10 ラミタイ
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むしろ、ラミタイが受けた衝撃は、化け物を見たときよりも大きかったかもしれない。
ファレリアの姿はひどく小さく見えた。
彼女がこんなに弱々しく見えるわけがあるのだろうか?
ラミタイは惚けたような表情で、ファレリアの前まで歩いていった。
そして、体の中から響いてくる共振が、彼女の正体を醜い化け物だと告げてくる。その声から耳を塞ぐ方法はなかった。
「ファレリア……」
自分は彼女に何を期待していた?
遺伝子強化の影響さえ、腕の一振りでぬぐい去る超人か?
壁に寄りかかったファレリアは、目の焦点を合わせるのに苦労しているようだったが、やがて口を開いた。
「……ラミ、私の言葉を聞いていたの?」
彼女の顔は血の気がなくて、人間のものとは思えない。
「あなたはここに来るべきじゃなかった。私に殺される前に早く逃げることよ……」
「今となってはそんな事になんの意味がある? おれに心の平安とか、そういったものを自力で見つけ出す力はないんだ」
ファレリアはラミタイの視線から逃れるように、その場にしゃがみこんだ。
「……大丈夫なのか? 変異まであとどれぐらいだ?」
「すぐよ。運動系から食われたわ。もう少しもつと思ってたんだけど……私は弱いわ」
「おまえが弱いのなら、おれは一体なんなんだ」
ラミタイは両手でファレリアの肩に触れたが、それだけで彼女は堪えがたい痛みに襲われたようだった。
ラミタイはあわてて手を離すと、彼女から後退した。
「やるべきことは何かあるのか? おれにできることを言ってくれ」
「それ」
ファレリアが机の上に積まれた、堕落したもやしのように絡み合うすごい数の磁気テープと、書類の山を指差した。
「全て燃やして。そこに書かれているのは、遺伝子強化人間の作り方だから」
「そんなものが……」
「フジーム教授は自分の研究を捨てることが、ついにできなかったの。……これは……彼ら人類を救う唯一の手かもしれないって……あのしょうもない種族を……」
ラミタイは一束の磁気テープを握った。
自分たち、遺伝子強化人間の作り方が目の前にあった。
この黒くて柔らかいものに、もう一度この和歌山県で起こったことを起こす力があるのだ。
ラミタイの手に力が籠り、手の中の磁気テープはあっさりぐしゃぐしゃと潰れた。これを葬る。遺伝子強化人間をこれ以上生み出さないために。
まったく、この県ではこんなことまでも、自分でやらなければならないのか?
「今の県を見る限り、フジーム教授の考えは正しくなさそうだな」
ラミタイはささやくように言った。
自分たちは死ぬだろうが、このようなことはもう起きてはならなかった。
「使い方次第なのかも……全ての道具や知識と同じように、遺伝子強化技術さえも」
ファレリアが言うのが聞こえた。
「でも、まだ彼らがこれを手にするには早すぎたのよ」
「政府軍がここを爆撃するんだ。どのみちみんな燃えるぞ」
「急いで、ラミ。もし政府軍が、私の恐れているほど素早いのなら……」
ファレリアは苦しそうに言葉を切った。
ラミタイは火をつける道具を探し、数々の戸棚を物色する。
「これを燃やした後はどうするんだ、ファレリア? 自分を消すっていうのは、どうやるつもりなんだ?」
「私はもう歩けないみたい」
「おれが連れてってやるよ。どこでも望むところへ」
「ラミ……あなた馬鹿よ。最後の時間を自分のために使えばいいのに……」
「そうかもな」
机の上には教授のノート。いや、手紙だ。
死の直前に書かれていた物だろう、血しぶきの散った紙面のインクは乾いていない。
出し抜けに、ぞおっと鳥肌が立った。
顔を上げると、奥から黒い姿がぬうっと現れるところだった。
黒い眼窩の中で、炎の双眸がくすぶっている。
化け物がかっと口を開いた。直径五十センチの口と、赤い血にまみれた無数の牙が近づいてくる。
妙に時間がゆっくりで、辺りは静かだった。化け物がずるずると足を引きずる音だけが、着実に近づいてくる。
こいつだ。
こいつが、フジーム教授殺害者だろう、と妙な確信をもって断言できる。
直後、凄まじい爆音が、あろうことか耳のすぐ隣で弾けた。
ラミタイの耳がしびれ、頭は殴られたかのような痛みが駆け抜け、そして変異した死すべき子供は床を転がった。黒い血で床に奇怪な模様が描かれる。
自分の中で得体の知れないものがざわめくのを感じた。
煙を上げる銃口が顔の隣にあった。
「生存者だ」
禿頭の巨漢がそう言って、歯をむき出して悪鬼のように笑った。