表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

7/10

カトリックの宣教師らと日本に残って運命をともにしたライジングサンの社員たち。

1940年。

日独伊三国同盟が締結し、ついに日本は枢軸国としての立場で歩みだす。

この状況下において米国は在日米国人に大使館を通じて引き揚げ命令を出し、東芝の幹部らなどの米国系外国人は相次いで本国に帰国する。


その際、米国出資企業の大半は「戦時中の日本での経営は日本人に任せる」とし、実際に日本人らはその願いとも希望ともとれる要求に応え、戦時中においても尚、企業的に急成長するという姿を見せた。


一方の英国人はというと、この緊張状態の中、交渉などがまとまらず自発的な引き揚げに留まっていた。


そんな状況の中、RDシェルもといライジングサンの幹部らはある決定を行う。

それは「可能な限り日本に残り続け、企業経営を続ける」というものだった。


その際には強制ではなく希望する者は英国に戻すという指示が出されたが、ライジングサンの社員たちの大半は「自発的」に殆どの社員が残ることになる。


残る選択をしたのには理由があった。

それは「英国人」が一切いない場合と「英国人が多数残っている」場合とでは、ライジングサンのタンカーに対するイメージがまったくもって変わってくるからだ。


当時の幹部にはww1を経験した者も多い。

そこでドイツが何をやったかというと潜水艦を利用しての民間線の徹底的な破壊である。

例え民業として、民間に降ろすだけが目的だとしても、物資を国内に流通させるということはそれだけで国力を保たせる行為であり非常に危険。


戦争法においては「軍事関係の艦船のみ攻撃が許される」とあっても、実際には「敵国人の民間船」という扱いならどうなるかわかったものではない。


実際にこの予想ライジングサンもといRDシェルの幹部らの予測は大当たりであった。

戦時中、1941~1943年にかけて石油関係の業者の者たちは「攻撃対象外」とされていたものの、軍部の者が乗り込んだり、軍部のものが密かに弾薬などを無断で積み込んだりしたことで撃沈されるケースが相次ぎ、その結果「問答無用で撃沈する」といった体制に変わってくるのだ。


沖縄の疎開船などもそれらの被害に遭い、対馬丸などによって多くの子供が犠牲になったわけだが、1940年の時点でこのことが予想できた。


英国はそれをやられたからこそ、自国か米国のどちらかが同じ真似をするという予想ができた。

よって「敵国人ではない」という状況を作り上げれば、それらのリスクを大きく減らすことが出来る。


ライジングサンの社員達もまた、米国資本企業の米国人経営者らと同じく「戦後」をすでに見据えていて、その際に最も危惧したことは「戦後に精製所やタンカーを徹底的に破壊された際の損害」が尋常ではなく、経営を破綻させなけないものであることだった。


国内で製造を行うことが基本の米国資本企業と違い、「海運」という要素が重要となる石油事業においては「海運」において被害は簡単に出せないのである。

しかもライジングサンは外国資本企業の中で「1位」の資本力を持ち、当時の日本のGDPのなんと「4%近く」をたった1社で稼ぎ出す企業。


それこそ引き揚げて日本人に任せたのでは、ロックフェラー系石油やBPがこの期を逃がすまいとRDシェルの弱体化を狙って直接攻撃を仕掛けてくるのは目に見えていた。


だからこ社員は「日本全体が滅びたら日本と運命を共にするしかないな」と日本国が戦後も生き残るという希望を胸に、横浜に残り続けるという選択をしたのである。

RDシェルにとって、それは自発的でもあったが、ある意味では「そうせざるを得ない」という状況でもあった。


何しろ、当時のRDシェルの利益の3割は日本で稼いだものだったからだ。

それだけ対日比重があったためにそう簡単に「脱日本」という方針転換はできず、また一方でマーカスらの言葉を引用するならば「日本人は戦時中においても真面目に石油を購入してくれる」と、本国であるイギリスが代金踏み倒しを行いそうな一方で日本に対しての信頼もあった。


(実際にイギリスはRDシェルやBPからツケや米国から借り受けた資金などで石油を調達したが、戦後ツケなどにおいては踏み倒していたりする)


当時、内務省がリスト化した敵国人リストの中でライジングサンの社員は60名いる。

最終的に戦後30名ほどが残るが、極一部のものたちは日英交換船にて帰国している。


帰国理由は「病気やその他」だったり「諸般の事情」といったところであるが、少なくとも戦後までに30名もの英国籍をもつライジングサンの社員が残ったわけである。


ちなみにあまり知られていないが、米国だけでなく当時日本もまた「敵国人」においては強制収容を行っていた。

とはいえ今日と同じく「国際法に則った」ものが基本であり、戦時中に日本が疲弊していく中でも比較的まともな扱いがなされている。


抑留された者は当初こそ待遇が良かったが段々と待遇が悪くなっていく中、周囲にいる日本人もまた苦しんでいる様子を見て複雑な心境を抱いているのだが、ライジングサンの社員は「抑留対象外」とされており、横浜の地にて残り続けた。


実は同じ立場で比較的自由に行動が許された者がいる。

「カトリックの神父やシスター」である。


皆さんは戦時中の写真の中で、外国人宣教師などを目撃したことはないだろうか。

特に有名なのが「8月6日以降に広島で祈りを捧げたり、親を失った子供を保護して学校を開いている写真」である。


また、とある戦時中の経験をしたドラマでは、主人公の母親が熱心なカトリック信者であり、宣教師と共に活動する姿が描かれていた。


このドラマは当時「何で戦時中の日本に神父なんているんだよ! ファンタジーかよ!」などと叩かれたが、これは立派な「事実」もとい「史実」である。


他の宗派と違い、カトリックは基本的にバチカンにあるローマ教皇の命令に従うのが基本である。

よってカトリックの神父たちは自分の意思でバチカンや本国に戻るということが出来ない。


そのような中で当時のローマ教皇は戦時中においても現在の場所に残るようにという意思を示し、神父や宣教師といった者たちもそれに同調していた。


しかしそれだけであれば本来は「抑留対象」になって強制収容されてもおかしくはない。

実はこれにはムッソリーニが大きく関係していたりする。


当初こそバチカンと敵対していたムッソリーニ。

しかしムッソリーニは1929年にバチカンと和解し、以降、その活動を阻害しないと宣言する。

ムッソリーニ自体はキリスト教の信者ではなかったが、歴史あるバチカンの存在については否定できず、幾多もの交渉を経て和解合意に至ったわけである。

(一部では、母親が熱心なカトリックでありその影響によるものとされている)


その結果日独伊三国同盟においても「カトリックについての活動を阻害しない」という形で合意がなされ、その結果キリスト教においてもカトリックにのみ限定されて自由な活動が許されたのだった。


とはいえこれはカトリックのみであったので、カトリック以外のキリスト教宣教師などは抑留対象であったのと、情報伝達がきちんとなされなかった影響でカトリックでも日本に在留しつづけた者のおよそ全体の3割ほどが抑留されてしまった。


その事については後に日本政府が戦後にバチカンに対して謝罪することになるが、実質的にその合意を守っていなかったドイツと比較してまだ日本の扱いはまともで、バチカンはその件について特段咎めるということはしなかった。


ちなみに教会などでの活動が許されたカトリックは戦時中、親を失った戦災孤児などを引き取る傍ら、別では興味深い行動をしている。


それは何度か拿捕されたオランダやオーストラリアなどの中立の病院船に乗船していた医師の中にカトリックの信者がいたが、それらを引き入れて臨時の病院として活動したことである。


本来は中立といっても日本国においては強制収容されるはずの者たちであったが、大使館などを通じて交渉し、カトリックの者たちであるということで活動申請を行ってその申請が通ったことで臨時的な診療所というか病院という形で戦時中に展開していた。


中世欧州の教会ではよく見られた姿であるが、それを近代日本でも行ったというわけだ。

こういった活動は本来もっと賞賛されるべきであるし、実際にこういった活動を支持する日本人もいたが、中々語られることがないのが残念である。(なのでここで述べておく)


食糧配給も可能な限り行っていた。


しかしここで謎が残る。

それは「どうやってこの物資の少ない時期に活動を行っていたのか?」ということなのだが、当時の信者たちは物資を熱心に寄付し、その寄付によって教会が成り立っていたという。


ここに面白いエピソードがある。

クリスマスの時期になるとカトリックではクリスマスパーティを開くことが慣例であった。


今では「当たり前じゃないの」と思うかもしれないが、当時の日本にそのような文化はない。

その際、一部の教会においては日本人の信者は寄付と称して「七面鳥をどこかで調達してきて寄付した」という記録が残っている。


これについては日本の当時の不思議の1つと言っても過言でないもので、宣教師をして「どこで手に入れたんだろう?」と首をかしげるものだった。


当時、鶏などの鶏肉の入手はまだ可能で、大半の教会ではそういったものを代替としていた。

だが一方で、熱心なカトリック教徒の日本人の中には、どこからともなく七面鳥を仕入れることが出来るスーパー日本人がいたのである。


「出所は聞かないでほしい」とのことだったが、七面鳥自体は米国や欧州の一部にのみ分布して生息するもので、当時はおろか現在の日本においてですら「簡単に手に入らない」代物である。


それを1944年に至るまで、毎年のクリスマスになると寄付しにくる者が一部の教会にいたというのである。

七面鳥と鶏は簡単に見分けることができたので、宣教師達も大いに驚いたというが、本当にどこにあったというのだろう。


話を強制収容に戻すが、他にも敵国人とされつつ抑留対象外とされた外国人はおり、それらは別荘地などで優雅な暮らしをしていた。


それらは風たちぬなどで断片的に表現されているが、あの部分はファンタジーではなく本当にああいった外国人が日本には少なからずいたわけである。


ちなみにその中でも割と有名なのが「ユダヤ人」であり、彼らもまた強制収容対象外である。

幼い頃に「難民」という形で渡ってきた者を手塚治虫が目撃しているが彼らもまた布教などを許されていたりする。


天皇を神と称する大日本帝国は不思議なことに宗教の自由があったのだった。

こういった事情を知っていた米国は、特に注意を払っていた。

そういった情報が伝わると士気が下がり、国内世論が対日参戦に反対する可能性があったためである。


結局、強烈なプロパガンダによって覆い隠すことはできたものの戦後の状況をみた米国系に人間は枢軸国の中で日本が最も人種的に平等な国であり、そればかりか連合国含めてww2に参戦した国家の中でもっとも人種差別行動がなかったと評価している。


米国の捕虜の虐殺はB-29が戦争法を無視して直接無差別に攻撃したものが関係しているわけであるし、日ソ中立条約を無視したソ連の様子を見ても、明らかに異常なのは日本以外であったのだ。


そのあたりは東京裁判にて大いに日本が弁護される理由となった。

だからといって敗戦国という状況が変わるわけではなかったのだが。



話をRDシェルに戻すが、実はRDシェルには社員を戻したくとも戻せない理由がもう1つあった。

それは日英の交渉が日米と異なりチャーチルの思惑によって上手く進まなかったこと。

日米では早期に日米交換船が実現したが、日英が実現したのは1942年以降のこと。


米国はその後第一次、第二次、第三次と交換船が続くのだが日英については殆ど記録がなかったりする。


いかにチャーチルが短絡的で傲慢な人物かがわかる。

外交において日本の外交官はチャーチル率いる英国が殆ど交渉を拒否する姿勢に苛立っており、交換船ですら最終的に英国の上流層がチャーチルを批判したことで実現化したものだった。


英国は紳士な国というが、あの頃の英国はとても感情的で理性を失っていたといえる。

むしろ直接対決した米国のほうが捕虜移送を含めて戦時中においても日本との交流があった。


これはあくまで推測でしかないが、情報交換の場として日米交換船は絶好の機会だった可能性はある。

例えばそれを利用して日本に「特許明細書」なんかを持ち運んできた会社があっても不思議ではない。

そうでもなければ不思議なぐらい最新技術を特許申請していた米国資本企業が3つほどある。


一方の英国だが、日英交換船は上手くいかなかったもののRDシェルは信じられないことにパナマ運河を利用して太平洋からタンカーを英国と日本の間で行き来させたりしていたりする。


戦時中の話である。

このような事が可能だったのも英国人が日本にいたからではあるが、実はスタンバックも1942年頃まではそのようなことをやっていたりする。


かくして戦時中のライジングサンの経営は日本に残った英国人らによって牽引されることになったのだ。


次回は1941年以降の戦時中の話となる。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ