守れ!黄色い帆立の石油タンク!
1941年12月。
ついにライジングサンもといRDシェルの危惧していた状況に発展する。
日米による開戦であった。
ライジングサンは翌年の日英交換船にて10~20名ほどの英国籍社員を本国へ帰国させるも残り30名ほどが横浜港へ残り続ける。
その間もライジングサンの用いる黄色い帆立の描かれたタンカーは着々とインドネシアより到着し続けていた。
ここで今更だがRDシェルの帆立マークの由来とライジングサンの看板マークについて説明したい。
元々は別の貝殻マークだったRDシェル。
それが貝殻販売時代から縁があり、石油事業の出資者の一人が西洋帆立を家紋を見につけていたために今日の帆立マークになったのは割と有名な話。
ではライジングサンはどういったマークを身につけていたのか?
名前のとおり太陽のマークだったのか?というと実は当初のライジングサンは太陽を象ったようなマークだった。
明治の頃の話である。
そもそもが1900年初頭に誕生したライジングサン石油は太平洋戦争の頃にはすでに四半世紀経過した老舗。
故にマークも何度か変更されている。
しかし実は太陽を象ったマークは大正時代には馴染み深い貝殻マークとなっている。
面白いのはライジングサン石油と書かれながらも、貝殻の中央に「SEll」と書かれていることで、それがRDシェルを意味していることはすぐわかるようになっている。
ポスターなどでは太陽を象ったマークの中央に貝殻が描かれ、貝殻の部分に「SEll」と書かれているので、某巨大掲示板のAAネタに見えなくもない。
「殺伐とした日本にアメリカの石油会社が!」とかいってライジングサンと書かれつつも中央に貝殻と「SEll」みたいに書かれたらそんな感じだ。
それはさておき、ようは貝殻マークというのは古の日本にて有名なマークだったわけである。
しかも当時から黄色の帆立マークだったので、ライジングサン=黄色い帆立というイメージは確立していた。
それが英国系企業で、英語が基本使えなくなった日本においてですら「SEll」と書かれたマークを戦時中から戦後まで使い続けられた状況から、
いかにライジングサンの影響力があり、特別な立場であったかがわかる。
そんなマークの描かれた石油タンクは日本全国各地に存在していた。
今回はその関係の話となる。
1941年~1943年まで、日本の民間企業の石油消費量は年1000万トンペースで増大していた。
軍需産業はこの中に含まれないので、いかに日本が「戦時中経済的発展をしていた」かがよくわかる。
日本史の教科書だと「まるで石油が枯渇したような状態」を説明しているような所が多いが、それは日本の帝国海軍と帝国陸軍が石油不足で喘いでいたのであって、物資不足はあったものの「石油不足」というのは1943年11月以降まで存在しない。
そのあたりは私が別で描いた中部日本新聞が電気で動く輪転機を戦時中ずっと使っていたように、インフラ関係の状況が殆ど寸断されずに戦後まで向かったことから様々な書籍や記録で確認できる。
詳しくは「朝日や毎日、読売といった強力な大手新聞社を前に「カラー化」で戦いを挑んだ名古屋の新聞社に所属する男。」などを見てもらえばわかるが、たとえばアニメ作品でも当時の時代をかなり正確に描写した「この世界の片隅に」ではさほど電気に困っていない様子がわかる。
これらの電気は石炭や石油を用いて発電するものだが、特に民間の工場は石炭などの大規模な発電施設を持つことはできず、石油関係による発電機によって自社の工場を稼動させているのが基本だった。
RDシェルはスタンバックなどはこういった企業にのみ降ろすことにしていたのだ。
問題は1943年から始まった空襲である。
米国軍はRDシェルもといライジングサンのタンカーこそ攻撃はしなかったが、石油タンクに関しては容赦のない攻撃を繰り返した。
これを破壊されれば折角苦労して運んできた石油がすべて無駄になる。
そのため、ライジングサンはある方法を駆使して対応しだすのだった。
それは「石油タンクの周囲をコンクリートで固め、防弾などを施す」というもの。
だが問題は「これを守るための人材が当時簡単に見つからなかった」ということであった。
男の大半は戦地に向かい、本土に残るのは怪我人や病人でありそういった活動には向かない。
他は技術者などであって忙しくてそれどころではなかった。
そこでライジングサンが目をつけたのがなんと女性である。
当時女性は別段暇ではなかったものの、男よりかは時間に余裕があった。
特に強制疎開や空爆によって経済的に疲弊した女性は生活費目的で仕事を探していたのである。
それを見抜いたライジングサンはそういった女性たちに声をかけ、雇うことにしたのだ。
この女性たち当然にして活動は強制ではない。
単純な非正規労働者であるが、アルバイトよりかはかなり優遇された状態だったと言われている。
彼女たちにはまず危険物取り扱いの知識を学んでもらい、周辺が火事になった際の対処方法などについての知恵をつけてもらった。
焼夷弾や爆弾などの知識については当時日本国で勉強会が開かれていたためにある程度認知していたものの、ガソリンなどの性質については無知であるのが当然であるので改めて教育を施したのだった。
これら危険物の取り扱いについて十分に理解できた者から各地のガソリンタンクの守衛を行ったのだった。
これは24時間の交代制である。
いかなる時も時間がある際は必ず2名以上がタンク周辺の警護などを行っていた。
理由は空襲だけでなく「窃盗」に対する対応でもあった。
当時闇市で出回る石油の大半はこういったタンクから盗みとったもので、女性たちは怪しい人間がいるとすぐさま憲兵や警察などを呼びつけて対応できるような環境がライジングサンによって整えられていた。
当時の写真がいくつか残っているが、まるで0083のOPの一カットのようである。
腕を組んだ女性や堂々と胸を張った女性など、男勝りな写真が残っている。
後ろには黄色い帆立のタンクがあり、彼女たちがそういったタンクを守るために命をかけた者たちなのだ。
実際に空襲が発生した際には消火活動などに奮闘し、けが人も多数出ている。
それでもそういった活動が萎縮しなかったのは経済的に困っているというだけでなく、このガソリンが「いかに日本にとって重要なものか」というのを当時の女性らが理解していた部分も大きい。
ここで裏話のようなものがあるが、実は彼女達の給与については現金で支払われたという記録がない。
これはあくまで筆者の推測だが、もしかするとライジングサンは給与の代わりに現物支給していたのではないかと思うことがある。
闇市に出回る石油にはなぜかライジングサンの帆立マークが描かれたビンが出回っていることがあった。
このビンは正規品のものにしか使えないはずで、基本的には使ったらライジングサンに返却するものだ。
ビンの中に別の石油を入れたとしても当時より各社、色付けが異なるので大半の人間がすぐ気づくが正規品のものがどこからか大量に出回っていたことが神奈川県を中心に昔話として残っている。
それらはシェルのタンカーから直接出回ったものではないかという話もあるが、当時の情勢から考えるとタンカーから直接そのようなことはできない。
ビンは小売店がタンクなどから入れなおしたものであるので、それらが可能な場所は石油タンクやガソリンスタンドのような場所がある所に限定される。
よってこのビンを給与にして、それを闇市にて出回らさせたのではないか?ということである。
石油自体は日常生活では暖房器具程度にしか使えないが、戦時中経済的に困窮する一般市民が石油の暖房器具など使うはずがなく、基本的にはもてあます代物。
それをこっそり販売してその分を生活費の足しにしていたのではないかということである。
他方、きちんと給与が支払われていた可能性もあるのでこれはあくまで推測の1つとする。
ちなみに彼女達は戦後そのままその時の知識を生かしてガソリンや灯油を販売しだした者もいた。
戦後、日本各地で見られた小さなタンクをこじんまりとした店の隣に配置し、手動式や電動式のポンプで灯油や石油などを販売していたアレだ。
1990年代ぐらいまでは田舎で多数みられた光景で、現在では数少なくなったものの90年代にまだ70代~80代だったおばあちゃまがヨタヨタした足つきで給油に応じていた姿を何度か筆者も目撃している。
当然販売している石油は昭和シェルが基本だが、なぜか出光も多かった。
出光は当時上記のようなタンクは保持していなかったはずなので、おそらく戦後出光に声をかけられたのか出光と契約したのか、とにかく昭和シェルと出光の看板を掲げてそういうことをやっていた人たちがいたわけである。
これは余談だが、埼玉県の飯能近くの山奥にある小さな昭和シェル石油のスタンドも戦後に開店したもので、これもそういった人が初代経営者で現在二代目か三代目であるという。(計量機とポンプが1つしかない古いポンプを使うお店)
女性活躍社会がどうたらとか言われる昭和だが、戦時中に見出された女性が戦後に活躍したというわけである。
話を戦時中に戻すが、年1000万トンベースで増加した石油消費量は1944年になると1000万トン減った数字になる。
これは空襲によって精製所やタンクが破壊されたことで、ここにきてはじめて「不足」が囁かれるようになる。
しかしである、大半の者はこの記録データを不思議に思わないのだろうか。
1944年というと、すでに海運は絶望的な状況。
日本に存在した500隻あったタンカーのうち、生き残ったタンカーは150隻程度しかない。
その状況で1000万トン減っただけと考えるとどうなっているのだ?となるはずである。
実はここにカラクリがあるのだ。
RDシェルの年間供給量は2500万トン
この数字は一切変化がなく1945年の8月まで続く。
当時保有していた70隻のタンカーは故障を除けば全てが稼動状態。
つまり民間へ必要なガソリンの8割以上をライジングサンが供給していたというわけである。
米国の潜水艦は「英国人が乗っている可能性」などから攻撃できず、唯一まともに動き回れるタンカーとなっていた。
航路も残っているが、インドネシアのボルネオ島などを出向したタンカーはまず現在のフィリピンのマニラに向かう。
そこから台湾の首都台北に向かい、さらに北朝鮮の西側付近に寄港、ここから2つのルートに分かれる。
1つはそのまま日本海を進んで青森を抜け、北海道や樺太などへ輸送するものと、もう1つは九州と四国の中間を抜け、太平洋をまるで本州に沿うかのように進んで横浜港へ向かうものだ。
地図上に文章から描いてみると「ほぼ最短ルートじゃねえか!」と思う人もいるかもしれない。
その通りである。
ほぼ最短ルートだ。
当時他の日本のタンカーは信じられないぐらい遠回りして石油を届けていたが、RDシェルもといライジングサンの石油は文字通り「英国という謎の圧力」を用いて日本の横浜港へ堂々と向かっていた。
米国によるタンカー攻撃ができなかった理由は割と単純で「英国船籍」だったからである。
英国で作られたというだけなら他にも存在したが、それだけでは沈められる。
それこそ日本の戦艦や輸送船の一部にすらそういう存在はあったが当然のように攻撃された。
だが、「英国船籍」となってしまうと攻撃した際にどうなるかわかったものではない。
この事実をチャーチルは認知していたものの、一度与えた船籍を剥奪することはそう簡単ではなく、その行動を許してしまっていた。
特にそれが許された理由に「民間企業にしか石油を卸すことを許されていない」という理由に正当性があったためにチャーチルの髪はますます薄くなってしまうことになる。
そうなのだった。
日本国が定めた行動が結果的にライジングサンもといRDシェルの行動の正当化をさせたのだ。
元々戦争というのは「国家対国家」というのが基本である。
よって「民間企業」というのは「軍需工場」など軍に関係したもの以外への攻撃は許されていない。
正当化される無差別爆撃による空襲だが、まったくもって「戦争法からしたら違法行為」である。
元来は「精密爆撃」で局所的攻撃をするのが基本だが、米国が無差別攻撃に切り替えた理由は「精密爆撃なんかしてたら即復活して翌日にはその施設が生き返っているから」という側面があった。
日本のインフラ回復能力は異常であり、戦後ついに鉄道を寸断できなかったのは有名な話で、その事実を知ったニミッツやマッカーサーが「一体どうして破壊したと誤認したのか?」と述べるほどであったのは、前回の話などで語ったとおり。
中部日本新聞の話を切り取っても、戦時中まで日刊新聞を発行し続けたのだから、本土に残った戦地に向かわなかった日本人もまた戦っていたということがよくわかる。
その別の方面から戦うための材料の1つである石油をライジングサンは1945年の9月頃まで供給していたわけである。
日石などの日本メーカーのタンクや精製所が破壊される中、唯一残った石油企業として。