CHAPTER.8
《8》
アシュリィが言った通り、応接室に駆け込んできたマリアルの喜び方は普通ではなかった。人目をはばからずシエンを抱き締め、キスをせがんだ。それは離れていた恋人に会えた歓喜を超越し、この世の全てを手に入れたかのようだった。しかし、フィアンセとの再会を喜ぶよりも先に、シエンにはやらなければならないことがある。彼女の後ろで満足げに佇む、星室長官ワボール・トゥルネレーデ。彼と決着をつける必要があった。
「マリアル、少し長官と話がしたい。会談には俺も出席する。それまで、しばらくの間待っていてくれないか」
マリアルはあからさまに不満げな顔をした。もう片時もシエンから離れたくないといった様子だ。病み上がりの右腕がきつく抱き締められている。疼痛がじんわりと広がった。努めて穏やかに、シエンはマリアルを諭す。
「いいね?」
「……はい」
その顔が、飼い主に意味もなく殴られた子犬のようで……。シエンは思わずマリアルを抱き締めていた。
「そんな顔をしないでくれ、マリアル。俺はもうどこにも行かないから」
「……うん。ごめんなさい」
マリアルがドアを閉めるまで、シエンは彼女の姿を見送った。マリアルは一度だけ振り向いて、「待ってる」そう言って微笑んだ。完全に扉が閉ざされるとき、それはシエンにとって戦いの始まりを意味する。今こそ、全てを明らかにしなくてはならない。
「長官」
シエンの声は、本人もヒヤリとするくらい低かった。もはや穏やかではいられないらしい。背後で、息をのむ気配。応接室にはシエンを中心とした三角形の布陣で、アシュリィ、ヴォルグ、ワボールがいた。ドアの方を向いているシエンには、他の三人がどんな様子なのか窺い知ることができない。意を決し、シエンは振り返ってワボールに相対した。ワボールは杖をつき、シエンの一間先に立っていた。
「ミアを、陥落させたそうですね」
「ああ。同時にこれまでテロ行為を頻繁に行ってきたラウリデ一派を殲滅した。首領のラウリデは現在逃走中だが、なあに、確保は時間の問題さ」
ワボールの言葉に、歪みや戸惑いは一切ない。シエンは逆に面食らった。
「しかし、本当に無事でよかった。シエンくんが拉致されたと聞いたときには、私はもちろんだが、マリアルはこの世の終わりのように嘆き悲しんでな……。あんなのは、妻が殺されたとき以来だったよ」
「……心配をおかけしました」
「気にすることはない。災い転じて福と成す。こんな言い方は悪いかもしれないが、リンガイアに対する一大勢力だったミアを落とすことができた。まさに怪我の功名というやつだ!」
してやったりの表情で笑うワボール。シエンは、胸の中で燃える火を煽られる。このとき、シエンにとって自分の中の炎こそ正義だった。絶好の大義名分を得たのをいいことに、他国への軍事侵攻を、さも当然のように敢行したワボールこそ間違っているのであり、悪だった。許すことのできない巨悪がリンガイアを浸食する前に、この連鎖を食い止める必要があった。そして、それができるのは自分だけだという自負は、シエンにとってさながら天啓のように思えた。
「でも、俺が戻ったからには、これ以上の軍事介入は必要ありません。即刻兵を退いて、本国へ戻りましょう」
「は?」
「戦争を続ける意味はない。撤退するんですよ、長官」
拒否は許さない。そういった圧力が、シエンの言葉には込められていた。それは半ば願いでもあった。船上での惨劇。輪魄によって鎌首をもたげた疑念。ハルファスの告白。シエンの体に蔓延する不安や葛藤を、今この場で清算してしまいたかった。
「何を言うんだ。たとえ君が無事だったとはいえ、一国の王子を危険な目に遭わせたことに代わりはない。それ相応のけじめというものを見せてもらわなければ、リンガイアはこの先リングレスたちに――」
「けじめとは何だ。謝罪することか? 土下座して媚びへつらうことか? それとも、長官、領土を割譲することか……?」
ワボールの鼻孔が微かに広がった。シエンからは見えないが、アシュリィはシエンとワボールを交互に見ていた。王子が何を言っているのか、頭が追いついていかないようだ。ヴォルグはワボールの隣で黙した。じっと息を潜め、眼光をシエンにぶつけた。室内の空気は急激に張りつめ、一言たりとも発することの叶わない雰囲気に満ちた。
「シエンくん、どうしたというんだ? 君を酷い目に遭わせた連中に、何か吹き込まれでもしたのか?」
哀れむような目でシエンを見つめるワボール。シエンの総身に、鳥肌が立った。男の目は、本当の憐憫に溢れていたからだ。その感情の方向がどちらへ傾いているのか、推し量ることができないから苛ついた。発言に沿った気持ちなのか、それとも、愚かな世間知らずの青二才が哀れでならないのか。
「俺を……酷い目に遭わせた連中とやらは……捕まったんですか」
「いや、まだだよ。こちらも全力を挙げて捜索はしているが、何しろ不明な点が多すぎてね」
「俺は船室で居眠りしていました」
ワボールの目を直視する。相手も、決して逸らすことはない。それどころか、逆に見つめ返してくる。だが、止まらない。止めることはできない。
「目を覚ましたら、船には誰もいなくなっていました。クルーも、護衛のウロヴォルスも、全員。俺は船に残されました。そして……四方八方から蜂の巣にされました。これも、そのときに負った傷です」
シエンは右腕の袖をまくり上げた。瘡蓋はほとんど剥がれているものの、前腕の真ん中あたりが奇妙に盛り上がっている。恐らく一生残るであろう銃創だった。ワボールは眉をひそめる。「本当に、殺される、死ぬんだと思いました」激痛が蘇る。顔も苦悶に歪むようだった。
「俺は倒れ、朦朧とする意識の中で、あるものを見ました」
「あるもの?」ワボールが首をかしげた。アシュリィは聞き入っている。
「爆発によって降り注いだ破片が、犯人のひとりに直撃する瞬間、何かがそれを防いだんです。それは俺たちが、しょっちゅう目にする光景にそっくりでした。でも、俺はそれを信じなかった。絶対、信じたくなかった」
「シエンくん、君は何を――」
「教えてくれ、長官」
不安という津波が押し寄せる。シエンの炎を消すために。口に出したくない。そうした瞬間、現実となってしまいそうだから。でも、後戻りなどできはしない。ハルファスの言葉が反響する。火種は蒔かれた。
「犯人は輪魄を持っていた。そして、破片からそいつを守ったのは間違いなく鱗魄だ。俺を殺そうとしたのは、俺と同じ、リンガイアンだったんだよ」
「何を馬鹿な!」ワボールが叫んだ。「なぜリンガイアンが自らの国の王子を暗殺しなければならないんだ! そんなことをするメリットがどこにある! 君は同族を、全てのリンガイアンを愚弄するのか!」
それは本音か?
シエンは心の中で笑った。まあそれも、じきに分かる。
「では長官、リンガイアへ帰りましょう。リングレスたちに賠償請求など必要ありません。舐められたって構わない。こんな、意味のない争いはやめるんだ」
「意味はあるのですよ、シエン王子殿下」
口を開いたのはワボールではなく、ヴォルグだった。
「ヴォルグ隊長!」
泡を食った様子で、ワボールが口を挟んだ。だがヴォルグはシエンを睨んだまま喋るのをやめようとはしなかった。
「殿下もご存じのはず。リンガイアンの数は惑星規模で膨れ上がり、もはや住む土地も食糧も、十分に確保できない状況に陥っています。このままでは近い将来、リンガイアン同士がそれらを求めて殺し合う時代がやってくるでしょう」
「……ああ、もちろん分かってる」
予想外の人物が語り出したので、シエンはそちらに体を傾けた。
「た、隊長……?」
シエンの後方で、アシュリィの声。消え入りそうにか細い。不安げな表情が、シエンの目に浮かんだ。
「だからといって、リングレスたちの国を侵していいことにはならない。こんなことは間違ってる。一番避けなくてはならない道のはずだ!」
予想していたのと発言の主は違うが、リンガイアンの現状を言い訳にすることは予想していた。シエンの正義は微塵も揺らぐことなく燃え、自己の保身のため、他者に犠牲を強いるのをよしとするヴォルグを迎撃する気概は整っていた。
「リングレスたちだって生きているんだ。彼らの生を脅かす権限など、俺たちにあるわけ――」
「ならばシエン王子殿下、あなたはこの現状を運命だと受け入れ、確実にやってくる〈滅び〉のときをただ待てと、リンガイアの民におっしゃるおつもりか?」
「そうじゃない! 必ずいつか、解決策は見つかる! それを信じて――」
「いつです? 誰が見つけてくれるのです? 殿下、あなたですか?」
「それは……!」
「我らが解決しなければならない問題は〈今〉起きているはずだ。いずれでは遅い。遅すぎる!」
「し、しかし、それではリングレスの人々は……!」
食い下がるシエンを、ヴォルグは薄く見つめた。シエンの心臓が締め付けられる。この目は、ワボールと同じ……。
「失礼ですが、殿下。あなたは今のこの現状を他人事だとお考えではありませんか?」
「えっ?」
「貧窮しているのは民。解決策を講ずるのは政治家。死んでいくのは哀れなリンガイアン。そのために犠牲となるリングレス……。あなたの思考の中に、あなた自身はおいでか? シエン・リンガイアという主観は存在しますか!」
「そんなこと、できるはずがない……。だって、俺はまだ……」
〈火〉が、急速に収縮した。
「そう。あなたはご自分をこの状況に組み込んでいない。だから言えるのです。そのような、無責任でうわべだけの綺麗事が!」
シエンは誕生パーティーの夜、自身が行ったスピーチを思い出していた。
『多くのリンガイアンが路頭に迷う時代の到来を、誰もが恐れているのです』
俺は知らない。だってそんな時代、経験したことないから……。
『その主たる理由は、私たちの長寿にあるでしょう』
俺のせいじゃない。だって俺は、まだそんなに生きてないから……。
『しかし、本来祝福するべき長寿を問題とは形容したくはありません』
仕方ないじゃないか、老人たちを、敵に回すわけにはいかないから……。
『こんなことを言うのは、何の力も持たない者がおこがましいと思われてしまうかもしれませんが』
思われたっていい! だって本当に、俺には力なんて、ないから……。
『議会の皆さん、どうか、リンガイアの将来のために頑張ってください』
頑張るのは俺じゃない。だって、だって俺は……。
〈俺〉は……どこにも、いないから?
「もうやめるんだ、隊長」
呆然と立ち尽くすシエン。そんな彼の様子を見かねたのか、ワボールはそう言った。
「シエンくん、残念ながら君は、未だリンガイアの痛みを知らなかった。確実に歩み寄る滅びは、どこか知らない場所に訪れると無意識に思っていたんだ。だが事態は一刻の猶予も与えてはくれない。悪だと言われていい。侵掠と形容してくれて構わない。だが、私はメアの大地を手に入れなければならない。これは私だけでなく、全リンガイアンの宿願でもある!」
ワボールはこれまで見せたことのない、力強い目でシエンを見据えた。足が勝手に震え出す。ワボールとヴォルグの言葉が、リンガイアンたちの声を代弁しているような気がしてきた。こんなはずじゃない。悪はこの二人で、正しいのは俺のはずだ。決めたじゃないか、戦争を止めると。次期星主として、ガイエン・リンガイアの息子として、立派に勤めを果たすと! じゃあ、この感じは何だ。この敗北感は、一体何だというんだ?
シエンは必死で反論の糸口を探した。二人の言葉を検証し、どこかに穴がないか、矛盾はないか、切り崩す隙はないか……。だがどんなに考えても、結論は同じだった。反駁することは簡単だろう。お互いの主張をぶつけ合って、イタチごっこを演じることは造作もないはずだった。致命的なのは、この二人が既に決めてしまっていること。確証はないが、恐らく自らレールを敷いたのだろう。それならば行き先は決まっている。どれほど停止信号を送っても、列車はいずれ辿り着く。線路が導く、終着駅へと。
「その……先は……どうするんですか?」
小さな声が応接室に響いた。シエンは思わず振り返る。今にも倒れそうなのを懸命にこらえながら、アシュリィは立っていた。椅子に掴まり、シエンの体の先にいるワボールとヴォルグを凝視して。
「戦争に勝って、リングレスを全員排斥すれば、そこはリンガイアンの国になります。でも、リンガイアンはまた増えます。そう簡単に、死にません。そうなったら、また同じことの繰り返しじゃないんですか? この国をリンガイアンのものにしたって、それは問題を先送りにするだけじゃないんですか!」
ワボールとヴォルグは、しばらくアシュリィを見つめたまま何も言おうとしなかった。シエンはといえば、自分に加勢してくれる者が現れたことで、ほんの僅かだが、肩に力が戻ってくる感じがしていた。
「結局、何の解決にもなっていない! 長官と隊長のおっしゃっていることだって、無責任でうわべだけじゃないですか! 王子ばかり責めるのはやめてください!」
「……アシュリィ・フープといったね、君は」
ワボールが尋ねた。アシュリィは一言、はい、と答えた。
「水かけ論だな、もうこれは」天を仰ぎ、ワボールは嘆息した。「アシュリィ、君の言っていることはもちろん正鵠を射ているよ。この国を手に入れても、根本的な解決にはならない。ただ我々は、黙って運命などというくだらないものを受け入れるほど、物分かりがよくないのさ」
「詭弁だ……!」
全身から絞り出した言葉は、それだけだった。シエンは再び、口をつぐむ。
「何と言われようが、敢えて私はその汚名を被ろう。誓ったんだ、私は。妻がリングレスどもに殺されたとき、もう二度とこんな悲劇は繰り返さないと!」
「……だから、環力研究所の事故だって仕方のないことだと? 汚染物質のせいで、もがき苦しみながら死んでいったリングレスたちの犠牲も、あなたの言う〈宿願〉のための礎だったというのか?」
ワボールはシエンの言葉に、今度ばかりは驚きを隠せなかったようだ。指二本ほど口が開き、また閉じた。
「どこで聞いたのか知らないが、そう理解してくれて構わない。私は弁解も謝罪もしない。そう決めたからだ」
「決めたらそれで済むのか……。フィナは、ハルファスは、あなたの敷いたそのレールのせいで……」
「長官、申し訳ありません。これは私の責任です」
停滞していた部屋の空気を一変させるような、確然とした声。ヴォルグは拳を握り締めた。
「これ以上の議論は不要。じきに会談が始まります。長官は議場へお急ぎください」ヴォルグはシエンたちが入ってきたドアとは正反対にある、もう一方の出入口を指し示した。「我らウロヴォルスの失敗は、私自身で雪がせて頂きます」
「何……? 隊長、何を言っているんですか!」
アシュリィの悲痛な叫び。ヴォルグの言葉の意味が分からないようだ。しかし、シエンには十分だった。ようやく、全部分かった。知りたくなかったはずなのに、こうして合点がいくと、肩の荷が下りたような清々しい気分だった。
「……任せる」
ワボールが行ってしまう。言ってやりたいことが山ほどあった。答えてもらわなければならないことはもっとあった。シエンはその中から、ひとつを選択した。彼は義理の父になるはずだった男の背中に、囁くように訊いた。「長官」ワボールは、振り向かなかった。
「あなたにとって、俺は、何だったんですか」
「……許してくれ、シエンくん」
後ろ手にドアを閉めると、ワボールは行ってしまった。
「アシュリィ、やはりお前を客船に乗せたのは間違いだったな」
ヴォルグが言う。
「お前はあまりにも殿下に近い存在だった」
そして、懐に手を入れる。
「あの船の乗組員で、作戦を知らなかったのは三名。ガイエン陛下とシエン殿下……。そして、お前だ、アシュリィ・フープ」
シエンはアシュリィの様子を窺うために、一歩ずつ後退した。向きは変えず、ヴォルグを見たまま。数歩下がると、アシュリィの靴が見えた。そのまま彼女を見る。普段から白いアシュリィの顔面は、完全に血の気を失っていた。唇も青ざめ、細かく震えている。
「あなたが生きているとリングレスが知れば、長官が行うこれからの交渉に支障をきたすでしょう。同様に、リンガイアにあなたの存命が知れ渡れば、これほどの茶番はない。あなたは生きていてはいけなかった」
「た、隊長! あなたは、自分が何をしているか分かってるんですか!」
アシュリィが声をあらん限りにして叫ぶ。だが、ヴォルグはまったく動じなかった。ちらりとアシュリィに一瞥をくれると、自嘲気味に笑った。
「ああ、分かっているとも。俺は自分の国のために……いや、違うな。俺は、自分と自分の家族のために船上で星主ガイエン・リンガイアを殺し、その息子シエン・リンガイアを今この場で殺そうとしているのさ」
このとき、シエンの中で何かが壊れた。
本当は、ずっと気になっていた。自分と一緒に船に乗っていた父は、一体どうなったのだろうか。でも、誰も何も言わない。世間で流れているのは、自分の死亡説のみ。なら大丈夫だろう。きっと父は、本国へ戻ることができて、母ともうひとりの息子と一緒に、俺の死を悲しんでいることだろう。そんなふうに、考えていた。
「本当は、陛下を殺すつもりはなかった」
ヴォルグが何か言っている。よく聞こえない。
「シエン殿下がさらわれ、船もリングレスから狙われているという設定で、ガイエン陛下には小型艇で周辺海域を離脱して頂く予定だった。しかし、陛下は船内を探し回った。狂ったように、シエン、シエンと名を呼びながら、船中を歩き回って……最後に、殿下、あなたの部屋の前まで来てしまった」
手袋に包まれたヴォルグの右手が懐から現れた。そこには確かに、拳銃が一丁握られていた。ゆっくりとシエンの焦点が、その銃に定まる。見た覚えがある。「お前だったのか、ヴォルグ」無意識に、そう口にしていた。
「計画を台無しにされるわけにはいかなかった。俺はこの銃で、陛下を殺した。そしてシエン殿下、もうお分かりでしょう。あなたにとどめを刺そうとしたのも、このヴォルグ・カーンに相違ありません」
奇妙な形状の銃口が、シエンに向けられた。
「ひとつ……聞かせろ」じっと銃口を見つめながら、シエンは言った。「どうして、俺を選んだ?」
ヴォルグは暫時逡巡していたが、二度呼吸をしてから答えた。
「ガイエン陛下以外なら誰でも構わなかった。ネリス様でも、リエン様でも。ガイエン陛下を殺してしまったのは、完全に予定外で、リンガイアンに知られないよう、現在本国には何重もの情報操作が――」
「そんなことが聞きたいんじゃない。どうして、俺を選んだ……!」
シエンは声を荒げた。
「……今更包み隠す意味はありますまい。あなたは王族の中で一番、無能だった。失ってもさして、リンガイアにダメージはないと、ワボール長官が判断されたからです」
不思議と、ショックは少なかった。無能と面と向かって言われたのは初めてだったので、その衝撃はあった。だが、自覚していた分、痛みは和らいだ。
「もうひとつ、強いて理由を挙げるなら……」
ヴォルグは手にした銃を弄びながら、あらぬ方向に首を向けた。シエンにもアシュリィにも、この隙を突けるだけの勇気はなかった。
「あなたが、一番〈王子〉としてのご自分や、〈次期星主〉としてのご自分に執着していらした。だからご乗船して頂いたのです。使命感に燃える殿下をその気にさせるのは簡単だったと、長官はおっしゃっていました」
自分を否定するのは慣れているが、否定されるのは慣れていなかった。シエンはたまらず吹き出した。ぎょっとするアシュリィを尻目に、腹の底から溢れてくる笑いを我慢できない。
それは偶然だった。今まで溜まりに溜まった正体不明の感情を爆発させるためには、この場で滂沱たる涙を流し号泣しても、烈火のごとく怒り狂ってもよかった。『王子や次期星主への執着』。『使命感に燃える』。およそ彼自身の思いとはかけ離れた〈シエン・リンガイア〉を、周囲の者たちは見ていたのだ。おかしくて仕方なかった。だから泣くより怒るより、自嘲うしかなかったのだった。
「勘違いはしないで頂きたい。この計画が全てワボール長官の差し金だったなどと責任を転嫁するつもりは毛頭ございません。私は、我々ウロヴォルスは全員が自らの意志で長官に従い、ガイエン陛下やあなたに牙を剥いたのだ!」
「私は……私は認めません! そんなの、絶対認めません!」
アシュリィは泣いていた。彼女の場合はどんな感情が作用しているのだろう。呆然とその様子を眺めるシエンには、分かりかねることだった。
「さあ、お喋りは終わりにしましょう。この銃から弾丸は出ません。殿下、船上で、既にこの〈セイレーン〉はご覧になりましたね?」
シエンは思い出す。五臓六腑が引っかき回されるような、想像を絶する激痛。
「セイレーンは〈共振〉を利用した音波銃。外部からの衝撃に強い鱗魄に対抗して製造された、対リンガイアン用の銃です。殿下の心臓の固有振動数と音波を同調させて、直接破壊します」
「……お前たちが守ろうとするリンガイアンを殺すための、銃か?」
「そうです」
「皮肉だな」
もう何の感慨も湧かなかった。シエンは目を閉じ、やっと収まった笑いの残滓を口の端に浮かべながら言った。「王子……」アシュリィの声が聞こえる。衝動的に、手を伸ばしていた。見えてはいないのに、シエンの左手はアシュリィの手をしっかりと握っていた。極限状態で誰かの肌を求める自分が情けなかった。すると、闇の中で、シエンは左手が握り返される感覚を覚えた。
もうずっと離れていたもの。幼い頃は、いつもこうしていたような気がする。いつからだろう。アシュリィの手を握らなくなったのは。一年中暑いリンガイアで、彼女の掌だけはひんやりと心地よかった。握ってもらっていたときもあるし、握ってあげたときもある。小さな頃と、感触は何も変わらない。変わってしまったのは、二人の距離。シエンはアシュリィに最後の願いをするべく、唇を開いた。
「失礼します!」
シエンは反射的に目を開けた。ヴォルグが銃をシエンたちに向けて構えていなかったのは幸いだっただろう。彼の後ろのドア……ワボールの出て行ったドアが開いていて、ひとりの男性が立っていた。制服を見るに、ウロヴォルスではないようだ。ヴォルグは手にしていた銃を自らの体で覆うように隠した。
「後にしろ、騒々しい」
「し、しかし、早急にお伝えしなければならないことが――」
「後にしろと言っている!」
ヴォルグは不機嫌そうに言った。しかし、男性の「ラウリデのことです」という台詞に反応を示し、シエンを睨み据えながら言った。刹那たりとも、目を離さないつもりだろう。
「構わん、そこで伝えろ」
「え? あの、ですが……」
男性はシエンとヴォルグをチラチラ見ながら躊躇っている。もう一度ヴォルグの怒声が轟くと、男性は弾かれたように喋り始めた。
「ラウリデ一味の残党が、この議場に玉砕覚悟の特攻を仕掛けるとの情報が入りました」
「確かか?」
「哨戒部隊に確認を要請したところ、確かに、封鎖中だったミアへのトンネルが、多数の武装勢力によって強行突破された模様です」
「首領の……ラウリデ本人の目撃情報は?」
「現在、諜報部が全力を挙げて調査中です」
「そうか、ご苦労。下がれ」
「は? しかし、指示は……」
「すぐに向かう。貴様も早く戻れ。俺が行くまでは、この部屋に誰も近づけるな!」
凄まじいヴォルグの剣幕と威圧感に尻込みしたのか、男性は、失礼しました、と慌てて敬礼すると、勢いよくドアを閉めた。男性がドアを開けてから閉めるまでの間、ヴォルグは鋭い眼光をシエンとアシュリィに浴びせ続けていた。
大体の事態は飲み込めた。だが、「俺たちには関係ないな」シエンはそう言った。ヴォルグは何も答えず、ただ沈黙した。
「首領を取り逃がしていたのか。ウロヴォルスはミスばかりだな」
精一杯の侮蔑を込めて、シエンはヴォルグに冷ややかな目線を送った。
「……心臓が破裂するまでには、若干の時間がかかります。地獄の苦しみが十数秒続きますが、現在の科学力ではこれが精一杯です。どうか、ご容赦を」
「言っていることがめちゃくちゃだ、ヴォルグ」
シエンはアシュリィの手を強く握りしめた。ヴォルグの目の色が変わる。いよいよ来るらしい。そのときが。無頓着だった自分の死を、眼前で阿修羅のごとき形相で睨む男の後ろに見たシエン。すると静止した一枚絵の中で、動くものがあった。それはつい先ほどとまったく同じ映像。シエンは自分がデジャヴを見ているのかと思った。
ヴォルグの後ろのドア。ノブが回った。そして、見えてくる先ほどとは違うもの。
きい、と、軋むような音が響いた。
「誰も近づけるなと言っただろうがッ!」
空気を鳴動させるようなヴォルグの怒鳴り声。異変に気づいていないのは、ヴォルグ・カーン本人のみだった。次の瞬間、室内に何かが弾けるような音が広がり、がくがくと痙攣したヴォルグの巨体が無造作に床に倒れた。彼の倒れたその後ろでは、やけに背の高い痩躯の男が何事もなかったかのようにドアを閉め、手にした長方形の装置を投げ捨てた。シエンとアシュリィは手を結び合ったまま、その光景をただ見つめることしかできなかった。
男はリンガイアの一般兵が着る制服を身につけていた。後ろを向いたまま、目深に被った制帽を取る。豊かな茶髪が露わになった。シエンは男の頭上に輪魄を求めた。しかし、茶髪の上にはただ虚空があるばかり。リングレスだと、判断した。
「……ハイン聖教、経典〈レビアス〉第六章二節」
振り向いた男は顔中に傷があった。しかし、その青く澄んだ目は、底を知らない海のようだった。彼の声もまた、目の色と同じように澄み渡っていた。
「……『始祖昇ルコト龍ノゴトク。劔ニ恃マズ砲ヲ恃ム。砲ハ砦ヲ砕クモ躯ニ中ラズ。斬ルニ於イテ劔ニ優ルモノナシ』……」
さっぱり意味の分からない、不可思議な呪文めいた言葉を発する男。シエンは気づいた。リングレスなのにも関わらず、何と綺麗なガイアタングを話すのだろうかと。
「要するに、相手に適した武器を使えという意味だ。そんな最新型のすげえ銃を持っていたって、一瞬で意識を奪うには適さない。時代遅れのスタンガンが一番ってこと。ご自慢の鱗魄も、体に触れてスイッチを押すくらいじゃ反応しないからな」
シエンは黙って男の様子を窺う。男はにやりと笑って、続けた。
「ワボールさえ殺れりゃいいと思って忍び込んだんだが、一足遅かったみたいだな。あの野郎、さっさと議場へ行っちまいやがった」
男は、飄々とした態度で机にどっかりと腰を下ろす。そして、大きな口を開けてあくびをした。その下には、ヴォルグの体が横たわっている。シエンとアシュリィの恐々とした雰囲気を感じたのか、男は鼻で笑って言った。
「俺のガイアタングに驚いてるのか? 敵を倒すには、まず敵のことを知らなきゃ始まらねえ。そう思って勉強したんだが、どうだ、上手いだろ?」
「お前、まさか……」
やっと声が出た。出ろ、出ろとずっと念じて、やっと。
「自己紹介が遅れたな。察しの通り、俺がラウリデだ。短い間だろうが、よろしくな、シエン・リンガイア王子殿下」
そう言ってラウリデは深々とこうべを垂れた。奇妙な沈黙が流れる。
「それにしても――」顔を上げ、ラウリデはシエンを眺めた。「この様子じゃ、やっぱりワボールの自作自演だったみてえだな。俺たちがお前を暗殺したことになってるが、心当たりが全然ねえから気にはなってたんだが」
床に転がったヴォルグと、その手に握られたままのセイレーンを見下ろし、ラウリデは呆れたように言った。
「何ともまあ、哀れな王子様だぜ」
そのとき見せたラウリデの笑いが、凍結していたシエンの感情を急速に解凍していった。しかし、何をどう言ったらいいのか分からない。全ては真実だからだ。反論のしようがない。
哀れな王子。その通りじゃないか。
「……で、お前はどうすんだ? まさかそのままずっと、女の子と手を繋いだまま殺されるのを待つつもりじゃねえだろうな?」
ラウリデに指摘されて、シエンとアシュリィは初めてお互いの固く結び合った手を見た。慌ててどちらからともなく手を離し、謝罪し合う。
「俺に訊く前に、お前はどうする気だ。敵陣の本丸に単身乗り込むなんて、正気の沙汰じゃない。本当に、玉砕覚悟なのか?」
シエンは逆に尋ねる。ラウリデはまたしても高笑いを発しながら答えた。
「言っただろ? もう俺たちに勝ち目はねえから、ワボールだけでもこの手でぶっ殺して、その後は大人しく投降しようと思ってよ」
「そんな、殺されるのは目に見えてるのに……」
アシュリィが言った。
「だろうな。そんでもって、リンガイアはメアに対しても法外な要求を突きつけるんだろうぜ。もちろん、何が何でもそれを承諾させるだろう。こうしてワボールは亡きシエン・リンガイア王子殿下の仇を取ったと同時に、土地・食糧難で苦しむリンガイアンたちに光をもたらした英雄として、後世にまで語り継がれましたとさ、めでたしめでたし」
おどけた調子で語られる内容が、信じられないほど寒々しい。シエンは戦慄した。どうして自分は、さっきまで簡単に死を受け入れようとしていたのか。これではワボールの思う壺だ。彼の掌で踊らされ続けた愚かな王子で終わってしまう。
「お前は……それでいいのか」
自分ではどうしようもない。何の手段も思い浮かばなかった。シエンはラウリデに訊いた。ほんの僅かでも、救いを求めて。ラウリデは目を細めてシエンを見た。その眼光には、明らかな侮蔑と哀れみの色が現れているように、シエンには思えた。
「大きなうねりの中で、俺たちみたいな存在はあまりにもちっぽけだ」
喋りながら、ラウリデは机から降りた。そして、僅かにドアの外の気配を窺う。
「リンガイアンもリングレスも変わらない。うねりを操る〈資格〉のない者は、その一部にされて歴史の闇に埋もれるだけさ」ラウリデの言葉の真意が、掴めない。「そして〈資格〉は、一瞬で他の者に移っちまう」
「ラウリデ、言っていることの意味が――」
「お前の親父さんみたいにな」
シエンの脳裏に、見もしない父の骸が明滅した。
「それまで絶対的権力を持っていた星主ガイエン・リンガイアでさえ、ほんの僅かな時間でただの象徴になり下がっちまった」
ラウリデはシエンやアシュリィに介入されることを嫌ってか、彼らに背を向ける。
「どうしてだっけ?」
会話の主導権を完全にラウリデに奪われてしまった。シエンは質問に答える。
「……〈冠落の日〉事件で、大きな功績を残した長官に執政権を譲ったから――」
「譲った、か。とても紳士的な言葉だ。けれども実質、それは正確じゃない。ガイエンは飲み込まれたのさ。巨大な、うねりっていうやつに」
淀みのない口調で喋り続けるラウリデ。シエンとアシュリィは、彼の言葉を黙って聞き続けるしかなかった。ラウリデの話に、遮りがたい雰囲気があったのも事実だったが。
「うねりを支配できる者は少ない。しかも、〈資格〉を持つ者であったとしても、うねりは容易に飲み込んでしまう。自らの意にそぐわない輩だと分かった瞬間にな」
「父は、うねりの意志にそぐわなかった……っていうことか?」
シエンが尋ねる。
「さあな。だがガイエンの末路を考えれば、おのずと答えは見えてくる。〈資格〉があっても力のない者だったんだよ。あいつは」
部屋に再び静寂が訪れた。シエンは父を思い出す。執政者の座を追われてから、彼は逆にかつての自分を懐かしむようになった。口には出さなかったが、シエンには分かる。だからこそ、ガイエンは長男に投影したのだろう。この星の支配者、絶対的強者としての、ガイエン・リンガイアを。畏怖していた父の背中。もう二度と見ることのないその背中が、今、やたらと小さく感じる。リングレスから民を守ることができなかった父は、うねりから〈資格〉を剥奪された。そして、新たに選ばれた〈資格〉を継ぐ者。
「たとえ」
シエンの意識が、薄暗い部屋の中に舞い戻った。傍らのアシュリィはじっと彼の挙動を見守っている。ラウリデが振り返り、その深い目でシエンを見た。
「ワボール長官のやっていることが、うねりの意志だったとしても、俺は認めない!」
「……へえ」
「王子――」
「俺はこのまま、利用されるだけで終わるなんて耐えられない! 絶対に!」
先ほど、ワボールやヴォルグに打ちのめされたばかりなのに、またこうして性懲りもなく抗おうとしている自分が、シエンは不思議だった。ほとんど存在価値を否定され、リンガイアンの将来を考えれば、いない方がマシな王子に成り下がったとしても、シエンは認めるわけにはいかなかった。
「それじゃあ、どうする、王子様。何かとてつもなくいい作戦でもあるのかい?」
言葉が出てこない。何も、変えることはできないのか……。
「……〈レビアス〉第八章五節。『死ノ淵ニアリテハ皆恐懼ス。躯ノ滅ビヲ恐ルルハ是性ナリ。蓋シ死トハ躯ノ滅ビニアラズ。志ヲ喪ヒ諂フ事ナリ』……」
「また呪文か」シエンはもどかしい気持ちを抑えて言った。
「今のは簡単だと思ったんだがな。俺はこれっぽちも、ワボールの野郎に命乞いすることはねえだろう。だが、〈志〉ってやつを持ったまま死ぬつもりもねえ。世界の変革だけはやらなきゃならねえと思ってるぜ」
「世界の……変革?」
アシュリィは恐る恐る尋ねた。
「ああ。世界を変えるための〈鍵〉は俺の手の中にある。俺は死ぬ直前にこいつで、〈扉〉を開けてやる」
ラウリデは制服の胸ポケットから、掌サイズの四角い小箱を取り出した。黒色をしているそんな箱が、とても世界を変えることのできる能力を秘めているようには思えない。
「……つもりだったんだが」
ラウリデは再び満面の笑みを浮かべた。
「最後に面白いことを思いついたぜ。俺は死ぬだろう。もちろん、お前さんたちも無事ではいられまい。どうだ、お前を利用し、始祖の遺した輪魄を冒涜して生きながらえようとするリンガイアンどもに、一泡吹かせてやらないか?」
目の前で不敵に笑う悪魔が差し伸べた細い手。だが、本当の悪魔はどちらだろう。シエンはぼんやりと、リンガイアで生きている全てのリンガイアンたちを想った。
【続】