遥か遠い未来において -タツノオトシゴー
一人の男の子が生まれました。
生まれたばかりの赤ん坊は「おぎゃあ! おぎゃあ!」と元気に泣いて
います。
両親は我が子の誕生を喜んでいるもの、と思いきや……
母は困った顔で、夫の様子をうかがいました。
夫は困った顔で、妻の身体に気をつかいます。
樹木より大きな彼女の身体を横たえるために、夫はツバメの巣を何倍にも
大きくしたような、純白の寝床を用意していました。
周りの木の枝に、彼女の角や鱗が引っかからないように。
自らの鋭い爪で、パートナーの肌を傷つけないように。
竜の夫婦は無言のうちにも協力して、お互いを想い合っていました。
妻は尻尾を丸めながら寝床に身体を預けます。
夫は妻を休ませる間に、子供の下へと戻っていました。
「…………」
彼はジッと、我が子の姿を見つめています。
竜ではなく、人として生れ落ちた我が子を、ジッと見つめていました。
それは運命の悪戯か、遺伝子の異常なのか。
「ドウシテ」
彼は人の言葉で、愚痴をこぼしていました。
空を飛ぶための翼を得て、丈夫な鱗と、便利な尻尾。その場に立つだけ
で森を見渡せる巨体を手に入れたと言うのに……
何万年という年月の果てに、人は竜へと進化したはずなのに……
彼の鋭い目の端から、涙がこぼれていました。
我が子だけが、人のまま。
人が一人もいない世界に人として生まれてしまった我が子の不幸に、
涙せずにはいられなかったのでしょう。
彼は我が子を慎重に、怪我をしないよう注意深く摘み上げました。
そして、そのまま妻の下へ。
二匹の竜は視線を交わすと、頷きあって、言葉ではなく心を重ねて
いました。
『強く優しい子に育てましょう』
と……
彼らには時間がありません。
氷河期の訪れと共に、火山へと篭らねばならないからです。
二匹の竜が、この地を離れるのは十五年後。
それは彼らにとって、ほんの束の間に過ぎない時間。
親子三人で暮らす貴重な時間が、今、この時からはじまったのです。