銀面の聖女
モニカは聖堂の執務室で自分の運命を透視した。
(ああ、やはり、おかしい。私のような凡人の未来がこれほど精彩に映ってくるなんて)。自分の未来を占うのは日々の日課だった。白い表象のうえに、何もなければ吉日、黒い泥のような点があれば、厄日といった具合に彼女は占うが、最近は画面全体が真っ黒な時があったり、人の形が暴れていたりと穏やかではない。そして、その異変は間違いなくギルバートに会ったときから、起こるようになった。モニカはギルバートのことが心配になった。
(ああ、はやくあの方を手元に置いておかねば、どうなるか知れたものじゃないわ)。
「もし、教区長。客人です」修道女がおそるおそる書斎の扉を開いて言った。
「あら、いったいだれでしょ。こんな朝早く」
「ええと。黒髪の若い方。門番と揉めています」モニカはすぐにギルバートだと分かった。
「まあ、はやく入れるように言いなさい。私の知り合いです」
「ええ、わかりました」
「いや。私が出迎えに行きます」
モニカは服装を正して、外の門楼まで急ぎ足で向かった。
「あ、教区長様」門番はモニカが外まで出てきたことに驚いてかしこまった。このところ、衛兵は皆、気が立っている。怪しい人間は賄賂を貰っても通さない。
「おい。これ以上、押し問答を続けるなら、壁を飛び越えるぞ」と聞いたことがある声が壁の向こう側からした。言われて門番は楼台から見下ろして「できるもんならやってみろってんだ」といった。
刹那に朝日に黒い光が宙に乱反射した。かと思うと、人が宙を舞うように飛んできて、モニカのまえにどすんと足をついた。
「言っとくが、俺は怪しい者じゃないぞ。あんたが出来るもんならやってみろって言ったんだ」
ギルバートは目の前のモニカに気づかず、飛び越えてきた壁の楼台の門番に向かって笑った。門番は腰を抜かしていた。
「ギルバート、よく来ましたね」
「え、ああ。教区長殿、これは御無礼を。なにしろ、賊扱いされたものですから」
「一人で来たの?」
「ええ、ひとりです」
「馬は」
「足の方がはやいので徒歩で」
「――それは賊に見えても仕方ないわ」
モニカはギルバートを自身の書斎に招いた。さっき壁を跳んで越えたのが、噂になったのか、ぞろぞろと人が聖堂に集まってきている。戦々恐々として、モニカのまわりを修道女や護衛らしき騎士然とした連中が離れようとしない。とにかく、モニカを一人にはさせまいとする構えだった。
「皆様、この客人に危険はありませんから。どうか、二人だけで話をさせてくださる」
モニカが言うと、皆、「とんでもない」という顔をした。だれひとり、頑として動こうとしない。
「では、剣だけでも」と近侍の一人が言うと、モニカは静かなる声色で「そろそろ、怒りますよ」といった。目元が銀の面で隠れているが、その眼の穴の奥に鋭い光が見えた。皆、気圧されたのか、渋々従って、聖堂の執務室はギルバートとモニカだけになった。
ギルバートには積もる話がある。けれど、どこから話していいものか難しい。不思議な沈黙が流れた。モニカは椅子を引っ張ってきて、ギルバートの膝にあてて、座らせた。
「疲れたでしょう。お座りなさい」
「はあ」
デズモンドに「油断するな」と言われたからか、どこか彼女の所作には主導権を握ろうとするような機微がある気がしてきた。
「ギルバート、よく来ました。まさか、手紙の返事より先に貴方がここにくるなんて」
「返事を書かなかった無礼をお許しください」
手紙をデズモンドに渡されなかっただけなのだが、ギルバートは一応謝した。
「まあ、いいわ。先ほどから気になっていたのだけど、剣を新調したのね。紅い刀身なんて、めずらしい」
モニカはじろとコグのことを見た。その瞳の光を見るに、怪しまれたのを感じてコグは飛び上がるような恐怖を覚えた。彼はそもそも、聖なるものとは対極にいる。聖堂にいるだけで息が詰まりそうだった。
(こいつ、聖女か。くそ、厄介なことになりそうだ)。一方、ギルバートはコグのことをモニカに聞くべきか迷った。けれど、すんでのところでやめた。あまり彼女を信用しない方が良いとデズモンドに釘を刺されたのと、少しずつコグが気に入ってきたことが、あわさって、すこし庇うような形となった。それとなく、話題をそらすように「俺に用向きとは一体何ですか」とギルバートは聞いた。
「まだ、着いたばかりでしょう。すこしお休みなさい」
「いえ。あまり疲れていないので」
「あらあら、お若いこと。なら、すこし街を案内しますよ。話は道すがら」
この街は公には<白百合騎士団支部エラリ管区>とされているが、市井では口々にリカロン・ヴェイルと呼んでいる。アッシャー領内でもっとも大きな街であるが、実質、デズモンドの権能は及んでいない。ここは大都市フラワリアの一大勢力白百合騎士団修道会の領地ということになっている。けれど、リカロンの壁の外はすべてアッシャー領に囲まれているから、これがややこしい。いわば、デズモンドの領地内に穴が開いたみたいに白百合騎士団の領地リカロン・ヴェイルがあるのである。
「……というわけで」とモニカに街を歩きながら、滔々と説明されたが、ギルバートはよくわからなかった。
「わからない?」彼女は紫色の唇をゆるませて、笑いかけた。ギルバートは艶っぽい笑顔に照れて、「いえ」と目をそらした。
「そうね。わたしもややこしいと思うわ。これもフラワリアの内乱の複雑さが招いたものです。ギルバート、貴方はフラワリアには行ったことは?」
「ありません」
「いずれ、時間が許すなら連れて行ってあげたいものですね」
彼女はそういって笑った。そうして、街の要所について説明をうけた。衛兵の詰め所や門の場所や跳ね橋など細かく説明されて、ギルバートは思わず「教区長、此度の用向きは?」と聞いた。
「察しがいいわね」モニカは聖堂まで戻ると長椅子に座った。手で招くようにとなりを叩いて「さ、貴方もお座り」といった。諾々、ギルバートも座った。目の前に石像が立っていて、背後にはステンドグラスがある。陽光を受けて、ステンドグラスが輝いている。(あの像はなんだろう)とギルバートは思った。
「リカロンは良い所でしょう」
「まあ、たしかに。街路がすこし入り組んでいましたが」
「あれはね。フラワリアの真似なの。屋根瓦の色まで同じ」
ちょうど、真昼の日がステンドグラスの後ろに来た。荘厳な後光を背にして、屹立する聖堂の像に明朗な輪郭が描かれだした。
「あの像はだれですか」ギルバートは指さした。モニカは思わず、口をおさえて「ほほほ」と哄笑した。
「あれは、古代の勇者アルミニウス公ですよ」
「そうなのですか」
「私が厳格な宗教家であったなら、ぶん殴っていたところですよ。とりあえず、指差ししていいものではないことは覚えておきましょ」
「ぶん殴る、ですか」
「ふふふ。貴方は無礼なのか礼儀正しいのかわかりませんね」彼女はそう言って笑った。若い女性が見せる屈託のない笑顔に見えた。彼女はどこか幽遠な空気をまとっているうえに銀色の面を被っているから母親ぐらい年上に思えるが、実際は少女と言っていいほど若いのである。ギルバートは、一瞬、その若さが目の前で花開いたような気がした。それで、照れ隠しに例の調子で「で、俺は何をすればいいのですか」といった。モニカは唇をむすんで固まった。
「それがね。こんなことを頼むのは奇妙に思うかもしれないけれど」彼女は面をしたまま、顔色を窺うようにギルバートの方を向いた。しり込みするようなことを頼もうとしているとギルバートは気づいて「貴方には恩があります。なんでも、言ってください。俺が出来ることはやります」といった。
ふいにモニカの面で隠れた表情が明るくなった。
「でも、このお願いは危険極まりないの。それでもいい? もし、嫌だと思ったら遠慮せずに言いなさい。いいわね」
「はい。もちろん」
ギルバートはすでに何を言われても「やる」と言う気であった。そのこわばった顔色を見てモニカはゆっくりと自分の面を外した。どこか焦点のあっていない美しい瞳があらわれた。モニカはじっとギルバートを睨んだ。誰かが創ったみたいな美しい顔が目の前で豊かな表情をもって動いている。
「わたしはなぜ、面をしているかわかりますか」モニカは聞いた。
「いいえ」
「私の瞳には生まれつき、人の心を<感じる>能力があるのです。けれど、それは便利な反面、街中をただ歩いているだけで雑音でどうにかなってしまいそうになるの」
「だから、いつも面をかぶっているのですか」
「そう。……ギルバート、お分かりですか? この話をしたのはね。嘘をついても無駄だと知ってほしかったから。貴方にあの程度の旧恩に絆されて欲しくないの。嫌なら嫌と正直に言いなさい」
「はあ。で、どうすれば」
「わたしを……守ってほしいの」
「守るですか? なにから」
「黒百合騎士団の暗殺者」
ギルバートはそう聞いても恐怖をおぼえなかった。けれど、身に降りかかってくる事件がどんどん大きくなっていくような気がした。また、彼はデズモンドの心配をした。なにしろ、モニカのことはあまり信用するなと言われた。その人を命を賭して、暗殺者から守る。しかも、黒百合騎士団の暗殺者から、である。さすがに世間知のないギルバートも政治がらみの話であることは分かった。
おいそれと、この話に乗ってしまっては主人に迷惑が掛かるような気がした。
「迷っていますね」モニカはそういった。ギルバートは隠しても無駄と悟って「もちろん、俺は貴方を助けることはやぶさかではないのですが」
「そうよね。ご主人はエラリの領主様だもの。疑って当然だわ」彼女は本音で語った。デズモンドとモニカの難しい関係性にギルバートは混乱してきた。虚々実々のなかで、自分が何をすればいいのか判断できる齢でもなければ経験もない。
「ですが、どうして俺なのですか。貴方は白百合騎士団のエライ人でしょう? ほかに侍従がたくさんいるはずだ」
「ふふ。ふつうはそうなの。けれど、今回の相手はムリ。このリカロンの守備隊を総動員しても当たれない大物が来ている予感がするの。いまは、すこし白ユリと黒ユリは難しい時期でね。例えば、私を守るためにフラワリアの名のある騎士を連れてきちゃうのは結構まずいの」
「どうしてですか」
「だって、強い騎士をこのリカロンまで動かしたら、それは即戦争の合図なの。リカロンはすぐ近くを黒ユリ騎士団の領地と境を接しているからそこに戦力を移すことは戦争の準備と思われても仕方ないでしょう。いや、そういう事実を捏造して逆に襲って来ることも十分あり得る。そうなったら、このリカロン・ヴェイルだけでなく、ここを飛び地のように囲んでいるエラリも戦火に巻き込まれるわ。ギルバート、初めて会ったとき、死体を見たって言ってたでしょう。あれは黒百合騎士団の死体だったの。ねえ、わかる? それぐらい危険な状態なの」
「そもそも、どうして狙われているのですか」ギルバートはおそるおそる聞いた。この期に及んでは、彼女が善人か、悪人かが重要な判断基準だった。政治がわからないギルバートからしたら、それだけは譲れないことだった。モニカはギルバートの不安に気づいて、微笑した。
「ギルバート、わたしは人の才覚を見抜きます。貴方のときと同じようにね。でも、もし、そうやって白百合騎士団に才能あふれる若者を青田買いされるとしたら、対立している黒ユリの連中は気が気じゃないでしょうね」
「なるほど。よくわかりました。これ以上、有為な人材を増強される前に貴女を殺す、と言うわけだ」彼女の説明は明快だったし、論理が通っていた。また、黒百合が彼女の命を狙うことも道理にかなう。
「うん。わかってくれたようでよかったわ」
彼女はギルバートの心に迷いが消えたと分かったらしい。心の動きをつねに先回りされているのは少し気持ちが悪いとギルバートは苦笑いした。
その不安感すら手にとるように分かったのか、モニカは銀の面を付け直そうとした。その時、ギルバートは腰辺りを突かれた。コグが刀身の一部を使って、信号を送るように彼の腰を殴っていた。思いのほか、強い力でしかも焦っているように小刻みに何度も殴る。
「ム」ギルバートがコグを飼い犬を躾けるみたいに睨むとモニカは不思議そうに「どうしたの?」と聞いた。
その刹那――。ギルバートは目の前に閃光のような白刃の輝きを見た。びゅんとと金切り音を立てて、それは飛んできた。
思わず、反応して手を出してそれを掴んでいた。他でもない白刃の光はモニカを狙っていた。
切っ先が彼女の目元で止まっていた。彼女はしなしなと腰を抜かして長椅子から転げ落ちる。
「教区長、お怪我は?」ギルバートが飛んできた短刀を握ったまま聞いた。
「だ、大丈夫よ」とは言ったが、彼女は右目を押さえていて、その手からは血が滲み出ている。
(眼だ。この人の眼を潰しに来やがった)とギルバートは気付いた。
「どこだ。このクソ野郎」ギルバートはコグを引き抜いた。眼が猛獣のように真っ黒に染まっていた。すると、ギルバートの掴み取ったはずの短刀は急に見えない力に引っ張られて、彼の手元を離れて飛んでいった。
「いったい、なんだ。これは」彼は困惑した。鳥のように意志を持って短刀は聖堂を飛び回っている。
ふと、勇者アルミニウス公の像の後ろに人の影が見えたかと思うと、人影は背後のステンドグラスを割って外に出ていった。
「野郎。まてっ!」ギルバートは脇目も振らずに追いかけていく。その背に向かってモニカは「ギルバートっ! 追ってはなりません、罠ですっ!」と呼びかけたが、ギルバートの耳にはまったく入らなかった。暗殺者とギルバートの逃避行が始まった。それはすでに常人の足力ではない。路地をかけ、屋根に登り、宙を跳ぶ。ギルバートは自分の足で追いつけない人間に初めて出会った。
(この世に、こんなすばしっこい人間がいるとは)。
「よせ、それ以上、追うな。ギルバート」とコグは急に進路を塞ぐように彼の眼前に躍り出た。
「邪魔だ。剣の姿に戻ってろ」
「冷静になれ。あの聖堂を飛び回ってたのは超一級の神器だ。当然、あの使い手も半端じゃないぞ」
「知ったことか」
「あっ。このバカっ!」
ギルバートはコグの制止を無視して暗殺者を追いかけ続けた。やがて、リカロンの防壁を飛び越えて、藪の中へと暗殺者は消えていった。ギルバートはなおも追いかけ続けた。人目につかない場所までくると、コグはいよいよ大声で「この馬鹿野郎。死にてえのかっ!」と騒ぎ立てた。ギルバートの軽挙妄動を諌めると言うより、コグは真剣な恐怖から叫んだ。
暗殺者は急に振り返ると、立ち止まった。
「むむ。なんだ。止まりやがった」思わず、ギルバートも止まった。気づけば、深い樹林のなかにいた。微風で草や枝葉が揺れる。暗殺者は振り返って、顔の覆いを解いた。中世的な顔立ちをした美男子である。縮れた亜麻色の髪が陽光に光っている。
「なぜ、顔の覆いを外す」とギルバートは困惑をそのまま口にした。金髪の暗殺者は答えない。
代わりにコグが、その愚をなじるように「この場で確実に殺すためだ。顔を見られても殺してしまえば問題ない」といった。
「嘘つけ。なら、どうしてここまで逃げる必要がある。俺を一対一で倒す自信がないから逃げるんだろ」
「そうかい。上を見てみろ。このタコ」
コグは呆れた様子で言った。ギルバートは眉根を寄せて天を仰いだ。かれは言葉を失った。上空には鳥の群れのように無数の得物が浮遊していた。剣、槍、鋤や鍬までおよそ刃物と呼べるものが一堂に会して空を覆っている。しかも、浮かんでいるすべての得物の切っ先が彼の方を向いて、いまにも飛んできそうな気配である。
「お前、串刺しだな」
「一体これはなんだ」
「説明なんかいらん。そのままだ。死ぬってことだよ」コグはそういった。
「いいや。俺は死なない」ギルバートは気丈に言い張る。そう言った瞬間、ものすごい速度で藪の方からモニカの右目を奪った短刀が飛んできた。ギルバートがそれを避けると短刀はギルバートのそばにあった木の幹に突き刺さった。
避けたとはいえ、ギルバートは身震いした。彼は同い年ぐらいの暗殺者の顔を信じられないという様子で見つめた。
「上に注意を持って行って、横の藪から不意打ちか」
「このやろう」ギルバートは裏をかかれて腹が立った。
「慣れてるな。まだ若いくせに」
「慣れてるって?」
「殺人にさ」
「……」ギルバートはそう言われて、冷や水を浴びせられたように覚めた。(これは、けんかじゃない。殺し合いだ)。いまだ、彼は人を殺したことがない。この手で人を殺せるのか、と考えた時、彼は緊張が解けて無防備な状態になった。
上空の得物が天井が崩れたように降りかかってきた。ギルバートはハッとした。眼前に白刃が百雷の如く襲いかかってくる。
彼は藪に紛れて走った。肩に飛んできた刃が突き刺さって、鮮血が飛んだ。動きが鈍ると、背と脛に同時に鋭い痛みが走った。
「ぐぬぬ」足を緩めてはならないと悟って、気力を奮った。ギルバートは半狂乱になって、刃物の中を走った。
「死にたくなけりゃあ、止まるなっ!」とコグが叫んだ。(んなこたあ、わかってるっつの)と思ったのを口に出す余裕もなかった。気付けば、藪の中を走っていた。もう追ってこない。けれど、ギルバートは気づかずにずっと逃げ惑っていた。
「おい。もう追ってこない」とコグに言われてギルバートは足を徐々に緩めた。すると、肩と足の切り傷が今になって痛んできた。
コグはギルバートの後ろに回って、「お前、槍の刃先が背中に刺さってるぜ」といった。
「抜いてくれ」
「そういうのって抜いたら良くないんじゃないのかね」
「いいから」
ギルバートは全身痛くて、イラついていた。コグは言われた通り、うまいこと触手で掴んで突き刺さった刃先を引き抜いてやった。痛みを堪えるギルバートにコグは「最初から俺の忠告をきいていれば、こうはならなかった」といった。
「くそ。どうやってもあの金髪には敵わない。なんだ、あれは。武器を自由自在に操ってたぞ。反則だろ」ギルバートは観念したように嘆いた。
「あの金髪の青年が持っていた剣は、クォンだ」
「なんだって」
「俺みたいなやつだよ」
「<おしゃべり武器>か」
「その言い方はムカつくけど、まあ、そうだな」
「コンだと。知り合いか。その武器は」
「クォンだ。俺たちは人間より長い年月を生きてる。こうして、持ち主が変わって、再会するのはよくあることだ」
「そうかい。くそ、どうするよ。あんなバケモン」
「悪いことは言わんから、もうエラリに帰ろう。そもそも、金髪の狙いはお前じゃない。あの仮面つけた女だ。こちらから攻撃しなけりゃ、もう追ってこない」
「バカ言うな。あの人が殺されてしまう」
「あのな。そんな満身創痍でどうするって言うんだ。次こそ八つ裂きだぜ」
「それでも、守るって約束したんだぜ」
いつの間にか小雨が降ってきていた。白っぽい霧は貧血のせいか自然の産物か判然としない。
「もし、本当に、あの金髪と戦う気なら、手は一つしかない」コグは薄笑いを浮かべて、ギルバートに迫った。
「くそ。また、怪しい<契約>とやらか」
「まあ、べつに強制はしない。というより、強制したら契約にならないんだ。ま、お前がそんなに死にたいってんなら勝手にしろ。俺はあの金髪に拾われて、たぶん、フラワリアの黒百合騎士団本部の倉庫行きだ。また、気長に持ち主を待つとするよ」
ギルバートは考えた。前に聞いた話だと、契約は使用料として、自分の魔力をある程度、コグに渡すと言うことらしい。そうなると、コグはあの<クォン>という武器と同様、何か得体の知れない力を目覚めさせ、好き放題暴れることは想像に難くない。あの水晶の中に映った無数の目玉は、コグの目玉で間違いなかった。あの不吉な運命の方へ誘引されているような気がした。
(運命は結局、運命なのか)。
「なら、コグ。ひとつだけ約束だ」
「おう。その気になったか。それで、約束って、なんだ」
「人の命は決して奪わない」
「はっ! ギルバート、この刀身が何のために鋭くなっていると思う? バカなこと言うな」
「なら、だめだ」
「この頑固者め。じゃあ……そうだな。半殺しはオッケーか?」
ギルバートはコグの妥協案に腕を組み沈思黙考した。
「ウーン。その人の人生において、障害にならない程度の半殺し、までなら許す。それに、やむ得ない場合のみ」
「……まあ、わかったよ。児戯に付き合ってやるさ」
「よし。では、何をすればいい」
「こう復唱しろ。アダ・グゥイン・フェン・コォグ」
「なんだ。そりゃあ」
「魔界の古代語だ」
「意味は」
「私は、使う、コグを」
「で、なんて、もう一回」
「アダ、グイン、エン、コグ」コグはギルバートに分かりやすいように発音した。彼は見よう見まねで「アダ、グイン、エン、コグ」といった。けれど、何も起きない。吹き荒ぶ風と小雨が寂しげである。
ギルバートが騙されているのではないかと、疑っていると手指から一挙に体の血流が出ていくような不思議な感覚を覚えた。
コグの刀身がぶるぶると筋肉のように震え出して、膨張を始めた。膨らんだ分、目玉が浮き上がって、よりいっそう気色悪い。金属の光沢は膨らむほどに薄れて、肉質のようになっていく。
「グォォォ」とコグはうめいた。ギルバートはコグの刀身が、自分の魔力を吸って大きくなっていくのが分かって背筋がむず痒くなった。気付けば、あたり一面、暗紅色の光に照らされて異様な薄暗さであった。
「ギルバート、お前は何もしなくていい。さあ、ぶっ飛ぶぜ」
雪崩のように地面がひっくり返った。ところどころにコグの触手が大樹のように空に伸びて、地割れが起きた。
「なんだ。これは」ギルバートは言葉を失った。それが自分の魔力を触媒にして、起きている天変地異だとはとても信じられなかった。
そして、同時に酩酊したように意識が薄まった。気絶とまではいかないが、夢のような心地だった