7 ハチノヘとクジ
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飛行戦艦ネクサスがどのような理論で宙に浮かんでいるかは、全く知られていなかった。
ネクサスを覆う装甲と武装は数万トンの重さで、にもかかわらず堂々と高度八百メートルを進んでいく様から思うに、ネクサスは周囲の空間の物理法則を曲げているようだ。
クジは目を細め、それからキーボードを叩いてディスプレイを船外カメラから、和歌山県周辺マップに切り替えた。
足下から響いてくるのは、ネクサスの呼吸音。ネクサスに埋め込まれた謎の反応炉は、ネクサスが浮かんでいようが、着地していようがおかまいなく、常に騒々しくうなり続けていた。
ネクサスを造ったのは鎖国期のはるか昔、鎌倉時代か、室町時代のゴールデンエイジに工房にこもっていた天才だろう。日本の現代的な機械テクノロジーの大半が、これらネクサス内からサルベージされた物からもたらされたことは間違いないが、それでもネクサスについて知っていることは実に少なかった。
クジの眼前で幻想的な光と色で和歌山県周辺状況を表しているディスプレイの材質でさえ、なんらかの高次な硅素塩であること以外分からない。クジの指はキーボードの上を目にも止まらない早さで動いているが、彼女自身は自分の打ち込んでいる命令の内容を理解できない。ただ、暗記している意味も知らない文字列をネクサスに与え、ネクサスはそれに無言で従っている。
ネクサスは、自分に乗っているのが偉大な建造者ではなく、こんなちっぽけで愚かな人間だと気付いているのだろうか?
分からなかった。
ネクサスとは、理解のできない、怪物なのだ。
ネクサスに長いこと乗っているクジだが、突然、予測する間もなく恐怖に襲われることが多々あった。
自分たちは巨大な獣の胃袋の中に、無邪気に入っていく虫だ。いつかは、獣はいらだち、自分たちを殺そうと決意するのだろう。いつかは。
そして、自分がやろうとしているのは何だ?
4フレーズ計画。あれはネクサスの怒りを爆発させようとせっせと薪をくべているようなものだった。
いや……だめだ。気弱になっている場合じゃない。
やらねばならないことなのだ。
人類の未来のためだ。
クジは青白い顔で立ち上がり、廊下へ出た。政府軍クルーであふれたブリッジはすぐ隣だった。同僚のハチノヘの姿を探す。だが、いるのはブースでディスプレイを睨む政府軍クルーばかり。
そのとき、指揮官らしき姿をブリッジの真ん中で見つけ、クジは歩み寄った。
だが、それはハチノヘではなかった。
和歌山県軍のリーダー、ジョビ大佐が笑顔でクジに会釈する。黒い肌の切れ目の向こうで白い歯が光った。
「二十四隻のネクサスとともに進軍なんて、まったく夢のようですね!」
ブリッジ前面にある大形スクリーンに、隊列を組む二十四隻のネクサスが映されていた。
これも船外カメラで撮っているものだ。ネクサスには防御力を高めるためか、窓は一つもなかったが、そこらじゅうに埋め込まれたセンサー類が人間の目よりもはるかに役に立った。
「あの半島戦争でさえ、これほどのネクサスがそろったことはなかったはずです。こんな光景を目にできるとは、私も運がいい」
「ジョビ大佐、あなたも半島戦争に出兵を?」
ジョビ大佐は自嘲めいた笑みを作って、首を横に振った。
「私は最前線に立って、部下を指揮するというのは苦手でしてね」
「なるほど」
クジは適当に相づちを打つ。
一応、当事者の県軍リーダーのため、ジョビ大佐は政府軍ネクサスに乗っているが、和歌山県軍なんていうのはみかん泥棒を追い払うことぐらいしかできない、烏合の衆だろう。
ジョビ大佐にはなんの力もなく、PCOのプロジェクトの妨害とはなりえなかった。
「しかし、二十四隻ものネクサスというのは、本当にすごい。この姿には、アメリカやソヴィエテといった、列強大国も感銘を受けるとは思いませんか?」
「かもしれません」
「日本が列強大国の一つに加われる日も近そうです。私は嬉しくなってきましたよ」
ジョビ大佐は言う。
だが、クジはゆっくりと首を横に振った。
「地球上にはアメリカ、イングランド、それらと敵対中のシェル、ソヴィエテ、そして、それ以外にもいくつかの列強と呼ばれる強国がそれぞれの野心を持って、天下統一を狙ってます。しかし、私たち小国にとっては、これは困った状況です。現に、日本はリビルダーの利益のための工場と成り下がっています。また、いつ列強の政治的ゲームの一つの犠牲として滅ぼされてしまうとも分かりません」
「でも、あなたたちのおかげで、日本の経済は成長しているではありませんか」
「それだけでは列強の地位へと上ることはできないのですよ、ジョビ大佐。それに、日本は第二次世界大戦や、半島戦争で不必要に目立ちすぎました。日本各地に作られた、リビルダー駐屯基地の存在する意味をご存知で?」
「あれらは、プロセッサー主義者や、中国人が攻めてきたときに、私たちを守ってくれる物でしょう」
ジョビ大佐は言った。リビルダーが発表した通りの言葉だった。
なるほど。県軍のリーダーでこの有様か。
「列強は、新たなライバルが増えるのを許しはしないのですよ。それに、地球上の資源にも限りはありますからね。天下を狙うゲームのプレイヤーは少なければ少ないほど都合がいい」
クジは言う。
「あまり先人に不敬なことを言いたくはありませんが、リビルダーがやって来て命じなければ、遺伝子強化人間などという邪悪なプロジェクトが彼らの頭をよぎることはなかったでしょう」
「そうかもしれませんね」
ジョビ大佐は言ったが、その日本人離れした顔は、判読できない表情を浮かべていた。
「ですが、私たちPCOは最近、新たな技術を手にしました。近いうちに状況は変化を見せるはずです」
「おお、新技術導入による市場の活性化ですか。それは楽しみです」
クジは微笑み、赤い舌で唇を湿した。
PCOをゆるやかな経済的協議組織と思っているこの男は、来るべきときにはどういう表情でニュースを聞くのだろう?
そのとき、ブリッジにハチノヘが入ってきたのに気付いた。
ハチノヘはサーベルを鞘ごと手に持ち、クジにゆっくりとうなずきかけた。準備ができたという合図だ。
「ジョビ大佐、長野のPCO本部から重要メッセージが届いたようなので、失礼させていただきます」
「どうぞどうぞ」
クジはハチノヘに続いてブリッジをあとにした。
ネクサスは、建造者の一人一人の精神内部を投影したかのように薄暗い内部構造を秘めている。その奥底の内蔵部には、一部の政府軍高官や特別な人間しか入ることの許されない部屋があるのだが、いま、その部屋には実に大勢の人間がいた。
彼らは流行の地方からの集団上京のためにネクサスに便乗した人々ではない。全員が学者風の雰囲気をまとった男女であり、多くはかなりの高齢だった。
そして、全員が椅子に縛り付けられている。まるでそうしていないと、椅子の上で体の形を保っておけない、とでもいうかのように見えた。
「これで全員なのか?」
ハチノヘがサーベルの柄に手を置いて尋ねた。
「意外と少ないものだな、遺伝子強化プロジェクト参加の研究者は」
「当時のリビルダーが豊富にデータをくれたおかげで、この人数でやっていけたのでしょうね。あと、全員を捕らえられたわけじゃないことをお忘れなく」
クジは上向きのメスの刃のような目つきで、書類をめくりながらいった。
この囚人達は第二次世界大戦後から半島戦争に至るまでの期間、遺伝子強化プロジェクトに携わり、和歌山で生まれた人間をどんどん遺伝子強化していった、今回の事件の実行犯にして、黒幕、そして元凶そのものでもあった。
PCOと政府軍は日本中を探しまわって、彼らの行方を探った。ある者はいまだに研究機関に職を持ち、またある者は退職して平安に身を置いていた。それが十年ぶりか、十五年ぶりかに鋼鉄の船の中で再会を果たしたというわけだ。
ハチノヘは囚人たちを威圧的に見下ろした。早くもこの役柄に馴染みはじめている、と自分を分析した。また、そうなっていなければクジにプロ意識を問われる場面だ。
この研究者たちはどこか、PCOや政府の現職の科学者たちとは違う感じがした。なにかおかしな、狂わしい動きを感じる。
人間の遺伝子とやらをいじって、よき兵士にしようとする狂気の、そしてバカらしいプロジェクトを押し進めるうちに彼ら自身もなにか悪いものを吸収してしまったのかもしれない。
「ハチノヘ、一番重要なのが欠けてるわね。遺伝子強化プロジェクト主任が」
「くそ。不手際だ。うちの情報部も抜けてるからな」
「でも……ある程度は仕方ないかも。その男の居場所が居場所だもの」
「どこだ?」
「和歌山県県立アカデミー内。それが遺伝子強化プロジェクト主任のフジーム博士の居場所」
ハチノヘは肩をがさがさふるわせて笑った。
「ははは……ユーモラスな奴だな。自分の作品に囲まれて教鞭を握ってるのか。いいだろう。和歌山県軍にフジーム博士を捕らえさせる」
PCO警備主任は壁面に取り付けられた受話器を取り、ジョビ大佐に電話した。
その間、クジは座らされている囚人がぶつぶつつぶやいているのに気付いた。もちろん、囚人はぶつぶつつぶやくか、ぎゃあぎゃあ騒ぐものに決まっているのだが、その内容がクジの興味をひいた。
「フジームか。……あれは裏切り者じゃった。我らは大きな可能性を手にしようとしていたのを、あやつはつぶしてしもうた」
「どういうこと?」
クジは目線をあわせようと、囚人の前にかがんだ。
「政府は我らの研究は手遅れで、もう必要ないなどと抜かしたが、我らは期限内に完成させていた。あのフジームが研究を隠しておったのだ。あやつが急に弱気になってあのようなことをしなければ、我らはーー」
科学者の有機金属の義眼はクジなんか見ていないようだった。
「でもね、科学者、実際あなたたちの遺伝子強化プロジェクトは不要だったのよ。あんなものなしでも我々リビルダー側は半島戦争で南下してくるシェル軍とソヴィエテ軍を食い止めて、休戦を結ぶことに成功したわ」
「そうだ」
電話を終えたハチノヘがクジの隣に立った。
「そして半島戦争が終わってから、すでに十年が経つ。いまなおリビルダーの桎梏こそ消えぬが、日本は十年間戦争を味わず、かつてないほどの勢いで経済は成長した。いまや時代は戦争よりも平和を愛する時代へと変わりつつあるのだ。人間の遺伝子をいじくって強い兵士を作るなどという馬鹿なプロジェクトはここで葬らねばならん」
ハチノヘは言う。それに対し、囚人の科学者たちははらわたを滅茶苦茶に揺さぶるようにして、一様に嘲りの笑いを上げた。
「馬鹿はおまえ達だ。PCOの者たちよ、おまえ達はなにも知らないのじゃな? 我らの遺伝子強化プロジェクトがそんなつまらないものだと思っているのか?」
「思っているぞ」
ハチノヘが即答した。
「たわけ者め。教えてやろう、半島戦争中、リビルダー首脳はよき兵士たる遺伝子強化を施された兵士を作るように命じてきた。それは実につまらぬ仕事でもあった。だが、同時に我々は日本政府側の極秘機関からも命令を受けておった」
「極秘機関ねえ……それが私たちPCOじゃないことは確かね。その命令とは?」
クジが紙になにか書きながら尋ねた。
「新たなる人間の種の創造だ。この惑星を任された人間はそれに相応する責任を持っておる。だが、我々は地球の上で争い合い、汚染し、他の種の生物を滅ぼしておるのじゃ。我々は変わっていかねばならぬ。遺伝子強化人間プロジェクトを用いれば我々は進化できるのじゃ。より強く、より賢き存在に」
「ふん、話が大きくなるな」
「半島戦争が予想に反して早々と終わってしまわねば、我々は遺伝子強化人間に関してより多くの情報を手に入れ、さらには一代限りの兵器ではなく、我々の種族を置換することが可能な優れたものが産まれたというのに、その機会を潰してしまうとは惜しい話だ」
「狂ってるわね……」
「ここは狂った世界なのだ! 我らの狂った世界なのだ! だが、短命とはいえ、遺伝子強化人間制作には手間をかけた。奴らがどれほどの破壊を引き起こしてくれるか、楽しみなものだ。そして、奴らが怒りに目覚めたときが、おまえ達の最期だ」
老科学者は歯のない口に笑みを浮かべ、口腔の闇をのぞかせた。
「おお、怖い。あなたたちが改変した哀れな子供たちが怒りに目覚めたときに襲われないよう、私たちはこの空中戦艦から出ないことにするわ。さて、政府軍の和歌山県制圧部隊を早く出撃させないと……。暴動を許すわけにはいかない」
クジは囚人たち椅子の間をゆっくり歩きながら言った。
ふと違和感を感じ、彼女の足が止まる。一番端の囚人の年齢が奇妙に若かった。
この部屋の科学者は皆、第二次世界大戦から半島戦争へと至る時期に最盛期だったため、多くの者が高齢だったが、この囚人の年齢はまだ少女と呼べるほど。
十五歳ほどだろうか。
嫌な予感がしてクジは手元の書類をめくった。
囚人の女は白目を向いていた。その体が小刻みにかたかたと震えている。クジは彼女のプロフィールに目を走らせた。
PCOが彼女を捕らえたのは秋田県。そして出身は……和歌山県。
「くそっ」
クジは書類を放り投げる。ボキリと音がして女の椅子を床に留めていたボルトが弾けとんだ。彼女を縛っていたワイヤーが甲高い音をたててあっさりとちぎれた。
クジの手がホルスターへと伸びる。
「我らの成果を見よーっ!」
老科学者が、そびえ立つ山頂に立った人間がやるように声を張り上げた。
クジは凄まじい力に殴打され、壁に叩き付けられた。衝撃で天井のランプが落ちる。
ハチノヘは思わず茫然自失としていた。一瞬前まで捕われた科学者に見えた集団の中に、まったくの異形の姿となって部屋の真ん中に立っている奴がいる。
その体の色は悪性腫瘍の黒だ。なおも、その体の内側から、体を大きくしようとする力があるようで、異形はさらに膨らみ、たくましくなっていく。自己の内側からの膨圧に耐えきれないように、異形がおぞましい叫びをあげた。
いかなる他の存在とも似つかない、その姿をハチノヘは解釈できない。恐怖に似た感情を芽生えてくる。異形が、クジを打ち倒した触手を口から放ったが、それにハチノヘが対応できたのは単に訓練の賜物だった。
ハチノヘのサーベルが一閃して、異形の触手は倒錯したソーセージのように床を跳ねた。ハチノヘはうおっ吠えて、科学者たちを踏みながら遺伝子強化の化け物に斬り掛かる。
しかし、敵は新たに腹や胸から手足を生やす。まるで加速された発芽の映像を見ているようだ。
ひるんだハチノヘを何本もの黒い屈強な腕が掴み、天井に叩き付ける。ハチノヘは訳の分からぬ怒声を発しながらサーベルを振り回し、敵の指が何本も斬り落ちた。だが、敵はびくともしない。むしろ嘲笑を漏らすような音をたて、風車のように腕をふるい、ハチノヘノの体は床に突っ込む。空中戦艦の中につかの間の地震を生んだ。
男の息の根を止めるべく、異形の腕がコブラの頭のようにふり上がる。
床に転がるクジは激痛に顔をしかめながら、ホルスターから手銃を引き抜いた。合成樹脂製の銃床を歯で引き出し、肩にあてる。四角い照星の向こうには黒いごつごつした姿。もうそこにはまったく人間の面影がない。
黒い顔がクジの方をゆっくりと向いた。視覚器らしいものはなにも見当たらないその顔からは、あったとしてもそこから表情を読み取ることなどできはしない。
クジは銃爪を引いた。敵もかわそうと、かすみを残して動く。
だが、動きは直ちに中断された。ハチノヘのサーベルが遺伝子強化人間の足を床に縫い留めていた。血まみれのPCOの男が床で、勝者の笑みを遺伝子強化人間に投げかける。
直後、銃弾がうなりを上げて破壊を開始した。
無薬莢弾特有の刺激臭が立ちこめる中、ハチノヘはゆっくりと立ち上がった。
科学者は全員息絶えていた。クジの銃弾が、彼らを処刑するハチノヘの手間を省いていた。
そして、その真ん中に長々と横たわる横たわる異形の死骸。弾倉一本分の銃弾のために極めて多孔状となったその姿は、ますますかつての人間の姿とかけ離れたものとなっていた。
ハチノヘはクジを助け起こした。
「大丈夫か?」
「どっか折れたみたい。あっちもこっちも痛いし」
「長野に戻れば治療できようよ」
ハチノヘはサーベルを自分の制服の上着で拭いながら、遺伝子強化人間の煙を上げる死体を足でつついた。
「これが何を意味するのか分かるな、クジ?」
「ええ」
「無害な子供に見えたそれは、突然黒くてでかい化け物に化けた。いや、科学者どもの言葉を借りれば進化した、か?」
「戦闘訓練をまったく受けていない子供が、攻性生物並みの戦闘力を得たわ」
「和歌山県には何匹の遺伝子強化人間がいるんだったか?」
「この世代の子供たち全部がそれよ」
「畜生め」
「……やるべきことは一つね」
ハチノヘは壁から受話器をとってクジに渡した。通話先はネクサス全二十四隻の艦橋だ。
「こちらPCOの派遣オブザーバーのクジ」
ひどいことになるだろう、とクジは予測する。だが、躊躇は許されなかった。クジは一息に命じた。
「PCOから付加された権限レッド1を完全に発効する。全ネクサス、離陸して和歌山県県境を封鎖せよ。遺伝子強化人間対策プランをフェーズ2に移行する」
二十四人の艦長から了解の返事が返ってきた。