貴族主義と愛国主義の狭間にあったモノ 真の国益とは。
日本国においてRDシェルとスタンバックが対立を深める中、RDシェルの頭痛の種は本国であるイギリスにもあった。
創業者が市長であるロンドンを牛耳り、首都を皮切りに日本国との対話路線を切り開こうとするRDシェルであったが、それを様々な方向性から阻まれる。
ここで1つ英国の歴史認識について世界史の教科書では書かれておらず若干の誤りがあるので説明しておきたい。
実は1930年頃~1940年代までのイギリスにおいては主要な政治家の層である保守的な者達は親ドイツだった。
ナチスに染まり、第三帝国へと向かおうとしているドイツに対し、割と評価する声も少なくなかった。
そしてその一方で帝国主義に染まっていく日本に対しても割と評価が高かった。
理由は単純で保守層においては最も危険な存在は共産主義であり、ソ連誕生からこれまでのソ連の行動は「明らかに帝国主義よりよほど危険なもの」だったからだ。
例えば石油関係1つをとってしても、ロシアは後にセブンシスターズになりうる企業と一時的に共同で採掘や精製などを行う一方で革命後にソ連となった後はそれらを「技術ごと全てを奪っていく」というような行動を示した。
GEなどを含めた米国の名だたる企業が知的財産ごと資産を全て奪われたように、石油関係産業においてもソ連は「全ては国営企業が管理する」といって共産主義の名の下、国家が何もかも略奪していったのである。
そのあたりは1つ前のシリーズにてまとめてあるので是非みていただけたらと思う。
後に枢軸国となるようなった者達にこのような行動を示した国家はおらず、
日本ですらRDシェルことライジングサンの社員をヘッドハンティングしてこそ、虎の子の精製技術を強引に没収するということはしなかった。
ドイツも同じであり、両者は元が工業大国であり、かつ資本主義であったのでそれなりに自尊心があり、他国に負けないよう開発競争という形で対抗したのである。
だからこそ保守層においては、両者が実際にポーランド進軍やシベリア出兵などを行ったりしない限りにおいては高い評価を下していたのである。
それは1910年代の時点で海軍大臣であり、後に首相となったチャーチルでさえイタリアに対して同様の視線で評価していたように、英国自体は「帝国主義」などの行動に嫌悪感を覚えたというよりかは「英国自体が危機に立たされた」ことでその掌を返したという側面が強い。
1930年頃の英国においては「ドイツが反ソ連として立ち上がる場合は積極的にその行動を見守るべき」という論調が強かったのだった。
しかしユダヤ人迫害やポーランド侵攻といった行動などによりその希望的観測は見事に崩れる事になる。
チャーチルの政治家としての優秀さは1932年頃にて欧州や欧米をめぐる旅を行い、その時点でナチ党の本質を見極め、「やつらは間違いなくこちら側に先行して襲ってくる」と、ヒトラーがソ連よりも先に英国を襲撃することを予見できたところである。
また、この旅を通じて世界の状況を掴んだチャーチルは航空機と石油が次の戦争を決める決定打となることを理解していた。
そういう所までは良かったのだが、マーカスらが批判するように「あのハゲは座る座席の名札に貴族と書かれているだけでその考えの根本はナチスと変わらない」と称するように、彼もまた大英帝国の貴族主義に染まり、対話ではなく圧力路線での政治活動を行ったのがよくなかった。
これは現在での英国での評価であるが、そもそも「対話」という方向性を切り開けばスターリンに先行されることなくドイツの目をソ連だけに向けられた可能性が高かったと思われている。
当初ヒトラーは対話路線だったにも関わらず、その状況にてチャーチルは常に攻撃的態度をとったのが「ソ連よりも先に英国が狙われる原因」となったのは割と有名な話である。
その間に軍備を整えることでドイツが純粋にソ連にだけ注視するようになった方が良かったのではないかと一部では考えられているのだ。
結局、チャーチルの無能さは米国のような対話路線を切り開けなかったことだ。
米国が日本に対して参戦した原因の殆どは英国に起因しており、それは英国が滅ぶと大量の不良債権を米国が握って米国政府が破綻しかねないからということであったが、実際には「日本を潰していたほうが米国は巨額の負債を抱える可能性」があり、その額は英国の比ではなかった。
そのことが戦後の統治政策の変化と同時に英国軽視へと繋がる要因ともなったが、GHQを傀儡とした米国企業連合体が新聞などで使った言葉を借りるならば「我々は英国に騙され、自分の腹にナイフを突き刺すような真似をした」わけである。
とはいえ米国と異なり英国はWW2によってあまりに多くのものを失い、国際社会においての地位を大幅に下げた。
そのため「あの戦いは実質米国の一人勝ち」だったと評価する者は未だ多く、特に21世紀以降、フランスとドイツを中心とした欧州全体の管理において発言力をどんどん失い、立場を悪くしていった原因の根本には「経済的にも衰退したにも関わらず、21世紀を経てもww2の頃のチャーチルと同じような夢を追いかけて現実を直視できていない」と野党から批判されることになった。
立場を悪くしたことに腹を立て、英国が英国らしくとユーロ離脱を宣言するまでは良かったのだが、欧州からの完全孤立をした上で英国の存続というのはやはり不可能に近いものがあった。
その野党が現在の与党第一党であり、ユーロ離脱が有耶無耶になりつつあるのはイギリスもまた様々な思想が行きかう民主主義国家であることを表している。
話がすこし逸れてしまったが、1930年頃の英国においては、2つの石油企業が活躍していた。
1つはご存知の通りRDシェル。
後にスーパーメジャーとなる存在であり、1930年時点では特にロンドンにおいて圧倒的勢力を誇っていた。
最終的に欧州はRDシェルが台頭することになり、欧州のガソリンスタンドはどこもかしこも黄色い帆立だらけになるが、このような事になったのもRDシェルが日本で見出した「現地雇用、現地調達」といった方針を戦後も続けた影響によるものである。
この現地雇用や販売を行う地域での精製といったものは現在の石油メジャーでは一般的な手法であるが、戦前の時点で採用していたのはRDシェルだけだったりする。
スタンダードオイルの場合は米国においてはそういう行動を行っていたが、世界へ石油を輸出していく場合はあくまで「精製済み」のものを輸出していた。
その背景には1945年時点でも唯一オクタン価100のガソリンを量産できたからといった部分が大きいが、他国へ技術が流出するリスクを負ってまでRDシェルは現地雇用に拘り、その上で技術流出を許さなかったという意味では今日の企業経営視点から見ても特筆に価する。
それがどれだけ凄いことかって、結局日本人が精製施設の建造をし、そして日本人精製していたのになぜかその人材の一部を帝国海軍がヘッドハンティングしても結局92オクタンのガソリンは量産できなかったぐらいなのだから。
あの何でもありな時代にそれが出来た企業だからこそ今日でもその勢力を保っていられるのだといえる。
そんなRDシェルと熾烈な争いを繰り広げるのが悪名高いBPである。
かの鉄の女、マーガレット・サッチャーの言葉を借りるなら「こいつらをのさばらせたのが英国衰退の原因の1つ」と呼ばれる。
現在でもスーパーメジャーの一角に名を連ねる存在だ。
BPとは一体何かというと、簡単に言えば「元英国国営企業」であり、その前身はAPOCと呼ばれる中東イランを中心に活動していた石油企業である。(これも英国企業である)
当時のイランからイランの国土のうち実に「6分の5」という凄まじい範囲においての石油採掘権を手に入れたAPOCであったが、広大な国土に対し、当時のイランにおいては上手く石油採掘を行うことができなかった。
そのうち資金難に陥ったAPOCの会長であるウィリアム・ダーシイは、なんとこの「6分の5」という採掘権を他国に売り払おうとする。
そこに待ったをかけたのが他でもない英国政府であったのだ。
英国政府はすでに石油の価値を見出していたため、イランの石油については大変興味があった。
何よりも採掘権だけでなく「統治権」に近いものが得られると考えたイギリスはAPOCに出資。
その出資する際に英国国営企業として生まれたのがBPである。
1914年頃の話であった。
実はこの時、RDシェルはインドネシア諸島とは別にイラクにて開拓を行っていたりする。
RDシェルの基本戦術は「対話」と「現地人を利用した活動」。
それは事実上のイギリス領となってしまったイラクにおいても変わらなかった。
ロイヤル・ダッチとシェル・トランスポートの合併に尽力したトルコの石油会社を持つCEOであり、後にRDシェルに合流するカルースト・グルベンキアンらによってイラクの説得に成功し、この地にて石油採掘活動などを成功させたRDシェルは、アジアと中東を中心とした企業経営による利益によって凄まじい勢いで成長していた。
実はこのAPOCの買収に最初に名乗りを上げたのが他でもないRDシェルだった。
だがこのRDシェルは当時海軍大臣だった男によって失敗する。
その海軍大臣こそ他でもないチャーチルである。
RDシェルとチャーチルの対立はこの1914年頃のAPOCをめぐる買収問題において生じ、以降両者は「敵対」に近い形で争うようになる。
国営企業だったBPには当時のイギリス貴族が多数出資者となっていたため、その構図はさながら「民主主義を基に市民出身の出から成長したRDシェル」と「英国ズブズブの貴族主義に染まったBP」という構図となった。
実はRDシェルとなった後もCEOを勤めたマーカス自体は当時のイギリス王室よりその活動の功績が認められ爵位を与えられていたので実質的には貴族であったのだが、「市民からその立場まで上っていった中東系の血筋をもつ人間」というのは実に珍しく、イギリス国民からは賞賛とともに受け入れられる一方、市民革命や産業革命によって実質的には没落貴族同然の者達を中心としたBPは、一部層からは熱狂的に支持されたものの、そこまで評判は良くなかった。
当時の風刺画などを見てもそれらの構図が描かれているのでよくわかると思う。
そんなBPであったが、チャーチルはこの企業を重陽し、イギリス海軍への石油の納入をRDシェルからBPに切り替えてしまう。
それまでは入札制度を用いていたものであり、RDシェルはあくまで「入札」に勝利しての納入であったが、チャーチルの独断によって、以降はBPだけが英国海軍への納入を許されることになった。
普通に考えてこれで敵対しないほうがおかしいとも言えるが、チャーチルはユダヤ人を尊重する一方でマーカスらが中東系の人間であったのを気に入ってなかったりする。
ロンドン市民から熱狂的なエールを受ける一方で、マーカスのような英国市民権を受けて活躍する人間は貴族からしたら「英国の純潔が失われる」と酷く嫌われていた。
そんなBPはRDシェルとは異なり、現地での積極的雇用などは殆ど行わず、基本は英国人の手で石油関係事業を行う企業。
APOCとしてイランにて活動するにあたってはイランの人間を「奴隷同然」のように扱い、イラン政府に利益を還元するということもなく、それが最終的に出光によるあの有名な事件にまで繋がっていくわけである。
国益という観点から言えばBPは英国において何度も国益を損なう真似をするわけだが、それでも現在において尚石油メジャーの一角を担うわけだから怖いものだ。
しかしながら、当時石油利益の4割を採掘地に還元していたRDシェルとBPはここが運命の分かれ目となり戦後へと向かっていく。
ただしこれは余談だが、この利益の4割も現地に還元するというのはほぼ間違いなく「イラクが非常に強力な軍隊を持つことが出来た」事に繋がっており、湾岸戦争などで激しい攻防になった原因はRDシェルの姿勢が最終的にイラクを近代化させすぎたものと言える。
だが、この姿勢であったからこそ、制裁措置が解かれたイランにてRDシェルが先行して石油事業関係の契約を政府と締結する理由となっていて、この部分においての功罪をどう評価するかはその人間の立場によって異なってくる。
それはさておき、ww2へと向かう1935年~1940年。
英国主導のBPの台頭によりRDシェルは様々な方向から圧力をうける。
特に英国が気に入ってなかったのはRDシェルが日本国を顧客として禁輸措置を無視して活動を続けた事である。
米国のように日本への経済的封鎖を加速させたい英国にとってRDシェルの行動は悩みの種であり、日本が米国を無視して英国に向かってきた場合はどうなるかわかったものではなかった。
一応、英国領から日本へ輸出されていく工業製品の原材料についてはストップさせることが出来たが、石油が戦争の勝敗を決める時代において石油を封鎖できないことは非常に危険である。
一方のRDシェルはというと……すでに戦後の状況を見極めることができており、今後の日本における経営戦略をすでに固めつつあった。
その根本には東芝などの米国資本の日本企業と同じく「日本人なら恐らく戦時下においてもまじめに金を払う」という、これまで長年付き合ってきたものからくる信頼であった。
だからこそRDシェルは、大日本帝国が明確な排除政策を示せなかったことで「これまで通りの姿勢」を貫き、それがどういう状況になるのか見守る形をとる。
すでに日英同盟は破綻し、日英戦争は避けられない情勢ではあったが、RDシェルは黄色い帆立を掲げたまま、日本にて活動を続けることになるのだ。
信じられないことに「SELL」という看板を背負ったまま、1941年~1945年を過ごすことになる。
次回はそんな日本国内での話。