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悪性

 ギルバートの生まれたのは、エラリの河畔の寂しげな漁村だった。家も、ほかに五、六戸程度しかなく、市場の道も開かれず、いまだ、物々交換などしているような未開の地だった。生まれた時には父親はいなかった。母親は父親の話を一度でもしたことがなかった。彼の記憶の底には、いつも母親の薄幸な無表情が沈殿している。けれど、その母親というのも、のっぺらぼうのわりには、おとなしい女性ではなかった。酒好きの癇癪もちであった。

 何度か、漁村のコクチマスを市場で、絹に変えてこいと、家を放り出された。ほとんど錬金術と言える取引である。幼年のギルバートは魚と絹の対価がまったく等価ではないこと市場で知ると、帰るに帰れず、二日三日をエラリの暗黒の森のなかで時を過ごした。

 数日たって、生死がおぼつかなくなってくると、彼の母親は意外に、彼を恋しがって家で待っているのだった。

「心配したのよ。どこに行っていたの?」

「……」たいてい、何とも言えず、困惑して黙っていた。

「おのれは口を利けないのか」

 といって、平手が飛んできた。ギルバートには痛みがなかった。ただ、愛されるということが、母親の香料の匂いとともに、痛みを伴うものとして記憶された。そういうことが続いて、母親がごくたまに恐ろし気に自分を見ているのに、ギルバートはある時、気づいた。彼女は、おそらく、殴っても、傷ひとつないギルバートの白い頬に恐れをなしたに違いない。いまだ、大都市の文明の光さえ見えない未開の地のことである。すぐに、ギルバートの母親は彼を悪魔の子かと思うようになった。

 そんなときに、彼の現在の主であるデズモンドがエラリの城塞に帰る途上で漁村を通った。運よく、かれは、男の使用人を探していた。

彼を引き取る代わりに、デズモンドは、対価として絹の織物を差し出した。ギルバートは意外な感にうたれた。自分の値打ちが、絹と等しいとは到底思えなかった。母親は喜んだ。彼女は息子との別離をすこしも哀しんでいなかった。

 ――そうして、彼はエラリの侍従としてデズモンドに雇われた。時間が動き出したように、彼は、その仕事に人生で初めて幸福を見出した。同時に、母親の扱いがほとんど虐待に等しいと事後的に気づいて、ふつふつと母親を恨むようになった。が、一人漁村に残した母親の安否を思うと、呪いのような情愛がふつふつとわいてくるのもまた、逃れられない宿命だった。

 ――そのような暗い過去もふたをして、ここ数年過ごしてきた彼だったが、病床で、その沈殿したものは揺り起こされて夢幻の悪夢になった。エラリの暗黒の孤独を思い出して、ギルバートは病床でうなされた。彼は、がばっと布団を吹き飛ばして飛び起きた。

 まず最初に気づいたのが、口いっぱいに謎の苦みがあることだった。全身に包帯を巻かれている。彼は包帯をじっと見た。真っ白く、血が滲んでいない。包帯は取り替えられたばかりである。傷口から植物の香りが漂ってきた。

 そこは広い病室だった。解放された窓から心地の良い微風が入ってくる。置かれている花瓶の花は瑞々しい花弁を開いている。ふと、部屋の仕切りの奥に人影が見えて、ちらちらと作業しているのが見えた。

「ここは、どこだ?」ギルバートはそう呼びかけた。声が老人のようにさび付いていた。からんと金属の様な音をたてて、銀製のボウルが転がった。仕切りの奥の人影はおそるおそる顔をだした。「やあ。やっと目を覚ましたか」

 人当たりよさそうな金髪の好青年だった。手に血が付着した包帯を持っていた。ギルバートは意外に思って「あなたが、看病をしてくれたのか?」といった。

「そうだ。といっても、やることは少なかったよ。君は勝手に回復した。どういう体のつくりになっているのか知らないが、あの場に居合わせたものとしてはあまり驚かないかな」

「あの場って」

「ああ、覚えていないのか。無理もない。あの時の君は取りつかれたようだった。おそらく、失血で意識が朦朧としていたんだろう」

 ギルバートは、あのフラウィウスとの戦闘を思い起こして、瘡蓋になったばかりの傷がうずいた。

「……たしか。あいつに噛みついたところまでは覚えている」

「はっはっは。だから、口が血まみれだったんだな。――覚えていないかい、君の喋る剣を屋根の上まで放り投げたのは俺だよ」

 ギルバートはそう言われて、やっと不明瞭だった記憶が再生した。あのときのギルバートと呼ぶ声が目の前の男の声色にそっくりに記憶のなかで聴こえた。思えば、あれがなければ、死んでいた。ギルバートは畏れ多いといった感じでベッドから飛び起きて、姿勢を正した。

「ああ、知らなかった。貴方は命の恩人です。失礼でなければ、お名前は?」

「ふふん。なるほど、そんな感じなんだな、きみは。俺はウィリアム。ウィリアム・オブ・リカロンヴェイル」

 ウィリアムの差し出した手をギルバートは大事そうに握った。

「俺はギルバート、小さな漁村の出です」

 一瞬で、二人は十年来の知己のように感じた。(ああ、こいつはいいヤツだ)という感慨がどちらにも直感された。ウィリアムはワードローブから服を持ってきて「君の前の服はボロボロだったから、これを着るといい」といった。

 ギルバートは礼を言って、すぐに着替えた。ウィリアムはすっかり回復しきって溌溂としている彼を見て驚いた。

(普通なら、まだ生死の境を彷徨っているような大怪我だった。こいつは怪物だな)。

 ――ウィリアムは大事そうにコグを持ってくると、意味深げにギルバートの前に立った。コグはまだ、寝ていた。紅き刀身は、水水しく黙然と輝いている。ウィリアムとギルバートは沈黙のうちに、腹を読みあった。ギルバートは自分の力の全貌を見られたことを重く受け取った。

「この剣のことは、俺は聞かないでおこう」ウィリアムはそういった。好奇心を抑え、良識からそういった。また、その方が良いと思った。一番は、ギルバートの人となりを信頼したからだった。病床から目覚めた彼に悪人性があったならば、彼は騎士団にその存在を密告することも辞さない構えだったのだが、彼はギルバートを一目見て気に入った。天来の強さを兼ね備えて、悪人ではないことが、この世界でどれほど価値があるか、ウィリアムはよく知っていた。その深い観想はフラウィウスに出会って、より痛切に感じられた。とにかく、ウィリアムはギルバートを英雄と認めたのである。それは、人格神を奉じる白百合騎士団には重い意味がある。いわば、神の子として、彼を認めるということに他ならない。

 ギルバートは、ウィリアムの深い信頼をすべて理解したわけではなかったが、その恩顧を感じた。

「じつは、この剣については、自分もよく知りません」ギルバートは正直に吐露した。

「そうか。こいつは家宝とかだったのかい?」

「いいえ。友人の商人が拾ってきたものなのです。まことの持ち主がいるなら、返すに如くはないのですが」

 ウィリアムは彼の慇懃で良識的な態度に感心した。ウィリアムは彼の腹を読むのを、不敬に当たると思ってやめた。

「この剣に水銀をかけてみた。魔物ならば、苦しんだはずだが、彼は何ともなさそうだった」

「では、邪悪ではないということですか」

「さあ、どうだろう。――俺の個人的な感想だぜ? 聞き流してくれても構わない」ウィリアムは白い歯を見せてそういった。話し方に老獪な余裕がある。その時になって、ギルバートは、ウィリアムがだいぶ、年上だと気づいた。

「はい。個人的な分析でも構いません」

「このコグという妖刀は、すこし、賢すぎる気がする。魔物か確かめようと思って水銀をかけようとしたらこちらの意図を汲んで鼻で笑われたよ。神器にしては明朗に言葉を操るし、人を惑わすようなところもある。こいつは……ジンか悪魔か呪縛生物の一種に思える。君はデーモンスレイヤーの経験はあるかい?」

「たまに魔物を殺すことはありますが。つまり、コグは魔物ですか?」

「いいや、魔物ではないだろう。だけど、魔物の中で特に賢い部類、そんな感じがする。まえに、館にとりついた呪縛生物の解呪をしたことがあるが、奴らの知性や優位性をひけらかす感じがそっくりだ」

 ウィリアムが説明していると、紅い刀身に目が生えそろって、じろりとウィリアムを睨んだ。

「お出ましかい」

「ふん。医者の真似事しかできない聖女騎士団風情が、俺を分析するとは。言っとくが、ジンや固有名詞を冠する悪魔どもが人間に話す言葉は、書物から引っ張ってきた形而上学的な腐った哲学だぜ。そんなのと俺を一緒にするなっ! 俺の言葉はすべて生きた実学だ。無駄なことは言わず、役に立つことしか言わない。例えば、ギルバートの治療には魔術より薬草を使った自然治癒の方がいいとか、な」

 コグは滔々と語った。ウィリアムは途方に暮れたように苦笑した。

「こいつはやはり、賢いな。たしかに、君の傷の治療をモニカ様は忌避なされた。理由はあのまま魔術による治療をしたらからだが早く再生しすぎて、むしろ不調和が起こると思われたからさ。だから栄養剤を無理やり口から注入して時間をかけて治療した」

「だから、くちンなかが、カメムシが爆発したみたいなのか」ギルバートは苦々しげに舌を出した。

「素晴らしい表現だな。はっはっは」ウィリアムは哄笑する。

「では、ウィリアム殿。俺はこいつをどうすべきですか」

 ギルバートが聞くと、コグは憤然と、彼の前に躍り出て「ばかな。もう遅い。契りは結んだんだぜ」といった。それを聞いて、ウィリアムは「それはほんとうか。神器の契りを結んだのか?」とさも重大なことのようにギルバートに確認する。

「たしかに、契りとやらは結びましたが問題が?」

「ウウム」

 ウィリアムはギルバートのことを不思議そうに眺めた。コグはそのようすに笑った。

「神器と契りを結ぶと、神器と使用者の間の魔力の結びつきが強くなる。より疾くお互いに感応し、その力をより自在に使えるというわけだ」

「それが問題ですか」

「フラウィウスは……その妖刀を掴んだだけで失神したんだ」

「フラウィウス?」

「ああ、そうか。フラウィウスとは、君が戦った黒百合騎士団の暗殺者だ。――で、どういうことかというとだな。ウウム……俺が見たところ、このコグという剣はとんでもない奔馬だということだな。フラウィウスも相当な器をもって、生まれた人間だったが、それでも、このコグを乗りこなすことは無理だった」

 ウィリアムがそういうとコグはふふんと鼻で笑って「言いえて妙」といった。ウィリアムは神経質そうに考え込んだ。

「君の御両親は?」

「母親がいます」

「お父上は?」

「いません」

「そうか。あまり、人の家族に立ち入るのは非常識かと思うが、お父上の顔を見たことはあるか?」

「ありません。会ったことも名前すらも知らない」

「ああ、やはりな。わかったぞ」

 ウィリアムは合点がいったようすだった。彼は興奮して、ギルバートの肩を叩いて「ついてきたまえ。いますぐに」といった。ギルバートは奇妙に思ったが、看病してもらった恩もあるので諾々と従った。

 リカロンヴェイルは最初来た時より、活気を失っていた。ウィリアムの屋敷は緩やかな坂道の途中にあった。せまっこい入り口を出ると、ちょうどの坂道を葬列が棺を担いで上がってくる。ウィリアムとギルバートはその列を避けるようにあるいた。ふいにギルバートは自分をじろりと見て、恐ろし気に緊張している顔が棺の下から見え隠れするのに気づいた。不思議そうに、その葬列を見送っているとウィリアムは重たそうな口をひらいた。

「ギルバート、はじめに言っておくと、この街で英雄扱いされると思わないことだ。むしろ、あの時、リカロンの住民は屋敷の窓からコグの異形な姿を見てしまっている。君のことを英雄か怪物か半信半疑なんだ。だから、あまり目を合わさない方がいい」

 すると、ギルバートの腰に佩いているコグがあざ笑うようにからからと音をたてて揺れた。

「怪物か。まあ、たしかに、血まみれだったし、そう思われても仕方ないかな」ギルバートは肩を落とした。なんのために戦ったのかと言えば、あの靴屋の女性を殺されたからだった。あの哀れなポーラなる女性のことを想うと可哀そうで身が焼けるようだった。人に感謝されるために戦ったわけではないが、あのフラウィウスとの血まみれの戦闘で得た苦しみを思い出して、その対価が無いのはギルバートの心に寂寥なものを残した。

 ウィリアムはその心情の落ち込んでいくのを見て取って、「いいや、君は英雄だった。リカロンの住民がいまも息をしているのは、まさしく、君が身を削って戦ったからだ。分かる人間には分かるものだ」といった。暗闇の光明のように、その言葉はギルバートの心を照らした。この時、初めてギルバートに人を尊敬するという感情が萌芽した。

 ふたりは礼拝堂のまえを通り過ぎて聖堂のなかへ入っていった。ウィリアムは番兵の一人もいないのを寂しく思った。皆、顔見知りだったが、フラウィウスによって路上の肉片へと変えられた。その血肉を拾い集める肉親たちの顔は忘れえない。

 聖堂は閑散としていた。フラウィウスに割られたステンドグラスがそのままだった。さいわい、アルミニウス像には傷はなかった。ふと、長椅子の隅に幽霊みたいに座っている女がいた。限りなく白っぽい金髪が聖堂の陰で陰影をもって映った。

 ウィリアムはため息がした。すこし間が悪い。

「ルクレツィア、どうしたんだ。聖堂にいるなんて珍しい」

「だって、モニカ様を守る人がいないでしょ。人手が足りないんだもの。ウィルはどうしたの」

 そう聞かれて、ウィリアムは間が悪いと思いながら腹をくくった。

「ああ、ルクレツィア。ギルバートだ。いまさっき、目を覚ました」とギルバートを紹介するとルクレツィアは白い眉を動かした。目元に攻撃的な棘がある。が、ギルバートは彼女のことをよく知らないので、無警戒に頭をさげた。

「ふん。悪魔の眷属ね」

 彼女はそういって、ギルバートの横を通り過ぎていった。革靴がこつこつと不機嫌そうな音を立てている。ギルバートは呆気に取られて、その背中を見送った。

「まあ気にするな。フラウィウスにまったく歯が立たなかったもんだから、お前を目の敵にしてるんだ。たぶん、何度も突っかかってくるだろうが、無視した方がいい」

 ウィリアムはそういってなだめた。ギルバートは困惑した。エラリがすこし恋しくなった。リカロンもエラリも住民性の程度はあまり変わらないのだが、少年の眼には天と地ほどの差があるように見えた。

 ギルバートはウィリアムに招かれるままに、聖堂の執務室へ通された。モニカは像のように真正面を向いて座っている。

「ウィリアム、ちょうど、よかったわ。フラワリアの本部に送る書簡の代筆をお願いしたいの」彼女は足音の気配で候補生のうちの誰が執務室に入ってきたか分かるらしい。歩くのもすでにそれほど苦にしていない。机には長い杖が立てかけてある。彼女は盲目になってから、より幽遠な雰囲気に磨きがかかった。

「代筆ですか? ええ、後でお手伝いいたします。それより、モニカ様、やっとギルバートが目を覚ましましたよ」

「ああ、よかったわ。ウィリアム、すこし二人だけにしてくれる」

「はい。僕はルクレツィアが近づいてこないか見張っておきますよ」

 ウィリアムはそういって、退室した。

「さあ、こちらへ」と机の前の椅子の方へ手招きされたが、その腕の方向はギルバートはいない。見えない分、身ぶり手ぶりがどこか頓珍漢な方向を指している。ギルバートは盲目になった彼女とどう接していいかわからなくなった。とりあえず、招かれるままに椅子に腰を下ろした。

「どう。体の傷はちゃんと癒えた?」

「ええ。おかげ様で死なずに済みました」

「そう。それで……貴方はいつエラリに帰るの?」

 彼女はそういった。話すときに首がまったく微動だにしない。銅像に話しかけられているような感じがした。

「はあ。傷も治ったので、明日には発ちたいと思っています」

「……帰っちゃうの?」

 ギルバートはどくんと心臓が脈打ったのが分かった。彼女はなぞの引力を持っている。どうしてか、その期待を裏切りたくないと思わせる蠱惑的な性質がある。

「いや。まあ、ならもう少し養生してから帰ります」と気づけば、思わず、そう言っている自分がいた。

「……」

 モニカはため息をした。机の上で組んだ手指を遊ばせながら「うーん。どうしましょ。はあ、ギルバート。貴方が心配なの」といった。コグのことを言われているとギルバートは直感した。あの奇怪なコグのすがたを多くの住民に見られていることだし、彼女の耳に入っているのも当然だろう。そして、あの水晶の中に映った無数の眼玉の映像と併せ考えれば、嫌な想像をしてしまうのも無理はない。なにしろ、あの映像を見ただけで、モニカは彼を殺そうとしたほどである。

「あの水晶の中でみたものが近づいているという実感はありますか?」

「……はい」ギルバートは正直に吐露した。

「正直にいえば、貴方を治療するか迷ったの。何度も、ウィリアムの栄養剤に毒を混ぜようかと思ったわ」

 彼女は冷たい声音で言った。ギルバートは背筋に寒いものを感じた。モニカが本気で言っているのが分かった。

「でも、そうしなかったのはなぜですか」

「わからない。自分の判断に自信が持てないの」

「そういわれると、俺も自分が怖くなります」

「ねえ。ギルバート、お願いだから、ここに残って。――白百合騎士団に叙任してあげる。富や栄華を約束できるけど、貴方はそんなものには興味ないわよね。だけど、貴方を傍で見てあげられる」

「しかし」ギルバートは迷った。タマラのことが忘れられない。そもそも、リカロンまで来たのも、死にゆく彼女を救う道を探すためだった。それに主君アッシャー家への忠義はどうなるのか。エラリの領地まで約束されたのに、ここで裏切るのは、人外に等しい行為に思われる。

「どうして? ここには貴方の力になれる人がたくさんいる。私はもちろん、ウィリアムだって。ほかの人もいずれ貴方の本当の姿に気づいてくれるわ」

「……俺の本当の姿は悪魔かもしれない」

「まあ、そんなこと言わないで」

「だけど、主君を捨てることはできない」

「ねえ、ギルバート。もし、エラリの領地を守りたかったら、貴方は断然、白百合騎士団に入っている方が都合がイイの。その方があなたのご主君の家を守れるわ」

「いや……そういうことじゃないんです」

 ギルバートは冷や汗をかいた。なにか、前途に暗雲を見た心地だった。

「どうしたの。ギルバート、ほかに障りがあるの?」

「……」

 ギルバートは黙った。彼は憤然とおでこが熱くなってきた。彼女に対して怒りはなかったが、不安が濁流のように心に押し寄せてきた。

「助けたい人がいるんです。今回、ここまで来たのも、貴方にその方法をご教示願おうと思ったからです」

 ギルバートはすべて吐き出してしまおうと思った。いつの間にか、デズモンドにモニカを信用するなと言われたことも忘れて、彼女の胸に飛び込むように真実、本音を話したくなった。

「どうしたの。ギルバート、だれを助けたいの?」

「タマラお嬢様の痼疾は日に日に悪くなっていくのです。あんなにお痩せになられて、もはや、見ていられないほどです」

「あのお嬢さんの痼疾は、私も治療に呼ばれたことがあります。あれは、病ではありません。生来の身体の質というもの」

「では、治しようがないということですか」

 彼は瞼に熱いものを感じて、席を立っていた。座ったままではいかんともしがたい懊悩が脳天で爆発しそうだった。屹立した五体が激情によって震えている。

(やはり、お嬢様は死ぬのか。あの御年で死ぬなら、どうしてこの世に生を享けた)。彼はたいていの人間の感じる不条理を肉体の強さで跳ね返すものだから、真の絶望を知らなかった。謙虚だが、人生のなかでどうしようもないと思うことがそもそも少ない。

 そんな彼は考える。タマラの死を免れる抜け道を模索することに熱中して、モニカの存在すら忘れていた。

「治しようはないの。ギルバート、酷なことを言うかもしれないけれど、諦めて」

 ギルバートは黙然と、その言葉を聞いていた。

「人は埋葬されずに放置されると幽鬼になったりするのに。病人を救う方法ぐらいないのですか?」

「ああ、ギルバート。そんなことは考えてはなりません」

 モニカは心底、恐ろしくなった。ギルバートは奈落の淵を覗いているような危うい場所にいる。

 そんなやり取りを腰に佩かれたコグは愉快そうに見ていた。タマラを失う恐怖が彼に去来するごとに、コグの妖気とその身体が不思議な感応性を示して、結びつきが強くなる感覚があるのだった。――コグは契りを結んだとはいえ、ギルバートとの思想の違いが邪魔で仕方ない。冷酷非道はムリでも、ある程度、酷薄になるぐらいは人殺しには必要な素養である。なにしろ、コグは人を殺して、食べたいのである。それが、彼を成長させ、彼の人生唯一の愉楽となるのだった。彼は食道楽だった。最近は、おとなしく過ごしてきたが我慢にも限界がある。

 そして、ギルバートの倫理観が揺らぐたびに、邪魔をしてくる輩があまりにも多いことにうんざりしていた。コグはモニカのことをじっと見つめて、(こいつは嘘を付いている)と思った。モニカがその方法を隠す理由も情理も理解していた。

 すると、ギルバートはコグがそう思ったのと同時に「あんたは嘘をついている」といった。コグは「おや」と思ってギルバートの顔を見直した。眉が吊り上がって、鬼のような赤い血色である。呆気に取られて、言葉を失っているのはモニカだった。

「ギルバート、待って」彼女はギルバートが遠ざかっていくような気がして思わず、そういった。彼女はフラウィウスとの戦いで傷ついたギルバートを生かした。本来、もっと知り合う前だったら、殺すのをためらわなかったかもしれない。宗教家だから、恋慕を抱いていると認めたくなかった。モニカはギルバートが好きなのだった。モニカは手で机を伝いながら、ギルバートの影を追いかけようとして、机に立てかけてあった杖に躓いて転んだ。

 彼女はみじめな自分に気づいた。頬に熱いものが流れた。

 その悲嘆にくれる聖女の呼び声にどこまでも冷淡なギルバートの声がした。

「――ここにいますが」

 氷のような声音である。コグは驚いて、(こいつ、すこし変わった。間違いない、変わり始めている。ふふふ、よおし、それでいい。良い子だ)とほくそ笑んだ。

 モニカは立ち上がれずに、溶けるように座り込んだ。ギルバートは膝をついて、彼女のそばに寄った。

「お怪我は?」

 モニカは俯いたまま絹のような白い手をすっと伸ばして「ねえ、きて」とギルバートの頬をなでた。白い手指は、その色合いに比べて温かだった。その手指と頬を通して、二人の血潮は結合し一個の炎のように燃え上がった。ギルバートは、そこに初めての女と懐かしい母親の二つの肉感を経験した。彼女の胸に顔を埋めたい欲求にほだされた。けれど、その欲求に従うことに理性が反抗する。タマラの顔が思い浮かんだ。

 ふいに彼女は柔らかな口唇を薄く開いて近づいた。ギルバートはのけ反った。顔はすでに熟れた果物みたいに真っ赤だった。モニカの手は盲目を補うように執拗に彼の服を掴んでいる。這うように彼女の手が首筋に触れると、ギルバートは地面に押し倒された。彼女の凹凸のある体が自分の平べったい腹や胸に押し付けられた。

 そのまま耳元で彼女はささやく。

「ごめんね、やっぱり、こうするしかないの」

 その言葉が滝の音みたいに耳に吸い込まれた。彼はそこに含意された暗黒を理解できなかった。

 ――刹那に。バチンと破裂音のようなものが首筋から耳に響いた。視界に星のようなまばらな光の粒が飛び散った。ギルバートは耳を押さえて飛び上がった。

「この間抜けっ! 死ぬところだったぞ」とコグがなぜかすでに腰から飛び出して目の前で喚いている。ギルバートは顔を振ってうめいた。

「なんだ。いったい」

「お前、この女に殺されかけたんだぜ」

「ばかな」

 ギルバートは否定したが、自分の手に血がついているのに気づいた。視線を下ろすと、自分の首筋に赤い線が入っていた。

「あと、俺様の反応が一歩でも遅かったら、首が飛んでた」

 彼女は悄然と地面に四つん這いのまま、コグの言葉を否定する気がないのか顔をあげない。ギルバートは失望の色を隠せなかった。

「ギルバート、何をされたかわかるか。いま、この女の手の触れた部分がちょうど、<テレポート>する寸前だった。気付いたら、お前は首だけになって、どこかに飛ばされるところだった」コグの説明にギルバートは首筋に寒気がした。

「教区長殿、そこまでして俺をころしたいのですか」

「ええ」彼女は地面を向いたまま、そういった。

「……。そうですか。だけど、俺はまだ死ねない。あの御人を救うまでは」

 モニカはまるで目が見えているようにギルバートの方を振り向いて「それが修羅の道だとまだ分からないの」といった。

「うるせえ。女狐め」コグが口角泡を飛ばす勢いで罵倒する。同時に、その触手は蛇のように部屋中を取り囲んで、いまにもモニカを食い殺してしまいそうだった。

「貴方が噂の妖刀。ギルバート、それは剣のすがたをした魔物です。その力に頼ってはなりません。――ああ、遅かった。予言はもう結実してしまう。ごめんなさい、すべて、私が悪いの」

「いいや。ギルバートの未来を誤らせるのは女だっ! 思えば、女ばかりが邪魔をしやがる。こんな妖怪じみた狐は食い殺してくれるっ!」

 コグはかつてない殺気を放った。その気概が押し出すみたいに触手は膨張し、歯がぎりぎりと音をたてて生えそろった。ギルバートは手のひらから魔力を吸い取られるのを感じた。コグが彼女を殺そうとしているのが分かった。もはやコグとギルバートは一心同体である。コグの殺意が手に取るように分かった。いや、一瞬、彼女を殺そうとしているのが自分であるという気さえした。

「――よせっ!」ギルバートはコグに受け渡す魔力に弁を閉じた。一瞬、腕が別の生き物のようにぶるんと震えて、コグの身体がしぼんでいった。その大顎はしぼんだせいで、モニカではなく空気を噛んだ。恨めしそうに眼玉がギルバートをにらんだ。

「お前、バカか。この女を生かしたら後の憂いになるぞ」

「……そうは思えない」ギルバートは地面に萎びたように座っている彼女を見下ろして、そういった。胸が締め付けられる思いだった。この人に助けを求めてきたのに、その凶刃に倒れるところだった。モニカは観念して、逃げる気配を見せない。逆にその方がギルバートには恐ろしかった。彼女は鬱々と「ギルバート、もし、私を見逃したら……貴方を殺します」といった。その峻厳な声に決意を見て取って彼は言葉の無為を悟った。

「やはり、俺は明日、エラリに帰ります」

 ある意味、晴れやかにそう言って退室した。いつの間にか、聖堂には誰もいなくなっていた。誰もいないのをいいことにコグは「あーあ、自分を再三、殺そうとした女を見逃しちまったよ」と他人事みたいになじる。

「うるせえ。誰かに見られる前に剣に戻れ」

「お前、女によわいな」

「……そりゃあ弱いよ」

「いいや、経験が足りないんだよ、竿のない俺が言うのもおかしいが……。よし、いますぐ、女郎小屋に行って経験を積みに行こうぜ」

 聞くに堪えないので、ギルバートは黙らせるようにコグを腰に佩いて歩き出した。聖堂内にウィリアムの姿を探したが、どこにもいない。しようがないので、もと来た道を戻って、ウィリアムの邸に帰った。病室の寝具に腰を下ろし、漫然とただ時が過ぎるままに沈思黙考していた。コグはふいに、その陰鬱な顔の前に躍り出た。

「なあ、ギルバート。俺は知ってるぞ」

「なにを」たいして興味もなさそうに言った。

「お嬢さんを救う方法だ」

 ギルバートは受け流すように鼻で笑った。また、小ばかにしようとしているのだろうと思ってまともに取り合う気がなかった。

「なんで、いまさら。俺がエラリで悩んでいるのは見てただろ」

 ギルバートは寝具に寝転がった。まだ、外の日差しが明るい。

「だって、どうせ信じてくれまい」

「いまなら信じるって?」

「そりゃあ、俺がフラウィウスを倒したんだぜ? しかも、さっきも女に殺されかけたのを助けてやった」

「ぐぐ。まあ、たしかに。じゃあ、さっさと話せよ」

「お前はキリン伝説を知ってるか?」

「いいや、なんだい。そりゃ」

「だと思った。――キリンっていうのは、魔界と人間界を隔てる<白山>に住む霊獣だ。成獣で二千年を生き、言葉を話さないが人間より賢い生き物とされている」

「へえ。で、それが」

「キリンの肝は万病に効く秘薬だ。どんな傷もたちどころに癒えて健康になるらしい。おそらく、お嬢さんの痼疾だって治る」

「そんなものが実在するって?」

「ああ」

 ギルバートは静かに黙考した。

「だけど、そんな獣が実際いるんなら、どうして、皆、狩りにいかない?」

「生息地は<白山>の一角の霊峰だと言われている。けれど、厄介なのはキリンが無敵なことなんだ」

「無敵?」

「ああ、どんな攻撃もすり抜けるらしい」

「そんなバカな」

「だけど、実際、いまだに冒険者ギルドの連中がキリンを探しに行って返り討ちにあう。しかも、これが結構、名のある強いヤツだったりするわけだ。しかも、古来より老いた英雄は若さを求めて、キリンを狩りに行って行方不明になる。これって、ある意味、偉人のお約束なのさ」

「じゃあ、コグ。お前なら殺せるのか、そのキリンってやつを」

「いいや。むりだね、こればっかりはどうしようもない」

「なんだよ。なら、どうするんだ」

「まあ、待てって。大事なのがここからだ。来年の春、周期的に、各地の霊魂が一度にフラワリアの大聖堂に集まる年だ」

「それぐらい知ってる。フラワリア万霊の祭り、だろ」

「お前、知ってても、あれがただの祭りだと思ってるだろ」

「ちがうのか」

「まあ、世間的にはただの祭りぐらいの認識だろうが、その祭りの期間中は精霊や霊魂、幽鬼に至るすべての霊的存在の力が弱まるんだよ。――つまり、霊獣キリンだって例外じゃない」

「……ほんとかよ。なんか、怪しい気がしてきた」ギルバートは訝し気にコグをにらんだ。話の筋が通っている分、作為の匂いを感じた。すると、「なんだい。万霊の祭りの話かい」と扉の向こうで聞いていたらしく、ウィリアムが部屋に入ってきた。

「盗み聞きするとはいい度胸だな」コグは蛇みたいに体を伸ばしていって、ウィリアムを睥睨した。

「いいや、べつにそんなつもりはない」ウィリアムは肩をすくめる。

「では、コグの話はほんとうですか」ギルバートはちょうどいいと思って、ウィリアムに問うた。

「まあ、たしかに万霊の祭りは十年に一度の霊的存在の弱体化と符合して行われる」

「なら、その期間ならキリンとかいう怪物を殺せるということか」

 ウィリアムは困った顔をして、ため息まじりに「ギルバート、モニカ様が憔悴しておられたわけだ。悪いことは言わないから、キリンを狙うのだけは絶対やめておけ」

「どうしてですか」

「いいかい。誰もが、この十年の周期、キリンの弱体化する千載一遇のチャンスを狙っているんだ。もし、君が来年の春にキリンを狩りに行けば、同時に、黒百合や冒険者ギルド、それに俺たち白百合騎士団まで敵に回すことになるぜ。すでに諸勢力は準備を始めている」

  ウィリアムはそういって、止めた。すると、ギルバートは笑みをもらした。ウィリアムが訝し気に眉をひそめた。

「ウィリアム殿、みんながそこまでして手に入れようとするものなら、たしかに、そのキリンの肝には人の命を救う力があるということだ」

「まあ、たしかにそうなんだが」

「ならば、それを誰よりも先に手に入れる」

 彼はそこに一縷の希望を見た。(やはり、この世は広い。その秘薬でお嬢様がご快復なされたら、すべて丸く収まる)と彼は明るい前途をあたまに描いた。見るに見かねてウィリアムは「ギルバート、すでに諸勢力は各々、おおよそキリンの生息地を補足してる。フラウィウスのような影の者を要しているのは黒百合騎士団だけではないんだ。その情報網に君ひとりでどう対抗するんだい」

 すると、コグが大笑いした。悪いことを思いついたときの笑い声である。

「ああ、わかったぞ。じゃあ、フラウィウスに聞こうじゃないか。奴が直接、キリンのことを知らなくても、その諜報に当たっている人間を聞き出せるかも」

 コグはそういって、体をくねらせてウィリアムを睥睨した。

「冗談だろ」

「貴様、フラウィウスとかいう野郎がどこに閉じ込められているか知ってるな」

「……ああ」

「教えろ。さもないと、バラバラにするぞ」

 クジャクの羽のように、コグの真っ赤な口腔がくわっとウィリアムの前で口を開けた。ウィリアムは膝がふるえた。部屋の燭台や花瓶やらが闘気のような震動で床に落ちて転がる。――ギルバートはコグを押さえつけた。

「よせ。まったく、無礼なやつだ。――この人は俺の命の恩人だ。手出しはゆるさん」

 そう言われて、コグは歯噛みして縮んだ。ウィリアムは息を吐いた。この世に、こんな恐ろしいものがあるのかと茫然自失した。

「よく押さえつけているな。恐ろしい……」

「ほんとうに扱いづらいやつです。――ウィリアム殿、コグの話はわすれてください。これ以上、あんたに迷惑はかけたくない」

 ギルバートはそういって、寝具に腰を下ろした。その横顔は陰鬱な影を落としている。ウィリアムはおそるおそる、転がった花瓶を片付けながら「ギルバート、君にはキリンの肝で救いたい人がいるのかい?」とそれとなく聞いた。

「ええ」ギルバートは正直だった。躊躇なく答えるところを見ると、自分は信用されているらしいとウィリアムは思った。よけい、彼は迷った。

「正直にいえば、フラウィウスはキリンの居場所を知っていてもおかしくない。――だけど、門番が十重二十重に配されているから、君は絶対、そこを流血なしには通れない。俺の顔パスが必要だ」

「けれど、そんなことをしたら、貴方の立場はどうなるのです」

「……。俺の気にするところは、ただ、君は何者かということだけだ。――聞いてもいいかね。その首の傷はついさっき付いたものだろう?」

「はい。モニカ様に殺されかけました」

「そうか。けれど、君は仕返しにモニカ様を殺すことも出来たはずだ。間違いなく、君は善い心を持っている。――こうなったら、とことん君の側についてやる。たとえ、それで、白百合騎士団を敵に回すことになっても」

 ギルバートは驚いて、寝具から跳ね起きた。

「いいのですか」

「怪しいか。ほとんど初対面でここまでしてくれるのは」ウィリアムは微笑した。

「まあ」ギルバートはこくりと頷いた。

「先ほど、君は父親の顔は見たことはないといったが、それは確かかい?」

「はい」

「おそらく、君に父親はいない。アルミニウス公の母親と同じ処女受胎の子だ」

「意味がわかりません」ギルバートはぽかんと口をあけた。

「君は……聖アルミニウス公、つまり<勇者>の生まれ変わりなのではないか、というのが俺の説だ」

「はあ」

 ギルバートは釈然としない様子だった。腰帯のコグの刀身が大笑いしているようにふるえた。

「だから、君に協力することは俺にとっては光栄なことなわけだ」

 ウィリアムはそういって、ギルバートのまえで平身低頭した。ギルバートは呆気に取られて、言葉を失った。すると、あざ笑うようにコグが躍り出てきて「おい、ギルバート。これが世にいう宗教家という阿呆だぜ。はっはっは」といった。


 

 






 


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