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2 ラミタイ

■1963年■

■リビルダーによる占領下にある日本共和国の中部に位置する県国 和歌山■


 ラミタイは束の間、閉じていたまぶたを開いた。

 空には黄色くぶくぶくした太陽がいつものように輝いていた。ものすごい暑さだ。みかん農場はでこぼことした地表を埋め、農場の労働者は果てのない労働を、単調な歌を歌いながらこなしていく。

 みかん農場の中に、時たま思い出したかのように錆びた塔が空へと伸びていて、そこに設置されたスピーカーからは農業林野庁の、生産拡大を励ます録音された声が際限なく流されていた。

 空気は厳しく乾燥していて、みかんたちにとっては嬉しくはない気候だろうが、それでも周囲はいつものように濃密な柑橘類の香りに満ちている。

 いつもと同じ光景。

 些末な違いこそあれ、ここの民は数百年とこの生活を続けてきたのだ。

 くすんだ橙色のつなぎと黄色いスカーフを身につけた少年、ラミタイがとぼとぼと道を進んでいた。鎖国期以前に、播種船でこの地方に植民したご先祖の形質を受け継いだ、銅色の肌と黒い髪のラミタイだが、その黒い瞳には悲しみを浮かべ、加えて不眠に悩む人間特有の充血を帯びていた。八月の暑さに辟易してそんな顔をしているわけではなかった。

 飛びカニがすうっと空を泳いできて、頭に止まろうとするのをラミタイは追い払った。よその県では焼かれて人間に食べられてしまう飛びカニだけれども、害虫を食べるこの生き物は和歌山県人に好まれ、大昔から盛んに飼育されていた。最近は、発達した品種改良学が取り入れられでもしたのか、より元気に満ちているようで和歌山県の低空での繁栄を謳歌しているようだった。

 からからに荒れた原っぱに、古い送電塔が建っていて、そこにもスピーカーがくっつけられていた。

 送電塔は大戦より遥か昔に建てられたに違いなく、とてつもなく古いが、なぜか和歌山市内にある類の古い寺のような、時代をこえた威厳というものを保つのには上手くいってないようだった。スピーカーを塔にくっつけた農業林野庁は、さらなる時間の経過がこれを改善すると信じているのか、それとも単に手間を惜しんだのか、スピーカーは一度も整備を受けたことがなさそうだった。スピーカーから流れる録音の声は、奇妙に間延びした野良犬の遠吠えのようだった。

 少年は立ち止まって、送電塔の衰退した悲しい姿、黒くて背の高い遺骸を我を忘れたように見やった。

 と、聞き慣れない低い音が、羽虫の大群の襲来を予期させるように、どこからともなく近づいてきた。足下の砂利が踊りだし、砂煙が上がりだす。ラミタイは夏の終わりから秋にかけて襲来してくる予測不可能な台風のことを想像してぞっとした。台風による破壊に対処するための県民の労力たるや、並々ならぬもので、生活環境をいっぺんに悪化させるのだ。

 だが、台風の兆しはどこにも見ていない。

 だとすると、これは? ラミタイの見ている前で、送電塔のスピーカーがゆっくりと、斬られた人間の頭のように落下して、永遠に放送を終えた。

 だが、低い音は止まない。

 ラミタイが背後からの熱と風を感じる。振り返ると、山のような黒い巨体が迫ってくるところだった。その圧倒的な姿にひるみ、少年は転がるように道をあけた。走るそれは、まるで石積みの巨壁のように見えたが、金属の光沢を放っていた。見覚えがあった。政府軍の重装甲八輪トラック。

 市内の政府関連の建物でちょくちょく見かけることがあった。だが、停車しているそれを常に銃か棍棒を持った政府軍の兵士が取り巻いていて、近づくことがかなわなかったのを思い出した。

 トラックは一台ではなく、後から後から現れる。皆が皆、めちゃめちゃなスピードで田舎道を急いでいた。

 危ないところだった、とラミタイは思う。トラックの接近に気付くのに一瞬遅れれば、命はなかったところだった。政府軍は県民の子供一人ぐらい轢き殺しても速度をゆるめることすらしない連中なのだから。

 トラックの上部に設けられた銃座に黒い制服の男たちが配されていて、何人かは道ばたの少年に無機質な視線や銃口を投げかけた。

 まるで戦闘中にあるみたいだ、とラミタイは思った。こんな農園にあるとは思えない襲撃に備えているようだった。

 トラックの後には、トラックの幼生体のような見た目の偵察用ジープが続き、さらにジープより小さなバイクも続いた。どれもすごい数で、和歌山市内に常駐していた政府軍の大半が出て行こうとしているということは、ラミタイにもはっきりと分かった。

 気がつけば黒い車列は現れたときと同じ唐突さで消えていて、後に残るのは朦々たる排煙とその悪臭だけだった。あのような車列の走行を想定して作られていなかった田舎道はその形を変えている。

 ……始まったか。

 国営のニュースは事実を存在しないものと無視し、目にできる明確な兆候も今のを除いて、一つとしてなかった。

 だが、間違いなかった。

 ラミタイにはもう、時間が残されていないということだ。



 一昨年前の台風で大いに荒れたため、自然治癒を待っているみかん農園、停止農園にラミタイは侵入した。みかん泥棒よけの金網には穴が空いていて役目を果たしていない。

 かすかに見える海上で、海上牧場がゆうらりと揺れている。赤道地帯や南極を目指す複合船舶は見えはしないかと目を凝らしたが、ここ数ヶ月同様、和歌山県に近づく船舶はないようだった。

 ラミタイは無言で頭を振り、停止農園に囲まれた丘を目指した。雑草が生い茂り、防鳥ネットが張られていないため、白い鳥が一斉に飛び立っていく。その様はひどく非現実的に思える。

 丘の頂きには、いつもの通り、やはりファレリアがイーゼルに向かっていた。悲しいともなんともつかない顔で筆を進めている。ここは流行という要素が近寄りがたい場所だが、実際ファレリアの髪型は何年も前から適当な三つ編みだったし、服装も絵の具の染みがあちこちに付いた白い長袖シャツを羽織っている姿の他は見たことがなかった。

 ラミタイの接近に気付くと、その顔から明確な表情は消えた。灰色の瞳は彼女の見たものをそのまま反射している。そんな不思議な色合いだ。

「ラミ?」

 彼女の声はいつもと変わらず、淡々としていた。まるで書いてある文字を読んでいるように聞こえる。

「久しぶりだな」

「学校はどうしたのよ? 今日は平日じゃなかったっけ?」

 十五歳にして、アケデミー九年生のラミタイには授業を受ける義務があった。だが、それを言うならファレリアだってラミタイと同い年ではないか。

 ラミタイは首を振って、ファレリアの数メートル隣に背を丸めて腰を下ろした。

「担当の教師が県から逃げ出したんだ。今頃、和歌山県境の大行列に加わってるんじゃないかな? おれにできることは何もないよ」

「それでも、県境まで追いかけていって授業を受けようとする気概のある生徒を学校は評価するんじゃないの、ラミ?」

「妙なお説教は沢山だ、ファレリア」

 ラミタイは吐き捨てるように言う。彼は和歌山県人風でない自分の名前を好んでいなかった。

 とにかく、ラミタイは動き続けるファレリアの筆先に目をやって、

「どうせ、みんなすぐに死ぬんだ。今さら真面目に振る舞うことになんの意味があるというんだ」

 ファレリアは静かに筆を絵壷に入れた。そこに溜まるのは赤い絵の具。なぜか血の匂いを放っている。

「そう考えるのは容易よね」

 ファレリアは静かにそう言い、現世の全ての雑音を振り払ったかのように、彼女の目から光が消えた。ラミタイにそれは超然とした態度に思えた。

 いまでこそ、彼女はこんなだが、元は自分なんかより百倍は真面目な人間だった。学校では、フジーム教授あたりの助手めいたことさえやっていなかったのだろうか、とラミタイは一昔前の記憶を探った。

 ファレリアとはいつ出会ったのか分からないほど付き合いは古かった。だが、すでに彼女はラミタイの理解できない領域へと踏み込んでしまったようだ。

 いや、ファレリアだけではない。

 県の同世代の人間そのものが、来るべき死に備えて準備を終えているようだった。

 どうやら自分は、自分の中で結論を産み出すと言った努力を怠けているうちに、置いてきぼりになってしまったようだ。ラミタイは改めて認識して、暗澹たる気分になった。

 ふいに、彼女がいつも一体何を描いているものか、若干の好奇心にひかれてファレリアのイーゼルの方へ目をやるが、彼女は絵に布をかけ、すでにさっさと道具一式を片付けはじめているところだった。

「ファレリア。死の際に抱くべき、平安っていうのが、どういうものか分かるか?」

「それは私から学んでも仕方のないものよ」

 ファレリアはラミタイを見もせずに言い放つ。だが、その目は、すでに準備の過程を終えた人間が、まだ出発地点にも立っていない人間を見下すそれなのだろう。

 彼女はラミタイを置き去りにして、さっさと停止農園の金網をくぐって消えてしまった。

 答えはいつも得られない。


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