失恋花
長年付き合った彼氏と別れて、目が真っ赤になるほど泣いて、それから泥のように眠った次の日の朝。私の右目から、花が咲いた。
私は洗面台の鏡で確認してみると、眼球とまぶたの間から細長い数本の茎が生えていて、その先にいくつかの小ぶりな花がついている。花びらは純白の白で、真ん中の雄しべと雌しべは黄色。ちょっとだけ茎を引っ張っても、固い土に生えた草のようにびくともしない。もしかして何かの病気かもと思ってネットで調べてみると、これは失恋花という名前の軽い心身症で、私みたいな若い女性ではよくあることらしい。放っておけばそのうち枯れて無くなるということを知り、私はほっと胸を撫で下ろす。
それから私は、もう一度自分の右目に咲いた花を観察してみる。ネットの情報によると、症状として咲く咲く花は人によって全然違うらしい。花の名前なんて今まで興味はなかったけれど、花の特徴をもとに名前を調べてみる。苦労して調べて、ようやく私の右目から咲いているのはアネモネという名前の花であることを突き止める。アネモネは春に咲く花で、花言葉は『恋の苦しみ』。その花言葉を見た瞬間、失恋の記憶がフラッシュバックする。色んなものを失って、散々泣いて、その置き土産がこれですか。自嘲混じりに私は笑った。それでも、失恋でできた心の傷はまだまだ痛くて、気がつけば私の右目から、そっと一筋の涙がこぼれ落ちていった。
ひどい失恋しようが、右目から花が咲こうが、世界は私の事情なんてお構いなしに回っていく。私は右目に眼帯をはめ、何事もなかったみたいに出社して、それからいつも通り仕事をした。失恋のせいで右目から花が咲いているんですって言うのはなんだか悔しかったから、心配してくれる人にはものもらいなんですって言ってごまかした。それでも眼帯が不自然に盛り上がっていてから、バレバレだったのかもしれない。それでも同情は要らなかった。それは私の身勝手でもあり、ちっぽけな自分を守るための意地でもあったのかもしれない。
仕事が終わって、家に帰って、洗面台の鏡で右目に咲いた花をもう一度確認してみる。一日経っても花はまだ元気に咲いたままで、今朝の様子と全く変わってないように見える。失恋の痛みが全然変わんないのと一緒だなと思わず笑ってしまって、それからまた、昨日までの幸せだった日々を思い出してしまう。私は花びらの先を指先で触りながら、彼氏と行った植物園を思い出す。展示されてるものとかにはそれほど興味はなかった。でも、その時は付き合ってすぐの頃だったから、二人でお出かけするってだけでとても楽しくて、柄にもなくはしゃいじゃって……。私は唇を噛み締めてぐっと涙を堪える。それから深く息を吐き、目を閉じた。花が咲いている方の右目は花のせいで完全に閉じることはできなかったけど、それでも少しだけ心が落ち着くような気がした。
失恋から一日が経ち、一週間が経ち、一ヶ月が経った。私は相変わらず失恋を引きずっていて、右目から花が咲く生活にもだんだん慣れてきた。花は一向に枯れる気配がない。それでも時間とともに、花びらは萎れていくし、茎の張りは弱くなっていく。毎日毎日観察していると、右目に咲いた花にも愛着が湧いてきて、少しずつ元気じゃなくなっていく姿を見ていると、やっぱりどこか寂しくなる。
早く枯れることを望んでいたのに、気がつけば私は、右目の花が元気になる方法を調べていた。これだという解決策は見つからなかったけれど、水をたくさん飲んで、外に出て日光を浴びると良いなんてことが書かれていた。自分でもよくわからないままに、私はそこに書かれてある通りのことをやった。水をたくさん飲み、休みの日はできるだけ外出して、お日様の光を浴びるようにした。
失恋がきっかけで咲いた花のために、どうしてこんなことやってるのかは自分でもわからなかった。それでもなぜか、右目の花のことを考えている時だけは、失恋のことを忘れることができた。今まで全く興味がなかった園芸の番組を録画するようになり、右目の花以外に、室内で簡単に栽培できる植物を育て始めたりした。別れた彼氏のことを考える時間は少しずつ減っていって、水やりのタイミングとか、明日の天気のことを考える時間が少しずつ増えていく。ぽっかり空いた心の穴に、右目の花が収まっていく。時々昔のことを思い出して胸が苦しくなったけど、それでも涙を流すことはなくなっていた。
「右目に咲いている花ですが、こんなに長い間枯れずにいるのは見たことがありません。一般的なものであれば放置で全然大丈夫なんですが、このままにしておくと失明の危険性がありますよ」
定期的に検診している眼科で、かかりつけの医者にそう告げられる。右目の花のせいで右目が見えづらくなったのは確かだったけれど、失明の危険性があるだなんて思ってもいなかった。今すぐ摘出手術をしましょうと言われて、私はそのまま手術室へ連れて行かれる。
手術は1時間ほどで終わった。麻酔で感覚がなくなった頭部を動かして、摘出した花を見させてもらう。銀色のトレイの上に乗せられた、アネモネの花。先ほどまで自分の一部だったその花を見て、私は深い喪失感を覚えた。だけど、それは失恋の時のような鋭い痛みでは決してなくて、まるで遠く離れた故郷を思い出すような、そんな切なさが入り混じった感情だった。
手術後の待合室で、診察に立ち会っていた看護師さんから呼び止められる。看護師さんは右目から取れた花で押し花を作る方法を教えてくれて、それからその押し花を栞にしたらいいですよと言ってくれた。すごく大事にお世話をされていたので。どうしてそんなことを教えてくれるんですかと尋ねた私に、看護師さんは微笑みながら答えてくれた。ありがとうございますと私はお礼を言って、押し花を作るための道具を買って帰ろうと心の中で決める。
「そういえば、アネモネの花言葉って知ってますか?」
看護師さんの問いに、私は『失恋の痛み』ですよねと答える。すると看護師さんは、一般的な花言葉はそうなんですが、アネモネには花の色によってそれぞれ違う花言葉がついているんですよと教えてくれた。そうなんですねと私は微笑みながら相槌を打ち、そのまま病院を後にする。
押し花に必要な道具を100均で買って、帰宅後すぐに押し花を作り始める。ティッシュペーパーと新聞紙で花を包んで、それから重しとなる本でプレスする。押し花はすぐにはできないらしく、一週間から二週間ほど時間がかかるらしい。必要な作業を終え、私は一息つく。それから看護師さんとのやりとりをふと思い出し、アネモネの花言葉、その中でも私の右目から咲いていた白いアネモネの花言葉を調べてみる。
『希望、期待』
白いアネモネの花言葉はそんな前向きな言葉だった。失恋きっかけで咲いた花なのに変なの。私は部屋で一人、小さく笑った。それから押し花にしている最中のアネモネの花へと視線を向けて、強張った肩をほぐすようにぐっと背を伸ばす。
近所の書店に行って本を買いに行こう。押し花で作った栞を挟むための本を。私はそう思い立ち、ソファに放り投げたままのバッグを手に取った。ニットのカーディガンを羽織って、フリルがついたサンダルを履いて、私は玄関から外に出る。玄関の扉を開けた先に広がっていた空は、眩しいくらいに鮮やかな青色をしていた。