真実の色を決めた日
カルピスとカルパスを間違えて摂取した先週からおかしくなっている。
俺は2年前からここら辺じゃイカレた奴らしか集わない高等学校にぶち込まれ、身のためになるんだかならないのかわからない時間を送るハメになっている。俺はアルファベットの『K』なら見なくても書ける。数学に関しては四則演算は問題なくできる。そんな俺についてやれ「アルファベットの『K』を書け。」だの「数学が出来るか?」という質問に答えるだけで単位を貰えるだなんて舐められたものである。一体、どこが高等なんだか。だが、俺の予想以上に、身の回りの連中は筋金が入ってるくらいには"イカレている"。ヤツらは授業中に水パイプ式の大麻を教室ド真ん中で吸い出しても全くおかしいと思いやしない。先公はもはや咎めようとはしない。自治会面々も「あの一帯はもはや、狂気の海に呑まれたのだ。」として諦めている。そんな環境下でも俺は、一切狂わずに居た。俺がこんな場所にいるということは、つまり俺も「同類」なのかもしれない。だが、たとえ同じ箱にぶち込まれたとはいえ、俺はアイツらとは違うとずっと強く信じ続けてここまで来た。俺がアイツらのようになってしまったら、俺が俺たる証明の喪失、つまり事実上の死だ。「俺だけが正常である。」という想いだけが生きる原動力だった。
そんな俺の確固たる決意が揺らぎ、そして消え失せた。先週、俺はただ、ジャスコに行く途中の車に轢かれて死んだウサギ達と、狂ったピエロ連中によって手足を捥がれた子犬を眺めながらカルパスを食べていたつもりが、実は一面真っ白な世界に居てカルピスを飲んでしまっていたんだ。一緒にタムロしていた友人は俺のことを笑った。からかった。俺はたまにそういったボケを天然状態でかます癖があるから、テキトーに笑ってその場を過ごした。でも、そんな些細なピントのズレで、俺自身のアイデンティティの喪失に繋がるなんてその時は思いもしなかった。
俺は「アルファベットの『K』なら見なくても書ける」から大丈夫だと信じていた。アルファベットをたった一文字で書くだけの試験だなんて舐め腐っているとしか思っていなかった。だが、俺はこないだのテストでアルファベットの『H』が書けなかった。そんなアルファベット、俺は17年間知らなかった。それだけじゃない。人々は時たま、数字が並ぶ途中に小さい点を入れたり、棒線を引いて上下に数字を書くことがあるということ、それらを「小数」、「分数」と称するのらしい。「どうしてそんな事を教えてくれなかったんだ。」と俺は先公に責めたのだが、「そんなコト、ンもぉ~中☆学に教わってるモンかト♡」と返された。そうか、周りの連中は、とっくのとうに知ってたんだな。俺がずっと見下し続けていたイカれてるアイツらも、ただ虚無もしくは黒板を眺めながら教科書を詠唱するでしかなかった先公たちも。どうやら俺はいままで、見下していた連中を下しに下しまくって、自分が一番先頭を走っているのだと思っていたのだが、それが実は1周回分遅れていたせいでそう見えていただけだった。
焦りは当然生じる。が、仮初の絶好調だったことを知ってしまったこの状況下で焦りを抱いたところでプラスに働く訳がない。むしろ、日常のルーティーンはおろか、今まで難なくこなしていた事ですらもままならない日が多くなってゆく。一方で、俺は帰宅途中に何故かいつの間に真っ白な世界に居る頻度も増えていった。
俺はますます荒れた。ある時は、アルファベットがとても甘いお菓子のように思えてテスト用紙を口に詰めまくったことがあった。宿題ドリルにドリルで穴を開けては「いつかこれでM-1グランプリ獲ったるけん!」と叫んだりもした。今日はとうとう引き算の繰り下がりすらも出来なくなって、「隣から10を借りてきなさい。」という言葉が理解できず、左隣の野郎に10を貸してほしいと必死に頼み込んだ。その時、手渡されたのは、俺を狂わせているカルパスだった。カルパス。カルピス。カルパス。カルピス。俺はついにカルピスとカルパスがゲシュタルト崩壊を起こし、いつしか視た流星の流した涙の跡を俺は追いかけたいという感情が芽生えてきた。気づけば誰もいない、一面真っ白の世界に再び立ち竦んでいた。
その流星を視た時のことはあまり覚えていない。もしかしたら、それは現実の出来事ではなかったのかもしれない。カルパスとカルピスを間違えてからというもの、まるで現実世界がバグっているような感覚に襲われている。もしかしたら、俺が今こうして立っている真っ白な世界が本当の世界で、これまで現実だと思っていた記憶とかは全部偽物なのかもしれないし。だけど、俺はあの日、何だか言葉では言い表し難い色のしていた空に流れていた星が、本当に涙を流しているように見えた。俺はあの記憶だけは、偽物とは思えないのだ。そしてその跡を俺は追いかけてやると昔はよく思っていたもんだが、ここ最近すっかり忘れていた。何で思い出したのかは、わからない。
俺は屋上に居た。まだ星の見えない時間帯だが、何でか俺は空を見上げている。というのも、俺はこの空の色を見たことがあるかもしれないからだ。確証はないけれど、この胸騒ぎが嘘じゃないことだけは、確かだ。フェンスをよじ登れば、空に手が届くような気がした。俺はフェンスのてっぺんで、両手を掲げながら空を仰ぐ。空は思いのほか、大きかった。
ふと下界を見渡せば、いつぞやに行ったばかりのジャスコが目についた。そうだ、俺はジャスコ。ジャスコに行かねばならない。ジャスコで大好きな風船ガムを買って注入しなければならないのだ。俺は思いっきり、ジャスコの方角へダイブした。そうした方が近い気がしたからだ。
「コーキ!カルピスと、カルパスは、違うよ!」
俺の腕をモノッ凄い力で掴んでくる奴がいる。しかも俺は、さっきまでフェンスの向こう側へダイブをキメた直後だったのだが、気づけば元の位置に戻されている。フェンスに登ってすらいない。
俺の腕を掴んできたのは紛れもなく、ヒカルだった。俺の幼馴染:ヒカリ。でも俺はヒカルのことを、よくわからない。居るようで、居ない……ように見えて、居る。遊んでる時も学校の行き帰りとかもずっと一緒に居たように思えて「実はあの時1人だったような気がするけど、アレ?」と思う時もある。んだけども、その割にはたった1人だけで居たような感覚はなかったりもして。そんな時は決まって「あの時も、ちゃ~んとイ夕ヨ☆」とヒカルは言う。ずっと昔からいるのに、何だか素性が掴めない。
だからこそ、この俺を止めてきたのが気に喰わなかった。
「何だよ!止めるなよ!俺はジャスコに行ってッ大好きなお笑いライブを観に行くんだ!!!!」
「コーキぃ!!!!カルピスとっ、カルパスはっ、違うんだよ!?!?」
ヒカルは俺の腕を解いてはくれない。
「ふざけるな!!!!俺は!!!!俺はッ………!」
俺はただジャスコに行きたいだけなのに、どうしてこんなに、涙が止まらないんだろう。きっとヒカルが俺のことを邪魔してくるからだ。俺が大好きなお笑いライブに行くのを阻止するととてつもなく嫌がることを、ヒカルは知っているからだ。
……いや、違う。俺は感情の高まりで、他人に押し付けようとしていた。俺が悲しいのは、ジャスコに行けないなんて理由じゃない。
「……俺ッ、正常だったのにッ、正常だったのに!!!!!!!!」
溢れる怒りと悲しみは、拳と共に地面にぶつけるのが丁度良い。
「俺は!!!!イカれてしまった!!!!!!!!カルパス!!!!!!俺はもうどっちがどっちなのかわからない!!!!!!!!!カルパァァァ!!!!!!!!」
すっかり紅に滲んだ拳を止めることなく、地面に打ち付けていた。
だが、ヒカルは言葉をかけ続けた。
「コーキ……カルピスと、カルパスは、違うよ?」
何度もヒカルは言ってきた。違う、違うんだ、と。だんだんこちらも怒りが収まっていき、へなちょこりんな姿勢で座っていた。俺が落ち着いたのを察したのか、ヒカルはこちらへ近づいてくる。
「コーキ。カルピスと、カルパス……、違うよね?」
ヒカルは優しく問いかけてくれた。
ヒカルのことがよくわからない。居るようで居ないし、でも居るんだけども居たことへの確かな証明が思いつかないくらいには存在感が無い。無いというか、ヒカルのことが身近すぎて存在を確かめるという手順すら俺は省くようになってしまったのだろうか。だけどこの時は、ヒカルがちゃんといるってことが、わかった。俺は深呼吸し、ヒカルの方を向く。
「カルピスとカルパスって……、違うか。」
ヒカルはくすりと笑って
「そうだよ。コーキ、カルピスとカルパスは、違うよ。」
ヒカルが笑うのを見て、何だか俺も笑えてきてしまった。別にヒカルの顔が面白いワケではない(まぁ確かに特徴的な顔はしてるとは思うが)。それはこれまで自分が高く高く積み上げてきたモノってのは、こんなにも笑ってしまう程ヒドく脆いものだったのだなとひどく痛感したこと。それを取っ払ってしまった今、面白いくらいなんとも身も心も軽くなったような感覚になっていること。そして、久しぶりにヒカルとこうしてちゃんと話せて、嬉しかったこと。
嗚呼、自分自身に課したハードルは高すぎたんだな。俺だけが正常であると信じ込むと見せかけて、俺は俺自身を窮地に追いつめて束縛していたんだ。おかしい一面を見せる俺が、何よりも許せなかった。そして、自分の設定したハードルは自分で高さを設定できることも、すっかり忘れてた。今はもうハードルの高さを調整できることも可能……なんだけど、俺はあえてハードルを蹴って倒しながら進むことにするよ。
俺はイカれた連中たちと、タメにならない高校生活を過ごす。アルファベットの『K』は書けるし、『H』も書けるようになった。小数と分数があるっていうことも覚えた。俺は、いまこの環境で過ごそうと思う。「自分だけが正常」だなんて考えはもう捨てよう。俺は俺らしく居る、それだけで揺るぐことはない。カルピスとカルパスは、全ッ然違う。
「よぉし。今まだ数学の授業だしィ、大麻吸おうぜぇ」
「いーや、ザギンで餃子食うのが俺のせろりりりりりり」
「ち゛~~~~。じゃあ新しく入った潜捜ってヤツ誘って『死霊の盆踊り』80周回コースかますち゛~~~~。」
俺たちは逆立ちで教室へ戻る……が、その前に、俺はヒカルにどうしても聞きたいことがあった。
「なぁ、ヒカル……。」
「何ィ?コーキぃ」
「………お前は、俺か?」
…………俺の発した質問は、全く意味が分からない物だと思う。現に俺も、質問の意図を聞かれたところでちゃんと答えることはできない。だが、"気になった"のだ。
ヒカルは、満面の笑みを浮かべていた。
「……俺は、お前だよ。これまでも、そしてこれからも!」
ヒカルは、けんけんぱで教室に繋がる階段を下っていった。……俺はまた空を見上げる。いつだったか忘れたけど、流星が涙を流したあの時と同じ色。
俺はもしかしたら今後も、また現実と虚偽が錯綜して同じような状況に陥るのかもしれない。けれど、その時はこの空の色を思い出すことにする。あの日の強い決心も、そして今日、ヒカルとのやや"奇妙"な一日も。全て本当。どれもが、真実。
さながらこの色を、真実の色と名付けるのが丁度いいかな。