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雑記帳  作者: curuss


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15/37

それでもやっぱり海原雄山は芸術家だと思う

【あらすじ】

 動画投稿者『ゆっくりさん』氏による『饅頭でもわかるアート』シリーズに感銘を受けた雑感となります。

 テーマは『芸術』となりますが、高尚さは欠片もないのでご安心を(苦笑)

 一応は単独でも読めるように配慮はしています。


【前書き】

 この文章は動画投稿者『ゆっくりさん』氏による『饅頭でもわかるアート』シリーズに影響を受けています。


【本文】

 結論からいうと、陶芸家・海原雄山は芸術家と呼べないようです。……少なくとも世界的な分類によれば。

 これは芸術が再定義された結果と思われます。

 『ゆっくりさん』氏も動画上で説明してらっしゃいますが、古典芸術を近代(モダン)アートへと変遷させたのは――


・工業的な大量生産が、手作りの価値を喪失させた

・科学の発展による技術の陳腐化


 の二つが大きな理由だそうです。

 ……『自由民主運動による金主(スポンサー)の変化』も大きいようですが、この文章では省略します。


 なろう界隈で異世界転生モノをお読みになればお分かりと思われますが、産業革命以前の世界では、ありとあらゆる物が手作りでした。

 服、家具、家、日常の小物……とにかく、ありとあらゆる物がです。拙作の『異世界で味噌と醤油をつくろう!』などでは、味噌や醤油も手作りしてたり?(苦笑)

 ともなれば当然――


 優れた品物であることが、絶対的な価値を有していました。


 作品がなんであろうと、優れていれば美術品です。

 それが生活用具であろうと、風景画であろうと、全てが尊い唯一無二の芸術品ですらあったでしょう。

 もちろん日本も似たような価値観で、今日では美術品として扱われている物だって、本来は生活用品ばかりです。

 ですから陶芸家・海原雄山の生み出す作品の数々は、本来なら芸術品として扱われるべきでしょう。

 ……その活躍した時代が産業革命以前であれば。

 残念なことに産業革命以後の世界では、『優れた品物』であることが絶対的ではなくなりました。

 それどころか手作りの工芸品は、本来の『優れた品物』であるという価値から、『手作り故の唯一性』へ尊さが変わるという、望まぬパラダイムシフトすら強いられたことでしょう。


 もう一つの『科学の発展による技術の陳腐化』の方は、写真と絵画の関係が好例かと思います。

 美術に暗い作者は知らなかったんですが、写実主義では――


・見えたものを見えたままに描く

・筆の痕跡などの、いわば作者の個性とでもいうべきものは極力消す


 という約束があるそうです(やはり『ゆっくりさん』氏の動画からの受け売り! 皆さんも動画を観よう!)

 なるほど、さもありなん。

 どうしてか一部の西洋絵画は、なぜか同じ制作者にしか思えなかったのですが……長年の疑問が解けました。

 素晴らしく高いレベルの技術者が、同じルールで作品を描いているのですから、『これぞ西洋絵画』という型ができて当たり前だったわけです。

 しかし、それがどれほど素晴らしくとも、現代に生きる者としては――


 これは写真と、どう違うんですか?


 という疑問は覚えてしまいます。ですが残念なことに、暴論との誹りを恐れずにいうのであれば――


 写実主義の究極到達地点は、写真と何ら変わりはない


 みたいです!(驚)

 つまり、言い換えると――


 それまで芸術が持っていた『優れた品物』という価値観は、科学技術によって優位性を全く失った


 訳です!

 これは写真だけに止まりません。

 しばらく前に職人の技術は、3Dプリンターで代替可能という考えが発表されました(たしか例によってホリエモンが言い出したんだっけかな?)

 ほとんどの人は否定的立場だったようですが、誰一人として覆せはしませんでした。

 残念ながら写真が写実主義を駆逐したように、立体造形も――特に道具として優れているだとか、現実の写しとしての価値があったような物は、将来的に追いやられる運命なのでしょう。

 そして『道具として優れている』や『現実の写し』は、おそらく古典芸術の中核ですから――


 本質的な意味で古典芸術は死んでしまった


 らしいです。

 ……やや乱暴? 作者が『ゆっくりさん』氏の動画を、きちんと理解できていない可能性はあります。


 でも、写実主義の絵描きさんは、写真という技術に度肝を抜かれたことでしょう。

 漫画家を目指していた知人は、常日頃からデッサンで呻いていましたが……どんなに原始的な写真であろうと、デッサン力は最初から人間を超越しています!

 写実主義者が生涯かけて追い求める理想が、写真にとってはスタート地点!?

 初期の段階で足りないのは、鮮やかさだとか色だとかの……現代の我々からしてみると、解決は時間の問題と思えることばかり。

 この手の想像力はダビンチの例もある通り、先見性のある人は解ってしまったと思います。白黒のぼやけた一枚の写真からでも、十二分に到達可能でしょう。

 もう、その絶望を想像すると、門外漢である作者ですら涙を禁じえません。


 そこからなのか、西洋美術世界は迷走をした……のかな?

 『ゆっくりさん』氏は『印象派の台頭と写実主義の洛陽』に注目していらしたし、おそらく中心はそれでしょう。

 しかし、今日でも散見できる白黒の肖像写真が()()()になるほどに改良されたのが一八四〇年以降。

 そして印象派の活動開始が一八六〇年代ですから……無関係ではないような?

 写真技術が一般化して二〇年、緩やかに力を削られ始めていた写実主義、ナポレオン三世による既存サロンからの解放……読みとしては面白い……かも?


 ちなみに――


 外輪型蒸気船の実用化が一八〇七年。

 蒸気機関車による鉄道の営業開始が一八三〇年。

 一般的に産業革命とされるのは一七六〇年代から一八三〇年代まで。


 フランス革命が一七八九年。

 マルクスらによる『共産党宣言』が一八四八年。

 フランス最後の君主なナポレオン三世即位が一八五二年。

 それを打倒した共和制の臨時政府樹立が一八七〇年。これはナチス侵攻まで継続。


 アメリカの南北戦争が一八六一~一八六五年。


 日本ではペリー来航が一八五二年。大政奉還が一八六七年。


 初代ジョジョの没年が一八八九年。


 ――だったりします。

 つまり、有名な『竜馬の写真』を撮影できる道具が、極東の果てにすら流れ着く時代って訳ですね。

 ……写実主義すら発生せず、遠近法すら知らないまま、いきなり西洋美術との邂逅。

 しかも印象派の作品――おそらく泡沫作品すら玉石混合で、止めとばかりに同時に高度な写真技術も。

 そりゃ『ゆっくりさん』氏も主張される通り、日本の美術界が健全に発展できなかったわけです。


 とにかく芸術へ話を戻せば、西洋美術界は『優れた品物』以外の価値観を模索した……らしいけれど、それはどうかな?

 ひねくれ者の作者は、あの恐ろしい『アングロサクソンのお家芸』を幻視してしまいます。

 もちろん、芸術に魂を売った人々がギリギリ限界で発明したアイデアではあるでしょうが――


 それ以上に『最初にルールを決めてから戦いを始める』という臭いが!


 ……とにかく時代は近代(モダン)アートへ、誰も彼もが新しい主義主張を探し求める時代へ突入したそうです。

 ここら辺の詳しい解説は『ゆっくりさん』氏が動画上でされているので、そちらを拝見したほうが正確でしょう。

 ここではアートにおいて技術のウェイトが低くなり、本人が作ることにも、手で作ることにも価値がなくなったことを特記するに留めておきます。


 これは門外漢である作者には理解し難かったのですが……映画などを例にすると理解しやすいかもしれません。

 映画を実際に撮影しているのはカメラマンさんです。

 音響を入れているのは、担当の映画音楽家さん。

 登場人物を演じているのは、役者さん達。

 ストーリーは原作者さんが。それを映画用にアレンジするのは脚本家さんです。

 作品で使われる小物類だって、美術さんが作ります。

 署名をする映画監督が何をしているかというと――


 古典芸術の観点では、何もしていない。


 となるはずです。よくて『作れと命じた人』でしょうか?

 しかし、多くの人はそう考えないでしょう。映画は誰が作ったものかといえば、やはり映画監督その人です。

 これは同じ監督の作品を幾つか観れば、すぐに理解できると思います。

 映画がアートと呼ばれるようになった理由でもあるでしょうし、典型的な近代(モダン)アートの構造でもあるでしょう。


 話を最初の海原雄山へ戻すと――

 陶芸家・海原雄山は、伝統的な技法に則って食器を作ります。

 それは古典芸術の観点において、完璧に芸術品です。

 しかし、高い技術力というのは『近代(モダン)アートでは評価されない項目』なので、劣等生な芸術となります!

 さらに悲しいことに――


 海原雄山が生涯をかけて追い求めた造形技術も、遠くない将来に超高度な3Dプリンターによって駆逐される


 のです!

 ですが、それはいつか来た道、写実主義が通った道!

 逆説的に、だからこそ近代(モダン)アートは、その主体を思想へ――『作品によって何を主張したか』へシフトした訳ですし……表現の題材を限定しない――道具からの脱却も図ったのだと思われます。

 また、現在する日本の古典芸術家は、その作品で主義主張を語らないのもネックでしょう。

 これは作者の勝手な想像ですが――


 主義主張は作品そのものへ込めた。見る人が感じたことが、それだ


 なんてのが主流な気がします。

 しかし、西洋人に()()は全く通じません。というより――


 本人が主張しないことは、無いものと同じ


 が世界のスタンダードでしよう。つまり――


 日本の古典芸術家とやらは、何一つ主張もなく、千年前と同じ物を作っている


 が世界的評価になるはずです。

 そして最初の結論、『陶芸家・海原雄山は芸術家と呼べない』に落ち着いてしまいます。


 でも、美食家・海原雄山はどうでしょう?

 近代(モダン)アート以降は題材を物品に限定していないようなので、それが料理や食事のメニューでもOKなはずです。

 ……そこに主義主張があり、追随者がいれば。

 海原雄山の料理――作中で至高の料理と名付けられた()()は、常に主義主張の塊でした。それは余人をも――時には敵対的な人間ですら納得させます。

 追随者――美食倶楽部へ勤めたがる料理人も後を絶ちませんし、入会して料理を堪能したがる者も多数だそうです。

 つまり、唯一無二の思想・主義を中核に持ち、追随者も産んでいる()()ですから――


 美食家・海原雄山は近代(モダン)アートの観点でアーティスト足りえて、その作品――至高のメニューはアートと呼ばれる条件を満たしています。


 つまり、海原雄山は芸術家だったのです!


 ちなみに対抗するに息子・山岡士郎は、非常に個人的な動機『海原雄山は酷いお父さんだった! 許せない!』で動いているので――


 ファインアートの観点では、立派にアーティストなのかも!?(苦笑)


 一応は追随者もいることはいるし!?

 ……終盤では妙な自然保護に目覚めちゃって、逆にアーティストとは呼べない気もしますけど。


------------------------- 第2部分開始 -------------------------

【サブタイトル】

やっぱり陶芸家・海原雄山も芸術家では?


【前書き】

 ここからは、さらに散文的に!

 いまいち作者の中で噛み砕けてない部分が多いです。


【本文】

 陶芸家・海原雄山は芸術家と――少なくともアーティストと見做せないと結論付けましたが……考え方次第な気もしています。

 近代(モダン)アートとは、ようするに主義(イズム)であるようですから、日本の伝統芸術にもそれを付加すれば良いだけでしょう。

 『ゆっくりさん』氏がスーパーリアリズムを、おそらく最後の主義(イズム)として紹介されていましたが……あれは、そのまま日本の伝統芸術に流用可能に思えました。

 動画上では――


 人の手によって作られるからこそ、数値化されないナニカが宿る


 と説明――おそらく素人にも判るように、凄く噛み砕いてらっしゃるはず――されてましたが、それが主義(イズム)として成立するのであれば、日本の伝統芸術にも当て嵌められます!


 古臭い伝統工芸に見えるだろうが、これは最新の近代(モダン)アート!

 要領が悪く見えようと伝統的な手順に則り、伝統的な技法と道具で作るから、作品にソウルが宿る!

 それは我々日本人が伝統的に受けついできた美であり――

 言葉を使わずとも、誰にでも伝えることが可能な意識で――

 作り手の込めた祈りでもある。


 みたいな理論武装すればOKなんじゃないかな?

 名付けて『スーパー・ジャポニズム』!

 ……うん、素人臭い考えなんだろうなぁ。

 でも一般的な日本人として、陶芸家・海原雄山が芸術家扱いされないのは納得しにくかったり。

 ……だからこそ、日本はアートのガラパゴスなのだろうけれど。

 また作中で語られないだけで、海原雄山にも陶芸家として一家言あり――つまりは主義(イズム)を持っていて、正しい態度で問えば答えてくれる気もします。

 つまり海原雄山みたいに我が強ければ、日本の伝統芸術家でもアーティストと認定される?


------------------------- 第3部分開始 -------------------------

【サブタイトル】

学校教育


【本文】

 『ゆっくりさん』氏は美術大学に絶望しておられましたが、その問題点は作者にも理解できたかもしれません。

 おそらく日本の美術界と美術大学は、物事の本質を見失っているから、素人目にも本末転倒なことになっているのでしょう。

 西洋の小説などを読むと判るのですが、いわゆる西洋文化は糞リアル重点です。

 なのでありとあらゆる階層、職業、主義主張の持ち主が、必ず代価を要求します。

 要求しなければ得られないことも、代価が支払われるからこそ価値が認められることも、両方を誰もが理解しているのでしょう。

 もちろん、それは芸術の分野であろうとです。


 そして世界の変革によって、代価を得ることに大きな意味が生まれています。

 『なろう』などは典型例ですが、発表の場だけなら、誰であろうと獲得できる時代だからです。

 作者も一応はラノベ書きに分類できますが、その道のプロとの大きな違いは、作品を通じて一銭も儲けれてないことでしょう。

 もちろん、作者は『解ってくれる人にだけ読んでもらえばいい』なんて考えではありません。

 出る限り多くの人に読んでいただきたいし、それが出版でもされれば大喜びです。最終目的とは考えていませんが、努力目標の一つですらあります。なぜなら――


 どんなジャンルであろうと、その作品に代価が支払われるのは、全く冗談ごとではないから


 です。

 美術界では百万円の絵は安い部類みたいですが、世間一般の価値観でいうと、とんでもない高価なものとなります。

 月々ローンにしたら約十万円が十二ヵ月!

 それが百万円という大金です。到底支払えない方もおられると思います。恥ずかしながら作者には無理でしょう。

 しかし、それを代価――場合によってはその何倍も――としてを要求するのが、プロの芸術家です。

 そこに清貧の思想なんて甘えは許されません。

 発表さえできればよいのであれば、すでに場所はあるし、芸術でなくても構わないし、他者の評価も無視できます。もう自分が満足できれば十分でしょう。

 しかし、プロの芸術家であれば芸術として成立させつつ、同時に代価を要求できなくてはならないはずです。

 なぜなら、それで身を立てていこうと志したのですから。

 でなければ作品が売れたところで、それは単なる結果論に過ぎないでしょう。

 また、だからこそ西洋美術界が近代(モダン)アートへ舵をきった――商売として存続できる道を選んだ理由だと、作者は愚考します。


 この『お金を稼げるか?』という観点は、意外にも説得力があったり?


------------------------- 第4部分開始 -------------------------

【サブタイトル】

作者なら、それにお金は払いたくありません


【本文】

 少し前に多摩美術大学の『芸術祭』で、デザイナー・佐野研二郎氏の葬式を模すパフォーマンスが行われたそうです。

 ちなみに佐野研二郎氏は、東京オリンピックのエンブレムで盗用疑惑が取り沙汰された多摩美術大学のOBで、もちろんご存命の方です。

 さて――


 誰かを非難・批判をするのに『葬式ごっこ』が適切なのか?

 子供じみてやしないか? というか不謹慎だろう?


 などの考えは、どうでもいいんです。まあ、一応は芸術なんでしょうし。

 これが美術大学生によって執り行われたことが問題だと思います。

 一応の定義上、これは集団パフォーミングによって体現されたファインアートと分類されるはずです。

 「ふざけんな、OB佐野研二郎!」という感情を核に、多くの追随者――参加者がいたわけですから。

(いまさらながらファインアートの定義ってガバガバ! 作者が勘違いしているのかな?)

 ですが、一言申し上げるのであれば――


 私は、そのパフォーマンスに一円たりとも代価を支払いたくありません


 です。

 なぜなら、全くの感銘を受けなかったから。どころか軽い不快感さえ覚えました。

 そして近代(モダン)アートの流れは組まない――なにか主義(イズム)を内在していないファインアートでしょうから、受け手が感じたことが評価の全てになるはずです。

(この定義で正しいとすると、ファインアートとは実に難しい表現手法にも思えます)


 プロを志す芸術家の卵が、美大生であるべき――素人のままでいいなら、美術大学へ進学する意味がないため――でしょう。

 なのに年に一回しかない発表の場で陳腐な『葬式ごっこ』を見せられても……芸術家としての才覚にすら、首を捻らざるを得ません。

 これでお足になると、本当に参加者は思っていたのでしょうか?

 自己満足の内輪受けであったのなら『芸術祭』でやる意味が見受けられませんし、身近にある危機を認識していない証拠でもあるでしょう。


 また同時期にイベント『東京デザインウィーク』で、展示物を体感していた子供が焼死する事故が起きました。

 もちろん、これは過失に決まっていますし、細々とした指摘は置きましょう。しかし――


 プロもしくはプロの卵として、お客を殺さないのは初歩の初歩では?


 と言いたい。

 日本工業大学の有志――つまりは学生の作品であうと、この主張は厳しくないと思います。

 なぜなら工業系デザインの大学であろうと、美術系の大学であろうと、プロになろうとするのであれば、まず最初に教わるべきことだからです。

 その在学中の不始末であるので、監督者である大学関係者の罪は重いでしょう。

 言い過ぎに思われた方は、こう読み替えたら理解できるはずです。


 ほにゃらら料理大学の学生が、縁の深いイベント――何年も続けて参加しているイベントで食中毒を起こして死亡事故。

 悪いのは誰か?


 そりゃ学生が悪いのはもちろんですが、イベントの主催者や監督者である大学関係者も悪いに決まっています!

 元々は『東京デザイナーズウィーク』という名称で一九八六年に開始、二〇一五年から名称を『東京デザインウィーク』に変更した由緒あるイベントで、事故を起こした日本工業大学は毎年参加――なぜなら就活に響くから――していたというじゃありませんか。

 どう考えても、実質的には授業の一環でしょう!

 そこでお客が死亡事故? 大学は何を教えているんだ?


 お金を頂くのであれば、相手を害さないのは必要最低限度レベルです。それを教えるのも、生徒に守らせるのも。

 この分では内部に入ると、もっと出鱈目な可能性すら考えられます。

 日本の美術大学というのは、代価に値しない存在なのでしょうか?

 プロの芸術家を育成する機関なのであれば、その学生に商売の基礎は叩き込むべきでしょう。でなければ単なるお稽古事に過ぎなくなります。


------------------------- 第5部分開始 -------------------------

【サブタイトル】

市場を確保するために必要な底辺教育


【前書き】

 ちなみにいうまでもなく作者は芸術底辺です(苦笑)


【本文】

 『ゆっくりさん』氏の動画上で知ったのですが、マルセル・デュシャン作『泉』というアートがあります。

 これを言葉で説明すると――


 普通の男子用小便器へサインを書いただけ


 だったりします。

 作者は解説していただいて、やっと深さを理解できたのですが……もし事前知識なしだった場合、おそらくこんな勘違いをしたと思います。

「うはーっ! いくらサイン厨がウザかったからって、小便器にサインとかww ちょっとマルセル・デュシャンって人はロック過ぎるっしょww」

 でしょうか?(小並)

「いや、これって一つのアート作品だし、そもそも『泉』ってタイトルあるから!」

 とツッコまれたところで――

「ふーん? これがアートなの? やっぱり芸術って難しいんだねぇ」

 だと思います。

 しかし、『ゆっくりさん』氏の『近代(モダン)アートとは論文だ』という言葉を元に考え直すと、別の解釈が浮かび上がってきます。

 多分に作者の独自解釈が含まれますが――


「アートって何だよ? というか……誰かが署名をして、タイトルを付ければ(アートと主張すれば)、それは既にアートじゃないのか?」


 という問いにして答えである気がしてなりません。それも一つの究極な。

 そして多くの芸術家が――

「………………うん、その通りだ。少なくとも覆せそうもない」

 と追随したから、コンセプチュアル・アートという大きな流れが生まれたのでしょう。

 ……ちょうどラノベにも「あなたがラノベだと思うものがラノベです」という答えはあったりしますし!?


 また、これは価値の創出方法として、非常に賢いやり方だと思います。

 価値の中核は思想にあるので、どんなに優れた男子用小便器職人であろうと、サイン署名職人であろうと、その価値を揺るがすことは不可能です。もちろん、何かすごい科学技術でも!

 本質的な意味で大量生産が――複製が不可能なんですから!(贋作的な意味でのコピーはできる)


 これこそ機械では真似できない、『なぜ作品を作ったのか』という価値の付与でしょう。

 思えば漫画『ギャラリーフェイク』にでてきた『六園寺ハジメ』とかは、この辺りの思想の問題だった模様(単行本二十二巻収録)

 あれは極端にコンセプチュアル・アートを悪者にしてましたが……そもそも主人公である『藤田玲司』が、古典芸術大好き過ぎな面も?


 ……とにかく話を『必要な底辺教育』を戻すと――

 『ゆっくりさん』氏の動画を拝見する前だったら、作者は絶対にマルセル・デュシャン作『泉』は買わなかったと思います。

 ……いや、実際に買えるだけの財力なんてないだろってツッコミはスルーで。

 だって、意味判らないですもん!

 便器ですよ? 便器に知らない外人のおっさんがサインしてるだけ!

 おそらく最初に思うのは「どうして色紙にしてあげなかったんだ?」で、次は「好きでもない人のサインを買ってもなぁ」でしょう。

 というか『サインを買う』って……あれはファンの人が、実物に会えた記念として貰うものだと思います。


 でも、その意図を解説してもらえば、話は変わります。

 当然に売りには出ないでしょうし、買える値段でもないでしょうが……その値段ぐらいは確認するでしょう。

 そして万が一、億が一にでも手元のお金で買えるのなら、入手すると思います。


 これこそ日本の美術界が行うべき啓蒙活動でしょう。

 近代(モダン)アートの判じ方が分からねば、絶対に近代(モダン)アートは買いません。

 ましてや発展形であるファインアートなんて、とてもとても。

 結果、日本の市場は近代(モダン)アートやファインアートの成立しない、世界的には空白地なんだと思います。

 ……そこで細々と続けている日本芸術は、世界市場から無価値と断じられているようですし。

 いまは業界的に末期なのかな? 誰一人としてお金を落としてくれないという。

 なんだかビジネスモデルで行き詰ったアニメ業界を彷彿とさせます。


 蛇足的になりますが、日本人にもっと解りやすく近代(モダン)アートを説明するのであれば、それは――


 物語の付与が相当すると思います


 ……さらに明け透けにいうのであれば『それっぽい購買動機を与える』でもある?

 漫画『ギャラリーフェイク』などは近代(モダン)アートを否定する立場に立ちつつ、様々な芸術の物語性を教えることで、逆に同じことをしている皮肉が?

 でも、品物に物語を付与して価値を上げるというのは、オタク文化ではなじみ深い気すらします。

 オタクは近代(モダン)アートやファインアートを飛び越して、新しいアートのビジネスモデルを切り拓いていた!?

 まあ冗談はここまでにしても……近代(モダン)アートより難解に思われるファインアートなどは、物語性に着目すれば良い……のかな?


 で、このような考えを持つに至ったのが、『ゆっくりさん』氏の動画を拝見したから!(皆も氏の動画を観よう!)

 基本すら知らない人間は作品を鑑賞すらしてくれないし、ましてやそれへ代価を支払ったりしないのです!

 少なくとも動画を観る以前の作者は、美術に対して完全に無関心でしたし。


 ただ、本来であれば中学校で学ぶべき範囲でしょう。

 世界的な見地では、少なくとも近代(モダン)アートぐらいは読解できて当たり前というものらしいですし。

 さらに美術界の立場で考えれば、予め日本人を教化しておくのは、将来の顧客を育てるのも同然です。

 そして都合の良いことに芸術大学では、中学校の美術の先生も育成しています。


 ……目の前にチャンスがぶら下がっているのに、なぜ取らない?


 それこそ作者の提唱した『スーパー・ジャポニズム』だって、全国の中学生に教えてしまえば成立します!

 中学生だって十年も経てば成人するし、そうなれば潜在的な顧客へ早変わり!

 ここで美術の精神が云々かんぬんだとか、卑怯などという人は、プロには向いていません。

 プロならば、まず勝つべき。精神性は、その後です。

 商売とは死力を尽くしても、なお負けることがあるのですから。

 『勝てばいい、それが全てだ』じゃないんです。

 勝たなきゃならない。プロにとって勝利とは、義務なんですから。


「とか偉そうにいっているお前は、相互評価クラスタに懐疑的だよな? どうして使わないんだよ?」


 などとツッコまれそうですが、それは『心に棚をつくれッ!』(by 伊吹三郎)なのです。

 ……アマチュアが唯一プロより自由な点は、最初の一回だけは勝ち方を選べるところですし、相互評価クラスタに入ったら――


 嫌いな作品を嫌いという権利がなくなってしまうじゃないですか!


 ……まあ本物であれば、どのような手段を使おうと成功できますから、手段のきれい汚いに大した意義なんてないんですけどね。


------------------------- 第6部分開始 -------------------------

【サブタイトル】

今そこにある危機


【本文】

 『葬式ごっこ』でも触れましたがファインアートの世界、特にパフォーマンスは危機的状況な気がします。なぜなら――


 ほとんど全てのユーチューバーが、ファインアーティストに分類出来ちゃいそうだから!


 ……相変わらず作者のファインアートの定義は変? しかし――


 「OB馬鹿野郎」という気持ちで『葬式ごっこ』をやって、反骨精神をぶち上げる


 のと――


 ユーチューブで「ウェーイww」「ウェーイww」と騒ぐ


 の、どちらも同じくファインアートですよね? パフォーマンスを介した?

 そしてプロという視点でいうと、結構な対価を貰っているユーチューバーは多いし、世界的な大きな流れも動画配信者へ傾いています。

 つまり――


 パフォーマンスでいくのなら、とくに美術大学へ行く必要はない


 となりかねません。

 むしろ美術大学で学ぶと『葬式ごっこ』とか始めてしまいますから、弊害ですらある?

 結局のところ芸術は評価されるかどうか、プロとしては代価を得られるかどうかですから……彼我の差は、ユーチューバーが理論武装しているか否かだけでしょう。

 そして後付けの理論武装であれば、いくらでも可能ではあるし……今後、真剣に芸術として十二分な思想を備えた動画配信者が、誕生しないという保証もありません。

 というより、必ず生まれるでしょうから――


 既存の芸術家育成機関、特にパフォーマンス系統は存在意義が疑われるやも?


 絵画は写真に、立体造形は最新鋭技術に、パフォーマンスは動画共有サイトなどの――ハードルの低い発表の場に駆逐される……定め?

 ……『葬式ごっこ』している暇あるのかなぁ?


 ラノベの世界――というか、作者が言うには口幅ったいですが、文芸全般?――にも、似たような危機はありますけどね(苦笑)

 AIによる――つまりは科学技術による制作開始まで秒読み段階なので、芸術が通った苦難の道を、文芸界も歩むことになります。

 もはや対岸の火事ではありません!

 そして、ほぼ同じ結論に達するでしょうから――


 文芸は、その中核に『なぜ作品を書いたか?』という主義主張を内在しなけれゃならなくなる?


 ようするに――


 近代(モダン)文芸の始まり!(涙)


 でも、それってようするに文学への回帰なような。

 ……正直、文学は手に余るんだけどなぁ。

 娯楽ってのは――食べ物ってのは、美味いか不味いかだけが価値の全てじゃ駄目なんでしょうか?

 まあ、単純な美味さ競争をすると、AIに負ける訳ですが。


------------------------- 第7部分開始 -------------------------

【サブタイトル】

最後に


【本文】

 我ながら言葉の定義があやふや過ぎるようにも思えました。

 アート、芸術、アーティスト、芸術家、古典芸術、近代(モダン)アート、ファインアート、工芸……すべてを正確に定義、少なくともこの文章上での意味は確定させないとダメかも?

 まあ、そのへんは――


 考えるな、感じるんだ!


 で、押し通ってください。

 そもそもファインアートも一般的な翻訳では『純粋芸術』だったりで、『ゆっくりさん』氏の定義とは微妙に印象が異なるんですよね。


 まあ、専門でやっておられる方が――

「個人的見解を入れまくっているし、基本的に話半分で聞けよ?」

 と断り入れているのを、門外漢の作者が取り扱っちゃたものだから――

「パルスのファルシのルシがパージでコクーン!」

 になるのも無理はない?(苦笑)

 解り難かったり、間違っていたら、ごめんなさい。

 それら全ての責任は作者にあります。


 でも、悔しかったんだよ! 納得いかなかったの!

 どうして「この動画が伸びないんだ!?」って!


 なので基本的には動画を観て思ったことでありつつ、提灯記事でもあるんです!

 というか、『ゆっくりさん』氏の動画を観よう!


 しかし、メッセージ性の高い作品なものだから、こちらとしても感じたことが多いという。

 そういった多分に未消化な部分もあるのが、本文だったりします。

 で、せっかちさん用にまとめると、以下の通り。


・面白い動画だったよ!

・『ゆっくりさん』氏、頑張って!

・蛇足で色々と思ったこと


 ……色々と勉強し直したら、書き直すかもしれません。我ながら浅い知識ですし。

 ただ、なんというか……善意的な何かをくみ取ってください! それだけはお願いしたかった!


【後書き】

〇参考資料


・ニコニコ動画 ゆっくりさん作

『饅頭でもわかるアート Episode1』

『饅頭でもわかるアート Episode2』

『饅頭でもわかるアート Episode3』

『饅頭でもわかるアート Episode4』

『饅頭でもわかるアート ファインアート/FINE ART』

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