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世界のどこかで、どこでもない場所で。
真っ白な雲海の中、ひとりの老人が佇んでいた。
─はて。地獄に堕とされるとばかり思っておったが、随分と静寂なものよ─
さく さく と、老人の足音以外何もなし。
草木の香り、土の感触。よもやここは…手違いで天国に来てしまったかのう…と老人は笑う。
さて、これからどうしようか。
一先ず足を動かそう。そう決めて一歩踏み出す。
視界が悪く、前に進んでいるかも不明瞭。
どれほど歩んでも景色は変わらない。それでも老人には休む、という選択肢はなかった。
何時間経ったのか、まだ数分かもしれない。
尠からず進んだはずだが、疲労は一切ない。
─おや?─
ふわり…と一陣の風が吹く。同時に雲が晴れ…老人の予想通り、見渡す限り美しい花が咲き乱れていた。
─これはこれは…お嬢様にお見せしたかったのう─
屈んで足元の赤い花にそっと触れる。
それは老人が最も愛した女性と、全霊で守った少女の髪と同じ色。
「遅かったな。マイニオ」
老人以外、何者の気配はなかった。
だというのに今は、彼の前方に3人の男女が立っていた。
─貴方、は…─
もう何十年も聴いていない声。だというのに、すぐに結びついた。
「それでいいのよ。私達と違って貴方は、命を燃やし尽くしたのだから」
「そうよねえ。ってアンタ随分いい男になったじゃない!」
「いい男?ほっほ…このような老人に何を……?」
老人…いや、白髪の青年はゆっくりと口元に手を当てた。
己の口から出た声が、まるで若人のものだったからだ。
「いつの間に…はは、道理で膝に違和感を感じないわけだ」
それよりも、と青年は立ち上がり前を向く。
彼の視線の先に…
黒い髪で穏やかに微笑む男。
緋色の髪で手を振る女。
桃色の髪で頭の後ろで手を組む女。
いずれも20代後半といったところか。ひどく懐かしい姿に、目尻は下がり口角は上がる。
「ありがとう、マイニオ。貴方が私達の後を継いで、奮闘してくれたのよね」
「儂は…いいえ、僕は出来ることをしたまでです」
「何言ってんのよ。
アタシ達が切り開いて。
アンタが露払いをして。
コイツが歩んだ道を…今生きている子孫達が続いているのよ」
「その通りだ。本当に…よくやってくれた」
「───…」
青年は…マイニオ・カリエルバッハは口を噤む。
自分の半生は血に塗れたものだったけれど。
後悔などしたことはなく、誇れるものだと自負していた。
それを敬愛する方々に労われ、感極まって言葉を発せずにいるのだ。
漸く自分という存在が認められたようで…
「本来ならもっと再会を喜びたいところだが…もう時間だ」
「おや…残念です。もしや、再び地上へ?」
「そうよ!実はアタシ達、もう生まれ変わってんのよ!
ふふんっ、今度は思う存分平和な世界を満喫してやるわ!!」
「うっさいってのよ、貴女は。
マイニオを待ってから…ってつもりだったんだけど。
つい最近ね、血縁で同時期に生まれる赤ん坊がいるって神様が言うもんでね」
「……まさか…」
「そのまさか、かもな。
ここにいる私達は、お前に挨拶をするべく残った魂の欠片とでも言おうか」
段々と、3人の姿が光の粒になって消えていく。
役目を果たした分身が、本体に戻ろうとしているのだろうか。
「一応前世の記憶は消してあるけどね。地上でアンタらに会えるのを楽しみにしてるわよ」
桃色の髪の女が愉快そうに言って消えた。
「私もだ。だが頼むから、お前達はもう少しお淑やかにだな…」
黒髪の男が苦笑しながら消滅した。
「ね、マイニオ。貴方も来ない?」
緋色の髪の女…マイニオ・カリエルバッハが最も愛した女性、セレスティア・ラサーニュがそう言った。
問いに対し、マイニオは首を横に振る。
「僕は…ここであの方を待ちます。貴女方が待っていてくださったように」
「あら…妬けるわ。貴方の好い人なのかしら?」
「はは、それこそまさかでしょう。
とはいえこの姿でしたら、遠慮なく攫っていたでしょうが」
「貴方ってそういうとこあるわよね…」
セレスティアは一歩踏み出し、マイニオの頬に手を当てた。
2人は口付けを交わし…セレスティアは微笑みながら消滅した。
再び1人になったマイニオは、その場に腰掛け空を仰ぐ。
「ふう…こんなにも穏やかなのは何時振りだろうか」
暗殺者を引退しても、医師を引退しても…
2人の元気いっぱいな孫娘。その伴侶達、子供達…皆騒がしく、とても休まるものではなかった。
それが心地よかったのだけれど。と1人声を上げて笑った。
「しかし…セレスティア様を愛した僕は幼すぎて。
シャルティエラ様に対しては年老いすぎて…うまくいかないものだったな」
花の上に背を預けて目を瞑る。
あと20年早く生まれていれば…
あと50年遅く生まれていれば…
そうして彼は、再び眠る。
次に目覚めるのは…その時は──…




