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逃げる

 ギルバートは殴り飛ばされて、壁を破りリカロンの大通りまで転がった。額から血が流れて鼻筋をなぞって顎まで流れた。立ちあがろうとしたら、頭がぐらりと揺れた。彼は膝をついて、しばらく深呼吸した。

 朦朧としていて、かれはすでにリカロン中の市井の目を集めているのに気づかなかった。その目には老若男女の関係なく、一様に宗教熱のようなものに浮かされた殺意が映っている。

 ――ぐさり。と、背中を熊手で刺された。

「ぐ、いったい、なんだ」とギルバートは反射的に背中に刺さった熊手の刃を掴んだ。危うく、肺まで貫かれるところだった。震えが熊手の刃を通して、背中に伝わってくるようだった。ふいに振り返ると、農民然とした男が「うわあっ!」と悲鳴をあげて腰を抜かした。

刺さった熊手をそのままに逃げ出していくのを茫然と見送っていると、四方八方、住民に囲まれているのに気づいた。その目には敵愾心がある。それほど殺意のある眼差しで見られることをした覚えがない。ギルバートはただ、困惑した。

 彼に偶然、目を向けられた人々は恐怖を感じて、逃げ出した。また威圧するようにかれを睨み続ける者もいる。一瞬、熊手が刺さっている痛みすら忘れた。――無辜の人々を恐ろしいと思った。

「なんだ、その目は」とひとりごちた。リカロンの住民の顔つきはどこか似ている。思えば、魔族の血が混ざっているためか普通より美形な骨相をしている。

 ――こいつらは普通の人間ではない、ということをギルバートは感得した。同時に微かな怒りに似た感情が湧いてきた。突き刺さった熊手を抜き払って、睨み返す。疾風に靡かれたように再び逃げ出すものが現れた。

(人を蔑んでおいて逃げるのばかり早い奴らだ)と彼の心も痛みで荒んで、侮蔑することを覚えた。

 びゅんと風を切って、矢が飛んできた。反応が遅れて、それはと胸に突き刺さった。矢尻はあまり深く食い込まなかったが、命中した瞬間の住民たちの顔の色めき立つ様に、ギルバートは段々と怒りを抑えられなくなってきた。

 矢が刺さって、片膝をついたところに「いや、意外に弱いんじゃないか」と住民たちが彼の力量を過小評価して、おもむろに囲い込みにかかった。彼らはギルバートの背中の傷が今にも塞がりかけているのが見えないのである。

「来るんじゃないっ!」と思わず、一喝した。びくりと肩を震わせて二十余名の男たちは互いに目顔を使いあって、なおも近づいてくる。

 ――猛者を知らない。彼が多少の怪我を負っても、一瞬で十人ぐらい殺せる人間だとは思っていない凡夫の顔と顔と顔である。

(なぜ、そうまでして俺を殺したい?)と疑問ばかりが多かった。逃げようにも、モニカに殴られた衝撃の眩暈がいまだ覚めないのである。

「それ以上近づいたら、本当に……命を捨てることになるぞ」それは真実の言葉だった。顔に脂汗が浮いていた。が、住民たちの目から見ると、それは逆に気を張って脅しているだけの空元気にしか見えなかった。むしろ、(いける。ころせる)と希望さえ抱かせてしまった。

 その居並んだ顔の明白な殺意にギルバートは萎縮した。その大仰に構えた鍬や鋤や熊手が怖いのではない。正真正銘、自分を殺害することを渇望していることが怖ろしいのである。それが正義であると信じている顔つきなのである。


 ふいに紅い閃光が宙に走った。どこからともなくコグが足元まで転がってきた。――時間が引き伸ばされて遅く流れる。住民たちは武器を取られると思ったらしくなりふり構わず、襲いかかってきた。

 コグの刀身に目玉が浮き上がって、ギルバートを睨んだ。

「はっ!」

 思わず、その柄を握った。

――驟雨が降り出した。血と肉が甘霰のようにぼたぼたと鈍く重たい音を立てて、リカロンヴェイルに降り注いだ。生垣や屋根に肉しょうがひっかかり、街路の溝渠も真っ赤に染まった。コグは一瞬で住民を惨殺した。大きく開いた顎が人体を咀嚼している。

 ギルバートは茫然とそれを見ていた。

「なんだ。お前が望んだことじゃないのか?」コグは口をもぐもぐ動かしながら言った。

 その言葉にギルバートは反論することなく、沈思した。コグは一瞬で住民を惨殺したが、超人的な反応を持つギルバートなら即座に魔力の弁を閉じて、その凶悪を止めることができたかもしれない。

「ちがう。俺の考えじゃない」と微かに答えた。フンと鼻を鳴らして、コグは彼の佩剣に戻った。

 ――たしかに、殺したのは自分ではないが、こころにずしんと違和感が残った。ギルバートは気づいていないが、ここまで多くの血が目の前で流れて慚愧の念に苛まれないのは彼らしくない。彼のこころはすでに変色し始めている。

 それを誰よりも明朗に感得したのが、ちょうど旧聖堂の建っている丘陵から、その惨劇を目撃したモニカだった。

 彼女の片目はギルバートのこころの変容をほとんど彼女の意思など関係なく、自動的に

感知した。

「か、変わっている。……フラウィウスそっくりに」おもわず、彼女は昏倒しかけた。

 ――悪人性は疾病である。その疫病はすでにフラワリアを席巻している。モニカは変わりゆくフラワリアを<心眼>で閲してきた。彼女の経験上、この世には生来、悪人として宿命された人間もいる。そういう人間のオーラは暗黒である。黒いというより深淵のような黒なのである。そして、後天的に悪人になった人間のオーラは黒と茶のドブのような色をしている。そして、生来の悪人の暗黒が静止画なのに比べて、後天的な悪人のオーラはその心に余裕が無いのを表しているのか攪拌されているように揺らめいている。

 ギルバートの醸し出すオーラはモニカの眼から見て、いまや暴風ようだった。

 あのモニカの夢幻のなかにいた黒百合の紋章盾を背負った男は羽化する手前である。

「ああ、そんな。……もう殺るしかない」

 ギルバートは微動だにしない。血肉の雨を浴びているとは思えないほど落ち着き払っている。

 モニカは一息に飛んで、彼の目の前に着地した。その一瞬間で彼女は着替えてきたみたいに別人になった。

 ――殺す、殺す。その一言が呪詛のように彼女の頭蓋に響いている。あの人好きのする青年は死んだのだと言い聞かせていた。

 すると、ギルバートは彼女の殺気を凌駕する剣幕で「教区長殿、こっちに来ないでくれっ! もう……こいつを制御できない」

 百雷のような音とともに空間は歪み、暗紅色の丸太のようなものが勃然と彼の腰帯から伸び上がっていく。コグにはもはや枷がない。リカロンの家々を粉砕しながら芋虫のように瓦礫の上を這いずっている。

 幻覚かと見紛うようなコグの挙動である。納屋ほどもある巨体がゴキブリのような初速でびゅん、びゅんと風切り音を鳴らして伸びたり縮んだりしている。

 その暗紅色の蠕動する巨体をもろともせず、モニカは太古の力を振るって殴り飛ばした。

コグに巨躯に比して、小さな体躯の彼女も負けていない。が、コグはとぐろを巻いて、魔力の源であるギルバートを守っている。それをみて、モニカは唇を噛んだ。

――一方、とぐろの中のギルバートは懸命にコグを抑えようとしているが、なかなかどうして上手くいかない。魔力の弁を無理やり閉じようにも奔流のごとく流れ出ていく魔力の勢いが強すぎる。

 その苦戦するようすにコグは(むだ、むだ)とほくそ笑んで久方ぶりの劇的な戦場を愉しんでいた。が――。

「ぐぬぬぬぬ」

 ギルバートは無理やり閉じた。ほとんど火事場の馬鹿力というべき根性である。伸びて広がるのと同じぐらいの速度でコグは縮んで佩剣に戻った。

「あっ! このバカっ!」コグが叫ぶ。

 その一瞬、気を緩めた途端、仮借ないモニカの飛び蹴りが炸裂した。ギルバートは近くの納屋に砲弾みたいに突っ込んだ。当然である。モニカはギルバートを殺すことが目的なのだから、コグを抑え込んだ瞬間、こうなるのは当然の帰結だった。

 破壊された納屋の扉から家畜が逃げ出していく。

 ギルバートはわら山の上で気絶しかけた頭を振った。

「痛てえ」と嘯いた。

 コグは目の前で口角泡を飛ばす勢いで怒り狂った。

「痛えじゃねえよ。死にたいのか。この大マヌケっ!」

 言い争う暇もなく、モニカは目の前まで迫っていた。また、殴られた。彼女は氷のような無表情である。

 今度は、わら山から大通りへと放り出された。モニカは恐ろしく疾い。が、本気になれば、ギルバートも十分、その動きを捉えられるはずだった。が、どうしても、彼には戦う気が起きない。

「俺は、……あんたに救いを求めてきたのに。こうなるんだったら、あんたなんか、頼るんじゃなかった」

 路傍に這いつくばって、彼は長嘆した。どこか、口元に今際の際に咲かせるような微笑がある。最後の最後、一息吸って彼は言った。

「結局、魔族ってことかよ」

 自嘲気味な笑みでモニカを眺めて、観念した。モニカはその様子に心を動かされかけて、それを忌避するように顔に皺を刻んだ。両翼が左右に広がって、微風を起こした。

 彼女は、なにもいわず、襲い掛かった。魔族の血脈の力がその拳に収斂していく。それはギルバートの脳天を割ろうと、振り下ろされた。

 ギルバートの眼は、四つん這いのまま、その拳骨の軌道を捉えていた。避けようとすると、モニカがぎこちなく腹を押さえて屈んだ。

 いったい何事かと思っていると、彼女は「うぇぇ」と漏らして、濁流のような血を吐いた。茫然としていると、まともに立っていることもできないようで地面にうつ伏せに倒れてもがき始めた。

 コグは欣喜雀躍して、腰帯から飛び出してきて「ははっ。ついに、来たな。時間切れだ」といった。

「いったいどういう意味だ」ギルバートは立ち上がって聞いた。

「魔族の<変身>には大きな代償が伴う。寿命を縮め、体を蝕む。……あ、この女、気を失ったな。痛めつけてやろうと思ったのに」

「……」

 ギルバートは沈黙した。生き残った安堵感はない。彼は膝をついて、モニカを抱き起こした。その体が元の肌色に戻っていくのを悲しげに眺めた。あんぐり開いた口の端に血が溜まっているのを拭ってやった。

「死ぬのか。この人は?」

「さあ? 半々ぐらいなんじゃねえか」

 見れば、あまりに大きな力に筋肉が耐えられなかったのか身体の至る所、関節や腱などに黒血が浮いていた。

「貴女はいったい何を見た? そこまでして俺を殺したいのか」

 ギルバートは彼女を支える手を離した。仰向けに失神している彼女をじっと睥睨した。

「コグ、お前のせいだ。そうに違いねえ。お前に会ってから、こんなことばかりだ」

「言いがかりはやめろ。この女、魔族だぞ。お前に何度も命を狙われた。そんな女を信じてどうする」

「そんなことは知らんっ!」

 世界のことをよく知らない。彼は、その人物の背景ではなく表面上の良識を信じる青年である。何度も殺されかけて、なお彼女を信じる心は死なない。

 なぜなら、あの慈母のような笑顔が忘れえないからである。ただその一点の静止画のみを信じる愚か者だった。

 リカロンの光景は酸鼻である。ギルバートは疲れ切って、モニカの前で銅像のように立ったままだった。

 その肩に手をかけて「何してるっ! 早く逃げるぞ」と声がした。ウィリアムだった。白面に血をつけて、息を切らし、亡霊のような顔つきだった。

「いったい、何事ですか」

「何事だって。君はいま、モニカ様を打ち負かした。なら、もはや、白百合は敵だ。ここから急いで逃げるしかない」

「いや。彼女は……」

 自分が倒したのではない、と言おうと思ったが、ギルバートはやめた。その意を汲んで「たとえ、君が倒したのでなかったとしても、世間はそう考えない。このままもたもたしていたら殺される。いいのか、ギルバート。救いたい人がいるのではなかったか」

 ギルバートはウィリアムに言われて、鬱々と頷いた。ウィリアムは鎧を脱ぎ捨ててギルバートを連れて走った。とりあえず、リカロンの門を出て緑林のなかに向かった。門をくぐり、跳ね橋のあたりで「その血は」ギルバートが聞いた。

「ジョンとディアナ。同窓の騎士団候補生の血だ。だが、殺してはいない」

「あまりに多くの人が死にました」

「君のせいではない。リカロンの住民ははじめから人間が嫌いだ。襲われたのなら、仕方ない」

 かかと笑ってコグが「そうさ」といった。

 ギルバートは目の前の歳上の男にもっと話したいことがあったが、逃亡の最中だったので我慢した。

「この裏切り者っ!」馬蹄の音とともに、林道を追いかけてくる声があった。

「まずい。ルクレツィアだ。ギルバート、その暴れ馬を抑えておいてくれ。話は俺がする」

「はい」

 ルクレツィアが藪を突っ切って、馬に乗って現れた。復讐に燃えた真っ赤な顔で、二人の姿を認めると、静かに馬を降りた。

「この<ヒューマン>の虫ケラめ」

「ルクレツィア、ここは退いてくれ。勝負はついた」

「……ジョンは死んだ」

 ルクレツィアは言った。ウィリアムの顔が曇る。揉み合いになって、足に懐刀を突き刺した。その感覚が彼の手に忌まわしく残っている。

「それは……やむを得ぬことだ」

「冷たいんだね。あんたの親友だったのに」

「幼年からの親友とはいえ。決して並び立たない溝があったのも事実だ。それに、俺の親は魔族に殺された」

「……やっぱり、あんたはヒューマンだ」

 ウィリアムは頷いて「そうだ。だが、君にも半分、その血が流れている」

「忌まわしい」ルクレツィはじりじりと剣を構えて近づいてくる。

「やめてくれ。ルクレツィア」ウィリアムは言った。最後の警告のような悠遠な声音を持って言った。

 すると、コグが樹木をなぎ倒して、大口を開けてルクレツィアを飲み込もうとした。

「ぐぬぬ。このやろう」

 ギルバートが五体を震わせて、その凶行を押さえつけた。コグの顎はルクレツィアを前にして大きく開いた。どでかい口蓋垂がぶるぶると震え、林冠を吹き飛ばすほどの咆哮が響いた。

 ルクレツィアは腰を抜かした。目を丸くして、いま自分が何者に戦いを挑んだか知った。コグは悔しがるように彼女の目の前で何度も空気を噛んだ。バキン、バキン、と物凄い音がした。もし、その顎に砕かれたらと想像して、ルクレツィアの眼は潤んだ。勇んできた戦乙女の姿はどこへやら、気付けば股の間に温い液が滴っていた。失禁していた。

「――カッカッカ」コグは嘲笑した。

「俺の言う通りにしろっ!」

 ギルバートが言うと、コグは縮んで佩剣に戻った。ルクレツィアは魂が抜けたみたいにうごかなかった。

 後味が悪いこと、この上ない。

「さあ、もう行こう」

 ウィリアムは彼女を無視して、ギルバートを連れて森の奥に消えた。静謐な疎林のなかで彼女はいつまでも茫然自失していた。


 





 


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