れにある酒場の建物だった。そこはかつて使われていたのだが、今は打ち捨てられて、廃屋の様相を呈している。
中へ入ると、地下室へ案内された。そこは多数の兵士でごった返していた。
地下室の中の兵士たちは、皆、セシルの姿を見ると驚いた様子を見せて道を開けた。
セシルは割れた人波の中をおずおずと進んでいく。
部屋の中心に立たされて、いまだ状況が分からずにセシルは立ち尽くす。
すると、兵士たちをかき分けて二人の男が近づいてきた。
一人は大柄で生気あふれる顔つきをした偉丈夫。
もう一人は美しい金髪の青年。確か修道院と執務室で会った人たちだ。
「お待ちしておりました。セシル・フォーベールさん」
その男は恭しく頭を下げた。
「ええと、貴方は確か……」
「ええ、奇跡監査官のガイゼンです」
「ああ、そうでした。あ、あの、ガイゼンさん。私まったく状況が飲み込めないのですが、今何が起きているのですか? どうしてみんな私を見ているのでしょう?」
セシルの問いに、ガイゼンはふっと笑う。
「皆、奇跡を目の当たりにして、驚いているのです」
「奇跡?」
「ええ、貴女は奇跡なのです。貴女は神に選ばれて、天使をつかわされた聖なる存在。つまりは、聖女なのです」
セシルは余計に分からなくなった。おとぎ話かなにかを話しているのだろうか。
その彼女の混乱を察したか、ガイゼンが優しく語りかける。
「順を追って説明しましょう。まずはお座り下さい」
ガイゼンに促されてセシルは座る。
依然として周囲の視線は集まっており、彼女の一挙手一投足が注目されている。
ガイゼンはセシルの前に立って話し始めた。
隣の金髪の青年――エバンジュが実は天使であること。
エバンジュは誰の教えもなくセシルの前に現れたこと。
そしてその二人が多くの人の夢の中に現れたこと。
「――そこまでは分かりましたが、私が聖女だなんて……」
「確かに、ここの中立兵団の中にも、それだけでは信じられないと言われる方もいます。しかし、今の中立兵団とこの国の状況を鑑みれば、信じるに値しませんか?」
「この状況……」
「はい、クリストフさんが身を尽くした仲裁が踏みにじられ、停戦期間は終わり内戦が間もなく再開されます。その上、中立兵団の団長であったクリストフさんは捕囚の身となり、その命も風前の灯火。
そして中立兵団も今後どのような目に合わせられるか、わかったものではありません。この状況下でこの国の人々が求められるのは何でしょうか?」
ガイゼンが説明終わりにセシルへ問いかけた。
「この国の人々が求めるもの……、やはり父でしょうか? 父が戻ってくれば……」
セシルの言葉にガイゼンがゆっくりと頭を振る。
「確かにそれも人々が求めるものの一つではあります。しかし、神は彼を選ばなかった。神はセシルさん貴女を選んだ。貴女は何故選ばれたのでしょう? 何を求められているのでしょう?」
「……わ、分かりません。こんな私に何が……」
「セシルさん、よく考えて下さい。この国はもう限界なのです。東軍と西軍の戦いは終わらせなければなりません。そして、それは話し合いでは無理だという結論が出ました。残る手段はなんでしょう?」
ガイゼンの問いにセシルははっとする。
「ち、力づくですか? で、でも、東西の両軍を黙らせる力なんて、どこにも……」
「そうです。東西両軍を凌ぐ武力など、この国には存在しません。そして、頼みの国王陛下でも東西の両軍を止めることができない。人々は絶望しました、もう駄目だと。
しかし、そんな時、天啓が降りたのです。セシルさん、貴女に天使の導きと神のご加護が降りてきたのです! もう一度聞きましょう。貴女には何を求められているのでしょうか!」
ガイゼンが燃えるような瞳でセシルに語りかけた。まるでセシルの中に火を灯そうとするかのように。
「わ、わたしは……」
セシルにはガイゼンが言わんとしていることは判っていた。しかし、どうしてもそれが信じられなくて口ごもる。辺りを見渡した。誰もが何かを期待しているような目で自分を見ている。
ガイゼンは黙ってこちら見下ろしている。セシルの答えを待っているのだ。
その時――。
「――英雄」
誰かが呟いた。
その小さな呟きは、この場に燻っていた中立兵団兵士たちの想いに点火した。
次の瞬間、炎が薪を噛むように激情が弾けた。
「そうだ、聖女セシルは英雄だ! 俺たちは戦うぞ!」
誰かが大声で叫んだ。
そして別の誰かが拳を突き上げ、それに続く声が次々と上がる。
部屋の空気は熱を帯び、広間の数十人の兵士たちの咆哮が渦を巻いた。
ガイゼンはその光景を見渡して、満足そうに頷いている。
「ま、待って……」
か細いセシルの声は兵士たちの声で掻き消える。しかし、このまま黙っている訳にもいかなかった。このままでは自分は中立兵団を率いて戦うことになる。
「待って下さい!」
渾身の力を振り絞ってセシルは叫んだ。
その声は決して大きくも無ければ鋭くもなかった。しかし、不思議と部屋の隅々にまで響き渡り、兵士たちの胸を震わせた。
途端、広間は水を打ったように静まり変えった。
「待って下さい、皆さん。私は聖女でも無ければ、英雄でもありません。それに私は戦いを望んではいません。だってそれは、父の――」
「――そう思われるのも無理はありません」
セシルの言葉を遮るようにガイゼンが口を開いた。彼は続ける。
「団長どころか兵士ですらない貴女が、突然英雄と呼ばれても、信じられるわけがありません。しかし、信じられないことが起きるからこそ、神の御業は奇跡と呼ばれるのです。
信じるか信じないかとは関係なく、奇跡は起きるのです。ほら、その証拠にもう貴女の眼の前では奇跡の萌芽は見え始めていますよ」
「わ、私の眼の前?」
「ええ、周りを御覧下さい。ここに集まっている兵士たちは、貴女を待っているのです。新たなる中立兵団の団長として、国を救う英雄として。これだけの人が、貴女を英雄と崇めている事自体が既に奇跡ではありませんか?」
「で、でも、それは……」
セシルは後退った。それを追うようにガイゼンが身を乗り出す。
「いいですか、セシルさん。もう一度言いますが、信じるか信じないかに関わらず、奇跡は動き始めています。貴女が号令を掛ければ中立兵団は動きます。そうすれば判るでしょう、己が神に選ばれし聖女であると。それに貴女は既に天使様より何をすべきかを啓示されています」
「啓示……?」
「ええ、貴女が執務をしているときに、天使様が訪れたことを覚えていますか? あの時、天使様は何をしたでしょうか?」
「え、ええと、私の前にひざまずきました」
「その前です」
「そ、その前は……確か、壁の地図の前で……」
「そうです。天使様は地図の一点を指さしました。それは、内戦の中心であるグルード平原です」
ガイゼンの言葉に周囲の兵士たちはざわめいた。
そしてセシルもはっとなる。
確かにあの時、この金髪の青年はグルード平原を指さしていた。
「あの時、既に貴女は導かれていたのです。あの場所で奇跡を起こせと!」
ガイゼンの高揚しきった声音は、周囲の兵士たちに瞬く間に伝播する。
兵士たちの瞳には力強さが満ち、それぞれに拳を強く握り、語り合いながら、闘志を漲らせている。
一人の兵士が前に進み出た。そしてセシルの前で跪く。
「聖女セシル様。我らに迷いなき道を示し、恐れを越える勇気をお与えください」
兵士たちの視線が再びセシルに集まる。
セシルの胸の中では困惑と不安が入り混じり、心臓が早鐘のように鳴り響いていた。唾を飲み込み、なんとか言葉を絞り出す。
「……す、少し、時間を下さい……」
そう言って、セシルは項垂れながら、地下室を後にした。
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「――ガ、ガイゼン上級監査官……」
「なんだね、リネット補佐官」
地下室から出たところで、リネットはガイゼンに言葉をかけた。
「あ、あの、先程のガイゼンの上級監査官のお言葉、我々が禁じられている奇跡への介入ではないでしょうか? 我々は奇跡を監査するだけであって、奇跡を起こす立場では無いと常々言われています……」
それに対してガイゼンが力強い眼でリネットを見る。彼女はその眼光の鋭さに竦んだ。
「君の言う通りだ。リネット補佐官。だが、私は奇跡への介入などしてはいない」
「え、しかし……」
「解釈の違いだ、リネット補佐官。私は奇跡を起こそうとして、聖女セシルに話していたのではないのだ。彼女に奇跡の存在を問いかけていたのだ。奇跡とは稀にしか起こらない。その為、多くの人がそれを信じない。だから、私はその人々の胸の中の信仰心に問いかけるのだ。奇跡を信じるかと」
「…………」
黙りこくるリネットにガイゼンはふっと笑う。
「要するに私は、これは奇跡かもしれないという監査の眼を人々に持たせているのだ。どんな奇跡も人々が信じるところから始まるのだから」
「奇跡の可能性を浮き彫りにするということでしょうか……?」
「その通りだ」
ガイゼンは力強く頷いた。
リネットは未だ困惑の残る顔でエバンジュの方を見た。
彼はいつも通り何も言わずに微笑んでいた。




