01 遅効性の毒
子虚烏有 [シキョウユウ]
――架空の話。うそ、でたらめでなにもないことを表す。
焼け落ちてなにもなくなることを、「烏有に帰す」という。
◇
「一緒にお弁当たべよ」
そういって、僕の席にだれかの机をくっつけようとする、ひとりの女子がいた。
「いやだね」
なんとなく拒否する。しかし彼女は、僕の液体窒素よりも冷たい言葉をすっかり無視して、机を動かすのをやめない。僕はそれを足で阻止する。女子のほうも諦めない。無理矢理くっつけようとしてくる女子と、それを散々拒絶する僕。机をがたがたやっているさまは、さも昼休憩にじゃれ合う低年齢の小学生みたいだったろう。
で、僕は途中で面倒くさくなって、溜息ひとつ、立ち上がった。それからすぐに教室を出ていこうとした。するとその女子は、
「あ、むっくん、どこいくの!」とひとこと。
僕は振り返った。そのとき、僕は初めて彼女の姿をちゃんと見た。小柄でスレンダーな体型、胸は控えめである。どこかのアイドルの顔を福笑いにして遊んで、それが完璧に成功したかのような綺麗な顔立ちをしていた。さっぱり切ったボブショートは軽快そうな感じを思わせるし、ひと目見ただけで好きになってしまいそうなくらい爽やかな笑顔を浮かべてもいる。つまるところ、美少女であった。
だけども僕は、その子のことを知らない。
「どこって、食堂だけど。ていうかきみ、だれなの?」
訊くと彼女は、信じられないといったような顔をして、
「学級委員の風比楓だよ。知らないとはいわせない」
「そっか……知らない」
僕は教室を出た。
食堂に向かう。ズボンのポケットに手を潜らせて、小銭を数える。昼飯ぶんくらいはありそうである。なければないで、それでよかったのだけど。
――それにしても、「むっくん」か。
歩きながら、僕は楓ちゃんとやらに呼ばれたあだ名かなにかを思い出した。本名とはまったくかけ離れているが、はて、どこから出てきた呼び方なのだろう。
そもそもの話、楓ちゃんとはどこで知り合ったのだろう――なんて考えだして、ふと我に返った。クラスメイトじゃないか。僕はまさか、ここ二か月ほど退屈な授業という時間を共有した人々の名前、顔、その他趣味趣向やらなにやらを、まったく把握していないということなのか。
まあ……実際そうなのであるが。
僕の記憶力というのは、記憶装置をすべて抜いたPCとなんら大差ない。つまるところ、まったくないのだ。たとえばいまのクラスメイトの顔写真を、出席番号順に提示されても、ひとりも名前を答えることなんてできないだろう。最悪、僕の顔写真が出たとしても、ぱっと「僕だ」と答えることができないかもしれない。
そんな人間であるので、彼女のこともまったく覚えちゃいない。数日前か数か月前か知らないが、もしかしたら今日のことかもしれないが、僕と彼女になにかしらのつながりがあったとしても、僕はそれをすっかり忘れている。思い出すこともおそらくない。
僕の記憶領域にある人間の名前というのは、その人が僕にとってひどい害になるのが原則だ。無害な人はすぐに忘れる。そうしようと決めている。どうしてかって、それは、僕と価値観が共有できるだれかにしかわからない。まあ、そんなやつがいたら会ってみたいものだけれど。
とはいえ、楓ちゃん。あんな超絶キュートな女の子と知り合いだなんて、しかも向こうがあだ名で呼んでくれるなんて、もしかしたら、僕と彼女はいい関係なのかもしれない。まあ、下らない。そんなことはどうでもいい。
とかなんとか思考していると、食堂に着いていた。黒の学生服を着た生徒らが、葬列のように並んでいる。僕もその列の一員となって、順番を待ちながら、さてなにを食べようかななんて考える。
そんなとき、
「むっくん」と声が聞こえて、
「オウ、ジーザス……」僕は天を仰いだ。「えっと……カエルちゃん、きみ、教室で食べるんじゃなかったの?」
「気が変わったんだよ」楓ちゃんは右手に弁当箱を持っていた。「あと、私の名前はカエルじゃなくて風比楓。忘れてたとはいわせない」
「そっか……忘れてた」
順番が回ってきた。僕は日替わり定食を、楓ちゃんはなにも頼まないで、物珍し気に厨房の奥を見ていた。
「むっくんって、毎日食堂で食べてたっけ」
トレイを受け取った僕に、楓ちゃんがそう話しかけた。どう答えるかすこし悩んで、
「いや、違うけど」と素直に返す。「気が変わったんだよ。どこかのだれかと同じでさ」
それから僕らは席を探した。けれども、大半は数人のグループが陣取っていて、うまい席が見つからない。
そのままふらふら歩いていると、
「あそこ、空いてる」
楓ちゃんが指さした。ふたり向かい合うような席だった。よくカップルが仲良くランチタイムを過ごすのに使う場所だった。
僕は肩を竦めて、
「あそこはなんかいやだな。僕みたいな陰の住人には、明るすぎるというか」
「そうなんだ」
楓ちゃんは僕の意向なぞさらさら気にせず、ナポレオンが群民を割って歩くように堂々とした態度でその席へ向かった。僕はこの日で二度目の溜息を吐いた。そして気付いた。まるで当然のように僕と楓ちゃんはともに昼食をとることになっているが、そもそも、僕は彼女のことを無視して、ひとり寂しく食べたってかまわないんじゃないか、と。
僕は楓ちゃんが行った場所とは真逆の方向に身体を向けた。そして歩き出したが、しかし、すぐに学ランの襟を掴まれる感覚があって、耳元で楓ちゃんの声がした。
「悲しいことしないでよ、むっくん」
これに関しては、僕の完敗であった。
向かい合うように僕らは座り、若干の気まずさを覚えつつも、僕は箸を持った。ひとこと、「いただきます」。
今日の日替わり定食は、アジフライをメインに据えたものだった。瑞々しい米と、日本人として生まれたことを誇りたくなるほどうまそうな味噌汁が左右で脇を固め、漬物でさえもしっかりと主張があり、しかし目立ち過ぎない量に抑えてある。昨日、一昨日、というかここ一週間ほどの日替わりメニューを僕は知らないが、今日の献立がいままでのどれよりも素晴らしいことはいうまでもないだろう。
味は中の上程度である。
さて、楓ちゃんのほうだが、ちらりと盗み見るに、弁当の中には冷凍食品なんてものは見当たらず、すべて手作り料理のようである。しかも簡単な料理で済ませているわけでもなく、ハンバーグが入っていたりするし、ポテトサラダがふわりと盛り付けてあったりもする。ずいぶんと手の込んだ昼食である。
僕らは数分ほどもくもくと箸を進め、周りからは謎のカップルがいる、なんて微妙過ぎる注目を集めていた。そういう視線は気に入らないが、あまり味わえるものでもなし、いまは素直に受け取っておくことにした。
「そういえば」と、なんとなく僕は話しかけてみた。「きみってさ、僕のことを『むっくん』って呼ぶけど、どうして?」
「どうしてって、それはどうして」ややこしいいい方をするものである。
「いやね、その呼び方、本名とまったくかけ離れててさ。いったいどういう経緯で『むっくん』なんていう緑の怪獣の横にいる赤いけむくじゃらみたいなあだ名になったのか、気になって」
楓ちゃんはすこし視線を泳がせて、それからいった。
「忘れたの?」
「あいにく記憶力がないものでね」
「そっか。いや、ううん。簡単な話だよ」楓ちゃんは箸を置いた。「むっくん、いまでこそ授業中に寝てたってなにもいわれやしないけど、やっぱり学年の最初は注意をされるものじゃない。で、古文の西島先生が、進級後で初めての授業なのに熟睡したむっくんを叩き起こしたんだよ。そのとき、むっくん、きみね、すごくムスッとした顔してて……それで西島先生、『そんなに嫌そうな顔をするなら、今日から俺はお前のことを“むっくん”って呼んでやる!』とかなんとか言いだして……で、もうそれからは、クラスのみんな、きみのことを『むっくん』って呼んでるよ」
そんなこと、あったっけな。
僕は頭のなかに散らかった数少ない記憶を手当たり次第に探ってみたが、まったく思い出せなかった。しかし、人間、単純なもので、心当たりがなくっても、いわれてみればあったかも、なんて気持ちになるものである。
「うん、なんか、あった気がするよ」
「あったんだよ。ほんとにね」
楓ちゃんは微笑んでそういった。唇をくいっと上げて、目をすこし細めて、頬を若干赤らめて笑った。脳を焼かれそうなほど可愛かった。
「じゃ、今度は私から質問するね」
「なんでもどうぞ」僕はすこしいい気分だった。彼女の笑顔のせいであるのはいうまでもない。「真摯な態度で答えるよ」
「ありがと。では質問です。たまご焼きは好き?」
「そうだね。好きかどうかでいわれたら、好きな方だよ」
「好きか嫌いの二択じゃなかったら?」
「核武装より好きで、平和ほどは好きじゃない」
「概ね好意的だと捉えていいかな?」
「間違いじゃないよ」
「そっか。じゃ、おすそわけ」
いうと、楓ちゃんは僕から箸をすっと奪い取って、彼女の弁当箱の隅っこにあったたまご焼きを掴み、頬杖つきながら、僕に向かってそれを突き出した。
「はい、あーん」
なんだ、このシチュエーションは。おそらくこの学校のどこを探してもひとりといないであろう美少女から、「はい、あーん」なんて台詞を聞いてしまって、しかもその当事者は僕なのだ。つい昨日まではまったくありえないことであったろう。人と極力関わらず、陰険でじめじめした世界を勝手気ままに歩いていた僕だったのに、こんな都合のいいゲームかラノベにありそうな状況を前にしているとは。
僕は困惑していた。いちおう、僕は楓ちゃんと初対面(クラスメイトなのに初対面とはまたおかしな話だが)のつもりで話していたのに、ここまで距離感を詰められたことに、動揺していた。そしてこれをどう処理するか、それに悩んでいた。
数秒の逡巡があった。それで、きめた。
「悪いけど」なんて言葉が口を突いて出た。「悪いけど、遠慮しとくよ」
「え、そんな……せっかく作ったのにさ」
「腹が悲鳴を上げてるんだよ。食い過ぎって意味でね」
「男の子なんだからさ、食べてよ」
「楓ちゃん、これだけは覚えておいてくれ」僕はゆっくり席を立った。「僕は人の良心とか好意とかを踏みにじるのが、実をいうと大好きなんだ」
我ながら最低な台詞であった。しかしながら楓ちゃん、その言葉を聞くと、どういうことか、楽しげに笑った。
「うん、それでこそむっくんだね」よくわからない子だと思った。「まあまあ座りなってば。まだごはん、食べ終わってないでしょ。食べ終わったとしても帰らないでよ。女の子をひとりにするなんて、ダメなやつのすることだよ」
そういった彼女の顔に浮かんでいた笑顔は、嘘偽りのない、ただただ純粋な少女のそれだった。それがいいようもなく不気味で、どうしてか、僕はここで帰ってはいけないなんていう感覚になっていた。
僕はまた腰かけて、それから箸を返してもらった。
「楓ちゃん、きみ、変わってるってよくいわれない?」
「私からしたら、むっくんのほうが変わり者なんだけど」
「どのあたりが」
「そうだね。私が誘惑しても、絶対オチないだろうってところとか」
「そんなことはないよ。正直、さっきのやつだって揺らいでた」
「なら食べてくれたらよかったのに」
「そうしたら、僕の下らないアイデンティティーが崩壊しちまうから」
楓ちゃんはあやふやに笑った。僕自身も、なにをいっているのかはよくわかっていないので、そういう笑顔を浮かべるのももっともだと思った。
それからまた軽い質問を互いに繰り返しながら――たとえば、趣味だとか好きな芸能人だとか――、昼食を食べた。僕も楓ちゃんも満足がいったら、「ごちそうさま」と手を合わせて、席を立った。
そのとき、僕はちらりと楓ちゃんの弁当箱のなかを見た。大好物だといっていたたまご焼きだけが、きれいにすっかり残されていた。