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20 ラミタイ

 足に力が入らず、いつ倒れるのか自分でも分からない。ファレリアを運ぶのはいよいよ難しかったが、先を進む図体のでかい人々を頼ろうという考えだけはなかった。

 上を見れば天井の窓から、横を見れば壁一面を使った窓から、燃える街と、嫌な色の空が目に飛び込んできた。

 ファレリアが何かつぶやいているのに気付いたが、聞き取れない。もしかしたらこの場にいない人に話しかけているのかもしれない。

 そのとき男の悲鳴が聞こえてきて、二人の県軍人は身構えた。

「耳に懐かしい。遠い記憶のはて、朝鮮半島で何度も聞いたものだ。断末魔の悲鳴。どこの国の軍人も等しくあれをあげるのだ」

 イルヒラムの方が、場違いな落ち着いた声で言った。

「ウォンニが……? あの猛者が……?」

 クロノトンが静かにつぶやいた。

 イルヒラムは無表情の仮面のまま、手銃を前方に向けてゆっくりと歩いていく。

「ああ……まずい……」

 ラミタイがつぶやいて、割れたガラスと石片だらけの床に膝をついた。ファレリアは腕の中でがたがた震えた。いまや黒くなった血が、彼女の目から、口の端から流れ落ちた。

 同時にラミタイ自身も右腕に堪え難い灼熱の熱さを感じた。ファレリアの髪の下、自分の腕がその色を黒く変え、指がかぎ爪の用な鋭さを得ていくのを、奇妙な諦めとともに眺めた。

「もう駄目だよ、イルヒラム」

 クロノトンが言うのが聞こえた。

「彼らは変異してしまう。殺してやるべきだ。……彼らにしても今のままの姿で死ぬのが幸せなことだろう」

 もう一人の県軍人イルヒラム何も言わなかった。

「……君が撃たなくても、僕は彼らを撃つよ」

 クロノトンが機関銃を構えて、横のレバーを引くのが聞こえた。

 ラミタイは大きな窓の外へと目をやる。空は橙色の煙と、天まで届くであろう炎に照らされている。

 もはや平安な死など望むべくもないが、それでもファレリアには青空の下で死んでほしかった。彼女にはそれが似合っていたのだから。外の世界は恐ろしい世界だが、それでもこの廃墟よりかはましだろう、とラミタイは背後の二人の銃を持った死神を無視して、ファレリアをどうにか抱え直すと、出口からよろめき出ようとした。

 突如として建物の中が暗くなった。

 黒い巨大な蜘蛛のような姿が窓に迫るのが見え、ラミタイがなにかの解釈をする前に、それが盛大な破砕音とともに回廊に飛び込んできた。

 ラミタイの頭上を何かが飛びすさり、イルヒラムが、幅跳びの選手の動きを巻き戻したかのような動作で回廊をどこまでも吹き飛んでいった。

 敵襲だった。

 すぐさまクロノトンは準備の整っていた機関銃を連射した。十メートルの距離だった。外しようもない。蜘蛛のごとき化け物は青白い火花を散らしてぐらつき、床のタイルに不思議な模様の傷をつけながら後退する。

 だが、化け物は持ちこたえ、さらには至近の銃撃の嵐の中、一歩ずつ前進し始めた。跳弾が床や壁にめり込み、もうもうと埃を舞い上げた。

 クロノトンは必死の形相で、裂帛の怒声を発する。必殺の銃撃を叩き込む。

 だが、足りない。

 化け物は銃撃を押し返すように跳躍し、県軍人にのしかかった。化け物の数ある脚がぶれるような速度で動き、クロノトンは床を転がった。

 広大な廊下をどこまでも転がるかに思えたが、やがて男の体は止まる。頭部はなくなっているようで、血だまりが広がっていく。

 耳鳴りがする中、機関銃の射撃が終わっているのにやっと気付いた。

 化け物は十本もある脚のうち、二本で歩いてきた。こうすると、背中に六本の脚の生えた人間のように見えなくもない。その岩のような表皮が煙を上げている。

 顔は、作り始めて早々にあきらめた彫像の様な顔だが、眼窩だけは二つあって、赤い眼が燃えている。

「探したぞ。手間取るはずだ。まだ変異していなかったとはな」

 それは言った。重たい石がこすれ合うような声。

 だが、名残があった。

「……ザーゴ」

「その通りだ」

 化け物は胸の悪くなる声で同意した。世界が破けたような感覚に襲われ、この日何度目だか分からないが、ラミタイの視界が暗くなった。

「おまえ達のことだ、最後まで変異を拒んでいるだろうことは分かっていた」

「理性を……保っているのね?」

 ラミタイが我に返る前にファレリアは、冷たくかすれた声で言った。

「僕はいわゆる特異な存在らしい。一つの体に二つの生き物の共存の見本、それが僕だ」

「……あなたが死を前にして平静を失ったのは残念だわ」

「平静を失ってなどいない! これは正しい選択だ! 正しい進路だ! 僕たちはようやくやるべきことを理解したのだ!」

「……ピートルズを聞いたのか?」

 ラミタイはそんな質問をしていた。

 ザーゴはそれに対して、かすかに笑いさえしたようだった。

「自力で、だ」

「すると、あなたは自分の意志で暴れているのね? 学んだこと全てに反して?」

 ザーゴは眼の光が弱まった気がした。

「奴らが嘘をついていたことは知っているのだろう、ファレリア? 全てに嘘を!」

「だとしても……あんたのやっていることは……」

 ファレリアは静かに首を振った。

「私は……あなたを軽蔑するわ……」

「そうか」

 ザーゴは鷹揚とも見える動きでうなずいた。

「では、死ね」

 ラミタイの視界はぶれて、爆発して、意識のあらゆるものを焼き焦がした。続いて、目は物を見ているのに体は動かせないという不気味な状況となって現実は戻ってきた。モノクロだった視界に徐々にだが色は戻り、そしてしびれる痛みがどこからともなくラミタイを噛み付いてくる。

 胸部に熱い物を感じるが、それは焦燥感から来るものではなかった。ラミタイはがはっと血の塊を吐いた。体の中の様々なものを壊されたのを感じる。

 首を持ち上げようとしたが失敗して自分の血の池に突っ込むことになった。それでも目だけは頭上へとやった。

 ザーゴの背中から生えた脚はファレリアの小柄な体を貫き、頭上に掲げていた。ザーゴはかすかに笑い、無造作にファレリアの体を投げ捨てた。

「変異する前に、変異した遺伝子強化人間を挑発すると、こうなる。これも一つの選択だ」

 ザーゴはいった。ラミタイはかすかに溜め息を漏らした。

「変異を拒むのもそうだし、そして、僕がファレリアを殺したいから殺す、というのも、またそうだ」

 ラミタイは口を開いたが、後から後から血が流れるだけで言葉にならなかった。呼吸の度に激痛なんかに引き裂かれていた。

 ただでさえ赤く血に染まったラミタイの視界の中、ザーゴはその目を赤く光らせ、人間だった頃の癖か、口元を歪めようとした。

「そして、ラミ、おまえも早く選択した方がいいぞ。その人間の体はもう長くは持たないだろう。おまえの中のより高次な存在に委ねるんだ」

 ザーゴは背中の六本もの脚を折り畳むと、ガラスやコンクリートを踏み砕きながら廃墟から出て行く。

「ただでさえ僕達の寿命は短いんだ。ゆっくり足踏みしている余裕はないんだ。僕達は圧縮された進化を味わわなくてはならない」

 そして彼の姿は消え、遺伝子強化人間の叫び声が遠くで聞こえた。



 なんでここに来るのが正しいことだなんて思えたのだろう?

 こんな現実、大嫌いだったはずだ。目をそらすのは得意なんだ。面倒なことはみんな体内の化け物にくれてやればいい。

 肉体の方の破壊を精神の方も真似しようというのだろうか。

 ラミタイの変異はなおも進む。右手は指先から肩まで黒い棘だらけの物と化し、そこからさらに黒い情念が信号として進み、ラミタイの細胞の中の存在が反応していく。ラミタイの胸部、首までも変異は進んだ。ラミタイの折れた骨も、破損した臓器も全て黒い波に飲まれて溶けていった。


 自分を悩ましていた悪夢と同じだ。

 いや、今まで自分を惑わしていた悪夢の数々は現実に危害を及ぼすほどのものではなかった。だが、これは現実だ。

 そして、その分、よりこの変異の意味するものをとらえることができた。

 ラミタイは床を這って、やっとの思いでファレリアの隣にたどり着いた。彼女が片目をかすかに開けた。彼女の周りの黒い血の池は急速に固まり、冷たくなっていく。

 彼女の変異はさっきまで肩や背中で進行していたのだが、今ではそこから黒い骨か突起という見た目になっていて、それも一秒ごとにひび割れ、塵となっていく。

 変異の全体像には、政府がついてきた無限の嘘のようなノイズにまみれていたが、それでもどこか理解できない一点を目指した変異に違いない。

 だしぬけに、激痛の波は消えたが、それは物質的な面だけの痛みだけだった。

 ファレリアの口がかすかに動いて何かを伝えようとする。だが、それはラミタイには届かない。

 彼女は目を閉じた。そして死んだ。

 ラミタイが、遺伝子強化人間が昔から心の底に貯めてきた虚無の痛み。目の前の人の死が何かの引き金になり、意思の力でおさえていたそれも解放されようとしているようだ。奔流となってそれは荒れ狂った。

 変異の本質は理解した。そんな気がした。

 だが、心から悲しみを排除することはできなかった。

 ラミタイは声を出さずに絶叫しているようだった。空気の振動からそれを察知できた。

 それに合わせて腕と肩を覆う棘はより長く、鋭く伸び、振動した。

 頭の後ろで敵意を感じた。

 振動は止み、ラミタイは立ち上がると、振り返った。県軍人と彼の手銃がラミタイを睨んでいた。

「悪いなラミタイ。変異したら殺すという約束だったな」

 イルヒラムはつぶれた声で言った。彼の外見はザーゴにやられた傷のためひどいことになっている。

「まだだ」

 ラミタイは静かな声で答えた。

「まだ変異は終わってない。進行中かもしれないけど、意識の主導権はおれが握っているよ」

「だとしてもだな、私がおまえを生かしておくことをためらう理由にはならないと思うのだがな!」

 ラミタイは目を閉じた。素早くデータを整理した。

 そして、

「イルヒラムさん、復讐はしたくないのかい?」

 ラミタイは少し離れたところに転がる、頭をなくした県軍人クロノトンの死体を顎で指した。

「そして、あなた一人じゃザーゴを倒すことはできない」

「私を過小評価しているぞ」

「そうは思わないね。考えるんだ。これが唯一のチャンスだ、県軍人」

 イルヒラムはかすかにのけぞったが、銃口だけはぴくりとも動かない。

「おまえに何ができるってんだ、小僧?」

「あなたの方こそ遺伝子強化もされてないじゃないか」

「おまえはどこへ行くつもりだ?」

「ザーゴの問いに対する返事をまだしていない」

 ラミタイはそれだけ言うと、きびすを返した。ファレリアの亡きがらをその場に残して歩いていく。

 イルヒラムの銃口が執拗な目のようにその後を追った。

「……私は和歌山県軍人だぞ! 私の役割は和歌山県民を守ることだ!」

「この街にはもうあまり和歌山県民が残ってないようなんだけどね」

 ラミタイの言葉に、県軍人はひっぱたかれたように一歩後退した。彼の体がのけぞる。

 イルヒラムはクロノトンの動かない体に目をやる。耳を、ウォンニの最後の声が満たした。それだけではない。さらに大勢の最期の情景がまぶたの裏によみがえった。ヘイス、ボット、ムターツ……ニチョン村攻略のときに、ソヴィエテの戦車の急襲で失われた奴ら。チュトス、ヒクサム。それからネクサスの救援が遅れて死んでいった、34砲兵連隊の顔。雨と泥。血の色に変わった泥水。

 部下を殺された後、自分は何をやった?

 政府軍が、平和な本国では不要だとして、自分に忘れさせたのは何だ?

 イルヒラムの口が開いて、貯水槽のような肺に大量の空気をおさめた。

 彼は吠えた。

 戦場での効率と秩序のための条件付けが、安布のように引き破られていく。

 圧倒的な声量が、周囲に立ちこめる硝煙や灰、血の匂いを吹き飛ばし、壁に叩き付ける。ラミタイは背中に圧力さえ感じたほどだ。

 ちらりと振り返ると、県軍人の石の仮面のようだった顔に、新たな色が加わっていた。

「その通りだ!」

 イルヒラムは語気荒く同意した。そしてラミタイを追って大股で歩きはじめた。

「次の任務が来るまでつきあってやる」

「ありがとう」

 ラミタイは小さく礼を言う。

 この県軍人の本性は、黙って引き下がりはしなかった。イルヒラムは二艇の手銃に弾をこめた。

「ラミタイ、さっきの遺伝子強化人間がどこにいるのか分かるのか?」

「想像はつくよ」

 ラミタイはアカデミーの隣の、小山のようにそびえる選果場の屋上付近を指差した。

 飛行する化け物が百匹か、それ以上集まって蚊柱のような物を作っている。

 ザーゴはいつだって人気者でリーダーだった。そして、それは変異しても変わっていないのだろう。

 ずいぶん変異は進んでしまった。

 だが、ラミタイからファレリアという存在は消えた。あとやるべきことは、たった一つを残すのみだった。

「行くぞ。ああだこうだと考えるときは終わりだ。戦うときだ」

 県軍人が地割れのような声で言った。

 自分が考えるのをやめるときなんてくるのだろうか、とラミタイは思う。

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