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魔族なるもの

 リカロンの旧聖堂の地下で雁字搦めにされて、ただ茫然と時が過ぎるのをフラウィウスは待っていた。縛られた麻縄が足首に食い込んでいた。失った左腕は拘束されていないが、右腕は鎖につながれている。首に特殊な金属の枷がつけられて、魔術は使うことが出来ない。彼のような手合いを拘束するときの常とう手段である。目の前に番兵が一人、聖堂の回廊に数人がつねに哨戒している。

 ほとんど絶望的と言える状況だった。あと数日したら、騎士団の兵隊がやってきて彼をフラワリアに護送する。そして、エラリ教区長を暗殺しようとした咎で、市井のまえで首を刎ねられる。おそらく、黒百合騎士団の上層部も、その処刑を黙認するだろう。異を唱えれば暗殺に加担したことになり、教皇庁から組織自体が非公認にされる可能性がある。暗殺の防衛策はどこの勢力も骨を折っているが、暗殺が防がれて下手人が捕まった場合の事後策は、なにか流れ作業のような暗黙の了解がある。

 フラワリアは暗殺全盛の時代を迎えている。傭兵を借り出して、紛争をするより水面下での争いをしておいた方が被害はすくない。が、結果的に戦闘能力に恵まれたエリートたちはつねに猜疑心にまみれた生活を余儀なくされた。フラワリアの戦士たちは皆、凶刃を恐れて組織の巨大な館のなかで一つ屋根の下、生活する。強き者たちがいっそう恐怖に駆られて行動するという逆説的な状態である。その時代の乱麻に導かれて、フラウィウスもあれよあれよという間に出世した。が、彼のこころの安息はついに訪れなかった。この奔流に参加した以上、流れに身を任せるしかないのである。急に人殺しを辞めたいなどと言えば、組織の庇護を失い、一個の人間として百鬼夜行を往かねばならない。いまや、そういう道を失った強者たちが暗殺におびえる時代だった。ただ、その原因はひとえに、この世界の頂点に立つ人間がいないことにある。いわゆる、<勇者>とも言うべき天上人が長らく、世に不在なのである。

 ――数多の人間を屠ってきた人間は意外に潔い。フラウィウスは聖堂の円蓋を仰ぎ見ていた。その瞳は暗がりの中でも強靭な光を持っている。

 (ウウム。いずれは大きな戦争で死ぬものと思っていたが、この有様か)。たぶん、彼は死んでも改心しないし、後悔すら微塵も感じないだろう。ただ、彼は悲しみを感じないにしても、檻の中にいると劇的に悲しい人間に見える。彼の人生に特筆すべき点は多くない。大都市フラワリアの横丁にたむろする、ならず者が己の膂力を頼みに成り上がる、ありふれた人生だった。

 今際の際に判然としない感傷に浸っていると旧聖堂の建付けのわるい扉が開いて光が差し込んでくる。円蓋に響いて、小さな会話が明朗に聞こえてきた。

「ウィリアム殿、いったい何用で?」

「ああ、交代だよ」

「えっ。交代ですか。そんなことは聞いておりませんが」

「幾人も死人が出たゆえ、幽鬼や屍鬼の類が出ないとも限らないから君らは墓地の周辺を守ってきてくれ。ここは俺が見るよ。なあに、あいつが逃げ出す心配なんてないさ」」

「はあ。墓地の巡回ですか」

「ああ、そうだ。ちゃんと魔除けの護符が壊れていないかも確認してきておくれ」

 その言葉を最後に哨兵がぞろぞろと旧聖堂から出ていった。フラウィウスは誰かが早めに自分を殺しに来ていると思った。埃をかぶった絨毯の上を注意深く、こちらに歩いてくるのが気配や音で分かった。その時になって、彼は意味深げにじっと聖堂の円蓋を見ている視線を下ろした。

「俺を殺しに来たのか?」

 とフラウィウスが問うと暗がりの影は「いいや。そうじゃない。君に聞きたいことがある」といった。

「へえ。何が知りたい」

「ギルバート、哨兵は下がったぞ。下りてこい」人影がそういうとふいに二階廊下の欄干を飛び越えて見覚えのある人物が現れた。フラウィウスは「なんだ。お前か」と苦笑した。

「キリンとかいう霊獣について教えろ」

 単刀直入にギルバートはフラウィウスを見下ろして問うた。フラウィウスは鼻で笑った。くすりという笑い声さえ円蓋に反響して不気味な音を奏でる。

「なんでそんなことが知りたいんだね」

「お前には関係ない。さっさと教えろ」ギルバートは彼を前にすると無残に殺された人々の影がちらついた。檻の柵を挟んでなお、怖気がした。

「そんなこと言われてもなあ。――死を待つだけの俺様に何の益がある?」

 フラウィウスはそういうと自分を拘束している鎖を揺らして笑った。

「まさか、助けろとか、いうんじゃないよな」ギルバートが言った。コグは傍で、その衒いのない会話にげんなりして(そら、助けろって言うに決まってんだろ)と思った。

「助ける、だけじゃない。もう一つ、貴様は俺の相棒クォンを見つけてこい」

 フラウィウスはそう付け加えた。ギルバートの背後に侍していたウィリアムも「それはムリだ。なにしろ、我々も、そのクォンを探している最中なんだ」といった。

「そんなことは関係ないな。――キリンねえ。なるほどな、死にそうな人でもいるのか」フラウィウスは自分が檻の中で許される限界までギルバートの方に近づいた。

「ああ、そうだ」あくまでギルバートは正直だった。駆け引きなどない。ウィリアムは背後から、そのようすに一抹の危うさを感じた。

「そうか。――なら、急いだ方がいいぜ。フラワリアの大物たちは全員、キリンの肝を狙ってるからな」

「みんな、狙ってるのか。キリンの肝を」ギルバートは絶望したようすで言った。

「そりゃあ、みんな長生きしたいからな。病が治ったり、寿命が延びるといった伝説が本当なのかは俺はしらん。けれど、聖アルミニウス公と同じようにキリンを殺したとなれば、その組織と人物には、備わるモノがある。――威名ってやつだ。恐れられなければ、フラワリアの支配者にはなれない。そんなわけで、つまり貴様がキリンを狩りたいとなれば、そのような為政者たちの野望を邪魔するってことになる。生半可なことじゃないぜ。三代先まで罪を被る」

「で、結局、貴様は知ってるのか。キリンの居所は」

 ギルバートが聞くと、フラウィウスは鉄格子に顔を挟んで舌を出した。

「もちろん。知ってるとも」

 下劣な微笑みが鉄格子の間でギルバートとウィリアムを嘲っている。

「君は人を小ばかに出来る状況かい?」ウィリアムがそう諭すと、フラウィウスはなおも狂気じみた笑顔で「じゃあ、こういうのはどうだ。――キリンは、白山の麓、ヴェルデ川の上流にある三角洲にねぐらがある」といった。あまりにふつうに彼は深奥の秘密をしゃべった。その意図は怪しさに満ちている。ギルバートはむっとした。

「ウソをつくな」

「ウソじゃない」

「――このやろうっ!」

 ギルバートは鉄格子ごしにふざけた笑みを送ってくるフラウィウスに憤然と向かっていった。

「まあ。待ちたまえよ、ギルバート」とウィリアムが止めに入り、そのようすをフラウィウスは愉しそうに笑っている。それを受けて、ギルバートはウィリアムに掴まれながら射殺すような目つきでフラウィウスを睨んだ。

「ではもうひとつ、いいことを教えてやろう。……このリカロンの住民には魔族の血が混じっている」

「あっ。貴様っ!」

 フラウィウスが急にそう暴露すると、ウィリアムは当惑した。コグはそれを聞いて勃然とフラウィウスの眼前に迫って「それ、マジ?」と聞いた。

「マジだ」

 ギルバートは眉をひそめて困惑する。話がよくわからない方向へと進んでいく。邪悪なるコグとフラウィウスに、その真偽を問うても仕方がない。ギルバートはふりかえってウィリアムに聞いた。

「リカロンの住民が魔族? なにかの間違いでしょう」

「……」

 ウィリアムは口をへの字に曲げて言い難いことがあるように黙った。

 コグはのらりくらりとウィリアムに近づいて「見目形に表れないということは吸血鬼と人間のハーフだな?」といった。コグは魔族に知悉していた。オーガや獣人の血が混ざっていれば、見目形を見ればすぐにわかる。だが、リカロンの住民のすがたは人間と変わらない。もし、リカロンの住民が魔族なのだとしたら、あり得るのは、吸血鬼と人間の混血であるという線だけだ。コグの見立ては確かだった。ウィリアムは隠してもしょうがないと思った。

「たしかに、リカロンの住民には吸血鬼の血が混ざっている」ウィリアムの恐ろしい告白にギルバートは愕然とした。

 そのようすにフラウィウスは笑いながら鎖を揺らして「わかるはずだ。ギルバート、貴様は感じなかったか? お前の存在そのものを蔑むような視線や言動を」

 ギルバートはリカロンの住民の排他的な気配を思い出して寒気をおぼえた。

「ウィリアム殿、あんたも魔族なのか?」

 ウィリアムはかぶりを振った。

「じつは、このリカロンで純血の人間は俺だけだ」

 ウィリアムはそういった。ふいに意味深げにギルバートはウィリアムを見た。

「モニカ様は?」

 ギルバートの問いにウィリアムの表情が曇った。

「あの御方も、吸血鬼だ」

 ギルバートは奈落に落ちていくような気がした。彼女の仮面の奥に悪鬼羅刹の眼光を空想した。

(彼女は魔族だから、単に俺を殺したかったのか?)とギルバートは考えたが、はたして、この世相のすがたは見たまんまなのかここ最近の経験で怪しいとも思った。そもそも、魔族とは悪なのか善なのか。かれの知見では判断しがたい。

 ギルバートは湯気が出そうなぐらい思考の底に沈んだ。フラウィウスはその頑健な背中に向かって「あの女は吸血鬼ってだけじゃない。<王家の血>を持っている」といった。

「王家の血? なんだ、それは」ギルバートがふりかえって聞き返した。その質問をかき消すような勢いでコグは「な、なんだとっ。貴様、ウソも大概にしとけ」と叫んだ。

「ウソなら、俺もあそこまで苦労はしなかった。隠れる必要すらない。白昼堂々、あの女を殺しに行った」フラウィウスはいった。

「なんてこった。ただ者ではないと思っていたが、よりにもよって<王家の血>かよ」

 コグはくわっと方向を変えて、ギルバートに迫った。

「なんだよ」

「こうなったら、見つかるまえに逃げちまおう」

 コグはそういった。めずらしく焦っている様子だった。フラウィウスは笑って、焦るコグをバカにするように「妖刀よ、そうビビるな。忘れたのか、あの女はいまや盲目だ。<王家の血>を持っているから、わざわざ人質まで取って目を狙ったのさ。真っ向から挑んで本気になられたらまずいからな。――さあ、必要なことはすべて教えた。クォンを見つけて、俺をここから解放しろ」

「この大馬鹿が。なんで、わざわざ、貴様を助ける必要がある」

 コグが言うとフラウィウスは鼻で笑って、ギルバートを見た。

「なぜなら、俺は正直に話した。ギルバート、君にはそこの妖刀と違って義があるはずだ。ちがうかな?」

 その瞳は澄んで見え、むしろどす黒い。

「だが、お前は妊婦を殺した」ギルバートが言うと、フラウィウスは首を振った。

「ちがうぞ。<魔族>の妊婦だ」

 フラウィウスは巧みだった。手繰り寄せるようにギルバートの心をつかんでいく。すでに、ギルバートはこのリカロンで出会った人物に対して疑いを持ち始めている。フラウィウスの言うところは単純明快だった。魔族だから殺した、である。なおも、フラウィウスは続ける。

「それにお前は黒百合や白百合についてまったく知らないではないか。さすがに、真っ向勝負はなめ過ぎだぜ。――奴らを出し抜いてキリンを狩るには、今後も俺の力が必要だ」

 さも解放された後、ギルバートの仲間になるような口ぶりにウィリアムは「あんたは黒百合騎士団だろ」といった。フラウィウスは笑いながら

「あんな半グレ集団はもう抜ける」

「なんだって。なぜだ」ウィリアムが聞くと、フラウィウスは答えた。

「俺は……勝てる方につく。ギルバート、おまえの力は本物だ。あと数年後には、この世のだれもおまえに並び立たない。数百年後には、フラワリアの広場にその銅像が建つだろう。――ゆえに、俺は黒百合に背を向け、貴様の側につく」

 コグはそろりとフラウィウスを値踏みするみたいに睨んだ。

「俺に腕を喰われたのを恨まないのか」

「ふふ。クォンを使うには片腕で十分」

 それを聞いてコグは哄笑した。くるりとギルバートの方を向くと「よし、こいつを助けてやろう」といった。

「冗談だろ」

 ギルバートは愕然とした。ウィリアムも「ああ、やめておいた方がいい」と追従した。フラウィウスはなんとも思っていないように笑った。

「ジタバタするのは性に合わん。あとは、貴様が決めろ。だが、考える時間はさほど残っていないぜ。――まったく、鈍い奴らだ。さっきからずっと柱廊の影で聞き耳を立てている奴がいるぞ」フラウィウスはそういって、聖堂の柱が並んでいる廊下に向かって顎をしゃくった。

 ギルバートとウィリアムは驚いて、その柱廊の方を見た。

「だれだ」とウィリアムが暗がりの方へ問うと、柱からルクレツィアが顔を出した。そのおもては怒りを滲ませている。

「ウィリアム、なにしてんの。モニカ様を裏切る気?」

 すると、ウィリアムはギルバートの手前に進み出た。

「今回ばかりは、あの方に従うわけにはいかない。……ギルバートはまだ死ぬべき人間ではない。彼はアルミニウスの生まれ変わりなんだ」

「アハハ」とルクレツィアは鼻で笑った。円蓋に笑い声が蔑む色を増長させて響いている。

「まったく……ウィリアム、あんたって結局、<ヒューマン>なんだね。だって、そのアルミニウスってのは、この人間界から魔族を駆逐した人でしょ。その生まれ変わりならモニカ様が殺そうとするのは当然じゃん」

「俺をヒューマンと呼ぶのは禁句だって約束したはずだ」ウィリアムは悪魔が憑依したみたいな怒色をあらわにした。ギルバートはいっそう不安になって彼の背中を見ている。

「ふん。黒百合の囚人に勝手に近づいたあげく、今度はキリン? この裏切り者っ!」ルクレツィアは叫んだ。争いが始まる機微の激烈な感情のうずが聖堂に立ち込めている。ギルバートはめまいがした。

「ウィリアム殿、ここは逃げましょう」ギルバートは、ウィリアムの肩を引いて、この喧騒から逃げ出してしまいたかった。が、その手を振り払って、諦めたような顔つきでウィリアムは「こうなったら、やるしかない。仔細はいずれ話す」といった。

「し、しかし」

「キリンの肝が必要なんだろ。ここで死ぬ運命か。おのれは」

 ウィリアムはそう言って、鋭い瞳でギルバートを睨んだ。その眼は英雄の質の真贋を鑑定する。

 ――突然、聖堂の両開き扉が吹き飛んだ。粉塵が飛び散って、それを振りはらうことなく、騎士団候補生のジョンとディアナを引き連れ、銀面の下、口唇を固く結んで、彼女があらわれた。

 ギルバートは全身総毛だって、悪戯をしているところを見つかった子供みたいに身を縮めた。後ろから、牢獄から鎖を鳴らしながらフラウィウスが「おい、さっさと俺をここから出せ」と狂ったように喚いているのすら耳に入っていなかった。

 モニカは沈黙のうちに杖で地面をつつきながら、半歩ずつ注意深く近づいてくる。この時、フラウィウスは嫌な予感がした。彼女が何の勝算があって、ここに来たのかわからなかった。盲目の身で、ギルバートを殺しえる術でもあるのか。――そこで、かれの直感は急激に凝固していった。それは、あらかじめ準備されていたようにフラウィウスの脳裏で形を為した。

 なにしろ、フラウィウスも牢獄に入れられて、後々、考えてみると何か納得できないような感じがあったのである。鋭い嗅覚が(なにか、ハメられている……ような気がする)と感知していた。

 モニカは面を外した。片目はたしかに白濁して視力がない様子がうかがえる。が、もう一方の眼は包帯が巻かれていて、それを見た瞬間、フラウィウスは大きな声で「あっ!」ともらした。

「くそ、そういうことか。この妖女めっ!」

 ――あの一撃目のことである。聖堂でギルバートとモニカが並んで座っているときの、目元への一撃。たしかに、あの時しっかりと目玉をえぐり取ったか自分の眼で確認したわけではない。

(てっきり片目を潰したと思い込んでいた。つまりあの女が人質を取られて躊躇せず自分で目を潰したのは……片目が残っていたからかっ!)。

 モニカが包帯を外すと暗闇で鉱物のように不気味に輝く青い目玉があらわれた。フラウィウスは焼けつくような焦燥感に駆られた。この距離で<王家の血>を持つ魔族と向かい合っている。この場面を描くことなく、彼女を無力化することがフラウィウスに与えられた仕事であった。吸血鬼の<王家の血>と呼ばれる能力は生粋の暗殺者の眼から見ても、それほど恐るべきものだった。しかも、彼にとって最悪なのは愛刀のクォンも無く鎖につながれて何もできない状況なのである。こうなったら、頼みはギルバートが独力で解決することだけなのだが、そのギルバートは困惑するのみでまったく戦う顔をしていない。

 同じ焦りをコグも感じたらしい。

「おい。集中だ、敵だぞ。あれは」とコグは焦りからか体を痺れたように動かして、彼の注意を引いている。

「あっ?」

「あっ、じゃねえよ」

判然としない返答をしながら、ギルバートは茫然とモニカの顔を見ていた。彼女は顔色を変えずに口をひらき、何かを言おうとしたが、ため息を漏らしただけだった。

 彼女は(理解を得たうえで殺す、とはいかにも頓珍漢な話だ)と思った。けれど、ギルバートには、自分は潔白なことだけは覚えておいてほしいという痛切な思いがある。

(まだ、貴方が子羊のうちに、息の根を止めなければ、この世界にたいする裏切りになる)。脳裏で罪の許しを請うような独白が響いている。ふいにその熱くなった手を引いて、かたわらからディアナが言った。

「モニカ様、いまいちどよくお考えください。あの男はいま、逃がしたあとに、追って機会を窺った方が、安全に殺すことができるはずです」

 モニカはその諫言を拒否するように持っていた杖を突き放すように渡した。

「これを持っていて。――では、皆、離れていなさい。手出し無用です。良いですね」

 ディアナは渡された杖を握りしめて、「はい」と声を震わせた。

すると、横合いから「モニカ様、ウィリアムは?」とルクレツィアが責めるような口吻で言った。

「彼にはいちど、逃げるチャンスぐらいは与えます。なおも邪魔立てするなら、殺します。それで、いいですか? ルクレツィア?」

「……はい、もうなにも言いません」

 ルクレツィアは彼女の怖気の走るような殺気に縮こまって、後ろに下がった。

 モニカは服を脱いだ。羽織っていた法衣を脱いで、あらわになった腕は意外に筋張っていて、異様な傷跡があった。晒しまでためらいなく脱ぎ捨てると暗がりに熟れた女体が見えた。が、それに官能的な気配はなかった。上半身が老戦士のごとく傷だらけなのである。艶のある柔肌のうえに傷跡が幾重にも積み重なっている。それは、いままで生き抜いてきた戦闘のすさまじさを暗に語っているように思われた。

 フラウィウスもウィリアムもギルバートも、雁首揃えて息を殺した。女が目の前で裸になっているという感じが微塵もない。巨大な怪物を相手にしているような緊張が走った。突然、驟雨が来たように暗澹とした影が差した。空気がわななき、古臭い建物の塵埃が舞った。

 人間は「魔族」と聞くと四本足の怪物のような異形を思い浮かべるが、実際の魔族の姿形は人間に似ている。吸血鬼に至っては、ほとんど人間と差異がない。それでも、なぜ、人間は魔族を怪物のように空想するのかといえば、絵や偶像や伝聞などが、いささか誇張して魔族の姿を怪物のように描いているからである。魔族の怪異なイメージはひとえに魔族の極少数がもつ変身能力に依存している。それを吸血鬼は<王家の血>と呼ぶ。フラワリアには吸血鬼を羽の生えた怪物に描くが、その空想が現実として、ギルバートのまえに顕現しようとしていた。太古から魔族は<変身>し、人間は<神器>をもってそれに抗してきた。勇者アルミニウスは現在の人間界の魔族を駆逐した。生き残った魔族は白山という山脈を越えて、生息地を移した。それから、長きにわたる魔族と人間との休戦が結ばれたが、この時、田舎のリカロン・ヴェイルにて、その再戦の嚆矢が人知れず放たれた。

 ――モニカの上半身がみるみるうちに灰色に変わっていく。独眼が赤く輝いて、ギルバートを捉えた。腕と足が伸びて、肩の僧帽筋が膨らんだ。小粒に尖っていた八重歯が狼のごとく鋭く生えてきた。めりめり、という耳障りな音が聴こえた。モニカは呻いた。すると、かがみ込んだ彼女の背中を突き破って、蝙蝠に似た羽があらわれた。

 <王家の血>を開いてなお、その見目形には、美貌の残り香がある。ギルバートは言葉を失った。目の前の光景が、この世のモノとは思えなかった。

 ――彼の困惑を待つほど、彼女には余裕がない。びゅん、と風切り音がした。砂塵を巻き上げて、その大きな体を苦にせず、走って向かってくる。

 コグはギルバートの魔力を急激に吸い上げて、自分の触手を使って壁のように彼女の進行方向を塞いだ。すると、モニカは「ぐぉぉ」とうめき声をあげて、コグの体の繊維に指を突っ込んで、無理やり押し広げながら侵入してきた。

「これが、<王家の血>か。半端じゃねえ」

 コグは思わず、感嘆した。そのまま腕を振りかぶって、ギルバートに襲いかかった。ギルバートはいまだ寝ぼけたように呆然としていた。

 そのようすに危ういと思って、ウィリアムが横合いから躍り出ていった。武器を持っても、かなわないと観念して無防備な状態でただ彼女の前に立った。

 モニカは「おどきなさいっ!」と叱るように叫んだ。

「モニカ様、貴女は<心眼>の力を過信しすぎている。彼がアルミニウス公の生まれ変わりならば、聖人と同じく人生で一度や二度、間違いを犯すこともあるでしょう。だが、最後にはかならず、この世の万人のための英雄となります。だから、ここはお納めください」

「最後の警告です、ウィリアム。そこを退きなさい。退かぬというなら、本当に殺しますっ!」

「彼を殺したかったら、まずは俺を殺してからにしろ」ウィリアムは凄んで、頑として譲らなかった。彼の覚悟の固いことを見てとって、モニカは長く伸びた腕を振り上げた。

 (まずいっ)とギルバートはウィリアムの肩を掴んで、彼を押し除けた。がつんと頭蓋に金属音みたいな音が響いた。ギルバートはモニカの殴打を喰らって旧聖堂の劣化した壁を突き破り、そのままリカロンの大通りまで体を投げ出された。しかも、殴られた拍子にギルバートはコグを離してしまった。モニカの目の前にコグは転がって、魔力の源泉を失った結果、刀身はみるみるうちに縮んだ。コグは怒って「あのバカ。俺を離すんじゃねえよ」と言ったがギルバートはそれも聞こえないぐらい遠くに殴り飛ばされていた。

 ――モニカは壁に開いた穴を潜っていこうとした。

 コグはぎょろりと鎖に繋がれたフラウィウスを睨んだ。するとフラウィウスは鼻で笑って「妖刀よ。哀れなものだ。貴様も結局は道具の域を出ないのだ。さあ、諦めて俺をここから出せ。――それに……隠してるんだろう? 俺の相棒を」

 コグは歯軋りした。彼はクォンを騒ぎの最中に呑み込んで体内に隠していたのである。フラウィウスは気づいていたらしい。

(くそ。嫌な人間だ)とコグは思った。が、ギルバートと引き剥がされたら、ほとんど何もできないのは事実である。

 どうやらフラウィウスを助けるしか道はないようだった。コグは大口を開けて喉笛を鳴らして、口の奥に隠し持っていた神器クォンを喉の奥からフラウィウスの鎖に向けて放った。

 クォンはちょうどフラウィウスの手枷の部分を破壊して壁に突き刺さった。ふしんな音を聞いて、モニカはくわっとフラウィウスの方を見た。ちょうど、その時、フラウィウスは鎖が破壊されて、自由になった片腕の膂力を奮って、足枷を捻じ切った。金属の残骸をポイッと彼女の手前に投げ捨てるとクォンを使って牢獄の柵をバラバラに破壊した。

「――じゃあ、戦ろうか」と悠々、脱獄してモニカに笑いかけた。

「下郎、<王家の血>を開いた私に黒百合の砂利如きがかなうとでも?」モニカは言った。背中から左右に伸びている羽根が煽るようにはためいて、風が起こった。

 フラウィウスは前腕がない肘を振って苦笑した。普段はクォンを持つ手の逆に直剣を構えたりするが、今となってはそれは出来ない。クォンを使うのには片腕で十分とは言ったものの、やはり、単騎の戦闘能力は若干落ちたのは間違いない。

「むろん、今の貴方にかなうとは、さすがに思わない」

 魔力の風圧が砂塵を巻き上げている。円蓋を吹き飛ばしそうな威力である。手元のクォンは子犬のように怯えきって「イヤだ。カテナイ。お前もあれにはカテナイ」と喚いている。戦力の差は十分承知している。ただ、フラウィウスの戦型は、つねに逃げる俊足を残し、戦機を引き伸ばす。くわえて、モニカの狙いはギルバートである。時間を使われるほど、焦るに違いないと踏んで、フラウィウスはむしろ自信に満ちていた。

 焦燥にかられ、モニカは巨躯を震わして襲い掛かってきた。

(やはりな。速戦即決の構えだ)とフラウィウスは思った。クォンの力が転がっていたコグをちょうどギルバートが殴り飛ばされて出来た聖堂の壁の穴を通って飛んでいった。


  モニカはぎょっとした。ギルバートとコグを引き剥がしたことが戦略的優位をもたらした。ギルバートが生身の状態なら、十分、手に負えると彼女は踏んで戦いに臨んでいる。その優位をフラウィウスは奪い返そうとしている。強者どうしの戦場は複雑な因子を持ち、有利不利が二転三転していく。モニカはならばと、フラウィウスを無視して、ギルバートがコグをその手に掴む前に殺しに行こうと、その飛翔していったほうへ走り出そうとした。

 その気配をフラウィウスの方も察知した。クォンの刀身が薄く光った。牢獄の鉄骨の残骸や聖堂の漆喰がたちまち、穴を塞いだ。

 恨むような眼光でモニカはフラウィウスを睨んだ。火に油を注ぐように、こつん、と彼女の頭に石塊を飛ばして、彼は愉快そうに笑った。

「さあ、魔界の英雄の力を見せてくれ」

 そう煽った瞬間、彼女が立っていた地面の埃が巻き上がった。と思うと、彼女は手品みたいにフラウィウスの目の前にいた。

 尋常ならざる力を思わせる拳が振り上げられている。フラウィウスは間一髪、飛び上がって頭上の円蓋を蹴りながら旧聖堂の屋根まで逃げていった。その際、(いまのを喰らったら死ぬ。一瞬とて油断できない)と気を引き締めた。

 「待て。下郎」と彼女は追い上げてくる。切妻状の屋根の頂点でフラウィウスはモニカを迎えた。

 円蓋を突き破り、這うように彼女は現れた。

「その翼は飾りか」とフラウィウスがからかったのを無視して、モニカは屋根瓦を吹き飛ばして彼を再度追いかけ回した。真っ向から向かっていけば、数秒で殺されると理解している彼だから当然逃げる。その考えをモニカの方も察知し焦った。その追いかけていく形相は鬼のようである。フラウィウスの服の布を掴めそうなところで、どうしてもふわりと霧を掴んだように逃げられる。

 モニカはいよいよ腹が立った。聖女として教会で過ごした時間が長すぎたか、勘が鈍っているのがわかった。

 とはいえ、フラウィウスも気が気でなかった。一歩でも足を踏み違えてあの空を切る拳骨を受けたらどうなるか考えるだけで全身の血肉が凍りつくようだった。

 フラウィウスは横目にちらちらとギルバートを探していた。が、影も形もない。どこをともなく、騒ぎを聞きつけたリカロンの住民の雑踏がそこかしこに聞こえ出している。ついこの前、フラウィウスが暴れたこともあって、住民の恐怖は尋常ではない。

 かれは(また、人質を取るか?)と思って、逃げ惑う人々を見下ろした。勃然と、そのようすにモニカが

「このケダモノめ。人質など取らせてなるものかっ!」

 一瞬、気が抜けた。拳は紙一重、躱した。モニカの体が翻り、緩急がついた蹴りが腹部に入った。石柱がそのままぶつかってきたような激烈な痛みが走った。視界が散って、ぐるぐると回った。フラウィウスは口から塊みたいな血を吐いて、屋根の上を転がった。

  うつ伏せに倒れた。だが、目を見開いて気絶してはならぬと舌を噛んだ。気を失ったのを装って痛みに耐えた。耳に神経を集中させるとモニカはとどめを刺そうと寄ってきたのが屋根瓦を叩く靴音でわかった。彼女が脚を上げて、頭を踏み潰そうとした刹那に、がばっと体を起こして、驚いて目を剥いている彼女の顔めがけて小袋を投げた。小袋は彼女の額にぶつかって内容物を放出した。

 中には、シビレフグリという蛾の粉が入っていた。モニカは呻いて、後ずさった。片目が痺れ、涙が止まらなくなった。視界に不明瞭な影が差す。彼女は目を押さえながら、フラウィウスの姿を視界の影の奥に探した。

 片目は真っ赤に充血している。 

「こ、この奸賊めっ!」」と罵る声に返ってくる言葉がない。

 フラウィウスは機知と精神力に富んだ人間である。決して、ただの力頼みの乱族ではない。とはいえ、今回は負った傷が深かった。彼のいいところは、恥知らずなところである。加えて、プライドもない。女にやっつけられて、飄々としている騎士は彼ぐらいのものだった。だから、向こうみずな反撃には行かず、リカロンの築地の陰にある藪に隠れた。

 

 




 


 

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