第十三話・おんぼさん
職業に対する偏見の話も書いたのでついでに。
幼い頃、葬祭にかかわる人全般が怖かったです。母が怖がっていたせいですね。題名のおんぼさん、とは方言で火葬場で働いている人の呼称です。漢字でかくと「隠亡」 となります。「御坊」 とも書きます。読み仮名は「おんぼう」 それがなまって「おんぼ」 それに「さん」 付けをして「おんぼさん」 といっていました。現在はこういう呼び方をする人は誰もいないと思いますが、昔は人の死はもっと身近で、墓場も現在と違い、ことあるごとに墓参りをしていたと思います。その墓場も徒歩圏にあるので、毎日散歩を兼ねてお参りをしていた人も多いです。それを日参するといっていました。
「おんぼさん」 は、火葬現場だけではなく、遺骨を墓に収めたりもしており、火葬ではなく土葬の時代から連綿とその職業はありました。人の生がある以上、誰しも死にも直面し生活にあたってなくてはならぬ職業ですが蔑視も受けると同時にある種の権力もありました。
「おんぼさん」 に礼金をけちると、死体の身に着けている衣類を盗まれる、もしくは、死体をちゃんと焼いてくれないなどという風評です。遺体を粗末に扱われぬよう、きちんと礼をつくさねばならぬというわけです。現在はそういったことはないかと思います。
私の小さい頃はまだ明治生まれの祖父母たちが元気で冠婚葬祭をしきっていたので、その時の話だと思ってください。葬式があるたびに、私の母や祖母が葬式帰りには大量の塩を陶器の壺ごと台所から持ってきて、くつや玄関に刷り込んだり、時間をかけて手を洗ったりしました。幼い私はその行動を、怖いと思っていました。葬式全般がとにかく怖くて特にその「おんぼさん」 の話が妙に耳に残り、「コワイヒト」 という刷り込みがありました。
成人になっても怖い……ために、趣味の会で葬祭業の知己を得てもあえて避けたりました。中身は子供だった表れです。そんな現場で働いている人間が趣味の会で顔を合わせること自体、不吉に感じていました。葬式全般で関与する人々には失礼な話で申し訳なかったです。
相手は職業についてはきさくに話してくれる人だったのですが、死に関与する人を忌み嫌うというのは母親の思考そのままをひきずっていたということでもあります。でも母親のせいにはできない。単純にあたまでっかちなオトナコドモだったといえることを告白します。いや、このエッセイを好意的に読んでくださる人がいて、ほんと私はこんな人間ですよ……年を経た現在は他人の見てくれや経歴、育ちなんかどうでもよくなっています。
職業に貴賤あり、を未だにいう人は時代遅れでもあるし、貴賤なしとしたり顔で説教するひともまだいてももういなくても、どうでもいい。私自身は最近いろいろな意味で「なぜこの時代に人類として生まれてきたのか」 と愚考しているところです。
以後決めつけはしないように気をつけています。でも、どんな人に対しても丁寧で優しくというのは無理があります。酩酊状態であたりを威嚇する人間、奇声をあげて凶器を持つなど明らかに常軌を逸した人間に対して、「大丈夫ですか」 とは声をかけられない。それは当たり前。意識を失って倒れたなどとは明らかに別件ですのでこの点は仕方がないと思っている。
死に関する話、死後の話は結局はだれも見ていない。生死の境界線はだれもわからない。ただ日常業務の一つとしての葬儀にかかわる人には現在はコワイどころか、興味深々でもあります。葬儀業の人々は死に対する感覚が違うのかどうかという好奇心もあります。ある企業人がこれから団塊の世代が増えるから葬儀業も栄えるのではないかと分析されていて、それもありかと思う。
ともあれ死そのものに対して怯えと恐れを持っていた過去の私。死ぬという現象はだれにでも今後起こりうる。死に方には正解はなし。死亡直前に苦しみたくはないだけ。そう思えるようになったのも成長したことになるかと思う。また、トシのせいだろうと思っている。