わたしの好きな人は、姉の元カレでして……
「別れた!? 翼くんと!?」
「うん、綺麗さっぱり。ひなたには先に言っておいたほうが良いかなぁと思って」
姉の未来がニコリと微笑む。だけど、それはわたしにとってものすごく衝撃的なひと言だった。
「なんで!? 翼くんほど素敵な人なんてこの世に存在しないのに……」
つぶやきながら、わたしは半ば絶望していた。これでは、人生設計が完全に狂ってしまう。
幼馴染で三つ年上の翼くん。頭が良くて、身長が高くて、スポーツ万能で。誰よりもカッコよくて、誰にでも優しくて、完璧超人な翼くん。
そんな彼がお姉ちゃんと付き合い始めたのは一年前のことだった。
正直言ってショックだった。だってわたしは、ずっとずっと彼のことが大好きで、一途に片思いをしていたから。
だけど、わたしはお姉ちゃんのことも大好きだし、翼くんには誰よりも幸せになってほしい。
だから、二人の邪魔なんて絶対にしない。将来二人が結婚したときに『翼くんの自慢の妹』になれるよう、人生の目標を設定したのだ。
お姉ちゃんたちと同じ県内で一番偏差値の高い高校に入学し(こちらは実現済み)、大学も同じところに合格、卒業後は大手商社に入ってバリキャリになって、一生独身のまま翼くんを思い続ける――それがわたしの夢だった。
友達からは『まだ十六歳なんだし、夢がなさすぎる』とか『他に好きな人ができるって』とか、『もしかしたらお姉ちゃんたちが別れちゃうかもしれないよ?』とか、散々色々言われたんだけど、それでもわたしは譲らなかった。
だって、翼くん以上に好きになれる人なんてこの世にいないし、お姉ちゃんだってきっとそう。心変わりなんて絶対にしないと思っていたんだけど。
「だって、他に好きな人がいるって気づいたんだもん。それなら、ダラダラと付き合い続けるよりサクッと別れたほうがお互いのためでしょう? どうせなら仲がいいまま別れたほうがいいじゃん」
だけど、お姉ちゃんのほうは違っていたらしい。わたしは思わずうつむいてしまった。
(お姉ちゃんと別れたってことは、翼くんはもう、ここには来なくなるよね……)
もしかしたら元カノの家――妹なんて、見るのも嫌かもしれない。
ずっとずっと、一緒にいられると思っていたのに。顔が見られるだけで幸せだったのに。それすら叶わなくなるなんてあんまりだ。
しょんぼりしていたら、お姉ちゃんがポンとわたしの肩を叩いた。
「そういうわけだから。もしもあいつを見かけたら、ひなたが慰めてやってよ」
「――そんな日が来たらね」
ため息をつきつつ、わたしはお姉ちゃんの部屋をあとにした。
***
それからしばらくの間、わたしは完全に腑抜け状態だった。
だって、人生の目標を見失ってしまったんだもん。元気なんて出るはずがない。
「告ればいいじゃん。フリーになったんでしょう、翼さん」
親友の一人がサラリと言う。わたしは首を横に振った。
「無理だよ〜。翼くん、わたしのことなんて妹ぐらいにしか思ってないって」
物心ついた頃から一緒にいたんだもん。自分がどういうふうに思われてるかぐらい、ちゃんとわかってる。
お姉ちゃんと翼くんは昔から仲が良くて、色んなところに一緒に遊びに行っていて。そんな二人にわたしはずっとついて回っていた。
今考えると完全なおじゃま虫だったわけだけど。それでも、優しい二人は嫌な顔ひとつせず、わたしのことを可愛がってくれた。わたしは本当に、二人のことが大好きだった。
「しかもよ、元カノの妹から告白ってさ……嫌じゃない? 色々気をつかわない?」
「あぁ……それはあるかもね。気まずいし、困っちゃうかも」
「でしょう? だから言えないなぁって」
お姉ちゃんと翼くんが付き合うって話を聞いたとき、わたしは自分の想いを永遠に封印することを決めた。大好きなのに――大好きだからこそ、言葉にしちゃいけない。困らせちゃいけないってそう思って。
「でもさ、翼さんが他の子と付き合ったとして、ひなたは耐えられるの? 今よりさらに落ち込むんじゃない?」
「そんなの――耐えられるわけないじゃん!」
言いながら目頭が熱くなってきた。
翼くんが女の子といるところを想像するだけで、胸がぎゅって苦しくなる。辛くなる。交際報告とかされた日には一日中泣いてるに違いないし、結婚式に呼ばれた日には抜け殻状態になってしまうだろう。……まあ、お姉ちゃんと別れたことで、そういった情報すら入ってこない可能性もあるけど。
「だったら告るか、無理矢理にでも他に好きな人作りなよ〜。うちらまだ十六歳だよ? 諦めるには色々早いって。ほら、クラスにもいいヤツが沢山いるじゃん? ひなた、この間も告られてたし」
「いいヤツと好きな人って違うもん……わたしは翼くんがいいんだもん。一生翼くんに心を捧げるって決めてるんだもん」
別にクラスの男子がダメだとか、物足りないなんて思ったことはない。だけど、こればかりは気持ちの問題だからどうしようもない。
「頑固だなぁ」
「――自覚はあります」
呆れたような友人の言葉に、わたしは小さくため息をついた。
その日の放課後、帰宅したわたしは我が目を疑った。
「翼くん?」
翼くんだ! 翼くんが家の前にいる! ――そう思ったら居ても立ってもいられなくて、わたしは全速力で走り出していた。
「ひなちゃん、そんなに急がなくてもよかったのに」
「翼くんが来てるのに、急がないとか無理! いらっしゃい! 今日はどうしたの? なにか用事?」
汗だくで息を切らしているわたしに、翼くんはサッとハンカチを差し出してくれた。藍色の上品なハンカチだ。
(素敵、優しい、大好き!)
たったそれだけのことなのに、胸がキュンキュンして苦しい。当然使えるはずもないので、ありがとうって返事だけした。
「実は、未来に返したいものがあったんだ。参考書、借りたままになってたから」
「あ……そう、だったんだ」
翼くんから紙袋を受け取りつつ、わたしは思わず視線をそらす。彼が今どんな表情を浮かべているのか、見るのがすごく怖かった。
「ひなちゃんも三年後、俺たちと同じところを受験するんだろう?」
「うん、そのつもり……」
そう答えたものの自信はない。わたしの人生の中心は、いつだって翼くんだった。翼くんの妹になれなくなった今、以前と同じレベルで努力なんてできないもん。
「あっ、よかったらあがって、お茶でも飲んでいってよ」
よく見たら、翼くんはほんのりと顔が赤かった。長い時間待ってくれてたんだろうか? ポストに入れてくれてよかったのに、参考書が曲がるのを嫌ったのかもしれない。
(こういう律儀なところ、好きだなぁ)
本当に。一挙手一投足が好きすぎて涙が出る。
顔を見たときから心臓はずっとバクバク言ってるし、穏やかで優しげな声とか、温かな眼差しとか、一緒にいるだけで嬉しくて――だけど苦しい。好きすぎて辛い。おまけに、前みたいには一緒にいられなくなるから、なおさら。
「ありがとう。それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかな」
翼くんはわたしの申し出を快く受け入れてくれた。
エアコンをガンガンに入れたリビング、氷たっぷりのアイスコーヒーを急いでいれる。シャツを少しだけくつろげた翼くんは眩しくて、色っぽくて、直視できない。わたしは思わずギュッと目をつぶった。
「未来から聞いた? 俺たちのこと」
そのとき、翼くんがおもむろにそんなことを切り出した。たったそれだけのことなのに、涙が浮かびそうになる。これでもう、終わりなんだって。翼くんとは会えなくなるんだって、そう言われているような気がしたから。
「聞いた――けど、わたしは納得できてない」
「納得?」
「うん。だって、二人はずっと一緒にいると思ってたんだもん」
本当に、このまま終わってなんてほしくない。素直な気持ちを打ち明けたら、翼くんは「そっか」って言って微笑んだ。
「わたしね、翼くんと家族になるのが夢だったの」
「家族?」
「うん。お姉ちゃんと翼くんが結婚して、わたしは二人の自慢の妹になるの。そのために勉強だって頑張ってきたし、おとなになったら仕事に生きようって、そんなふうに決めてた。だけど、二人が別れちゃって、これからどうしたらいいかわからなくなって……」
ダメだ。我慢してたのに、こらえきれそうにない。泣いてることがバレたくなくて、うつむいてしまったわたしの頭を、翼くんはそっと撫でた。
「そっか。ひなちゃんはそんなふうに思ってくれてたんだ」
「うん……それなのに、それなのに――――」
お姉ちゃんのバカ。心変わりなんてしないでほしかった。ずっとずっと、翼くんのことを好きでいてほしかった。
わたしみたいに一途な人間のほうが珍しいってよく言われるけど、お姉ちゃんと翼くんは特別なんだって――変わらないものが存在するって思いたかった。
「嫌だよ……翼くんにもう会えないなんて、寂しい。ずっと一緒にいれると思ってたのに」
翼くんを困らせたくなんてない。だけど、止まらない。
このまま会えなくなるなんて嫌だもん。耐えられないもん。ワガママだってわかってるけど、それでも。
「ひなちゃん……あのさ、俺」
「ただいま〜!」
そのとき、玄関からお姉ちゃんの声が聞こえてきた。反射的に翼くんの表情を見る。切なげな、苦しげな顔をしていて、胸が潰れそうな心地がした。
「あっ、翼来てたんだ?」
それなのに、お姉ちゃんはわたしたちとは正反対。なんとも清々しい表情を浮かべていて、思わずムッとしてしまう。翼くんは穏やかな声で「ああ」と相槌を打った。
「参考書、ひなちゃんに渡したほうがいいと思って」
「ふーん、そんなの別に講義で会ったときでもよかったのに。相変わらずマメだよね」
お姉ちゃんはそう言って、背後からわたしをギュッと抱きしめる。
「だけど、よかったねひなた。誰に似たか知らないけど、ひなたは頑張り屋だから。まだ高1なのに、いつもすっごい勉強してるもんね」
「……だって、翼くんの自慢の妹になりたかったんだもん」
もう叶わないけど。おかげでなんのために勉強しているのか、全然わからなくなっちゃったんですけど。
「だってよ、翼?」
お姉ちゃんが翼くんの背中をぽんと叩く。翼くんの頬が、ほんのりと赤く染まった。
(翼くん、やっぱりまだお姉ちゃんのことが好きなんだ)
ほんの少し触れられるだけで嬉しくなるぐらい、好きなんだ。それなのに別れちゃうなんて――あまりにも気の毒だ。こうしてここにいるのも、本当は嫌なんじゃないかな? 翼くんの気持ちを想像すると、心が苦しくなった。
「そうだ! そんなに慕われてるんだし、翼がひなたの勉強見てやってよ」
「「え?」」
だけど、お姉ちゃんはなにを思ったのか、そんなことを口にした。翼くんのほうを見たら、彼もちょうどこちらを向いたところで、ばっちり視線があってしまう。恥ずかしさのあまり急いで逸し、うつむき、それから首を横に振った。
「なに言ってるの、お姉ちゃん。そんなの、翼くんに迷惑じゃない」
「そう? いい提案だと思うんだけどな。翼、バイト探したいって言ってたし。どうせ家庭教師を雇うなら、昔から知ってる翼のほうがお母さんたちも安心でしょう?」
「えぇ……?」
いや、本当にそうなら、わたしにとってはとても嬉しいことだ。だって、これで翼くんとの繋がりを保てるし。もしかしたらお姉ちゃんと翼くん、復縁するかもしれないし。
ちらりと翼くんを見たら、彼はふと目元を和らげた。
「ひなちゃんがよかったら、俺に勉強見させてほしい、な」
翼くんが笑う。その瞬間、わたしは胸をギュンッと鷲掴みにされてしまった。
可愛い! いや、カッコいい! こんなふうに言われて、断れるわけなんてないじゃない!
「よかったら、だなんてとんでもない! 是非是非、お願いいたします!」
こうして、翼くんはわたしの家庭教師になった。
***
週に二回、きっかり同じ時間に翼くんはわたしの家にやってくる。お姉ちゃんは翼くんを頻繁には家に連れてきてくれなかったから『次はいつ会えるんだろう?』って思っていたのが嘘みたいだ。
翼くんがわたしに会いに来てくれる。わたしの名前を呼んでくれる。お姉ちゃんじゃなくてわたしを――こんなにも嬉しいことはない。
家庭教師の日の前日には、お茶菓子を焼くことがわたしの習慣になった。翼くんに少しでも心地よい時間を過ごしてほしくて。わたしのことが負担になってほしくなくて。そんなわたしの想いに気づいてか、翼くんはいつも「俺に気を使わなくていいよ」って言ってくれる。だけど、わたしが作ったお菓子を翼くんが喜んでくれているのがわかるから。今度はなにを作ろうって考えるのがとても楽しい。本当に、楽しくて嬉しい。
もちろん、勉強だってめちゃくちゃ頑張った。翼くんが教えてくれてるのに、無様な成績をとるなんて絶対にあってはならないことだもの。当然、成績はうなぎのぼりだった。ほんの短期間で成果が出たことに両親は大喜びで、翼くんも嬉しそうで、わたしは自分が誇らしかった。
「ひなちゃん、今度うちの大学に来てみない?」
「大学に?」
「うん、学祭があるんだ。構内を案内してあげるよ。そっちのほうが勉強にも熱が入るだろうし」
「学祭……!」
三ヶ月が経ったある日、翼くんはわたしを大学に誘ってくれた。翼くんと外で会うなんて小学生のとき以来だ。瞬時に舞い上がって、嬉しくなって――それから無理やり冷静になる。
「嬉しいけど、迷惑じゃない? 翼くん、友達と回りたいんじゃ……」
「いや。俺自身は元々学祭なんて行くつもりはなかったんだ。だけど、ひなちゃん勉強すごく頑張ってくれてるし、せっかくならもっとモチベーションあげてあげたいなって。久しぶりにひなちゃんと出かけたいし、ダメかな?」
ああ――ダメだ。翼くんが好き。大好き。こんなこと言われて断れるはずない。気づいたときには「はい!」って返事をしていた。
そうして迎えた学祭の日、翼くんとの約束の何時間も前からわたしは出かける準備をはじめた。
「そこまで気合を入れなくても……相手は幼馴染の翼だよ?」
「翼くんだからこそ、だよ! だって、わたしが隣りにいるせいで翼くんが笑われたら嫌だもん。ちゃんと綺麗にして行かなきゃダメじゃん」
「そんなことしなくても、ひなたは十分可愛いって」
お姉ちゃんはそんなふうに呆れていたけど、わたしは自分を曲げなかった。
入浴、肌のお手入れからはじまり、一時間以上かけて念入りにお化粧をする。髪はゆるく巻いて、綺麗に結った。この日のために準備したワンピースを着て、アクセサリーを身につけて、おろしたてのパンプスを履く。それは、大学生の翼くんに合わせた精一杯のおしゃれだった。
「まあ、初デートで張り切る気持ちはわかるけどねぇ」
お姉ちゃんは言いながらニヤリと口角をあげる。わたしは思わず目を見開いた。
「何言ってんの!? デートじゃないし!」
「え、違うの?」
きょとんと目を丸くしてお姉ちゃんが首を傾げる。わたしは首をぶんぶん横に振った。
「そんなわけないじゃん。わたしと翼くんがどうこうとか、絶対ないのに」
「えぇ? 恋愛なんてナマモノじゃん。絶対とか決めつけるのはよくないって。色々な人を好きになって、付き合ってみて、合う人を見つければいいんだよ。わたしたちは別に政略結婚しなきゃいけないような立場じゃないんだからさ」
「…………だからお姉ちゃんは翼くんと別れたの? もっと色々恋愛してみたくて?」
「そういうこと。別れるのもくっつくのも自由じゃん。翼だって同意の上だし。元々お試しで付き合ってみようって感じだったからさ」
「お試し……」
わたしの頭がかたいのかな? お姉ちゃんの言うこと、よくわからない。そりゃ、最初に危惧していたみたいに二人の仲が険悪になっていないのはよかったけど、釈然としない。
「まあ、そういうことだから――楽しんできなよ」
お姉ちゃんはわたしの背中を押して笑った。
***
(ここが翼くんとお姉ちゃんが通っている大学かぁ……)
翼くんに連れられ、わたしは大学の門をくぐった。なかは沢山の人でごった返していて歩きづらい。女性はみんな、わたしとほとんど年齢が変わらないはずなのに、すごくおしゃれだし大人っぽく見える。彼女たちと比べてみたら、メイクとか、服装とか、自分が背伸びをしているのがまるわかりで、なんだか途端に恥ずかしくなった。
「ひなちゃん、大丈夫?」
「うん、平気」
本当は嘘。色々、大丈夫じゃない。おろしたてのパンプスなんて履いてくるんじゃなかった。人混みを避けながら歩いたせいで、既に足が痛くなっている。
(絶対に翼くんにバレないようにしないと)
子供っぽいと思われたくない。迷惑なんてかけたくない。ただでさえ自己嫌悪に陥ってるのに、これ以上落ち込むのはゴメンだ。
とそのとき、わたしの手のひらを温かいなにかが包み込んだ。大きくて、ゴツゴツしていて、トクントクンと鼓動を感じる。思わず顔を上げたら、翼くんが困ったように微笑んだ。
「はぐれたらいけないから」
「……うん」
心臓、早すぎてやばい。頬が、体がめちゃくちゃ熱い。
こんなふうに手をつなぐのは一体何年ぶりだろう? 翼くんにとっては小さい頃と同じで、妹を世話している感覚なんだろうけど、わたしにとっては全然違う。
(これ以上好きにさせないで)
元々叶わない恋だった。だけど、今では家族になる道も途絶えてしまったんだもん。好きになったところで苦しいだけだ。
ただでさえ、会いたくて会いたくて堪らなくて、いつでも声が聞きたくて、メールが来るだけで天にも昇る心地なのに。
(手をつなぐとかどんな拷問なの?)
だけど、当然自分から放すことなんてできなくて、わたしたちは手をつないで歩き続けた。大学の端から端まで歩いて校舎を見学してみたり、翼くんの友達のサークルとか、ゼミの先輩のお店に足を運んでみた。その度に翼くんはわたしを『お姉ちゃんの妹』ではなく『幼馴染』って紹介してくれて、なんだかむず痒い気持ちになる。
(お姉ちゃんが言うとおり、わたしにも少しぐらい望みはあるのかな)
少なくとも『元カノの妹』という認識ではないと思いたい。こんなふうに手をつないでいるところを人に見られてもいいぐらいには、わたしのことを想ってくれてるって。そんなふうにうぬぼれちゃダメ?
「あっ……」
そのとき、翼くんがふと小さく呟いた。視線の先を辿ると、そこにはお姉ちゃんの姿があった。
(お姉ちゃん……)
声をかけようかどうしようか迷って――やめた。だって、見知らぬ男性と手をつないでいたから。
あれが以前話していた心変わりの相手なのかな? すごく楽しそうで、嬉しそうな表情だ。妹としては、姉が幸せそうにしているのは素直に嬉しい。
(だけど、翼くんは?)
見上げれば、翼くんはとても寂しそうに微笑んでいた。胸が痛い。翼くんはきっと、まだお姉ちゃんのことが好きなんだ。好きで好きでたまらないんだ。
「そうだよね、そんな簡単に忘れられるわけがないよね」
切なさのあまり、涙がこみあげてくる。
「ひなちゃん?」
「今日はありがとう、翼くん。わたし、そろそろ帰るね」
このまま翼くんと一緒にいるのは辛い。距離を取らなきゃ。ちゃんと妹に戻らなきゃ。
一瞬でも、翼くんの恋愛対象になれるだなんて夢を見たわたしは馬鹿だ。
「だったら一緒に……」
「ううん、寄りたいところがあるの。翼くんは先に帰ってて」
精一杯の笑顔。マメが潰れてズキズキ痛む足を引きずりながら、人混みの中を急いで抜ける。
翼くんは悪くない。わたしが勝手に期待して、勝手に傷ついてしまっただけ。だけど、わたしは苦しかった。恋って本当に楽しいだけのものじゃない。
それでもわたしは、翼くんに会えなくなるなんて嫌だ。ずっと一緒にいたい。だから、次に会うときは何事もなかった――そんなふうに笑えるようにならなきゃいけない。
(早く戻らなきゃ。前みたいに。笑えるようにならなきゃ、でしょう?)
校門を出て、足を引きずりながら駅まで走る。情けなくて涙が出てきた。
ダメだなぁ。本当はあのとき、翼くんを慰めるべきだったのに。彼の気持ちに寄り添うべきだったのに。わたしにはそんなことはできなかった。どこまでも子どもで、どこまでも救いようがない。
「ひなちゃん!」
そのとき、背後から翼くんの声が聞こえてきた。彼の手には絆創膏の箱。「待って!」って言われて、逃げ出すこともできなくて、わたしはゆっくりと立ち止まった。
「ごめん、先に帰ってって言われたけど……これ、渡したくて」
翼くんが絆創膏を取り出す。
翼くんは汗だくだった。わたしを見失わないように、急いで買ってくれたのかな?
申し訳なくて、だけど嬉しくて。「ありがとう」って返事をしたら、翼くんは優しく微笑んでくれた。
「俺のほうこそ、ちゃんと気遣えなくてゴメン。もっと休憩を挟むべきだったね。こういうところ、上手くできなくて」
「ううん……そんなことない。わたしのほうこそ、ごめんね。いきなり先に帰ってて、だなんて」
そう口にしたら、翼くんはほぅと大きく息をつきつつ、わたしの頭を撫でてくれる。目頭が一気に熱くなった。
「よかった。なにか気に障ることを……愛想をつかされたのかと思って焦った」
翼くんがそう言って笑う。本当に心底安心したっていう表情で、胸がギュッとなった。
「わたしが翼くんに愛想をつかすなんてありえないよ」
「本当?」
「うん、絶対にありえない。だってわたし、未だにお姉ちゃんが心変わりしたのが信じられないもん」
「え? 未来が心変わり?」
翼くんが首を傾げる。その瞬間わたしは『しまった!』と後悔した。
「ご、ごめん! わたし、めちゃくちゃ無神経なことを……」
「ねえ、それ、未来が言ったの?」
「え?」
「別れた理由……あいつのほうが心変わりしたって」
ものすごく驚いた表情。「違うの?」って尋ねたら、翼くんは大きくうなずいた。
「元々、短期間でいいから付き合ってみてほしいって、あいつにそう頼まれたんだ。だけど、付き合っているうちに気づいた。俺には別に好きな人がいるって。おそらく、未来のほうは最初から気づいていたんだと思う」
そんなこと、全然知らなかった。二人は両思いだとばかり思っていたのに。胸がズキンと痛んだ。
「だから今日、あいつが次の恋を見つけられたんだって知って、嬉しかった。ずっと申し訳ないって思ってたから」
「そうだったんだ……」
翼くんのあの表情は、失恋の苦しみからくるものではなかったらしい。よかった――――だけど、それならどうして?
「どうしてお姉ちゃんはわたしに嘘をついたのかな?」
心変わりをしたなんて嘘――知っていたらわたし、お姉ちゃんを責めたりしなかった。失恋の痛みに寄り添ってた。
(一体どんな気持ちでわたしと話していたんだろう?)
お姉ちゃんはずっと、自分が悪いみたいに話していたんだもん。全然気づけなかった。
それに、翼くんの好きな人って……?
「それは――俺のためだと思う」
「え?」
「俺がひなちゃんに嫌われないようにって」
翼くんがわたしの手を握る。思わず視線を上げたら、彼は真っ赤な顔でわたしを見つめていた。
「俺が好きなのは――付き合いたいと思う相手が、ひなちゃんだったから」
胸が跳ねる。瞳が揺れる。世界がひっくり返ったかのような心地がした。
「嘘……」
「嘘じゃない。俺はひなちゃんが好きだ。参考書を届けに行ったあの日、本当はそのことを伝えたくて――だけど、未来と別れたばかりで告白するのも気が引けて、今日までズルズル来てしまった」
翼くんは言いながら真剣な表情を浮かべている。
(本当に?)
そんなことがあっていいの?
嬉しい――だけどそれだけじゃない。
もしも最初から翼くんがわたしを好きだからお姉ちゃんと別れたって知っていたら、わたしは自分を許せなかったかもしれない。お姉ちゃんへの自責の念にかられて、翼くんとも距離を置いて、一人で塞ぎ込んでいたかもしれない。
(お姉ちゃん……)
お姉ちゃんがどうして、なんのために自分を悪者にしたのか――その理由を想像すると胸が苦しくて、それから温かくなる。
わたしが翼くんの手を取れるように――素直になれるように。それがお姉ちゃんの願いなんだと思う。わたしがお姉ちゃんと翼くんを応援していたのと同じように。
「……本当に、わたしでいいの?」
翼くんがうなずく。ギュって強く抱きしめられる。
わたしの好きな人はお姉ちゃんの元彼だ。この恋が叶うことは一生ないって思ってた。だけど――
「わたしも翼くんが好き!」
生涯口にする気がなかった想いを言葉にして、わたしは満面の笑みを浮かべるのだった。
本作を読んでいただき、ありがとうございました。
もしもこの作品を気に入っていただけた方は、ブクマやいいね!、広告下の評価【★★★★★】や感想をいただけると、今後の創作活動の励みになります。
改めまして、最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!