変質
そこは礼拝堂であると同時に治癒師の仕事場だった。地面は石畳が四角く切り取られて、そこに支柱から青い液体が流れこんでいる。人の回復能力を促進する水である。けが人はここに運び込まれて、治療を受け、足先を青い液体につけて休む。すでに礼拝堂は酸鼻な光景で中央の青い水たまりも運び込まれた怪我人の血で赤く濁っていた。礼拝堂は、フラウィウスに恐れをなして避難してきた人々でいっぱいだった。愛する人を失った無辜な民の悲哀が礼拝堂の天蓋を揺らしている。モニカはルクレツィアに向かい合って、彼女の手の傷を治していた。手の甲にはフラウィウスの短刀に突き刺された跡がくっきり残っている。モニカは自分の眼が見えないながら、懸命に処置した。
「ごめんなさい」ルクレツィアはそういった。衛兵の血が多数流れたことに対して、何もできなかった自分に思うところがあるのだろう。
「いいのよ」
モニカは、それ以上の憐憫は見せなかった。彼女は視覚で見なくても、ルクレツィアが鼻をすすって泣いているのが分かった。屈辱感で歯ぎしりをして泣いているのである。こういう場合、心の中でどのように発奮するのかが分かれ道なのだが、こういう時<心眼>の視力で心の底を覗きたくなる。
(あらやだ。人の心を読むのが癖になっているみたいね)。モニカはすこし恥ずかしくなった。これが本来の人間の苦悩である。それは経験したことのない心地が良い苦悩に思われた。
すると、騎士候補生の面々がけが人を背負ってあらわれた。もうすでに死亡している者もいたが、一応、連れてきたらしい。
「モニカ様」ディアナが困惑した顔で歩み寄ってきた。
「どうしたの」目が見えなくなって、モニカはディアナのいる場所とはまったく別の場所に目を向けている。
「ジョンとウィリアムが戻ってきました」
「ええ、それで」
「衛兵隊は十人近く、亡くなったそうです」
「残念だわ」
「それと……」
「まだ、なにか、あるの」
礼拝堂がざわつきだした。千鳥足で歩いてくる音が聴こえた。また、怪我人があらわれたのだろうとモニカは思った。
「怪我人は、こちらに。私が看ます」
「いいえ、モニカ様。こ、これは」
ディアナは困惑して言葉も紡げない。つかつかと忙しない足取りが近づいて「モニカ様、ウィリアムです。残念ながら、ポーラという靴屋の女性がフラウィウスに殺されました」と耳元で声がした。
「ああ、そんな。お腹に子供もいたのに。それで、ウィル、フラウィウスはたしかにリカロンを去ったの?」
「それが……」ウィリアムは口よどんだ。すると、よたよたと怪しげな足取りが近づいてきた。どさりと何かを落としたような音が礼拝堂に響いた。
「教区長殿」
モニカは、その声に「まあ、ギルバート。生きててよかったわ。怪我はない?」と嬉々として反応した。
「おれは、あんたを守れなかったのが悔しい」
「もし、貴方が居なかったら、私は死んでいたわ。気にしないでちょうだい」
「こんなことで、罪滅ぼしにはなりませんが、不肖ギルバート、下手人を捕まえてまいりました」
「え、フラウィウスを」モニカは困惑して首を傾げた。言葉だけでは到底信じられない。
「モニカ様、こいつは正真正銘、フラウィウスです。なんてこと」礼拝堂がざわめいた。フラウィウスに対する恐怖と侮蔑が混ざり合って、名状しがたい感情の渦が立ち込めている。ギルバートは息を切らして、言葉をつないだ。
「お、おれは、このケダモノをいますぐ、バラバラにしてやりたいが、貴女の意にそぐわないと思い、ここまで引き立ててきたわけで……」
「ギルバート?」
モニカは急に心臓を掴まれたような不安を感じた。彼の声色が凶暴な獣のように変質している気がした。(ああ、<何か>があったのね)と彼女は察した。
「どうして、人があのようなことが出来るのか。到底理解できない。し、死ねばいいのだ。こんな輩は」
ギルバートはそれだけ言って、糸が切れた人形みたいに失神した。群衆も、服だけでなく顔まで血まみれの彼が英雄なのか半信半疑になって、ただただ困惑している。その体を気にかけて、動いたのはウィリアムだけだった。
彼は失神したギルバートを抱き起すと、「皆、彼はリカロンの英雄だ。いのちを賭して、闘い、正真正銘、フラウィウスを倒したのだ。このまま、彼を死なせていいものか。――誰か、手が空いた医者を急いでここに呼んで来い」と声を励ました。モニカは心うちでウィリアムに感謝した。が、一方、ギルバートにあの忌まわしい未来をなぞるような変化を感じて彼女は不安になった。盲目のとばりの奥にさらなる暗黒が空想されて彼女は心休まらなかった。