紫陽花が染みる
『紫陽花が濡れる』の続き?サイドストーリー
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あんまり綺麗に書けてませんが、どうしようもなくなることってありますよね。
雨の日だった、午後だった、世間は梅雨だった。
彼女は今年も思い出すのだろうか、あの雨が深々と降り続く放課後に、濡れた私たちを。私は今年も思い出してしまった、あの冷たく落ちた日を。
『紫陽花が染みる』
落とした優しさをみつけたくて、でもみつけたくない気持ちもあってか、鍵は一向に見当たらなかった。今朝方、鞄に入っていたのは確認できた。放課後になると、その鍵はどこかに消えていた。
髪から落ちる水滴が肩を叩く。ブラウスに雨が落ちる度に感じた、嫌な感覚はもうなくなった。今はただ濡れた制服が熱を帯びて、生温く、貼り付いている。まだ鍵は見つからない。
1年生の冬から付き合い始めた隣の男子校の奥美 高晴は普通だった。私にとって、という意味で普通だった。高校生になってから染めたらしい茶髪と、伊達眼鏡。成績は優秀で学年で一桁の順位らしい。でもそれだけだった。優しく笑う顔と、眼鏡が彼女に似ていた。だから告白をされて迷いなく付き合った。少しでも気が紛れるのならばと思った結果だった。それはすぐに悪あがきだと気付いたけれど、何の意地なのか関係を終わらす勇気はなかった。
春になってまた彼女と同じクラスになった。憂鬱だった。懸命に視線を学校の外へと向け続けた。高晴の知り合いを通じて、友だちを増やした。遊ぶときは大抵が他校の生徒とだった。
「八里」
振り返れば高晴がいた。差し出された左手と優しい顔。重なるようで重ならない姿。私がこのすぐ後で別れようと言ったところで、笑顔は揺れなかった。
「どうして振ったの?」
高晴と別れてからというもの、樫 由奈はしつこかった。唯一と言える校内で親交が深い存在だけに、そのしつこさをあまり邪見にするわけにもいかなかった。初夏の訪れを、校庭の桜に感じた。青々とした葉がいっぱいに太陽の光を浴びていた。揺れる速度は遅く、それは誰かに似ていた。
「好きな人ができたから」
「うわー、マジ?」
「マジ」
「高晴くんよりも良い男?」
「それはどうだろ」
男じゃないし、と小さく呟いた。由奈には聞こえなかったようで、明るい茶髪を右手でくしゃくしゃと触っていた。
「もったいないなー」
何ももったいなくはない。
「高晴くんモテるのにー」
らしいね。
「綾音とお似合いだと思ったんだけどなー」
「うーん」
どっちつかずな返事をして、その場は無理やりおさめた。放課後の教室には私と由奈以外いない。
もうすぐ梅雨だ。校庭では運動部が高い声を響かせている。彼女は帰宅部だそうだから、校庭に視線を下ろすことに抵抗はなかった。
きっかけなんて大したことではない。ただ一度触れられただけで悔しいことに恋に落ちた。きっともう彼女は覚えてはいないだろうけれど。
「聞いてる?」
「聞いてない」
「もう!」
そんな顔をしても可愛くないだなんて小言は伏せた。
「鍵受け取ってくれないんだよね」
「え、家の?」
「そう」
別れようと言った日に、合い鍵を返そうとした。高晴は少し困った顔をして「受け取らないよ」と言った。意味がわからなかった。別れようという言葉には承諾をしたのに、家の合い鍵は受け取らない。そういう高晴が嫌いだった。
「八里が戻って来たくなったら戻れるように、俺は待ってるよ」
本当に大嫌いだった。高晴はいったい私の何を付き合った四ヶ月で知ったというのだろうか。私は高晴との出会いすら覚えていない。それは彼女と同じ罪だから、重いような気もするし仕方のないことだとも思う自分がいる。落としたリップを拾って渡したんだよと言った高晴の顔は、照れ臭そうだった。その姿を見て心が少し温かくなったのは事実だった。でもそれだけだった。そこから深みにはまるようなことはなく、彼とて私を連れて行きたいわけではないようだった。浅瀬にいる私と並ぼうとする高晴。それは無理なく淀みなく自然だった。だから陸に上がろうと思った。それなのに高晴は私が戻るまでその冷たい海で、待つと言う。いつからかその優しさが、彼女のものであれば良いと思うようになっていた。伸ばされた手も、声も、眼鏡も。だからさよならしようと気付いたのに。
「戻れないよ」
「どうして?」
「戻ってもきっと、高晴を高晴として見れないから」
自分の声は小さかった。相手の耳に声が届いているのかは確認できない。他人なのだから。私は彼にはなれないし、彼はもちろん彼女にはなれない。
「八里はたまに難しいことを言うよね」
「そう、かな」
「俺はさ八里が俺と付き合ってる間、ずっと何か悩んでたのを知ってるよ」
「……」
声が出なかった。それでいて視線が逸らせなかった。笑顔を崩さない高晴は一体何を考えているのだろうか。
「別れたって構わないけど、応援くらいさせてくれよ」
初めて高晴を正面から見た気がした。こんな顔をして笑って、こんな顔をして他人を愛する人なのだと。
「頑張れ、八里」
右手に持った合鍵ごと、手を包まれた。温かく大きな手は彼女のものとは違うけれど、高晴の手だと思うと心が安らいだ。
少ししてからその場を去った高晴はいつもより速く自転車を漕いで行った。
私がその合い鍵を失くしたのは、それから1週間後だった。それは災難にも雨の日で、駐輪場や正門の辺りを探していた。葛藤しながら探す足取りは重く、傘を差す気にもならなかった。
最終登下校時間が近付いてきた。そのことに安堵する自分を嫌いになりながら、教室へと歩を進めた。
扉を開けて呼吸が止まりそうになった。それでも表情には出せず、いつものように取り繕った。
「あれ、西藤さん。何してるの?」
私は何に対して笑っているのだろうか。早まる鼓動を抑えようと、視線は微かに斜めに逸らした。
彼女からの返事はなく、呆然としているようだった。目が見えにくいのか、無意識に目を細めたりしている。
「さいとーさん?」
「えっ、いや、その雨だから」
その理由はよくわからない。でも会えて嬉しい。だから雨に感謝をした。高晴と別れてから、素直に彼女の姿を見て幸せだと思えるようになってきた。
「そっか」
それでもまだ私には手を伸ばす勇気がなかった。鍵を探すフリをしている自分は、何をしているのだろうか。素直に話して一緒に帰ればいいだけなのに。一度探した教室で、私は何をみつけようと言うのだろう。
「外にいたの?」
心臓が痛んだ。この話題が来るのは目に見えていた。頭の中で自分を律した。
「え?うん」
「何か探し物?」
「ちょっとね」
下手なはぐらかし方だとわかっていても、結局曖昧に返すしかできなかった。西藤さんは私の探し物が気になるようで、眉間に皺を寄せていた。自分に関心を持ってもらえていることは嬉しい。でも同時に怖かった。
「どうかした?」
「え?」
「眉間に皺、寄ってるよ」
「あっ」
わたわたと眼鏡を取りに行く彼女。あるものに手を伸ばす彼女と、ないものを必死に探す私。
滑稽だと思った。
「ぶっ」
感傷的になっていると、後ろから凄い音がした。振り向けば顔の赤い西藤さん。
「ナンデモナイデス」
眼鏡を掛けた彼女は、あの時の姿に似ていた。いや一緒だった。その姿を見て無意識の内に立ち上がり、近付こうとしていた。そして声を掛けられて、止まった。
「一緒に探すよ」
「いいよいいよ、もう時間も遅いから諦めるし」
笑顔で断りつつも、心の内は曇っていた。そうじゃないそれじゃない。私が今探したいのは、手を伸ばしたいのは西藤さん、あなたなんです。
「何失くしたの?家の鍵とかなら大変じゃん。だから」
「いいの」
自分に嫌気が差した。きつめに言った断りの語尾が濡れていた。自分勝手だと思う。置いて行かれた優しさにさっきまで半分すがり続けようとしたのに、今になって、目の前に彼女が現れたとたん彼女に手を伸ばす自分が。
「ほんとにいいの?」
「うん」
「そっか」
肩口にまた一粒水滴が落ちた。染み入る前に西藤さんの手が伸びてきた。
「濡れてる」
言って触れられて、その後に気付いた愛しさ。
『髪にゴミ付いてるよ』
それだけが始まりだったなんて、言えない自分は子どもなのかそれとも。
西藤さんの方が驚いたように後ろに飛びのいた。そして謝られた。
どうにも止まない熱に、顔が上せた。隠せないほどの思いが一気に顔に上がったみたいに。
「顔赤いよ、大丈夫?」
言われなくてもわかってますなんて、言えない。
「あ、送るよ!傘あるし」
「え?」
急な申し出に目を瞠った。それと同時に鞄の中の折り畳み傘が脳裏を過った。
西藤さんは私が傘を持って来ていないと思っているようだった。まあ、それも無理はない。このびしょ濡れの姿を見れば誰だってそう思うだろう。
私はこの優しさに手を伸ばしていいのだろうか。
「嫌?」
「あっ。ううん」
それが合図で、私たちは肩を合わせて校舎を出た。折り畳み傘が小さいのは、きっとこの為なのだろうだなんて、子どもみたいな事を考えながら。そう子どもだからこそやり直しがしたかった。真実を伝えて、その反応が見たかった。
「何、探してたと思う?」
「え、わかんないよ」
「知りたい?」
困ったように笑う顔に、悪戯っ子の気分になった。
「うん」
「家の、鍵」
「やっぱり。最初に私が言ったので合ってるじゃーん」
「違うよ」
息を吸った。そして顔を彼女から前方へと向き直した。まるで明日に話し掛けるみたいに、そうした。
あの日の高晴の姿が見えた気がした。この夕暮れに去った今も私を待ってくれているのだろうか。
ごめんねと、あの日言えなかった言葉を心に告げた。
「私の、じゃないんだ」
「……ふーん」
冷たい声だった。仕方がないと思いつつ、続けた。
「元彼の家の鍵。まずいよね」
取り繕うようはにかみ笑いを向けたところで、西藤さんはこちらを向いてはくれなかった。濡れた肩に触れる西藤さんのブラウスには染み入っているのに。私たちはどうにも、触れ合えていないみたいだった。生温い。
「まずい、ね」
「受け取って、くれなくて。返すって言ったんだけどさ。そしたら失くしちゃった」
「そっかあ。そりゃ大変だよね」
西藤さんは何を考えているのだろうか。興味がないのか、元彼の合い鍵なんて大事な物を失くした私に怒っているのだろうか。それとも、と考えて止めた。浮かれたって、どうなったって、きっと叶いっこないのだから。私にはただ西藤さんの冷たい声だけが、心に響いていた。
「……うん」
これが私の贖罪だ。高晴の優しさにすがり続けた自分は、彼女の前でも偽ることしかできなくなった。これでいいのだ。元よりこうなることなんてわかっていた。都合良く手を伸ばし、都合良く手放した。それなのにまだ心のどこかで高晴の鍵を探そうとする自分がいる。探してどうなるのだろうか。
改札に着いて、彼女がさよならを告げた。私の右肩に触れた彼女の左肩は濡れていた。冷たさだけが伝染したみたいだった。
彼女とは反対側のホームに着いた。西藤さんは怖い顔をして、電車を待っている。
私は下を向いた。そこにはもちろん何も落ちていない。これからずっと落とした優しさを探すのだろうか。自分だけが甘えきった考えで、進むことを恐れて、戻ることも進むこともしない。
どこからともなく落ちた水滴だけが、私の下で染みていた。
これにて、紫陽花シリーズ?は終わりです
ちゃんちゃん
西藤さんの下の名前は思い浮かびませんでした