Cafe Shelly 先取りする未来
予祝。
その字の通り、予めお祝いをすること。何に対してのお祝いなのか。それは自分の未来に対してである。
この予祝をすることで、思ったような未来を得ることができると言われている。このことをある講演会で聞いてから、私も予祝を始めた。
「よし、まずは素敵な彼女だ」
それを願って、手帳にこう書き記す。
『私には素敵な彼女ができました』
こんな感じでいいのかな?とりあえず、自分が欲しい未来を手帳に書きまくる事にした。どうせならもっと欲しいものをいっぱい書いちゃえ。
「えっと、三十歳までには結婚しました。それと、いい車に乗っています。あとは毎日贅沢な食事をしていますっと」
他にも書き始めたらたくさん欲しいものが出てきた。私ってこんなに欲張りだったっけな。
生まれてから二十九年間、今手帳に書いたものとは逆の生活を送っていた。彼女ができたことはない。車は欲しいけれど、安月給じゃ無理だし。食事だって質素なものだ。
勤めているのは社員十名足らずの小さな町工場。親戚のツテでここに勤めることができているが、仕事が楽しいわけではない。毎日しんどい思いをしている。さらに、先輩がみんなおっちゃんばかりで、若い知り合いが一人もいない。
「さぁて、これで私にも素敵な未来が訪れるぞ」
この時はとてもワクワクした気持ちになれた。が、待っているのは現実。予祝のセミナーに出た翌日は、工場でいつもの生活が待っていた。
「おーい、霧島くん、これやっといてくれないかな」
ちっ、まただ。先輩社員の大坪さん。この人はお調子もので、私が勤めている工場の中ではムードメーカーである。決して威張っているわけではないが、大坪さんの言うことにはなぜか逆らえない。
「はーい、わかりました」
今回大坪さんが私に依頼してきた仕事は、ごく簡単なもの。自分でもやれるはずなのに。大坪さん、そんなに忙しいのかというとそうではない。私に仕事を依頼したあとは、のんびりとタバコを吸ったり、自分の席でパソコンをいじったり。現場作業と管理職を掛け持ちしているのはわかるが、どう見てもサボっているようにしか思えない。
けれど、それに対して文句は言えない。仮にも上司だし、大坪さんに逆らうことで工場内の雰囲気を壊したくないからだ。
あぁ、いつまでこの工場で働くんだろう。このまま一生、ここで過ごすのかな? でも、こんなところにずっと勤めていても貯金はできないし、ましてや結婚生活なんて考えられない。
家に帰って『予祝ノート』と銘打ったノートを開く。そこにはすでに二十を超える自分の叶えたい未来が書かれてある。それを一つ一つ見てはため息が出る。
「はぁ、本当にこれって叶うんだろうか。セミナーの先生は一年間で九割も叶えたっていうけど。それってあの先生だから叶えられたんじゃないかな」
自分の願望を読んでいけばいくほど、不安の方が大きくなっていく。本当にそうなれるのか、そんなうまい話はないんじゃないか。ひょっとしたら騙されたんじゃないだろうか。気がつけば、いつの間にか寝入ってしまっていた。
翌日、珍しく寝坊をしてしまった。慌てて自転車で会社に向かう。その時にある交差点にさしかかった時
「あ、危ないっ!」
えっ!?その叫び声で慌ててブレーキをかける。
ガシャーン!
見ると、私が通ろうと思った交差点の左手からやってきた自転車が、私を避けるためにこけてしまった。
「だ、大丈夫ですか!?」
「えぇ、まぁなんとか。そ、そちらは?」
私は大丈夫だった。でも、どうしてぶつかりそうになったんだ?
あらためて私の前方の信号を見ると赤。私が信号無視をして交差点に突っ込もうとしていたのだ。小さな交差点だったから、幸い車はいなかった。
「よかった。ボクの方がスピードを出していたから、ぶつかったら大きな事故になるところでしたね」
背の高い男性。自転車は競技用というのだろうか、服装も本格的なものである。確かこういった自転車って、すごく高いと聞いたことがある。どこか壊れていたら、弁償しないといけないんだろうか?
「お、お怪我はありませんか?」
「はい、ちょっとすり傷ができちゃいましたけど。幸い自転車も無事ですし」
よかった。これで弁償しなきゃいけないとなると、とんでもないことになってたな。
「そちらは、急いでいたんじゃないですか?」
「あ、えぇ、今朝寝坊してしまって、会社に向かっていたところでした」
「それはいけない、急いで行ってください。あ、もし何かあったらこちらまで連絡をしてください」
男性は私に名刺を差し出した。羽賀純一、と書かれてある。その名刺を胸のポケットに押し込み、恐縮しながらも頭を下げて急いで会社に向かう。でも、本当にこのままでいいんだろうか?悪いのはこちらの方なのに。
会社にはギリギリ遅刻せずに間に合った。が、朝の出来事が頭に残り、心ここに在らずといった状態。
「おい、霧島、ボサッとすんなよ!」
何度か大坪さんに叱られた。
「ふぅ、どうしてこんな風になっちゃうかなぁ。こんな未来が欲しいわけじゃないのに」
昼休み時間、私は一人でパンをかじりながらため息をつく。今朝のことだって、思わぬ事故になるところだったし。予祝で自分の輝ける未来をたくさん作ったのに、何も変わらないどころか悪いことばかり起きているじゃないか。
「あ、そうだ、あの人にお詫びをしなきゃ」
そう思って、今朝ぶつかりそうになった自転車の人のことを思い出した。確か羽賀さんとか言ったな。名刺をもらっていたんだった。ポケットから名刺を取り出し、あらためて眺めてみる。
「コーチング?なんだ、それ?」
よくわからない肩書きだな。おっと、電話番号がある。ここに電話をしてみるとするか。ということで、スマホを取り出して電話をかけてみる。
「はい、羽賀です」
「あ、私、今朝自転車でぶつかりそうになった霧島と言います」
「あ、あなたでしたか。あれから大丈夫でしたか?会社、間に合いましたか?」
声の主である羽賀さん、今朝のことを責めるどころか、私の心配をしてくれている。なんて優しい人なんだ。
「はい、なんとか間に合いました。今朝は本当に申し訳ありません。私の方が赤信号だったのに」
「寝坊してしまったということでしたね。何か寝不足の原因でもあったのですか?」
「はぁ、まぁちょっと悩みというか不安というか」
質問されて、つい口の方が先に答えてしまった。こんなこと、他人に話すことではないのに。
「不安があるんですね。差し支えなければ、どんな不安をお持ちだったのですか?」
ここでふと、頭の中にある蓋のようなものがポンと外れてしまった。なぜだかこの人になら話せる。そう感じたのだ。
「実は、自分の将来に対して、本当にこのままでいいんだろうかということを考え始めたら、眠れなくなってしまって」
「それはいけませんね。何かそう考えるきっかけでもあったのですか?」
「はい。予祝ってご存知ですか?」
そう言ってしまって、しまったと思った。予祝なんて知っている人の方が少ないはず。少なくとも、この工場で予祝のことを知っているのは私くらいだし。
ところが、羽賀さんの返事は思わぬものであった。
「予祝をしているんですか?いやぁ、なんだか嬉しいな。ボクも予祝をやっているんですよ。さらに、予祝を強化するための考え方を伝えるセミナーもやっています」
この言葉には驚いた。まさか、ここで予祝をやっている人と出会うとは。
「そうですか、予祝をやりながらも将来に不安がある、ということなのですね」
「はい、むしろ予祝をやり始めてからの方が、不安が募っている気がします。これってどうしてでしょうか?」
「うぅん、電話でお話しするよりも、直接お会いしてお話ができるといいのですが。お仕事は土日はお休みですか?」
「えぇ、そうです」
「では、今度の土曜日にお会いしませんか?場所はこの携帯電話の番号にショートメールをお送りしますので」
「はぁ、いいですけど」
なんだか気がついたら、土曜日に羽賀さんと再度会うことになってしまった。電話を切ってから、ひょっとしたらこれって新しい詐欺かなんかじゃないかって、そう思ってしまった。
でも、詐欺師がこんなきちんとした名刺なんか私に渡すだろうか?いや、会ってから高額なセミナーや怪しいグッズなんかを売りつけてくるかもしれない。当日は現金は極力持って行かないようにしよう。
そう思っていると、携帯にメールが着信した。開くと羽賀さんだ。えっと、場所は「カフェ・シェリー」。喫茶店のようだな。住所も書いてある。
その住所で場所を検索すると、街中の通りにあるお店のようだ。そうか、羽賀さんという人物を検索してみよう。
早速スマホで「羽賀純一」「コーチング」のキーワードで検索をかけてみる。すると、そこにはズラリと関連する記事やサイトが並んでいる。一番上は羽賀さんのところのホームページ。それ以降は、羽賀さんが関わったプロジェクトや、羽賀さんのコーチングを受けた人のブログなどである。
検索サイトの結果を見るだけで、羽賀さんという人物がどれだけの功績をあげているのかがうかがえる。パッと見るだけでも、悪いように書いているものは見当たらない。あの人、実はすごい人だったんだ。
土曜日に羽賀さんに会うのが楽しみになってきた。今まで抱えていた不安が、なんだか一気に吹き飛んでしまった。そんな感じを受けた。
「あれ、霧島、何かいいことでもあったんか?」
午後の仕事では私の態度が一変したらしい。あれだけ叱られていた大坪さんから、そんな言葉までもらえるようになっていたとは。自分でもびっくりだ。
こんな感じで今週の仕事をやり抜き、いよいよ羽賀さんと会う土曜日がやってきた。あれから羽賀さんのことはサイトで色々と調べてみたが、私が思った以上の人物であることがわかった。あの人に仕事を依頼すると、きっとそれなりの金額を取られるんだろうな。
「えっと、確かここだな」
羽賀さんにいただいた住所を頼りに、スマホの地図を見ながらカフェ・シェリーを見つける。このビルの二階にあるのか。
階段を上り、扉を開く。
カラン・コロン・カラン
軽快なカウベルの音。同時に漂ってくるコーヒーの香り。それだけではない。その中に甘い香りもする。なんだか食欲をそそるな。
「いらっしゃいませ」
聞こえてくるのは若い女性の声。見ると、髪の長い綺麗な人が私を出迎えてくれた。
「あ、こちらです。どうぞ」
すぐに羽賀さんの声。お店の真ん中にある丸テーブル席で私を手招きしてくれている。その手招きに誘われて、早速羽賀さんの隣に腰を下ろす。
「先日は本当にすいませんでした」
「いえいえ、もうあのことは大丈夫ですから。それよりも、予祝の話をしましょう。でもその前にこのお店のオリジナルブレンドを
味わってみてください。マイちゃん、シェリー・ブレンドを二つお願い」
「かしこまりました」
コーヒーを注文する羽賀さん。どうやら羽賀さんはこのお店の常連さんのようだ。
「ここのオリジナルのコーヒー、シェリー・ブレンドには魔法がかかっているんですよ」
「魔法、ですか?」
「そう、魔法です。楽しみにしてください」
魔法って、やっぱり何だか怪しいな。インターネットでは羽賀さんの噂って、とても良い印象だったんだけど。ひょっとしたら騙されているんじゃないだろうか。急に不安が襲ってくる。
「ところでお名前をまだうかがっていなかったですよね」
「あ、私、霧島といいます。霧島忠彦です。仕事は小さな工場で働いています」
「霧島さん、ですね。あらためて、羽賀純一です。仕事はコーチングというのをやっていますが、コーチングはご存知ですか?」
「羽賀さんのことはインターネットで拝見しました。いろいろなところで指導をされているんですね」
「皆さんのおかげで、こうやって仕事をさせてもらっています。私の仕事は、皆さんが未来に向かって行動するためのサポートをすることなんです。そこで使うのがコーチングという技術なんです。その一つとして、予祝を活用させてもらっているんです」
「そうそう、どうして予祝をやっているのに不安が襲ってくるのか、それが知りたかったんです」
「ではそれを説明する前に、人がどうして不安を抱くのか。ここを考えてみましょう。霧島さんって、どういったときに不安を感じますか?」
「どういったときに…そうですねぇ、不安かぁ…」
不安って、いつ感じるんだろう。そんなこと考えたことがなかった。しばらく悩んでいたが、なかなか答えが出てこない。すると羽賀さん、再度こんな質問をしてきた。
「予祝以外で最近不安を感じた時ってありましたか?」
「あ、そういえば。ちょっと失礼な話かもしれませんが、羽賀さんがどんな人物かわからなかったのに、電話で会いましょうって言われたとき。あの時は少し不安を感じました」
「ははは、そりゃそうですよね。大変失礼しました。でも、それってどうして不安を感じたのでしょうね?」
「うぅん、やっぱり羽賀さんという人物がどんな人なのか、知らなかったからじゃないですか?」
「ということは、知らないから不安になった。そういうことですよね」
「はい、やはり知らないと不安が襲ってきます。あ、そうか、そういうことか」
この時点で気づいた。人は知らないことに対しては、不安を抱くものなんだ。
「お気づきになりましたね。つまりそういうことです。知らないと不安になる。知ってしまえば不安は払拭される」
「確かに、インターネットで羽賀さんのことを調べて、羽賀さんのことを知ることで不安はなくなりました」
「では予祝で不安を感じるのはどうして?」
予祝で不安を感じるのはどうしてか。先ほどの例を元に改めて考えてみると、その原因がわかった。
「せっかく予祝をしても、本当にそうなるのかが見えない。未来がわからない。だから不安になる。そういうことですね」
「その通りです。当然ながら未来は見えません。例えていうならば、真っ暗な洞窟の中に足を踏み入れた状態です」
「確かに、そんな探検はしたくありませんね。怖くて洞窟に足を踏み入れることはできません」
なるほど、そういうことか。でも、そうなると自分が願望を抱けば抱くほど、不安が襲ってくるってことになるんじゃないかな。なんだかおかしいじゃないか。予祝の講演をしてくれた先生は、不安どころかワクワクしてくるって言ってたぞ。
「お待たせしました。シェリー・ブレンドです」
このタイミングでコーヒーが運ばれてきた。
「マイちゃん、ありがとう。この先はこの魔法のコーヒー、シェリー・ブレンドを飲んでからにしましょう」
「はい」
「よかったら、飲んだ後にどのような味がしたのかを教えてくださいね」
飲んだ後の味の感想を聞くなんて、珍しい喫茶店だな。お客様アンケートでもやっているのかな?
そう思いつつ、早速魔法のコーヒーに口をつける。
「にがっ!」
魔法のコーヒーって、こんなに苦いものなのか?けれど、その苦さの後に、不思議と漂ってくる旨さ。コクがあって、その中に甘みも感じられる。一瞬にして極上の味に変わっていく。なんだ、これは。
「このコーヒー、不思議な味がしますね。最初口に入れた時はすごく苦く感じたのですけど、後から旨さが湧き出てくる。味が変化するコーヒーなんて初めてですよ」
「なるほど、最初は苦くて、その後に旨さが湧き出てくる、か。マイちゃん、これをどう読む?」
「そうですね。一瞬の困難を乗り越えれば、その後には理想とする未来が待っている。こんなところかな」
店員さんが言った言葉、まさに今の自分を象徴するような言葉だ。私は今まで、困難を乗り越えればその先には理想とする未来が待っていると思っていた。だから、今の困難をなんとかして乗り越えたい。その先にあるのが、予祝手帳に書いた理想とする未来像なのだから。
「ボクも同じようなことを感じたかな。霧島さん、ひょっとしたら今、とても困難な状況だと感じているのではないですか?」
「えぇ、その通りです。仕事も楽にならないし、生活だって厳しい状況です。このままじゃ私の未来なんてとても…」
「でも、この困難を乗り越えて理想とする明るい未来を作りたい。それが霧島さんの願望ではないでしょうか?」
「まさに、その通りです。でもどうしてそれがわかったのですか?」
「これがシェリー・ブレンドの魔法なんですよ」
「シェリー・ブレンドの魔法?」
どういうことだろう?一体何が魔法なのだろうか?すると、店員のマイさんが説明を始めてくれた。
「実はこのシェリー・ブレンドは、飲んだ人が今欲しいと思っている味がするんです。霧島さんの場合、最初は苦かったけれど、そのあとに旨さを感じた、ということでしたよね」
「はい、そうです」
「それを聞いて、最初の苦味が困難、そのあとの旨味が理想の未来だって感じたんです」
なるほど、そういうことか。それにしても飲んだ人が今欲しいと思っている味がするとは。確かに魔法のコーヒーだな。
「問題は予祝をしているのに、どうして未来に対して不安を感じるのか、ですよね。ここを解決しないと、逆に不安が現実になってしまいます」
「そうだ、さっきの続き、どうして私は予祝をしているのに、いや、予祝をしたからこそ未来に対して不安になっているのか。これを解決させてください。一体どうしてなのですか?」
「不安になる時って、どんな時でしたか覚えていますか?」
「えっと、未来が見えないから不安になる、でしたよね」
「では、予祝をした後にそうなる未来をイメージしていましたか?」
「そうなる未来?」
「よかったら予祝で掲げた未来の一つを教えていただけますか?」
「えっと、そうですね。いい車に乗っているとか」
「いい車、ですね。そのいい車って、どんな車ですか?」
「どんな車と言われても。いい車としか考えていませんでしたから」
「その車に乗って、どこにドライブに行っていますか?」
「どこにって、そんなの考えてもみなかった」
「さらに、隣には誰かいますか?」
「うぅん…」
羽賀さんにそんな質問をされて、いい車に乗っている自分というのをまったく考えていないことに気づかされた。
「そうなる未来をイメージできていなければ、残念ながらそれは手に入りません。予祝で一番大事なポイント、それはそうなる未来をありありとイメージすることなのです。いい車も具体的にどんな車なのか、そしてその車でどこにドライブに行っているのか、隣には誰がいて、どんな会話をしているのか。車の中の香り、聞こえてくる音。こういったもの全てをイメージするんです」
イメージなんて全然意識していなかった。私はあらためて予祝手帳を取り出し、自分が書いたものを一通り眺めてみた。この中に書いてあること、何一つしっかりとしたイメージができていない。
「人はイメージできない行動は起こすことができません。逆を言えば、イメージさえできていれば、その通りの行動を起こすことができるのです」
イメージか。でもここで一つ疑問が湧いてきた。
「確かに予祝で書いたことはイメージできていませんでした。でも私は中学生くらいの時に、アイドルと結婚したいなんていう願望があって。それを頭の中で何度もイメージしたことはありますよ」
「確かに、ボクも似たような経験はありますよ。ボクも中学生の頃はいろいろな妄想をして楽しんだものです。でも残念ながら、その妄想は何一つ現実にはなりませんでした」
「じゃぁ、イメージしても現実にはならないってことじゃないんですか?」
「とてもいいところに気づきましたね。実は妄想とイメージは全く違うものなのです」
「えっ、イメージって頭の中で思い浮かべるってことじゃないんですか?」
「はい。妄想は映像のみの世界。しかしイメージは五感と感情をフルに活用するものなんですよ」
「五感をフルに?」
「見える世界だけじゃないんです。その時にどんな音が聞こえてくるのか。どんな触感があるのか。どんな香りがして、どんな味がしているのか。そして最も大切なこと、それは、その時にどんな気持ちになっているのか。これらを全て含んでいるもの、それがイメージなのです」
そう言われて、私は自分の予祝手帳を改めて眺めてみた。どれ一つ取っても、そんなことをリアルにイメージしたものはない。それに、いざイメージしろと言われても、いい車なんてどうイメージすればいいのかわからない。
「羽賀さん、リアルにイメージするにはどうすればいいんですか?」
「簡単なことです。体験すればいいんですよ」
「体験?」
「そう、体験。例えばさっきのいい車の話。自分が乗りたいと思っている車のショールームに行って、その車に乗せてもらったりするんです。そうすれば、車の形だけでなくエンジン音、ハンドルを握った感触、その時の車の香りなんていうのが体験できます」
「味は?」
「さすがに車を舐めるわけにはいきませんからね。例えば車に乗りながらどんなものを食べているのか。それを考えて食べてみればいいんですよ。そして最も大切なことがあります」
「最も大切なことって、どんなことなんですか?」
それを早く知りたくて、ウズウズしている自分がいる。一体なんだろう?
「今まで説明した中で、五感についてはお話ししましたよね。もう一つ残っているものがあるの、お気付きですか?」
「もう一つ?えっと、確か五感と感情をフルに使うって、そう言いましたよね。ということは感情ですか?」
「その通り!実は予祝のスイッチを最後にオンにするもの、それが感情なのです。いくらイメージを湧かせても、それが自分にとって喜びになるものでなければ意味がありませんよね」
「確かにそうですね。今の私のように、不安とかじゃ、せっかくのイメージも台無しになってしまう」
「そうなんです。大事なのは喜びや楽しみといった、心地よさを感じる感情です。いい車に乗っているときに、どんな感情になっているのか。ここまでしっかりとイメージできなければ、予祝になりません。そもそも予祝って『予め祝う』ですよね。何かを祝う時って、どんな感情になっていますか?」
「そりゃ、嬉しいとか楽しいとか、そんな感じですよね」
「そうなんです。だから自分自身を祝って、楽しんでください。それが予祝のスイッチをオンにしてくれますよ」
楽しむことが予祝のスイッチをオンにしてくれる。そんなこと、考えてもみなかった。けれど思い出した。予祝のセミナーで話をしてくれた講師の表情はとても楽しそうであった。
思ったことが現実になるから楽しいのではない。楽しいから思ったことが現実になる。そういうことか。
「わかりました。しっかりとイメージを作って、そして楽しむこと。これが予祝なんですね」
「その通りです。もう一つ、予祝をさらに自分のものにするいいやり方を教えますね」
どんなことだろう。ちょっとワクワクしてきた。
「それが未来トークというものです」
「未来トーク?」
「はい。今から霧島さんは未来に旅立ちます。そこでは予祝手帳に書かれている全てのことが現実になってしまっている。そんな未来です」
ここで私は予祝手帳に再び目を落とした。これらが全て現実になっている。どんな未来になっているんだろう。
「もうすでに、そうなった未来ですから、その手帳に書かれてあることは全て『過去の出来事』になっています。いい車は半年ほど前に手に入れた。彼女もできて、そのあと幸せな結婚生活も送っている。仕事もいい仕事についている。そんな未来を全て手に入れている霧島さんがいます」
欲しいものを全て手に入れている私がいる。ワクワクはするが、それがイメージできない。
「じゃぁ早速やってみましょう。場面設定はこうです。何年後かわかりませんが、久しぶりにここ、カフェシェリーでボクと霧島さんが再開した。そしてボクが霧島さんの現状を尋ねる。こういう設定です。ではいきますよ。もうすでに全てを手に入れた霧島さんですからね」
全てを手に入れた私。ちょっとだけ目をつぶって、気持ちを整える。すると、羽賀さんが私にこんな言葉をかけてきた。
「霧島さん、久しぶりですね。今何をやっているのですか?」
今何をやっている。そう言われたら今やっている仕事を答えるべきだろう。すると考えるよりも先に口の方が言葉を発してくれた。
「羽賀さん、お久しぶりです。あれから会社を辞めて、事業を興したんですよ」
「へぇ、どのような事業を始めたのですか?」
どのような。これも考えるより先に口が動いた。
「実は、高齢化社会を睨んで、さらに地域の人たちが幸せになるような、そんな介護の施設を始めたんです」
「へぇ、それはいいですね。どんなきっかけでそれを始めたのですか?」
きっかけ。そう言われて、また一つこんなことが頭に閃いた。
「実は、以前羽賀さんとお会いした後すぐに、この喫茶店で一人の女性と出会ったんです。その女性は老人介護施設で介護師をしていたのですが、今のやり方ではダメだと思い、思い切って独立して介護施設を作ろうとしたんです。私はそれを手伝う形で、一緒になって事業を興しました」
口から出まかせもいいところだ。けれど、話しながらなぜかこの喫茶店でまだ見ぬ女性と出会い、意気投合している姿が頭の中に浮かんできた。この時に飲んだシェリー・ブレンドの味までもがイメージできた。
「で、その女性ってひょっとしたら…」
「はい、今の妻です。おかげさまで子どももできて、幸せな生活を送っています」
そう言った瞬間、家のリビングでまだ小さい我が子と遊んでいる姿が浮かんできた。この時の子どもの笑い声までもが聞こえてくるようであった。さらに、この時に住んでいる家のリビング。白を基調とした明るい感じで、広々としている。その光景がくっきりと頭の中に描けてきたのだ。
「なるほど、とても楽しそうな生活を送っていますね。失礼ですが、年収はどのくらいになりましたか?」
年収と聞かれて、ちょっと考えてしまった。だが、これも口から先に答えが飛び出してきた。
「今は夫婦二人合わせて一千万円くらいです。おかげで豊かな暮らしができていますよ。でも、これ以上収入を増やそうとは思いません」
「へぇ、どうしてなんですか?」
「はい、私たちだけが豊かになるのではなく、もっと周りの人たちにも豊かになってもらいたい。だから儲けた分は従業員や施設を利用している方達にも分配したいんです」
「なるほど、それはいい考えですね」
そう言われて、なんだか心がホッとした。こうやってしばらく未来トークを続けたおかげで、自分がこれからどんな生活をしたいのかが徐々に明確になってきた。
「さて、霧島さん。未来トークをやってみてどんな感じがしましたか?」
「とても楽しかったです。今まで不明確だった自分の未来が見えてきた気がします。なるほど、これが未来をイメージするってことなのですね」
「そうなんです。じゃぁ最後に、もう少しシェリー・ブレンドが残っているようなので、これから欲しいと思っているものをさらに明確にしてみませんか?」
なるほど、それは名案だ。カップに半分ほど残っている、冷めてしまったシェリー・ブレンドを口にしてみる。果たしてどんな味がするのだろうか。そして今何を欲しがっているのだろうか。
「おめでとう」
シェリー・ブレンドを口にした瞬間、そんな言葉が耳に入ってきた。
「えっ!?」
慌ててキョロキョロする。
「どうしたんですか?」
「羽賀さん、今私に『おめでとう』って言いました?」
「いえ、誰もそんな言葉は言っていませんよ。あ、もしかしたらそれ、シェリー・ブレンドが教えてくれたものじゃないですか?マイちゃん、ちょっと」
羽賀さんは慌てて店員さんを呼ぶ。
「マイちゃん、今までシェリー・ブレンドを飲んで何か聞こえたって人、いた?」
「それは珍しいですね。何かが見えたっていう人は結構いるんですけど。聞こえたっていう人は私の記憶ではいませんよ。ちょっとマスターにも聴いてみますね」
店員さん、カウンターにいるマスターにこのことを尋ねに行った。すると、カウンターからマスターが直々に私のところへやってきた。
「いやぁ、シェリー・ブレンドを飲んで何かが聞こえたというのは本当に珍しいですね。今までお一人だけそういう方がいらっしゃいましたよ」
「その人は何が聞こえたのですか?」
羽賀さんの問いに、マスターがこう答えた。
「その方は『よかった』って聞こえたんです。悩みを持っていて、その解決の糸口が見えたようでした」
私のケースって珍しいんだ。あきらかに「おめでとう」という声が聞こえた。これは何を意味しているのだろう?
「霧島さんの場合、『おめでとう』と聞こえたのですよね。ということは、そうなることを望んでいる。これは間違い無いでしょう。まさに予祝じゃないですか」
羽賀さんにそう言われて、確かにその通りだと感じた。予祝とは「予め祝う」こと。つまり私が今望んでいることは「おめでとう」と言われることである。そして、私が望んだ通りの人生が送れているということにもなる。
「自信をもって生きてみてください。そして未来をしっかりとイメージしていきましょう。そうすれば必ず、その未来は訪れてきますよ」
羽賀さんにそう言われて、なんだか自信がついてきた。そして笑顔になれてきた。
「はい、わかりました。今日は本当にありがとうございます。なんだか今までの自分とは違う何かになれた。そんな感じがします」
心の奥から湧いてくるもの。それが未来に対しての希望であり新しい自分であることを実感することができた。
このあと、羽賀さんやカフェ・シェリーのマスター、店員さんにお礼を言って久しぶりに街に繰り出してみた。足取りも軽く、気持ちも弾んできた。
「あれっ、霧島くん?」
ふと声をかけられて、その方向を向く。すると、一人の女性が私の方を向いているではないか。けれど、私にはその人が誰だかわからない。でも、間違いなく私の名前を呼んでくれた。
「はい、霧島ですけど」
「私よ、私。覚えてない?中学校の時の同級生の」
中学の時の同級生?そう言われて記憶をたどる。が、出てこない。
「あはは、誰だかわからないみたいね。私、そんなに変わっちゃったかなぁ」
明るく話す女性。見た目は正直、それほど綺麗でも可愛くもない。どちらかというと、しっかりしたおねえさんといったタイプ。ん、しっかりとしたおねえさん?ふと記憶が蘇ってきた。
「委員長?」
「そうそう、学級委員長してた佐伯京子。やっと思い出した?」
佐伯京子。名前を言われて一気に記憶が湧き上がってきた。どうして思い出したのかというと、実は中学時代、私は学級副委員長をやっていたからだ。それで生徒会には二人で出席をしていた。
でも、そのころは別の女子が好きだったし、委員長はもっと太っていて、どっしりタイプだったから。顔つきもスタイルも、すっかり垢抜けてしまっている。これはわかるはずがない。
「霧島くん、変わらないねー」
確かに、私は中学の頃から見た目の変化があまりない。それだけ変化の少ない人生を送ってきたということなのだろう。
「委員長は今何やってるの?」
「委員長って呼び方も懐かしいなぁ。私は東京で看護師をやっていたんだけど。なんか疲れちゃってね。それでつい先日こっちに戻ってきたんだ。やりたいこともあってね」
「やりたいこと?」
「うぅん、立ち話もなんだから、どこかお店に入らない?」
ここで一瞬カフェ・シェリーが頭に浮かんだ。けれど、ついさっきそこから出てきたばかりだし。なんだか気恥しい気もする。なので、すぐ目の前にあったファーストフードのお店に入ることにした。
「霧島くんこそ、今何やってるの?」
「私は地元の小さな工場で働いてる」
「そうなんだ。ひょっとして、まだ独身?」
「まぁね。委員長は?」
「私も今のところ独身。でもね、だからこそやりたいことができるかなって思ってるの」
「そうそう、そのやりたいことって何なの?」
「私ね、東京の介護施設で看護師をしていたの。でも、そこのやり方ってお金儲けにしか見えなくて。本当の介護になっていないんじゃないかって思ったの。だから、こっちで自分流の介護の施設を作ろうと思ってるの」
あれっ、その話、どこかで聞いたことがある。いや、聞いたんじゃない。自分で作ったんだ。しかもついさっき。未来トークで私が口から出まかせで話したことが、ほぼ現実となって訪れているじゃないか。
「あのさ、委員長、いきなりだけど一つ思ったことがあるんだ。いいかな?」
「なに?」
「その介護施設の設立、私にも手伝わせてくれない?」
「手伝うって、どういうこと?」
「私も一緒にその施設をやっていきたいんだ」
「えぇっ!」
私の言葉に、委員長も流石に驚いたようだ。
「だって霧島くん、今まで介護の世界に入ったことがあるわけじゃないんでしょ。それに、自分の仕事だってあるし」
「そうなんだけど。でも、なぜか今の話を聞いて手伝いたいって、そう思ったんだ。それに、委員長のことを手伝いたいって、自然にそう思っちゃったんだから」
「あのさ、一つ聞くけど。それって私だから?それとも私じゃなくてもそう思ったのかな?」
この質問、何も考える余地もなく口の方からこんな答えが先に出た。
「もちろん、委員長だから」
ここでなぜか委員長、顔を赤らめた。私はそう言ってから、今の答えの中にある深い意味に気づいてしまった。委員長のこと、そう思っていたのか。
「あのさ、霧島くん。私のこと、どう思ってる?」
「どう思ってるって…すごく頑張ってる人だなって、そう思ってる」
「それだけ?」
「それだけって…えっと、その…」
言葉に詰まってしまった。なにしろ、こんなの初めてだから。
「正直に言うね。私、中学生のころ霧島くんのこと好きだったんだ。いつも私のことを支えてくれて、とても嬉しかった。でも、告白しちゃうとあの時の関係が壊れそうだったから。だから言えなかった。そうしたら卒業して、高校は別々になっちゃったでしょ。まぁ、そのあとにそれなりの恋愛経験もしたけれど、仕事を始めてからはそれどころじゃなかったから」
私に一気に春がやってきた。まさか、委員長が私のことをそう思っていただなんて。
そこからは話が早かった。じゃぁ、一緒に施設をやるにはどうすればいいのか、お互いにできることは何なのか。そして、そのためには今後どうすればいいのか。そんな話で盛り上がった。
その結果、一つの結論が導き出せた。
「再会していきなりこんなこと言うのも変かもしれないけれど。この理想の施設を作ることができたら、一緒になりませんか?」
自然な流れでそんな言葉を出すことができた。自分でも信じられない。
「それって、ひょっとしたらプロポーズ?」
私は素直に、首を縦に振った。すると委員長、突然泣き出してしまった。
「あはっ、ごめん。だって、昔好きだった人からこんな形でプロポーズされるなんて思わなかったから。でも、これって条件付きのプロポーズだよね。私が理想とする施設を実現させなければ、一緒になれないってことでしょ?」
「そうなるね。だから、一緒になって頑張っていきたいんだ。ただ応援するだけじゃなく、共に道を切り開いていきたい。そう思ったんだ」
「わかった。じゃぁ私の返事はそれまで保留だね。もちろん、そうなるために私も頑張る!」
今度は委員長、笑顔になって力強くそう答えてくれた。
それにしても本当の予祝のパワーは恐ろしいものがある。その日を境に、私の生活は一変した。さすがにすぐに会社を辞めるわけにはいかなかったが、介護に対しての勉強を始めて、私の役割というものを明確にし始めた。もちろん、予祝を使うことも忘れていない。
予祝については、委員長にも教えて一緒になって未来を考え始めた。理想の施設についても、事細かく考え、それを二人の予祝手帳に書き記す。さらに、そこに「いつまでに」という期限も追加する。
こうやって委員長、いや、今は京子、忠彦さんと呼び合う仲になっている。二人で一緒になって予祝を行うことで、未来を先取りするパワーが倍増している気がする。あの時羽賀さんから教わった未来トーク、これを二人でやっているからだ。
「そうだ、私がお世話になった羽賀さんとカフェ・シェリーを紹介しなきゃ」
大事なことを忘れるところだった。あれからわずか二ヶ月で、私の生活は大きく変わった。そのお礼をまだしていない。
「京子、私が君と出会うきっかけを作ってくれた、大事な人を紹介するね」
私は京子と出会った時の直前にあったことを話して、ぜひ羽賀さんに会わせたいと伝えた。すると京子から意外な答えが帰ってきた。
「えっ、羽賀さんってコーチングの羽賀さん?」
「京子、知ってるの?」
「知ってるもなにも、私がこっちに帰ってくるきっかけを作ってくれたのが羽賀さんなの。東京で介護施設をやっている会の大きな研修会があって、その時の講師が羽賀さんだったの。あの時はコミュニケーションの研修だったけど、昼休みの時に気さくに私たちに話しかけてくれて。この時、施設に対しての不満をちょっと愚痴ったら、こんなふうに言われたのよ」
「どんなふうに?」
「その不満を力に、どうすれば理想を作れるのか。その未来を描いてみるといいですよって」
未来を描く。まさに私が羽賀さんから教わったことだ。
「京子もそうやって、未来を描いたら今のようになったってことだね。じゃぁ、その中で私みたいな人と一緒になるってのも描いたの?」
「アハッ、まぁ結婚したいっていうのも願望にはあったけどねー。できれば、旦那さんになる人と一緒に事業をやっていけるといいなーって。それがまさか、こんな形で実現しようとするなんて」
「そこは一緒だよ。じゃぁ、お礼の意味も込めて、羽賀さんに会いに行こう。そしてカフェ・シェリーで魔法のコーヒーを飲んで、これから先のことを一緒に考えていこう」
「うん、そうしよう。なんか一気に未来が開けてきて、ホント驚きだなぁ」
「未来は自分で作るもの。これが今ならすごくわかる。未来をしっかりとイメージできれば、その通りのことが予想もしなかった方向から実現しちゃうんだね」
予祝、予め祝うこと。それはもう実現されたこととして、自分の中でイメージで体験を済ませてしまう。すると、それはその通りになる。これをうまく使って、これから京子と一緒にみんなの幸せを作っていこう。
<先取りする未来 完>