22 優性
選果場を、屋上まで登っていくのはそう難しいことではない。高層ビルほどの高さの選果場の階段を上っていくとなれば一大事だが、みかんの積み降ろしは屋上でも行われたため、トラックやマンモスを上げるための大形エレベーターがいくらでも設置されていた。選果場の地下にある果汁発電所の電力を得て、金属の箱は巨大な選果場の壁面を上りはじめた。
重い沈黙が続いていた。県軍人の体から落ちる血の滴がたてる、栓のゆるい蛇口のようなぽたっ、ぽたっという音だけがする。エレベーターの窓の向こうで和歌山市は燃えていた。
県軍人は、彼が守らねばならなかった都市を見ながら口を開く。
「あの遺伝子強化人間、知り合いだな?」
「同級生だよ」
「なぜ奴は変異したのに理性を保っているんだ? 変異したら、全く異質の生き物になってしまうのだろう?」
ラミタイは顎に手を当てた。自分の中で渦巻くイメージは、借り物だ。自分を体内から食らおうとしている化け物が、手始めに作ったのだろう。それでも、新たに作られつつある基盤から見ると、答えは見えた。
「たぶん……ザーゴは完全に主導権を渡していないんじゃないかな? ザーゴに封じこめられた生き物はザーゴの理性があった方が都合だと考え、ザーゴも力は得ても、自我までは失いたくなかった」
うまい手。うまい取引だ。さすがはザーゴだ。体内の化け物を説得してしまうとは。
自分にそんな真似はとてもできないだろうことは、確信を持てた。
たとえ両者の意識が共存していたとしても、生物の体は二つの精神が共存することを許さない。これは明らかだ。ザーゴも他の遺伝子強化生物と同じようにそのうち死ぬ。でも、あいつならその前にいろいろなことをやりそうだ。
「おまえたちの中にいるのは恐ろしい生き物なのだろう?」
「ああ」
ラミタイは強く同意した。体内のその黒い情動のことを、より理解するにつれ、より恐怖は増していく。
飲み込まれるのは時間の問題だろう。
「利害の一致で……それでハイブリッドになったと? なんっつう、でたらめな……」
「あるいは、それさえもおれたちの設計の一部かもしれない。一つの体に、全く異なる二つの生命が詰め込まれているんだ。どんな効果が起こるのか、設計者も全てを予測することはできなかったのかも」
「おまえはどうなんだ? ハイブリッドに進化してザーゴとの戦いを有利に、あるいはそうでなくてもせめて五分に持っていくことはできないのか?」
ラミタイは目を閉じて頭を振った。
「おれの遺伝子の中の生き物は何も話しかけてきていないようだ。少なくともおれの気付く方法では」
「詩的な表現を使うじゃないか」
「これより、この状況を気取って言い表せる言葉は持ってないよ」
「ふむ……なら、勝算はこの上なく低い。当たって砕けるしかない」
「だとしても失うものは何もないさ」
事実だ。
遺伝子強化されたことを恨んで、暴れて死のうとしているザーゴたちは一次元的な考えしかできていない。
でも、自分はもっとひどい。自分の行動に意味はない。
生き延びるすべはどこかにあるのかもしれない。まるで、それをちょっとした理由から思い出せずにいるという、不可思議な感覚がつきまとう。
だが、自分たちはそういう風に設計されていないのは明らかだ。だとすると、何なのだろう? これは体内の異生物の希望でも意味するのだろうか?
ラミタイは思い描けるだけのイメージを頭の中に作ってみるが、無理だ。
生き延びる手なんかない。
空飛ぶ黒い姿へと目をやる。翼手類でも、羽虫でもない醜い連中は、同類だ。知り合いでさえあったかもしれない姿。
しかし……ザーゴたちのように周囲のもの全てを破壊するのは……傲慢だ。どんな理不尽な滅ぼされ方をして、絶滅へと追いやられた生き物とて、最後は静かに消えていく。次の生き物にその座を譲るために。
長い目で見るとファレリアの活動の方が歴史にもずっと影響を与えていることだろう。まったく、彼女は殺されるべきではなかった。彼女の望むやり方で最期を迎えるべきだった。
ファレリアを美化しすぎだろうか? ……まあ、いい。
自分がやるのは復讐だなんていう、まるで意味のないことだ。
それでも、人間は意味のないことに意味を見いだすのが得意な種族だ。
あるいは、意味のないものなんてこの世にはないのかもしれない。
エレベーターは停止した。
ラミタイの右腕や肩の棘状となった皮膚が逆立ち、イルヒラムの目にさえとらえられない速さで振るわれた。エレベーターの扉が弾け飛び、金属の塊となって四散した。
二人はゆっくりと屋上を歩いていく。
イルヒラムは頭上高くを、空飛ぶ遺伝子強化の化け物が取り巻くように飛び回っているのに気付く。だが、ラミタイは一切気にしない様子で歩き続けた。
屋上の床にはマンモスやトラックを誘導するための線がひかれ、高いクレーンが街路樹のように規則正しくどこまでも続いている。クレーンはみかんの積み降ろしだけではなく、保存中のみかんの味を良くするため、みかんのコンテナをひっくり返すためにも使われる。
選果場の大きさは、隣の学校に通っていたラミタイにとっても感銘を与える大きさだった。
オレンジ色のもやの向こうから、染み出るように身長五メートルを越える姿が現れ、二人の前に立ちふさがった。選果場の労働者ではない。十匹ほどの異形だ。
「さあ、どうする?」
イルヒラムがきいた。両手にはすでに拳銃が収まっている。
だが、それに対し、ラミタイは異形たちを見てもいなかった。心の平安という、せっかくの精神のインフラストラクチャを、体内の化け物に食われることで失うことは、事実誤認も甚だしかった。
こんな連中は、野獣と変わらない。
ラミタイは凍り付いたようにそのさらなる向こう、選果場の屋上のふちに立っている六本の脚を生やすただ一人の男を見ていた。
奴は違う。
ラミタイは悲しげに息を吐き、右腕を振るった。彼の隣に生えていた高さ五十メートルほどのクレーンが、鋭い音とともに根元からへし折れて、ゆっくり倒れてくる。
異形たちが驚いたが、もう遅い。
けたたましい地響きがおきて、十匹の大柄な遺伝子強化の化け物は押しつぶされてしまった。
さらにラミタイは横たわるクレーンを右手でつついて、吹き飛ばした。クレーンは風車のように回転しながら悠然と立つ異形の首領、六本脚の影へと猛然と襲いかかった。だが、ザーゴもかすかに体を傾げてそれをかわすと、二人の前に歩み出た。
「選択したぞ、ザーゴ」
ラミタイが吐き捨てるように言った。
「ずいぶんとまずい選択だな」
「おれたちに遺伝子強化みたいなことしかできなかった、心の平安を知らない、哀れな人間のために祈ってやることはできないのか?」
「無理だ。僕はもう自分の怒りを抑えきれない」
ザーゴは両手を広げ、背中の六本脚もそれに同調した。それを合図に空の百匹もの異形が迫ってきた。化け物たちの黒い姿が空を覆い隠す。
ラミタイはそれを見て、戦いの予感に総毛立ち、彼の変異はさらに進む。黒い線が首を上がって頬にまで達し、ついには片方の目がそれに飲み込まれる。
彼は自分でも認識できない感覚に身を委ねる。
気がつけば、自身に切り裂かれた空飛ぶ遺伝子強化の化け物が、死体と成り果てて転がった。
だが、依然として空は見えない。
高速で周囲を飛ぶ無数の化け物が土砂降りの雨のように視界を埋めていた。
すでにイルヒラムの姿はなかった。人間はひ弱な上に、死を死ぬほど嫌がる生き物だ。この状況は人間が生きるには過酷すぎたに違いない。
カーテンが開くように空飛ぶ化け物たちの壁に亀裂ができて、ザーゴが眼前にやって来た。
「おまえに宿っている生き物は、さぞ素晴らしいものなのだろうな、ラミ。完全に変異していないのにこれほどとは」
彼は言った。
ラミタイの攻撃は一瞬だ。
黒い手刀の切っ先をザーゴの心臓に突き込む。予備動作に必要な時間は六十ミリセカンド。
だが、ザーゴの六本の脚が牙のようにがちっと閉じると、ラミタイの手はそれに挟まれ、止められていた。ザーゴの心臓までは数センチ及ばない。
「惜しむべきは、おまえにまだ人間の部分が残っていることだ!」
衝撃。
ラミタイは床に叩き付けられ、コンクリートは放射状にひび割れ、半径五十メートルほどの円を作った。
「あるいは逆かな? 一番劣った個体なのかもしれない。まだ変異が終わらないのだから」
さらなる攻撃を予測して、即座に頭を上げて迎撃しようとする。
自分の切断された右腕が床に突き刺さるところだった。ラミタイの肩の切断面から、心臓の鼓動に合わせて黒い血が噴き出した。ラミタイは溜め息をついて、左手を傷口に押しあてたが、もう状況は好転しようがない。
直後にそれが来た。
変異した部分を切り落とされたからだろう。
体内の異なる存在が、主導権を奪いにやってきた。ラミタイの意識が粉砕されそうになる。恐ろしく、圧倒的で、黒くて邪悪な、同居人。そして、敵だ。
もう一方の敵、ザーゴは渦を作るように周りを飛び交う遺伝子強化の化け物たちを、陶酔した様子で見上げ、床の苦悶の表情のラミタイなど見てやいない。
「見ろ! 僕の政府への、遺伝子強化人間を作った研究者への、憎悪に応じて、こうも多くの同胞が集まったぞ! いや、いまや政府も研究者もどうでもいい。僕たちは県境に残っている政府軍を粉砕して、日本中の、可能なら世界中の無防備な都市へと攻め込んでいくのだ! 僕たちの短い寿命がつきる前に人間どもを殺しまくってやる! その死者の多さから、人間は僕たちのことを忘れることなどできなくなるほどにな! これが奴らに作られた生き物のメッセージだと、奴らに刻み込んでやるんだ!」
ザーゴは叫ぶように言った。
ラミタイはうなずきもしなければ、首をふりもしない。そんな余裕もない。
ただ、意識の片隅で、悲しい生き物だ、とザーゴのことを思った。
そして、ザーゴは抑えが利かなくなったように、なおも叫んだ。
「分かるか、ラミ? 生物というのは、長い鎖の歌のようなものなんだ! この鎖の長さが分かるか? 三十五億年前から続いてきた、遺伝という名の自然の無意識のプロセスなんだ! おまえの体内の生き物はこのことを歌わないのか? 単細胞から始まり、藻となって世界の組成を変え、陸上へあがって緑で覆い、イクチオステガからテコドントへ続いて恐竜が栄え、それが終わった後、世界の覇者の座は哺乳類へと移り、凡獣類から長鼻、偶蹄、奇蹄、肉歯、齧歯、食虫、翼手、有袋、単孔へとつづいて、そして霊長類だ! 原猿、真猿と分かれ、さらにオナガザル、テナガザル、オラウータン、ヒトが現れた! そしてーー」
ザーゴに霊感を与えた、黒い情動に自分を浸すのは、幸福の絶頂ともいえるものなのかもしれない。
それでも……自分はできない。
変異はしない。変異は許さない。
そう決めていた。
体内の生物が、体の主導権を奪おうとする。
だが、無駄だ。これはおれの体。産まれたときから操っている、自分の方に利はあった。
意思の力でその生き物を押し返し、主導権を再び掌握した。
「ザーゴ」
「ほんの数千年前だ! そして、ヒトには突然得体の知れない知性が宿り、それがーー」
「ザーゴ、もういい」
ザーゴは喋るのをやめた。
ラミタイはふらつきながらも、静かに立って彼を見た。どうしてザーゴほどの者が、舌先の言葉で自分の意思を翻せると思っているのか分からない。
何か手はないだろうか?
非常に不利な展開だ。これを切り抜けるのはほとんど不可能だ。体内の異生物は、あと八秒の間、抑えておくことができそうだが、それが過ぎれば、変異は再開するだろう。
急いで、ザーゴへの攻撃パターンを探す。
先ほどのラミタイの動きは、完全に読まれていた。そしてザーゴはそのときに、さらに詳細な情報を手にしているのは明らか。
だとすれば、彼の意表をつく事態を引き起こし、ザーゴの防御様式に一瞬の隙を作るしかない。
どうすればいい?
ラミタイはザーゴが何か隙を見せないかと、睨みつける。
「最後にきくぞ、ラミタイ! 変異を終えて、僕たちに加わって復讐を遂げるか!? それとも、ここで人間と遺伝子強化人間のどちらでもない姿のままーー」
「ザーゴ」
ラミタイは言った。
「ファレリアを殺したのは間違いだったな」
ラミタイは地面を蹴った。
ザーゴは嘲笑とも、いら立ちのうめきともつかない声を上げて、それを迎え撃つ為の完全な準備を整える。遺伝子強化生物の卓越した感覚と、人間の知性の前には、対面しながらの奇襲という要素は意味をなさなかった。
だが、次に起こったことには全ての遺伝子強化人間が肝を抜かれた。黒い渦を形づくってザーゴとラミタイの対決を見物していた空飛ぶ化け物たちが、唐突に血をまき散らして四散しはじめた。
その降り注ぐ死体を蹴散らして現れたのは、県軍人イルヒラム。
黒い返り血と、自身の赤い血に染まりながらも、イルヒラムの目は燃えていた。県軍人を燃やすのは怒りの炎だった。
自分の部下と、自分が守るはずだった世界を同時に奪われた男の、言葉に表すことのできないほどの怒りだった。
イルヒラムは弾の尽きた銃を捨て、ひるむザーゴにつかみかかる。
その太い腕をザーゴの首に巻き付け、頭を胡桃のように割ろうとでもいうのか、拳を振り下ろし続ける。ザーゴの表皮は銃弾をも弾くのだが、イルヒラムはそのことさえ頭にないのか、ザーゴを殴って殴って殴りまくった。
その姿は狂った県軍人の像そのもの。
恐ろしい男だった。
ザーゴが肘を背後の県軍人をに叩き付け、明らかに県軍人の体の何かをへし折った。だが、それでも県軍人は離れようとしなかった。
ザーゴはここに至って、その体の主導権を完全に遺伝子内の同居人に託したに違いない。知性の影は直ちに消え失せ、他の遺伝子強化の化け物同様、あるいはそれ以上のとてつもない凶暴性を発揮すると、イルヒラムを弾き飛ばした。
全てはラミタイにとって十分な時間だった。
ザーゴは迫るラミタイに気付く。だが、イルヒラムの攻撃のせいで遅れを取りながらも、ザーゴとその同居人の素早さはラミタイを遥かに越えていた。
振り向く前に、ザーゴの六本の脚が迎撃を開始している。それはくねり、六種類の軌跡を描いて、ラミタイを迎え撃った。先ほどのけちな小手調べとは違う。ザーゴの本気だ。
完全な変異を越えた化け物ならではの、あらゆる生物に真似する術のないスピード。ラミタイによける手はない。
彼は六本の刃に瞬時に切り刻まれた。
ザーゴの迎撃はラミタイがその身から繰り出すことのできる、あらゆる攻撃を無力化し、同時にラミタイを倒すことを意図したものだった。
だが、ザーゴは視線を下ろし、己がラミタイの攻撃に串刺しにされているのを知り、愕然とした様子だった。
ザーゴが切り落としたラミタイの右腕が、投げ槍となってザーゴを貫いた武器で、それはザーゴの予測したいかなる攻撃よりも直線的で、単純なものだったに違いない。いまや、ザーゴは人間だったときに見せたことがないほど弱い存在に見えた。黒い血が彼の体の前後で吹き出す気配を見せた。
ザーゴと彼の同居人の化け物が震えながら、ラミタイを見る。
床に崩れたラミタイは苦労してかすかな笑みを作った。
「ラミ……僕はこんな……」
ザーゴは何かつぶやきながら後ずさっていく。十歩も後ずさったところで選果場の屋上は終わりだ。
だが、ザーゴは構わず後退して、そこから落下した。六本の足が空気を引っ掻く。彼は遥か眼下の燃える和歌山市へ、一言も発せず静かに落ちていった。
ラミタイの体の中の黒い情動は一声叫んで、沈黙した。
死んだのかもしれない。
あるいは、ラミタイが変異を拒んだように、この生き物も変異を意思の力で止める気になったのかもしれない。
ラミタイは自身の生命状況へと目を向け、すでにどうしようもないほど死が近づいていることに気付いた。ザーゴの攻撃は仮借なかった。
結局、ラミタイという個性の消失は免れない。まあ、こんなものだろう。
ただ、変異間際の、様々な洞察を得たにもかかわらず、ラミタイには分からなかった。
結局、遺伝子強化人間が生きのびる方法なんてあったのだろうか?