フラウィウス
その頃、リカロンでは緊急の会合が開かれた。モニカは目元に包帯を巻いていた。右眼を失っても毅然とした態度である。
「あの神器には覚えがあります。おそらく、クォンでしょう」
満座の席に向かって、モニカは語った。集まったのは白百合騎士団リカロン支部の面々である。彼女のすぐに座していた支部長のディアナが不安そうに「では、その持ち主と言うのは……」
「むろん、オズワルドの高足フラウィウスでしょう」ぴしゃりとモニカは言った。
会議の場に凍りつくような沈黙が流れた。フラウィウス、この名前も最近、フラワリアからよく聞こえてくるようになった。噂では、黒百合騎士団でも相当腕が立つらしく、命じられるままに白百合騎士団の要人を殺して回っているらしい。会合に集まった者たちにとっては寝耳に水の出来事だったが、モニカにしてみれば、(やはり、来たか)といった感じだった。驚きはあまりない。
「では、モニカ様。いかようにしますか」ディアナが聞くとモニカは黙然とした。彼女が何も言わないので
「門を固く閉じて、四方に兵を配すのはどうでしょう」とディアナは提案した。
モニカはかぶりを振った。
「なりません。いいですか。あなた方は全員、固まって動きなさい。けっして、一人で行動してはなりません」
会議に集まった者たちは鬱々と頷いた。皆、モニカの慧眼によって才能を見出された若き騎士団候補生である。あとは他にフラワリアで重傷を負ったり齢を重ねた者がいるだけで、モニカの側から眺めると戦力的に乏しいのは明らかである。
「では籠城ですか」
「いいえ。先ほど、フラウィウスを追いかけて行ったギルバートの加勢に向かいます」
騎士候補生たちは困惑した。
「加勢ですか」
「さよう。あれは黒百合の奸賊がよく使う手法です。一度、逃げて、功を焦って追ってきたものを殺す。それを繰り返して、戦力を削いでから、本営にあたるのです」
「しかし、モニカ様。それなら、そのギルバートなる人はすでに殺されているのでは」
ディアナが言うとモニカはふふとわらった。
「いいえ。まだ、かれは生きています。ですが、これ以上長くはもたないでしょう。彼が死ねば、このリカロンの戦力は半減します。彼が死んでしまう前に加勢に赴き、力を一所に集めてフラウィウスにあたるべきです」
候補生の顔色に不満が広がった。ギルバートが死ねば、戦力の半減ということは、ここにいるものたちが束になってやっとギルバートと同等と言われているに等しい。若くして才覚を認められて集められたものたちにとって、耐え難い屈辱だった。
モニカは困ったと言う顔をした。いまは目の怪我で面をつけていないから、彼らの心の動きが手に取るようにわかる。
(あらあら)と左眼でじろりと満座に席を見返して「皆さん、これは戦いなのですよ。恥や外聞などあったものじゃありません。まず、勝利し生存する事が第一です」
すると、ディアナが追従するように「そうだ。みんな、ここはモニカ様の言に従うべきだな」といった。憤然としている若武者たちを抑えようとディアナはそういった。彼女は一番の年長者である。 才能に恵まれた者にしては思慮分別がある。支部長に任じられているのは建前上であって実権は常にモニカの手にある。ディアナとモニカの関係の実態は、教師と学級委員の関係に近い。いつもはその二人に、候補生たちがぞろぞろと付き従うのである。
けれど、今回に関してはモニカとディアナの二人の意見に対する反対のような空気感が漂っている。
候補生は、上座のモニカから見て右から、ディアナ、ルクレツィア、ジョン、ウィリアムと女二人に男二人である。
白百合騎士団は聖女騎士団と呼ばれることもあるぐらい女子が多い。総長と副総長のふたりがアビゲイルとプリシラの姉妹になってから、その色合いは強まったと言う感がある。リカロンという一地方の候補生を眺めてみても男女比が半々という具合である。
そして、こう言った現状で、モニカにしても厄介に思われるのがごくたまに異様なほど男に対する敵愾心を持った女騎士の候補生が現れると言う事である。
その典型がルクレツィアであった。ディアナの隣で憤然と唇を結んでいるのが見える。見目形は、赤ら顔に金髪のまとめ髪をした可憐な子であるが、胸に秘めるのは野心と男に対する敵意である。
「モニカ様、それはつまり、そいつ一人に私、いえ、私たちが劣るということですか」とルクレツィアはモニカの顔も見ずに言った。
「ルクレツィア、敵はフラウィウスです。ギルバートではありません」
「ですが……そのギルバートとかいう人はただの領主の侍従でしょ。しかも、神器も持ってないうえ、魔術が使えるわけでもないという話ではありませんか。そんな匹夫を頼みとするのはいかがなものかと」
モニカは言うべき言葉に苦心した。いまは説教の時間ではない。心を一にして、フラウィウスに立ち向かわなければならない危急存亡の秋なのである。
「ルクレツィア、いまは、ほんとに生きるか死ぬかの瀬戸際なのです。人を侮っている場合では――」
刹那に、会議をしていた部屋の窓からガラスを突き破って、一本の剣が左から右へともう一つの窓も割って飛んで行った。疾風のように通り過ぎて、いつのまにやらミミズクのごとくフラウィウスが会議をしている長机のうえに座っていた。じろりと、モニカを睨んでいる。彼を目の前にして候補生たちは凍り付いて動けなくなった。
「ふふ。あんたの言は正しい」フラウィウスはそういった。彼の殺戮についての噂はよくきいたが、一方でその人物についてはよく知られていなかった。モニカの左眼はその人相を見て、瞳孔が開いた。(冷酷なこころ。良心のかけらもない残忍な獣)。
フラウィウスは長机に座ったまま、呆気に取られているルクレツィアの方を見下ろして「おい、小娘。汝はあの男を匹夫と罵ったが、お前はいま、俺が神器の能力で飛ばした剣を掴むことはできるか」と聞いた。
「いったい、何の話」ルクレツィアは剣を抜いて、後ずさった。腰が引けている。ほかの候補生もフラウィウスが座ったまま無防備なところに不意打ちをすることも出来なかった。
「だから――。いま、お前の目の前を飛んでいった剣を掴むことができるかと問うている。ふふふ、お前には目で追うことが限界であったろう。だが、お前が言う<匹夫>はアレを素手でつかみ取ったぞ。もし、奴がいなければ、あの女の目玉は両方とも潰れていた。そんな人間を匹夫と言うのか。モニカ・マーなる女は、有為な若者を見抜くと聞くが、噂はどうやら間違いらしい。こんな愚鈍な輩を可愛がっているのだからな」
「こ、この」
ルクレツィアは激怒して、目の前のフラウィウスに斬りかかった。火花が散って、彼女の剣が飛んだ。すると、宙を舞いながらルクレツィアの剣はフラウィウスの手元に導かれて、彼は下衆な微笑を含んで、ルクレツィアの腕をとてつもない握力でつかむと、彼女の手をわざわざ彼女の剣をもって、長机に突き刺して固定した。
「い、いたい」彼女は悲鳴をあげた。
「そりゃあ、痛いだろう」フラウィウスは笑って、短刀をモニカの方へと神器の力でもって導いた。
「教え子を殺されたくなければ、自分で残った目を潰せ」
モニカは短刀を受け取ると、無表情でフラウィウスを睨んだ。ここまで呆気に取られていた候補生たちもそれを聞いて、勃然と向かっていったが、軽くあしらわれた。神器など使わなくとも、フラウィウスは場を制した。才覚の差とはこういうものである。おそらく、ここにいる候補性は一生、陶冶しても彼の領域に近づけもしないだろう。惜しむらくは、神はその才覚を気まぐれに人格など関係なく配置してしまうのである。
(この獣め)とモニカは腹が立った。
「どうした。はやくしろ。教え子をばらばらにするぞ」
モニカは茫然と短刀の光を見ていた。不思議と笑みがこぼれた。この能力は正直、鬱陶しかったから、盲目になるのもわるくないかしらと思ったりもする。
「モニカ様、なりませんっ!」とディアナが叫んだ。モニカは悄然と白刃の光を見つめながら「あなたは……フラウィウスですね」と聞いた。
「ああ、いかにも」尊大な態度で彼は答える。
「ギルバートはどうしました。殺したのですか」
「あの若造なら、逃げていった。あいつの才能が惜しい故、殺さずに置いた」
「そう。なら、よかった」
彼女は自分の眼を真横に斬った。世界に帳が下りて、肩の荷が下りたような心地がする。フラウィウスはつまらなそうにそれを見ていた。
「なんだ。残念だ。もうすこし、泥沼の人間を見たかったのに」
「わたしも貴方のようなゴミクズの心を見るのは嫌だったもの。もうすこしで嘔吐するところだったわ」
「ふ……ふははは。面白い女だ。俺をここまで痛罵した人間はあんたが初めてだ。いいだろう。教え子の命は確かに助けてやる」
フラウィウスはそう言った。モニカは片目から血を流しながら、微笑した。
(ほほほ。単純な男。ばあか)。モニカはフラウィウスが罵られても、むしろ怒ることなく教え子を助けるだろうと勝算があって痛罵したのである。じっさい、フラウィウスは彼女が目玉を潰したあとは、教え子まで残らず殺す気だった。けれど、あの状況で罵られ、怒って女を殺すことは小人の行いだとついつい許してしまった。
(自分の気宇の広さを見せようと思うこと自体、小人の心そのもの)とモニカはこころの中で小ばかにしていたが、フラウィウスは満足げに会議の場を辞去していった。
「モニカ様……」ディアナが寄り添って彼女の手を取った。その眼は涙を禁じえず、ディアナは自分の無力を呪った。
「いいのよ。人の心が読めるというのは鬱陶しいもの。かえってせいせいするわ。そんなことより、皆さん、街の近習の方々にフラウィウスに手を出すなと警告しに行きなさい。それと誰かルクレツィアの手に刺さった剣を抜いておやり」
「はい」
――フラウィウスは悠々とリカロンの市井のど真ん中をあるいていた。街の住民たちはこわいもの見たさで集まっている。衛兵たちは彼に槍を突き付けたが、彼がまったく気にする気配もないので、じりじりと後退しながら、奇妙な行進の列が続いている。
「我に何の用か。田舎の武士どもよ」
「教区長様の暗殺を企てた奸賊か。貴様」
「おう。いかにも」
「不敬な輩め。死ねっ!」
何本もの突き出された槍の切っ先がフラウィウスに迫った。衛兵の血肉が雨のようにやじ馬たちの頭に降り注いだ。鳥の大群のような微細な黒い影が空から地面すれすれに滑空していく。リカロンは悲鳴の渦と化した。フラウィウスが鷹揚と血の海の中を歩いていると、腰を抜かして逃げ遅れた女を見つけて「お嬢さん。どうした。俺がそんなに恐ろしいのか」と聞いた。
とうぜん、生殺与奪を握られているのだから恐ろしいに決まっている。いまもフラウィウスの頭上では剣や鍬などが鳥の大群のように飛び回っている。
女は自分の体が制御できないみたいに震えあがった。
「こま切れにしてやろうか」
フラウィウスは右手に持っている短刀クォンに力をこめた。すると、クォンは嘴のような口唇を刀身に露出させて「くわ、くわ」といった。
「いったいなんだ。クォン」
「ぎ、ぎ、ぎ」
「なに、ビビってるんだ」
クォンはコグとは違って知能は三歳児程度である。その言葉の意を汲むのに使い手であるフラウィウスも苦慮しているようだった。彼は眉間にしわを寄せて、その刀身を覗き込んだ。
「ああん? なんだってんだ」
「いじめっ子がくる。ボク、あいつ、嫌い」
「いったい、だれのことだ」
「コ、コグ。コォグ」
フラウィウスは要領を得ないクォンにあきれた様子だった。ふと、気づけば、目の前で腰を抜かしていた女が逃げ去っていた。
「おい。お前が、わけわからん事を言うから逃げられたじゃないかよ」
「コグがくる」
「だから、そいつは一体何なんだ」
彼が聞くとクォン自体が身震いしているように頭上で浮遊する得物がざわざわと四方八方、飛び回った。さながら、凶兆を感じて逃げ出す鳥の大群を思わせる。フラウィウスはまったく要領を得ないので、むしろ鼻で笑った。クォンとの会話に慣れているらしい。彼はうっとうしいのでクォンを鞘の中に納めてしまおうとした。すると、急になにか得体のしれない悪寒を感じて、再度、クォンの持ち手を握りなおした。
「なんだ。魔物の気配がする。いや、ちがうな。これは……」
ちょうど、その気配のする方をフラウィウスは見ていた。リカロンの噴水のある四つ辻のあたりに、その気配を感じた。それは、魔力の蠢動のようでもあり、単なる地響きのようでもある。噴水の周りは石畳になっている。先ほどまで活気にあふれた場所には、大道芸人の道具だけが寂しく残されている。きっと、道具を置いて逃げてしまったのだろう。
フラウィウスに恐れをなして、住民は邸に隠れて、街は沈黙している。水の音だけが何かの予兆のように静かに流れていた。
すると、目の前の地面を突き破って、蛇のような筋肉質の触手があらわれた。
「なんだ、こいつはっ!」
フラウィウスは困惑して後ずさった。刹那に、触手の体表にクジャクの模様みたいに目玉と口がいくつもあらわれた。
そして、にやりと口角をつり上げて「やあ、新たなクォンの持ち主よ。俺の名は、コグだ」といった。フラウィウスは身の危険を感じた。
(なんてこった。こんなに明朗にしゃべる神器など見たことがない)。こういう恐怖を感じたとき、フラウィウスはとりあえず、次元を移動して逃げ出す癖がある。その魔術を使って逃げようとしたが、コグはそれを「やめた方が良い。<テレポート>で、逃げようとしても無駄だ。四方、数里先まで俺の触手は届く」と言って止めた。
「では、ここで殺しあうしかない。街が半壊してもいいのか」フラウィウスはクォンの剣先をコグの方へと向けた。空中に浮かんでいる百本近くある刃物が揺らめいた。
「そいつは困るな。俺の持ち主は潔癖なんだ。出来れば、死人は出したくない」
「お前の持ち主はどこだ」フラウィウスが問うと、コグは急に地面に消えていった。すると、横合いから「この人殺しめっ!」と聞こえてその瞬間、彼は横面を殴られた。地面を二転三転、転がって行って、ちょうど露店の果物屋に突っ込んだ。
フラウィウスは怒り心頭になって、近くにあった果物入りの木箱を蹴り上げた。
「このやろう。切り刻んでやる」
憤然と露店を飛び越えていくと、「ン? あいつは……」とコグを持っている者のすがたを見て止まった。
「ギルバートとかいう侍従だな。あいつが持ち主だったか。くそ、お前、逃げたんじゃないのかよ」フラウィウスは大声で聞いた。すると、ギルバートは同じぐらい大声で「お前が、教区長殿の片目を奪った賊か」といった。問いに問いが帰ってくる。
フラウィウスは鼻で笑った。
「もう、我の役目は終わった。これ以上の流血は望まない」
「どういう意味だ」
「教区長はすでに盲目になった。もはや、黒百合騎士団の脅威ではない。ゆえに、ここは双方、穏便に立ち去るのがよい」
フラウィウスがそう提案した。ギルバートの表情が曇った。驚愕と悲しみに虚ろな表情はすぐに火鉢みたいに赫々とした怒色をあらわしてきた。その変化は遠くからだと判然としない。意気揚々と、フラウィウスが「というわけだから、ここは君ら白ユリの敗北ということで、矛を収めてくれるとありがたい」と語っていると、ギルバートは言葉の途中で襲いかかった。振りかぶったときに、頭上で浮遊していた白刃はギルバートを即座に囲むように迫ってくる。
コグはそれを感知したが、ギルバートは怒りに我を忘れているらしい。四方を槍や熊手に囲まれていることに気づいていない。フラウィウスは身をひるがえして、ギルバートの斬撃をかわして、後方に下がった。
すると、同時に熊手がちょうど、ギルバートの肩に突き刺さった。空中に浮いたままの熊手は悪意があるようにぐりぐりと肩の傷口をえぐっている。ギルバートは振り払うように熊手を斬ろうとしたが、むなしく斬撃は空を切る。あざ笑うように熊手は宙に浮かんでいった。――ギルバートはぞっとする思いでフラウィウスを見た。
(ウウム。距離を取り、あの神器の力で得物を投げつけてなぶり殺しか。最低の戦い方だが、同時に素晴らしい人殺しの方法だ)。フラウィウスが異様なぐらい、自分の間合いから離れていくのは、その戦い方に慣れているからだろう。
「わかったか。ギルバート、経験がちがうのさ。あいつは、自分の利器を完璧に使う方法を心得ている」
コグにそういわれて、ギルバートは返す言葉がなかった。急激に頭の熱が冷めて、冷静になって彼我の差を考えた。
「じゃあ、どうすりゃあいい」
「俺に自由をくれ」
「どういう意味だよ」
「あまり振り回すなってこと。お前が俺を振り回すと、自由に動けん」
「カカシみたいに突っ立ってろってことかよ」
「ギルバート、いいこと教えてやる。あのフラウィウスとお前の相性は最悪だ」
「どうして」
「わからねえのか。あいつはお前より早く動けるから、逃げながら、クォンの力を使って、刃物をぶつけるだけでいい」
「なら、刃物を避けながら、あいつの懐まで入ればいい」
「そんなもん、血まみれにされて終わりだ。いいか、相手は人間、考える頭がある。魔物とは違うのさ。だから、ここは俺に任せて、学べ。離れて戦うタイプの倒し方を」
ギルバートは煮え切らない顔をして、コグをじっと見た。コグはぎょろりと目玉を動かして「上を見ろ。あの得物を奴はどうするつもりだろうな。去り際にリカロンの市民を串刺しにしていくんじゃないか。聖女の眼を潰して飄々としている人間だぞ。もう倫理観は壊れてる。やるぞ、それぐらい」
コグに言われて、ギルバートは不安になった。上空の熊手や槍が無辜の民に突き刺さる光景が目に浮かんだ。
(いまは、怒りを抑えるときだ。癪だが、こいつに任せよう)。ギルバートはうなずいた。
「わかった。邪魔はしない。持ってるだけでいいんだろ」
「任せろ、奴に本物の恐怖を見せてやる」
――そういう合意がなされたと知らないフラウィウスはさらに距離を取るために、<テレポート>を使った。向かい側に見える家屋の茶色い屋根に移動して、彼は茶色い屋根瓦の上に膝をついた。ギルバートは目の前から敵が消えて、困惑していた。フラウィウスはその様子を屋根の棟木に腰かけて見ていた。
「クォン、お前どうして気づかなかった。あんな化け物みたいな神器が近くにいたのに。危うく、軽々に手を出して殺されるところだったぞ。この唐変木」と責めるようにフラウィウスはクォンを睨んだ。
「だって、さっきまで、コグの持ち主、ちがかった」
「なに。つまり、さっき、契りを結んだのか」
「そう、たぶん」
「ああ、そうか。逃げた後か。くそ、こうなるんだったら手心を加えず、殺すべきだった」
「フラウィウス、どうする。フラウィウス」
「逃げるさ。ここは」
「賛成。ぼくもそれがイイ」あくまでフラウィウスは冷静だった。目的は達成したし、これ以上、火の粉を被っても益はない。じっさい、ギルバートとコグは息が合っていないとはいえ、潜在的な能力は深海のように真っ黒くて底が見えず、恐ろしい。
フラウィウスは五体に力をためて、意識を集中させた。<テレポート>による長距離の移動となると、その後の疲労も考え、適切な位置に自分の体を飛ばさなければならない。これは相当に高度な技術が必要である。間違えれば、右腕だけ置いてテレポートしたりするから、それなりに危険がある。
その魔力の蠢動を感じたのか、コグはギルバートに向かって、「おい、ギルバート。屋根の上だ。逃げる気だぞ」といった。フラウィウスは緑色の光に包まれた。それは波のように揺らぎがある。フラウィウスは目を閉じた。飛ぶ寸前に、半目を開けて、ギルバートの顔貌を観察した。あとで、フラワリアの人相書きに頼んで、そっくりに描いてもらうためである。
すると、横からコグの触手が屋根を突き破って現れた。その瞬間、コグは鰐のような大あごを開けた。鼓膜が破れんばかりの咆哮が耳をつんざいて、クォンは恐れをなして悲鳴をあげた。
だが、テレポートは止まらない。閃光と同時にたしかにフラウィウスはどこかへ飛んだ。
「はははは」
コグは笑った。収縮して、ギルバートの元まで戻った。
「コグ、話がちがうぞ。逃げられたじゃないか」
コグは大笑いして、唾を地面にはいた。ギルバートは瞠目した。コグが吐いたのは唾ではなかった。人間の腕だった。
「飛ぶ寸前にあいつの腕を食いちぎってやった。ついでに魔力で奴のテレポートも邪魔した。いまごろ、奴は真っ二つになって、どこかに飛んだだろうな」
コグは偉そうな口吻で言うのだった。
「殺したのか」
「ああ、八割がた死んだだろう」
「殺さない約束だろ」
「ギルバート、わかってねえなあ。あの男を生きたまま逃がしちまったら、俺たちの存在が黒百合騎士団にバレる。俺としては騎士団風情と戦争をするのは別にかまわんが、お前はエラリの領地を危険にさらしてもいいのかよ」
そう咎めると、コグはへへと笑って誤魔化した。上空を飛んでいた得物の群れは動力を失ったのか、雨のようにリカロンの街に降りそそいだ。刃物が網の目のように折り重なった。コグはギルバートをじろりと睨んだ。
「今のままでは、もっと上の人間に出会ったら危うい」
コグに言われて、ギルバートはむっとした。
「そりゃあ、持ち主の俺が何もしてないからな」
ギルバートは悪態をつきながら、ハッとした。彼は気づいた。
「ン? どうした。ギルバート」
「わかったぞ。お前を持つ手で右腕がふさがるのは当然だろ? じゃあ、左腕で俺が戦えばいい。簡単な話さ」
「わはは。名案だ。思いつかなかった。ギルバート、お前の利き腕はどっちだ」
「右」
「じゃあ、左手で俺を持て。利き腕はお前が思うままに振るえばいい」
コグは哄笑した。思えば、単純なことだった。気づかなかったのは、彼が持ち主をただの燃料と考えてきたからである。が、ギルバートはコグの妖気に平然と耐え、その刀身を振り回す。道具として使われる、という感覚を彼は初めて味わった。そして、この時、コグは自分の完全な姿、形態というものを、このギルバートに託した。
(こいつと、組めば、俺はどこまでも高く昇れる)。
と思った刹那に、コグは不審な気配を感じた。