6 ラミタイ
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和歌山県はそう遠くなく死んでしまうはずの子供たちに対して、贖罪のつもりか、同情のつもりか、無料で、提供できる限りのサービスを提供してきた。そして、その中にはろくなサービスが含まれていなかった。
例えば、映画を例にあげると、和歌山県自身は映画を作る技術を持っていないし、隔離された地理的条件が他県からのフィルムの輸入を困難にしている。そう書かれた県の役人の弁明が映画館でポスター代わりに並んでいる。そういう県なのだ。ラミタイはこの手の台詞を産まれたときから聞かされてきた。
ザーゴの言っていたピートルズを招くために、誰かさんは途轍もない努力をしたことだろう。
ラミタイも世界的芸術家ピートルズの超越的音楽に関する噂は耳にしていたし、少なからず興味もあった。ファレリアにピートルズのことを投げかけてみると、勘弁してくれとの返答がかえってきた。最近のファレリアらしい返答だ。
そこで一人で和歌山アリーナに向かった。だが、もともと狭かったそのアリーナは、人でごった返していた。
死すべき子供たちは、優先して入れてくれるはずだったが、だとしても人があまりに多くて、アリーナの入り口までたどり着く手がなかった。
結局、遥か彼方のステージのピートルズのメンバーがどのような姿なのか見えることはなかった。
ただ、ステージから聞こえてきたのは妙にヨーロッパ風になまった英語だったし、しかも一人の人間の声だけだった。ピートルズは五人組の上、メンバーのジョン・ジクサス以下全員がアルゼンチン出身なのだから、アリーナに立つのが本物のピートルズかどうかは怪しいものだと思った。
そのためだろうか、唐突にラミタイは興味を失い、そこを離れると、和歌山県隔離のために朽ち果てた国鉄線路を歩いて和歌山市辺縁部に帰ってきた。気を取り直して、今度は映画でも見に行くことに決める。映画館にあるのは白黒で、滅多に更新もされない映画のみが並ぶが、一昔前のスライド写真や、堅苦しい国営チャンネルのみのテレスクリーン付きラジオより大分面白かった。何よりも、現実を束の間忘れさせてくれる力を持っている。
気がつけば、なぜか懲りずにファレリアに同行を誘っていた。
なぜこの期に及んで、他の死すべき子供と接触を保ち、死が近づいてくる以前の生活を真似ようとしてしまうのだろう。
ファレリアが、そして周囲の人間たちが急速に変わっていくのに対する、反抗なのかもしれない。同時に、ファレリアのように、全てとの接点を絶つ勇気も、気力もないのが現実だった。
だが、そうした考えを頭の中でまとめる前に、ファレリアから了承の返事が来た。驚かされた。
病巣に全ての免疫因子が集まるように、全県民がピートルズを見にいったのか、和歌山市辺縁部には人気がない。
空が赤紫色に染まる中、板葺きの厩の隣、竹穂垣に囲まれた廃墟にも似た木造の映画館の前に二人は立っていた。その入り口は閉ざされている。
「どうする? 帰る?」
ファレリアが気のせいか投げやりな口調で尋ねてきた。
「帰るっていっても、他にいくほどの場所ももうないよ。ここで残ってる小遣い全てを使ってしまいたかったんだけどな」
「消費は正しい市民活動ね」
一晩中立ち尽くしている訳にもいかない。ラミタイは柵を飛び越し、映画館の横の管理小屋に侵入した。
がたつく扉の向こう、暗い小空間は散らかっていて、柑橘類から作る地酒の匂いが充満していた。
机についている人の姿がないので留守かと思ったが、人はいた。
酔っぱらった人間がよくやるように、床に座って上体を壁に持たせかけている初老の男がいた。県の役人には見えなかったが、県の役人の制服を着ている。
「あのーー」
「この県の数少ない娯楽であるはずのここからも人の姿が消えたか。いよいよおしまいだな」
男は呂律の回らない口で言った。
「……別にみんな死んでしまったわけではないですよ。ピートルズを見に行っただけです」
「誰もが幻影へと逃げ込むわけか」
「今日はやってるのかい?」
「ああそうだろうよ。今更そんなことをして何になるというんだ?」
男の焦点の合っていない目は床を見ていた。
「どうせおまえたちはみんな死ぬんだ。今更何の意味があるというのだ? ……そうだ。……おまえたちは呪われた生き物だ」
ラミタイは防御のために目を閉じた。こういった台詞は、非公式の場所で時たま聞かされてきた。
「おまえたちが死に絶えれば、この県もかつてのように、正常な県に戻るだろう。全ての県民に幸福がもたらされるだろうよ」
「今日は閉まっているんだね?」
「おまえたちのせいなんだ……。さっさとくたばってーー」
「私たちは死ぬにしても、誇りを持っているし、何か残せる物はあるわ」
背後から細くて静かな声がして、ラミタイはびくっとした。
ファレリアが戸口に立ち、斜陽が彼女の影を伸ばして小屋の中に投げかけている。
「……機材は全て置いてある。マニュアルもだ。勝手に使え」
酔っぱらいはそれだけ言うと、頭を胸元に埋め、肩を震わせ始めた。泣いているのか、笑っているのかは全く分からなかった。
「行こう」
ラミタイはファレリアの腕を引っ張って、薄暗い一室から引き離した。
映画のフィルムは初めて見る物で、大胆な映像効果に度肝を抜かれた。ストーリーは複雑だったが、それでも簡略すると、狂った軍人から男女が逃げ惑うというストーリーだった。
男女の顔は、まるで遺伝子強化でも施されたかのように悲壮だった。
狂った軍人が、不気味な決め台詞を口から吐く。
『おまえたちに脛骨を突き刺し、壷に放り込んでやろうか!?』
どういう意味なのだろう。薄く気になった。
やがて、この映画にも終わりがやってくる。同時に現実が再開して、ラミタイはため息をついた。
大して意外ではなかったが、フィルムが終わったときにファレリアの姿は隣になかった。
ファレリアの姿はすぐ近くの海岸にあった。
湿気で重たい、涼しい海風が顔に当たる。
太平洋に潜んでいるのだろう、魔物の咆哮が聞こえたような気がした。
大勢の人間が、頭の上に灯台が倒れてきたときに上げるような、どこか悲しさを含んだ声音だ。
「消えたわ」
彼女がつぶやいた。
「何が?」
ファレリアの後ろ姿に問う。
「生き物が消えてしまったわ」
「ピートルズを聞きにいったんじゃないのか?」
ラミタイは言ったが、我ながら意味をなさない言葉だった。
「予兆か……」
「多分ね」
ここで生まれる死の陰から逃げていったのだろう。賢明な手だ。
だが、自分たち、死すべき子供がこの陰から逃げる手はない。
「その時が来たら、どうするつもりなんだ?」
誰にも尋ねたことのなかった質問を、ラミタイは口にしていた。ようやくそれを人に尋ねる時期が来た気がした。
「やるべきことがある」
「何だ?」
彼女はラミタイの方を見ず、きびすを返す。
「来て」
後ろ姿は、怒っているようにも、泣いているようにも見えたが、彼女の声は断固としたものだった。
ラミタイはファレリアと交える言葉もなく、ついていった。
みかん収穫時期に急な斜面を荷箱を満載して上り下りするモノトラックが眠っている。みかん畑の地面が青く見えるのはみかんの木の根元に防水布が敷いてあるためだ。地熱も、自然の光も余さず農作物につぎ込もうという、農夫の知恵だった。そして、そのためにみかんの木は水面から突き出しているように見えた。
ラミタイは炎の輝きに気付いた。
みかん畑の一角、夜は黙り込んでいるスピーカータワーの鉄の足の下。ごうごうとたき火が燃えている。
みかん畑の持ち主は、唐突に、夏の間の除草などといった、面倒な仕事が嫌になって、焼き畑を決心したのだろうか? ラミタイはそう考えた。
だが、違った。
炎の揺れるパターンは奇妙なシンボルを表しているように見えた。そしてその周囲を取り巻く人影。
ある者は炎で全身を清めようというかのように、炎の舌でなめられそうなほど炎に接して立ち、ある者は座り込んだまま炎を凝視している。
その目はまるでーー神が生まれるのを目撃しようとでもいうかのような狂わしい光そのもの。
そして、炎の周りの人間の年齢はラミタイとファレリアと同じぐらいだった。
死すべき子供たちだ。
ラミタイの足が震えた。自暴自棄になってしまい、放火の罪を犯そうというのか?
隣のファレリアが両手でラミタイの腕を握っていることに気付いた。
「来るぞ!」
炎を取り巻く若い男女が口々に叫んだ。
一人の死すべき若い男が進み出た。火炎を抱くように両腕をひろげながら炎の中へ進んでいく。
ラミタイの震えは立っていられないほどになる。
死を前に、自暴自棄になった子供は、その重圧に耐えきれず、焼身自殺でもって一足早く死んでしまおうというのか。
しかし、それでもなかった。
炎の中で、なにか強烈な反応が起きたかのように火勢は強まり、炎に入った男がまだ両手を広げて天を仰いでいる姿が黒く見えた。男は体を反り、口を大きく開けている。
そして、男は吠えた。異質で、悲痛で、しかし、断末魔とは全く異なる叫び。
その叫びは畑を満たし、ラミタイの頭の中に染みるように入ってくる。
炎の周りの死すべき子供たちが踊るように揺らめいた。ラミタイの視界も、急な涙のためにぼやけていく。
炎の中の男は頭が地面につくほど反り返り、ついに耐えきれなくなったかのように腹がばくんと避けた。そこから新たな何かが生えてくる。
男の体内で様々な変化が起き、それに合わせて外見も変わろうとしていた。炎が飛び散り、みかんの木や周囲の死すべき子供たちに降り注ぐ。
誰もそれに注意を払わなかった。
周りの死すべき子供たちは、皆が皆、恍惚の表情でその劇的変化を見とれていた。
ラミタイは腕の痛みに気付く。ファレリアの指の爪は、ラミタイの腕に食い込むほどだった。
「これが……私たちの……なるべき姿」
彼女は歯を食いしばったまま、かすれた声でつぶやいた。
ラミタイは彼女の手を振り払うと、くぐもった叫びを残して、夜の闇へと駆け出した。
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