1937年に定められた5ヵ年計画による大日本帝国の国策は2018年現在の日本国と殆ど相違がない
RDシェルが日本国内でスタンバックと対立し、英国内でBPと対立する一方、日本国自体は英国と米国の態度に頭を悩ませつつもそれよりももっと危険な存在の対応を考えなくてはならなかった。
ソ連である。
日本の世界史の教科書を見るといつも思うことだが、満州事変の後、満州にて一体なにがあったのかが全く語られていないのだ。
こういったことも陸軍無能説を助長する原因である。
1935年。
満州事変の後、ソ連は満州を多い囲むように軍を配置した。
後に直接対決することになる極東ソ連軍である。
当時の極東ソ連軍は最も近代化された部隊であり、航空機なども多数所有していた。
満州を取り囲む極東ソ連に対し、その戦力差を陸軍が算出しているが、航空機だけで約4倍もの配備数の差があり、戦車だけで3倍、通常兵員の数については計測不能という状態である。
陸軍の主要戦闘機が当時ソ連軍の主力戦闘機であったI-16にどれほど優位で戦えるかは不明であったが、ソ連はパフォーマンスとして航空ショーを度々開催し、I-16は当時としては極めて洗練された見た目でかつすさまじい運動性と機動性を発揮していた。
これは余談だが、それはパイロットの腕によるもので、実際のI-16はまっすぐ水平飛行できるかも怪しい凄まじい不安定さをもち、とても戦闘機とは呼べない代物だった。
だが運動性と機動性についてはパイロット次第で非常に高い性能を持つのは事実であったため、陸軍は現状での戦力差をキルレシオ1:0.8程度と見積もって考えている。
そうなると配備数が4倍もの差があるということは単純に航空機だけで蹂躙される可能性があるということである。
とはいえ、スターリンは先制攻撃を仕掛けてくることはなかった。
理由としては「一応いろいろ揃えてはみたがハードウェアとしての兵器はそれなりにあっても、帝政ロシア時代から革命を起こして生み出したソフトウェアとしての軍隊がまだ整っていない」ことと、「先制攻撃をすれば大日本帝国に対し大義名分を与え、その後の英国と米国との交渉にて有利に動く可能性もあれば、現時点のソ連において最悪のシナリオである日独両軍によるソ連侵攻というケース」を考慮したものである。
スターリンはチャーチルと違ってまことに慎重な男であることがわかる。
その慎重な姿勢を理解していた陸軍は、すぐさま日本政府を利用してとりかかることになる。
それが、「国策大綱」と呼ばれる、実は戦後も引き続き利用して使われている、今日では「防衛大綱」と呼ばれるものをここで初めて作り、別途、国防方針と称して5カ年計画を定めるのだ。
1937年より施行されたものであり、試案は1935年の時点で完成し、日本政府により承認されていた。
この国策大綱は仮想敵国を「ソ連」「中国」として定めたものであるから、戦後も引き続き一部を改定しながら使われるわけである。
80年前の日本人が考えたものを80年後の日本人が使えるほど、洗練されたものだった。
とはいえ、基本的にこの防衛方針は軍拡である。
満州を囲い込むソ連の軍勢に対抗するには当時の価格にして60億円(現在の貨幣価値に換算するとその約1000倍)以上の予算が必要となり、それをどこからか集めなければならない。
そのため国策大綱は外交姿勢なども含めた国全体の経済政策についても定められていたことが特徴的で、関税を調節して内需を高め、貿易収支を黒字化し、重工業などの国内生産を拡大し、輸入と輸出のバランスを整えるというものが策定されていた。
80年後の米国が、まるで当時の日本の国策と同じことをやっているような気がするのだが、気のせいではないだろう。
現在のロシアはほぼ当時と同じ囲い込みをやっているし、アジアに展開できるだけの米国の最大戦力と中露の戦力差は当時の日露関係と同じぐらいのものが生じている。
それはさておき、この1935年時点での貿易赤字の主要原因こそ「石油」だったりする。
禁輸措置によって高額化したのは工業製品の原材料だけではなく、軍が大量に必要としている石油備蓄が輸出と輸入のバランスを狂わせていた。
しかも石油を必要とするのは軍需含めた重工業と、軍自体。つまるところ当時の日本という国家自体が最も求めていたもの。
よって高い関税をかけて輸入量を調節するということが出来ない。
この改善方法はたった1つで、日本自体が石油関係にて国外にも手を伸ばして採掘を行う他ないということだった。
折りしも石油業法が成立した1年後、すでに日本国は将来を見据えてインドネシア諸島にて石油採掘事業を国家総動員で行うようになっていたが、当時の石油採掘まではそう簡単に行えるものではない。
備蓄量ですら簡単に算出できない時代においての石油資源の発見と採掘までのプロセスは非常に時間がかかり、運便りといった部分もあった。
実際、日本国もRDシェルが開拓したボルネオ島などで同じく油田を探したりしているが、一向に成果が上がっていなかった。
そこで日本はこの5ヵ年計画にて面白い試みをやってみようと思うのである。
「そうだ。ライジングサンもといRDシェルに直接国費を投入し、こいつらに新たな油田採掘をしてもらう傍ら、元売業者として国内メーカーに石油を供給する体制を作らせよう」と。
1年前に制定された石油業法により、事実上軍への関与を完全に絶たれたRDシェルことライジングサン。
現時点でも禁輸措置を無視した供給を行い続けている会社に日本自体は目を付ける。
5カ年計画は生産力の拡充であるから、重工業が最も重要な要素。
スタンバックなどが禁輸措置によって事実上排除されるのが目に見えている現状で東芝などの米国出資企業は「工業製品を作るための潤滑油や発電機をまわすための軽油や重油など」を求めており、また国鉄なども「潤滑油や一部蒸気機関車などに使う重油やディーゼル列車用の軽油」などを求めていた。
東芝などの米国出資企業が1928年頃から急成長をしはじめ、それが1945年までずっと続くわけだが、この国策が計画された時点ではまだ続いていたスタンバックによる供給がいつ止まるかわからず、企業の発展が阻害されることを特に恐れていた。
ただし、前作を見てもらうとわかるが、東芝は戦時中「東芝コンツェルン」と呼ばれるほどの急成長を見せている。今作では後述するがその裏舞台の1つを解説しているわけである。
本来は国内企業が持つ石油の産出量をもっと増やしたい日本国であったが、それまでのスタンバックとRDシェルによる安売りによって成長が鈍化していた日本純粋の石油企業は正直言って5年では急成長する見込みが殆どない。
そこで日本は2つの方針をとる。
それはまず「海軍」「陸軍」が独自に油田を確保するため、「採掘関係の技術供与」をしてもらう代わりに国費を投入、RDシェルのインドネシア諸島の油田開発を手助けし、生産量を増加。
その上で「増加した全ての石油資源を国内のメーカーに元売業者という立場で卸す」という方法である。(精製はしない)
また、この国策方針にて正式に「石油備蓄計画」も同時に定めたが、RDシェルはこの「強制備蓄」について除外されることとなり、「技術供与をし、増加した分を卸せば後は自由」という実質的に放任される状況となる
無論これは強制ではなかったが、RDシェルにとっての痛みは「採掘関係の技術供与」のみ。
顔を縦に振るか横に振るかはRDシェルにかかっていたが、RDシェルはチャーチルとの対立から首を縦に振る。
その最大の理由は「投入された国費が現在の貨幣価値に換算して1兆円以上」という数字であったためであり、英国で圧力をかけられて企業の成長を鈍化させられそうになっているRDシェルとしては企業成長を考慮すれば「破格の条件」であったのだ。
信じられないと思うが、日本円というのは国際連盟を離脱しても尚信用度の高い貨幣であったため、それをドルなどにすることは1940年をすぎるまでは非常に楽だった。
これを基にすればアジア諸国での油田開発に資金的リソースを割かずに済み、その分を現在奮闘中の中東での油田開発に割り振ることで加速化させることができるだけの巨額の出資を日本国自体が行ったわけである。(戦前の、日英同盟が破綻したばかりの英国企業に対して)
この時RDシェルが驚いていたのは当時の英国の虎の子の技術「92オクタンのガソリンの精製技術」の供与を日本国が求めなかった部分である。
採掘に関するノウハウよりも精製に関するノウハウを外部に漏らすほうがよほど企業的にダメージを受けるのだが、日本国には未だRDシェルを信用している者が多く、そちらについては「それでは首を縦に振らない」と最初から求めなかったのだ。
結局、それは海軍や陸軍が92オクタンのガソリンを備蓄することが出来ないことを意味していたわけだが、海軍はなぜかそれでも短期決戦による勝算があると見込んでいた。
一方で陸軍はスタンバックからの備蓄でどうにかなると考えていたようだが、恐らくこの精製技術の供与について定めなかったのはこの時点では「100オクタンのガソリンの入手」がまだ完全に不可能となったわけではないという部分にも起因していると思われる。
日中戦争開戦は1937年であり、100オクタンガソリンの禁輸は1940年ごろ(1938年説もある)。
1935年時点では陸軍はまだ石油入手について「楽観視」していたようだ。
つまるところこの時の油田などの採掘事業の拡大というのはあくまで「経済的発展のため」のものであり、備蓄に関しても「対ソ連」などの戦時を見定めていたが「急成長によって需要が増大し、石油価格がインフレーションを起こすのを阻止する」といった狙いであり、
この国策は80年後の現在の日本とやっていることは殆ど変わらないわけである。
ここ1~2年の防衛費の増大と内需の拡大というのは1935年時点の日本と変わらず、それを日米が連携しながらやっているわけだから、ヘタをすると2年後には……という事もありうるわけだ。
この国策大綱は陸軍主導で考案されたものだが、当時の経済学に詳しいものたちを総動員して策定されただけあって、現代日本でも十分通じるものなのだ。
例えば採掘事業に関してだって、イランにおいてはRDシェルに敗北したものの、帝石など日本の石油事業者に国費を投入して油田を確保しようとしてたのがつい2年前の話で、似たような5カ年計画は現日本国の首相が2015年よりやっているわけだから、いかに優れたものだったかがわかる。
この国策はあくまで「防衛」に対する措置であるから、現在の日本国憲法によって成立する日本でも積極的に活用できるわけである。
ちなみに元売についてはスタンバックも日本メーカーに卸すこととされてはいたが、最初からスタンバックには期待していなかったので5カ年計画においての今後の産出量推移には完全にスタンバックが除外された数値が使われている。
当時の有識者が「スタンバックはもうだめだ」という意識が35年時点で根付いていることがよくわかる。
禁輸措置が講じられるのは3年後にも関わらず、5カ年計画においては「データ予測が不可能」という側面からもスタンバック無しでのものが用いられたのだった。
しかし信じられないことが起こる。
1936年。
対日禁輸措置によってスタンバックはそれまで20%以上の供給量を誇っていた所から一気に10%以下まで低下するものの、2年後の1938年、再び20%台まで回復するのだ。
いったい何が起こったのか。
それはスタンバックが信じられないことに「日本を捨てずに行動する」ため、独自にインドネシア諸島周辺にて行動を開始し、油田を相次いで発掘して供給体制を整えたためである。
これには当時の日本政府も大いに驚いた。
スタンバックが米国企業でありながらそのような行動を行った理由は、日本の生産拡大による経済的発展が背景にあった。
5ヵ年計画は1937年施行ではあったが、1935年には5カ年計画について日本企業に交付されており、日本の企業は2年の準備期間の間に体制を整えていた。
この間、5ヵ年計画の予想推移と同じ比率で石油消費量が増大。
RDシェルは1936年時点でライジングサンによる日本国内への石油供給量が35%と「日本の石油の4分の1以上」を供給するような状況となっており、最高益を更新したが、スタンバックは「この期を見逃してなるものか」と大急ぎで準備にとりかかり、米国政府の度重なる勧告も無視してインドネシア諸島に新たに石油精製所まで作ってしまったのだった。
それが1938年にまで完成し、日本に対する供給体制が整ったために一気に挽回したのである。
ちなみにこの石油精製所であるが、虎の子の100オクタンではなく、85~87オクタン程度のものであった。
当時の日本国は禁輸措置のために精製所に用いる機器を輸入することができず、精製所自体の建造には成功したが、最もオクタン価の高いものはライジングサンの92である。
双方の企業は陸軍、海軍への関与が認められていなかったため民間企業への販売のみ行うことになり、スタンバックは米国政府に対してはそれを理由に「何か問題でも?」とシラを切っていたが、危うい橋を渡っているのは間違いなく、米国政府は次なる封鎖手段を考案するようになる。
一方ライジングサンは日本国が敵対国の外国人排除を着々と戦中の準備を続けていた。