破られた平穏
幼少の頃より、猟師である父について山を歩き回った。音を立てずに素早く移動することにも慣れているし、方角だって見失わない。山の中はどこも同じような景色に見えても少しずつ違う。全てを把握している自分にとって、この山は庭のようなものだ。
だけど、今日は何かおかしい。
鳥の声もしなければ、獣の気配もない。歩けど歩けど生き物の姿がなかった。
「おっ父」
少し距離を開けて前を行く、大きな背中に呼びかけた。
足を止めて振り返った父が、どことなく不安そうな顔をして言う。
「奴らは勘が利くから、なぁんかあんのかもしんねえな。魔物かもしんねえし、いったん引き上げっぺ」
こくりと首肯して答える。
「わかった」
体の向きを変えて、今度は自分が先頭になり来た道を取って返す。
歩きながら背負った矢筒に手をやり、矢の本数を確認する。あと十本。今日は獲物と出会えず一本も使っていないから、狩りの準備をして家を出た時のままだ。
獣の足跡か糞か何かが落ちていないかと思い俯いてみたが、大きく膨らんだ胸元にかかる、左右二つに結わえた栗色のお下げが揺れるのみだった。
山を下りる途中で視界を遮る木々のない崖際に立ち、眦の垂れた瞳で青空を見渡す。
「ちっ――鏑矢がありゃあなあ」
隣に立った父が嘆いたが、なぜ父が鏑矢を欲しているのか理解できずに訊ねる。
「おっ父、鏑矢なんてどうすんべか?」
「鳴らして村に危険を知らせんだ、見てみい」
父が空を指差す。指が示す先には小さな黒い影があった。カラスのように見える。
「おめぇ、目測を誤ってんだ。ありゃカラスなんかよりずっとでけぇ。ずーっと遠くにいんだ」
「カラスより大きい……魔物?」
「んだ。魔物ん中でも一際でけえ、ありゃあドラゴンだ」
「ドラゴン?」
「ドラゴン」
生まれてこの方ドラゴンなんて見たこともなかったが、父の言を信じて身を投げ出し、崖を滑り下りる。転がって受身を取り、村に向かって一目散に駆け出した。
左手に握った半弓と背中の矢筒以外の装備を捨てて、全速力で走る。
村が見えてきて安堵すると同時に、空に浮かぶ影が急速に接近してくることに気がついた。
「みんな、逃げて!!!」
普段は決して出さない大声で告げた。だけど――
『グルォォォオオッッッ!!!』
ドラゴンが吐いた炎が、村を、住人を丸ごと焼き尽くす。方々(ほうぼう)から悲鳴と火の手が上がる。
見知った人々が、誰も彼もが目の前で焼け焦げて死んでいく。
「や、やめっ……やめろォ!!」
叫び、まだ炎を吐き続けているドラゴンの右目を弓で狙う。風を切って突き進む矢は、ドラゴンが閉じかけた瞼に弾かれる。
ドラゴンの真っ赤な瞳が、おらを射抜く。
夜空のように黒くてつややかに光る皮膚には幾筋もの裂傷があり、鮮血をこぼしながら生々しい色をした肉を覗かせている。ドラゴンはすでに瀕死のように見えた。だというのに、たった一睨みされただけで震えが止まらない。
「ニンニ! 引け!! そんな矢じゃ効かん!」
一瞬動きを止めてしまいそうになったが――父の声が聞こえて、弾けるように駆け出した。
木立ちに滑り込み、木々の陰に身を隠しながら、脇目も振らずに走り抜ける。
再び山を上り父が建てた猟師小屋に戻ると、涙が溢れた。
◆◆◆
「このままここにいりゃあ、死なねえで済むかもしれねえ」
そう言いながらも、父は言葉を続けた。
「木に登って見てたが、全員焼かれたわけじゃねがった。おめぇが走ったから、何人かは逃げれた。どうもドラゴンの奴は、そいつらを探してるみてえだったが……」
父の目線が、壁に立てかけてある大剣に――長さも幅も大人の男よりも大きい、岩の塊のような大剣に向く。およそ人間が使う武器のようには思えないが、おらだけが使える、おらだけの剣に。
「おっ父」
「いや……駄目だ、おめぇが死んじまう」
「みんなを助けたい。それに、あのドラゴンは許せない」
「無茶だ。こいつで斬りゃあ斬れるかもしれねえが、斬るためにゃ近づかなきゃなんねえ。斬る前に殺されちまう」
テーブルの上に半弓を置き矢筒を下ろす。そして大剣に手を伸ばすが、パシンと乾いた音がして父の手がそれを叩き払った。
「おめぇは男手一つで大事に育ててきた、可愛い娘だべさ。死にに行かせるわけにゃいかん」
「でも……」
「わかった。ならおらが行く」
「おっ父の弓なら、刺さんべか?」
「おめぇの弓よかずっと強い。それにドラゴンを狩らなくても、逃げてる奴を助けてやれば良い」
「一人で大丈夫だべか?」
「おらの腕なら心配ないべさ。夕餉までには帰んべ」
自分の腕が父に及ばないのはわかっていたし、父はドラゴンを知っていた。自信ありげな父の態度に安心してしまい、任せてしまった。
けれど、父は帰って来なかった。