野望の人、フラウィウス
森から森へ丘陵から丘陵へ人目を避け、なんとなく白百合騎士団の根拠地であるフラワリアから離れるように足が進んだ。けれど、追われる身であるという自覚はギルバートにはないらしい。黙然と俯いて下ばかり見て歩いている。
「いったい、どこにいくべきなのか」
「とりあえず、エラリに帰るのはやめた方がいい」ウィリアムが言うとギルバートは不安になった。
「もしや、騎士団の輩はエラリに意趣返しに行きはしないでしょうね」
「それもあり得るが、そんなすぐに騎士団は動かない。とくに白百合は上層部が多い分、決断も行動も遅い。けれど、俺たちの人相書きはすぐに出回ることだろうぜ。だから、いまは隠れておくが得策」
「なるほど」
「その間に、君はその暴れ馬のことを乗りこなす修練を積むべきだろう」
「必要ありません」
「どうして」
「俺は……こいつを捨てます」
するとふたりの会話を聞いていたコグがぎょろりとギルバートを睨んだ。
「はっ! それは、無理な相談だぜ」
「お前の考えなんか知らない。ここで、へし折ってやる」
とギルバートはコグを太ももに押し当て梃子のように両手で持って力を込めた。ウィリアムは「あ、やめておけ」といって止めた。
「なぜですか」
「君はコグと契りを結んだはずだ。どういう種類の契約なのか調べてみるまでわからないけれど、もしいまその妖刀をへし折ったりすれば、君の身にどんな災いが起こるか分からない」
この世界の契約は魔術による呪縛を基とする。それは言葉だけで誓約書など書かずとも、双方合意すれば、呪いとして成立する。ただし、条件として、契約を交わす者どうしが魔力を身体のなかに保持していることが必須である。
古来より、魔力をもつ者どうし、酒の席でふいに言ったセリフが一生涯の呪縛となることが往々にしてあった。また、厄介なのが、こういった契約にはたいてい悪魔的な落とし穴があったりすることである。
「さあ、脱いでみろ。契約の印はたいてい背中に表れるものだ」
そう言われて、ギルバートは上着を脱いだ。ウィリアムは目を細めた。筋張った背筋の盛り上がりに、真っ黒い入れ墨のような亀甲線が刻まれていた。
「ウィリアム殿、あんたも相当変わりもんだなあ」ギルバートは気楽に、背中に爆弾を背負っているとはつゆほども知らない様子だった。
「これは……」ウィリアムは言葉を失った。
「何か問題が?」
とギルバートは背筋にむず痒いものを覚えたように背中を触っていると、ごつごつした手触りを感じて「え、なんだ、こりゃあ」といった。
「くくく」とコグは笑っている。ウィリアムは恐ろしげに赤い刀身を眺めた。困惑しているギルバートに難しいどうりを省いてウィリアムは説明を試みた。
「ギルバート、君はコグと契りを結んだ。その証文が背中に印として表れている。だいたい、その印を見れば、どのような契約内容なのか分かるんだが」
「はあ。で、契約の内容とは一体なんです。反故にしたら、心臓が潰れるとかですか」投げやりな冗談を、そんなことあるわけないといった口吻で飛ばした。
「……コグが死ねば、いわゆる生物学的な死が彼にあればだが、君は死ぬ。逆も然り、君が死ねば、このコグも死ぬ」
ギルバートのおもてに困惑はなかった。疲れた様子で、ふうとため息をついた。
「なんてこった」
その一言だけだった。コグは陽気に、ギルバートを茶化すみたいに「俺たちは運命共同体さ」といった。ギルバートは顔を背け「ウィリアム殿、ここらはどこですか?」と話を逸らした。
「まだ、白百合騎士団の領域内だよ」
「人家はないのですか?」
「ない」
その言葉通り、奥に行けば行くほど、人家の気配はおろか森の瘴気は強まり、霧は濃くなった。原生林のような人間を寄せ付けない気配がある。街道に樹林の根っこが蔦のように地面を裂きながら乱入している。
ギルバートはふいに目をぎらつかせた。なにか森の奥に不審な気配がして足を止めた。前を歩くウィリアムはふりかえって「どうしたんだい?」と聞いた。
「この足音は……熊だな。いや、鹿だ」
「鹿か」
「鹿だった」
「ははは」
ふたりは一瞬笑い合った。よくよく考えれば、人馬が追ってくるにはあまりに早すぎる。狩りで鍛えた耳を使って、仰々しく警戒したら、鹿だったというのでどこか可笑しかった。
ふたりの前途は暗いが、そこを照らして行ける剛毅がある。ウィリアムにしても、この先の方略を考える気はまだ無かった。
とはいえ、その頭脳はいちど時間を与えれば、白百合騎士団の今後の方策を詳らかに想定できた。彼は騎士団の支部から支部へ何度も働き歩いた。その経験上、騎士団の戦力や財力に至るまで計数的な想像が働いた。
だが、測り難いこともある。それは、騎士団の総長と副総長のアビゲイルとプリシラ姉妹に対して、ギルバートがどこまで戦略的優位をとり得るか、である。数字上の有利不利があるとはいえ、結局、最後には、数名の怪人たちによる英雄的一騎討ちのあとに戦争は決着する。
姉妹はふたり合わせて、双龍と呼ばれた。いまや、フラワリアの政治は彼女たちの機嫌で二転三転する。何よりも大きいのが、プリシラとアビゲイルは姉妹愛が強く、常日頃、一緒にいると言うことである。他のフラワリアの大物といえば、黒百合騎士団総長オズワルド、冒険者ギルドの長、竜殺しロドリックや、<剣聖>アレクサンダーにしても、みんな、一人ぼっちなのである。もちろん、その下に多数の股肱を抱えているのだが、真に同じ実力で心の底から信頼できる側近などいない。だから、この双龍の姉妹は他の大物たちにいかなる政治的場面でも重く臨めるのであった。
――そんな怪物姉妹にふたり合わせてぶつかられたら、さすがのギルバートも、キツいかもしれないと思ったりもする。けれど、ウィリアムは凡人の計算の愚かさを感じた。
こうなったら、実際、ぶつかってみるしか確かめようがない。とくにギルバートの場合、まだ不意打ちを喰らったり不安定な部分がある。なにより、神器にしてはかなり自分勝手なコグという妖刀との二人三脚に苦戦しているように見える。
けれど、成熟した彼にはどんな人間も比肩できないとウィリアムは確信する。
(こいつはアルミニウス公の化身だ)と半分狂気じみた宗教熱をもって、彼の道となり盾となる決意だった。
そんな血気をもってウィリアムはギルバートの前を歩いていた。時折、魔物らしき生物の声が森に反響した。その度に足を止めることはなかった。が、ふと、森の奥に奇妙なものを見つけてふたりの足が止まった。その光景を見て、ふたり一緒に「ン?」と顔を並べて漏らした。
――地面に剣が突き刺さっていた。剣の刃が深く刺さりすぎて刀身はほとんど見えない。
「これは物語によく出てくる勇者しか抜けない剣では?」ギルバートはいった。
「そんなバカな」ウィリアムは鼻で笑おうとしたが、ギルバートは真面目にそう思っているらしく食い入るように怪しい剣を見ている。
ギルバートは迷いなく、その剣に近づいた。ウィリアムは驚いて咄嗟に止める言葉を思いつかなかった。
ギルバートは肉体が強力すぎるせいか、恐れ知らずなところがある。怪しさで常人が二の足を踏むことでも、訝るまえに足を一歩先に踏み出している。
ウィリアムが「あっ」と声を上げる頃には、がしりと剣のつかを掴んで引き抜いていた。まったく、ためらいがない。呆気に取られているウィリアムを尻目にじろと剣を観察している。
ウィリアムは驚いて心臓が跳ね上がった。引き抜かれた剣の刀身にルーン文字が刻まれていて、次の瞬間、その文字が赤く妖しい光を発した。
それは古来より使い古され、多くの時代を経て練磨された罠だった。その文字は魔術師たちの共通言語で<火炎>を意味する。
ウィリアムは「爆発するぞっ!」と叫んでギルバートの肩をつかみ、その体を地面に叩きつけるようにして伏せた。ふたりは地面に並んで匍匐する。
何も起きず森の静謐が守られる。一瞬の時が長く感じられ、野鳥の声が二人を小馬鹿にするような調子で響いた。
「……」
とふたりして、顔を見合わせた。その頭上から溢れんばかりの笑い声がケタケタと聴こえてきて、ふたりは同時に林冠を仰ぎ見た。
大樹の梢に猛禽の如く金髪の美男子がいた。小猿のように枝にうまいこと寝っ転がって腹を抱えて笑っている。
「フラウィウスっ!」とウィリアムとギルバートは飛び起きて、各々剣を構え最大限の警戒を持って睨んだ。からかわれたと気づいて、ふたりの顔に怒りが滲んだ。
フラウィウスは気にも止めず「ああ、愉快愉快」といった。
「いったい、なんのようだ」ギルバートは詰問する。飄々と枝から枝へ幹の上を滑るようにフラウィウスは降りてきた。戦う気がないという意思表示なのか愛刀クォンは胸の小刀用の鞘に収まったままである。フラウィウスは二人を交互に見て青髭のない顎をあげて薄笑いを浮かべた。
「俺たちはもう仲間さ。いまや三人揃って逃亡者だ」
ウィリアムは勇んで前に出ると「いいや。あんたは仲間じゃない」といった。それに追従するようにギルバートもかぶりを振った。
「そうさ。あんたは人殺しだ」
ふふん、と鼻を鳴らして微笑を崩さずにフラウィウスはふらふらと左右に歩いた。
「そうか。おかしいな、ここには人殺しがあとふたりはいるはずだ。ウィリアム、君は同胞を殺しているし、ギルバートも間接的にリカロンの村人の死に関わっている。そんな君らが、俺を非難できるのか。――それに、いまのような罠に引っかかる上に、俺の追跡にも気づかんとは。そんな体たらくで、どうやって白百合の追っ手を撒くんだね? ギルバート、お前はまるでイノシシだな、その勇気は買うが、そんな向こう見ずでは要らぬ戦いを呼び込むだけだ。今後も人を殺して歩く気か」
滔々と説教じみたことをいわれて、ギルバートはむかっとした。言い返そうとしたら、腰帯からコグが飛び出して「まさに、こいつの言う通りさ」といった。
「お前はすっこんでろ」
「いいや。これ以上、お前に好き放題振り回されるのはごめんだ」
「思いっきりぶん投げるぞ」
人間どうしなら心配になるほどの剣幕の言い争いだった。剣と人間が顔を突き合わせて侃侃諤諤、罵詈雑言の応酬である。フラウィウスは大笑いした。
すると、ギルバートはコグを目の前に突き出して「てめえなに笑ってやがる。こいつはお前の腕を喰ったぞ。それでも、許せるか」といった。
「べつに。こんな世相に腕一本、安いものだ」
眉根に毛ほどの動揺も怒りも見せず、フラウィウスはそういった。怒りは微塵もない、と心底思っているような顔色だった。
「だそうだ」とコグは勝ち誇った。
続けてフラウィウスが「なら、ここで殺し合うかね。また、自分の手を血で汚すか」といった。見かねたウィリアムがふたりの間に入った。
「まあ、まちたまえ。今日はもう十分、血が流れた。これ以上、やり合っても益はない。それにフラウィウス、どうして勝てない戦いをいたずらに挑む?」
ウィリアムは直言を言った。フラウィウスは虚をつかれたようにへへへと笑った。そして、ウィリアムは振り返り、ギルバートにたいして「君もあまり怒るな。病み上がりの身に障るぞ」と肩を叩いた。
ギルバートは魁偉な背中を縮めて俯いた。かれはそう言われて俄に自分の体が鉛のように重い気がしてきた。たしかに、ついさっきまで病床にいたのである。
それに起き抜けからずっと体に激情と血潮が攪拌されているみたいな状態だった。彼は自分の疲労に気づいた。
「つまり、俺はこれから仲間ってことでいいんだよな?」
フラウィウスがそう言った。尊大な態度は衰えない。
「好きにしろ」ウィリアムは気にもとめない様子だった。
「ほんとか」
「ああ」
「なんで急に」
「理由か? ギルバートがいる限り君は下手な真似をできないからさ。まあ、君もそれを分かっていると思うけど。……単純に君は生き延びたいだけだろ?」
「はっはっは。そうそう。そうなんだよ。おれはまだ死にたくないのさ。だけど、ギルバートにそのことを説明しようと思ったら骨が折れる。いや、君がいて助かった助かった」